38. レリッサと不穏3
その
だが今や剣身は血でどす黒く固まり、錆びついて、美しいその鋼の姿は見る影もなく。握りにはべったりと、人の手の形で血の跡が残っていた。
おそらく、六十三年前、国王が使った時のまま。
血が洗い流されることもなく、手入れをされることもなく、このサイドボードの中で、ずっと眠っていた。
カタリ、と剣が揺れた気がした。
そう勘違いしてしまうほどに、禍々しい代物だった。
「あまり…見るでない」
不意に、背中から声がかかった。
レリッサはハッとして後ろを振り返る。
国王が胸を押さえていた。
「陛下!?」
近づこうとしたレリッサを、国王はその細い手で制して、「引き出しを閉めよ」と言った。
レリッサは引き出しを閉めた。一度開けたからか、最初よりはだいぶスムーズに閉じることができた。
レリッサが駆け寄ると、国王は胸を撫でて、浅く息をしていた。
「陛下、深く呼吸をしてください。…失礼いたします」
レリッサは、ベッドに乗り上げて、国王の背中をさする。
国王の呼吸が、だんだん、深くゆっくりしたものになってようやく、レリッサは国王に触れていた手を離した。
国王がぐったりと枕に背を預ける。
「本日は、もう…」
無理をしない方がいい。
そう思ったが、国王が首を横に振った。
「良い。話をしたい気分である。座るが良い」
レリッサはベッドサイドにあった椅子に腰掛けた。
もう国王の傍に腰掛ける気にはなれなかった。
「
「…はい」
レリッサは重たく頷いた。
国王が視線を巡らせる。そして、壁にかかった一枚の絵に視線を止めた。そんなに大きい物ではない。レリッサの位置からは細かい造作までは見えなかったが、人の全身画だった。子供から大人まで、六人いる。
「あれは、
「ご
では、あれが。
そう思っていると、王は視線を手元に移した。
手を広げ、虚ろな目で手の平を見る。
「余がこの手で殺した、
ぽつりと。
言葉が紡がれる。
それと共に、国王の目からぼろりと涙が零れ落ちた。
「仲の良い、弟妹であった…。皆で、くだらぬことで笑い合い、時に競い合い、誰かと誰かが喧嘩をすれば、自然と他の者が間を取り持った」
レリッサの脳裏に、
心配性なパトリスの、少し困ったような笑顔。エメリアの麗しい微笑み。ホーリィの朗らかな笑い声に。サマンサとライアンの、悪戯好きな笑顔。
「余は…
国王が、涙を流し続けるその目を覆った。
細く、皮ばかりとなった指の隙間から、鋭いアクアマリンの瞳が垣間見える。
その瞳に狂気を感じて、レリッサは少し身体を引いた。
「余は…殺さねばならなかった…」
そして、王はレリッサを睨むように見た。
国王がレリッサに手を伸ばす。
咄嗟に避けようとしたレリッサの肩を、国王の手が掴む。
「そなたには分かるまい。余のこの悲しみが…!」
「っ…!」
どこにそんな力があるのか、肩を掴む国王の指がレリッサの肩に食い込む。
痛みに顔を顰めるレリッサには目もくれず、国王は叫ぶように言った。
「そなたには決して分からぬ! いがみあっておるならいざ知らず、仲の良い、血を分けた
レリッサの脳裏に、血の涙を流しながら劔を振るう国王の姿が見えた。
それもあながち間違いではないと思わせる、国王の慟哭だった。
「余は…あの時狂ったのじゃ」
そうつぶやくと、国王はレリッサの肩からぽとりと手を落とした。
そしてまた、その落ち窪み、眼球が浮き出た目に涙を浮かばせた。
「余は殺した。
国王は五回、己の心を切り刻んだのだ。
「こうなることが分かっているならば、なぜ弟妹など作った! そこに苦しみしか残らぬと言うのに!」
「…だから、陛下はお一人しかお子を作られなかったのですね…」
レリッサはつぶやいた。
言葉は自然と出てきた。
国王が、
国王は、長く苦しんでいた。六十三年経った今も、そうであるように。
同じ思いを、息子に背負わせたくなかったのだ。
「…どうやら、何か聞き及んでいると見えるな」
国王がレリッサをじとりと見た。
レリッサはハッとする。
「申し訳ありません! これは…その…」
「良い。別に他言してはならぬと言う話ではない」
「…そうなのですか…」
「血なまぐさい話故、誰も話したがらぬ。そう言う話なだけのこと…。大方、ハインツが、そなたの父親にでも話したのだろう。…ハインツとセドリックは、仲の良い…兄弟のようであったのでな」
涙の跡を拭いもせず、けれど一瞬、父とハインツの名を口にした国王が優しげに目を細めた。
そして次の瞬間には、またレリッサを睨むように見ていた。
「ではこれは聞き及んでおるかの。王妃の話だ」
「…ヒレリア様の…」
レリッサは首を横にふる。
父から少し聞いてはいたが、知っているとまでは言えなかった。
「ヒレリアは、ずっと余を恨んでいた。余が彼女の父を、手にかけたその時から」
ヒレリアの父カーライル侯爵は、当時の宰相だった。
そしてその宰相を、国王は殺した。
「なぜ父親が、余に殺されねばならなかったのか、彼女は知らなかった。宰相には他に子供がいなかった故、実家は断絶し、ヒレリアは帰る場所も失った」
父親を奪われ、実家もまた奪われた。
どれだけ国王を恨んでも、王妃には戻れる場所などなかった。
貴族の家門は、おいそれと断絶していいものではない。脈々と受け継がれてきた物が多くあり、一つ家門を潰せば国内の勢力が大きく変わってしまうこともある。
子供がいない場合は、縁戚筋から養子を取って、なんとか家門を継承させるのが普通だ。
だが、国王はそれを許さなかった。
それほどに国王は、『呪』のきっかけとなる
「ヒレリアは余を恨んでいたが、幼き頃から余の婚約者として育てられた
この閉鎖された王宮の中で、己の味方が一人だけと言うのは、どれほど心細いことだったろう。
夫を恨み、拠り所が子供だけと言うのなら、もう一人欲しくなってもおかしくない。そう思うと、想像していた以上に、王妃はハインツの
「ハインツは、ヒレリアの拠り所だった。そして、ハインツの子供である、セルリアンとリオネルもまた、ヒレリアの拠り所となった」
それは、王妃にとって味方が増えた瞬間だった。
「ハインツとその妃が公務に精を出すようになり、ヒレリアの公務は格段に減った。そうなると、ヒレリアが王宮にいる理由はなかった。公務の時にだけ王宮にいれば良いのだ。そうして彼女は、余のそばを離れ、離宮で過ごすようになった。…王宮を去っていくヒレリアは、すがすがしい顔をしておった」
父の話とは、少し違う。
だが夫婦とはそう言うものなのかもしれない。外から見ているだけでは、分からないもの。
国王の身体が、小さく見えた。
孤独。
ずっと、孤独だったのだ。
王妃にとって、ハインツが拠り所であったように。
王にとっても、そうだった。
「王妃様は…そのあと、どうされたのですか…」
レリッサは、そっと先を促した。
国王がいつまで経っても、話し出そうとしなかったからだ。
国王はレリッサの顔を見つめると、そっと目を伏せた。
「死んだ。自ら、命を絶った」
息を呑む。
思いもしない最期だった。
「ハインツとその妃が馬車の事故で亡くなり…ヒレリアは絶望したのだ。あれにとって、ハインツは、長く心を支える太く大きな柱であった。そして、その大きな柱を支える、小さな柱を二本、余はさらにヒレリアから奪った」
セルリアンは、国王の庇護下に入り。
リオネルは、王族ですらなくなった。
王妃は一度に心の柱を全て叩き折られた。そして、生きる意味を失ってしまったのだ。
「レリッサ…と言ったな」
「…はい」
レリッサは国王の目を見つめた。
そのアクアマリンの瞳には、深い悲しみと、絶望が色濃く映し出されている。
「セドリックは、余にとってももう一人の息子のようであった。ハインツと共に成長する姿を、余は見てきた。だから、その娘であるそなたに、余は温情をかけるのだ」
国王の瞳の色が、さらに深くなる。
「リオネルを諦めよ。余は、あやつを殺す。殺さねばならぬ。
「…なぜ…」
うまく、言葉が出てこない。
なんと言って返せばいいのか分からない。
レリッサが惑っている間に、国王は再び口を開いていた。
「あの琥珀の瞳は、かつてのテルミツィアとスタッグランドの源流…創始王の瞳」
創始王。
歴史の創世記に出てくる、偉大な王の呼び名だ。
名は知られていない。
「リオネルはその先祖返りの瞳を持つ。…あの瞳がなければ、余は生まれた瞬間に、リオネルをこの世から取り除いていた。あの瞳がなければ…」
その瞳を、持たねば良かったのに。そう聞こえた。
「偉大な王の瞳に、余の中に流れる、王族の血が震えた。故に、
国王が手を握った。
「早く、この手で殺しておくべきであった」
レリッサは首を振る。
言葉が出てこない。
伝えたいことが、あるはずだった。
リオネルの顔が、目の裏に浮かぶ。
「いけません…」
優しい笑顔が。
「陛下、絶対に、いけません…」
国王が、レリッサを見る。
そして哀れなものを見る目をした。
「リオネル様は…立派な方です。…決して、ここで命を落とされて良い方では…」
リオネルが描くスタッグランドの未来。
彼がすくい上げてきた、そして、これからすくい上げていく人々の未来。
「そなたがリオネルをどう思っていようとも。あれは生きていてはならない。歴史はもう、繰り返されるべきではない」
そう言うと、国王はすっと扉を指差した。
「話は終わりだ。出てゆけ」
「…陛下っ」
国王が目を閉じた。
これ以上、話すつもりはないと言う、明確な意思表示。
レリッサはゆるゆると立ち上がった。国王は、もう目を開けない。
レリッサが国王の部屋の扉を閉めるまで、その目が開くことはなかった。
「どうしたのだ!?」
レリッサが扉から出ると、驚いた表情でセルリアンが駆け寄ってきた。
「泣いているではないか。祖父が何か、貴女を傷つけるようなことを…」
「いいえ」
レリッサは俯きながら顔を横に振った。
そして、なんとか笑顔を作る。
「何もありませんわ」
「…なら良いんだが…」
セルリアンは戸惑った表情を、やがて「そうだ」と何か閃いた表情に変えた。
「私の部屋で、茶会の仕切り直しをしよう。貴女に見せたいものもある。それに貴女のために作らせた菓子がまだ…」
「あの、セルリアン様…」
レリッサが、セルリアンの言葉を遮ろうとしたその時。
後ろから、肩を引かれた。
「今日は、連れて帰ります」
アイザックだった。
セルリアンから遠ざけるように、レリッサの肩を抱いていた。
「疲れているようですので」
セルリアンが目を瞬く。
そして彼らしくなく、アイザックを睨みつけた。
「私は、レリッサに話しているんだ」
「でしたら、彼女の顔をよくご覧になっては? とても茶会の続きができるような顔色じゃない」
どう言う顔色だろうか。レリッサには分からない。
けれど指先が冷えて、身体中が重たいことは確かだった。
「セルリアン様。申し訳ありません。本日はこれにて辞したいと思います」
「…そうか」
レリッサの言葉に、セルリアンは落胆を隠しはしなかった。けれど顔を上げて、小さく微笑んだ。
「ならば、途中まで送ろう」
セルリアンが先導して歩き出す。
アイザックが、レリッサの顔を気遣わしげに見ながら、肩から手を離した。レリッサは緩く微笑んで、セルリアンの後についていく。
来た道を戻っていく。
その間、セルリアンは無言で、レリッサもまた無言だった。
以前来た時には気づかなかったが、王族の居住スペースと、官僚たちが行き交う公共スペースには明確に、絨毯に差があった。明らかに公共スペースの方が、絨毯が踏みしだかれた跡がある。
レリッサは、ぼんやりと回廊にかかる絵を眺めながら歩いていて、ふと立ち止まった。
(あれは…)
それはどこかで見たことのある絵だった。
銀髪の少年が、手押し車を押す黒髪の赤子に、手を差し伸べている絵。以前にセルリアンの部屋で見たもの。
レリッサが立ち止まったことに気づいたのか、セルリアンが数歩戻ってきた。
「この絵、以前、セルリアン様に見せていただいた絵ですね。こちらに飾られたんですのね」
「いや、違う」
セルリアンが首を横に振った。
「私の部屋にあったのは、模写なんだ」
「模写?」
「そう。まだ絵を描き始めた頃に、習作として、この絵を模写した。いい絵だと思ってね」
「…そうだったのですか…」
銀髪の少年を自分に、そして黒髪の赤子をリオネルに。
もしかしたらそう重ねて見ていたのかもしれない、と思った。
「では、これで失礼いたします」
王宮の扉まであと少し、と言うところで、レリッサはセルリアンに頭を下げた。
「また来るといい。今度はもっと落ち着いて話そう」
「ありがとうございます」
頭を下げながら、レリッサは思う。
きっと、もう彼の招待に応えることはない。
レリッサは国王に、リオネルの手を取ったことをはっきりと告げた。国王がリオネルの命を狙っていることがはっきりした今、セルリアンもまた、国王側の人間として、レリッサとは相容れぬ立場にある。
そのことを、彼が把握していなかったとしても。
レリッサはアイザックとマリアを伴って、王宮の扉を出た。
衛兵が立っていて、レリッサたちに敬礼をする。それに会釈で答えながら、レリッサは隣に並んだアイザックを見上げた。
「アイザック、さっきはありがとう」
「…大したことはしてない。それより、さっさと帰って、休んだ方がいい」
「アイザック様の言うとおりですわ。お嬢様、とてもひどい顔色です」
マリアがレリッサの肩にストールを巻きつけながら言った。
レリッサはストールを手繰り寄せながら、階段を降りていく。
馬車寄せには、レリッサたちが乗ってきたラローザ家の紋章の入った箱馬車が待っていた。
もう少しで階段を降りきる、と言うところで、ラローザ家の馬車の横に、別の馬車が並んだ。
御者が扉を開け、中にいた人物が降りるのを手助けしている。
でっぷりとした体格。今日も派手な臙脂色のフロックコート。ボタンがはち切れんばかりの、その姿。
ミルドランド公爵だった。
レリッサたちは階段を降りると、脇へよけて、公爵が通る道を開けた。
「これはこれは」
ミルドランド公爵が、レリッサたちの前で立ち止まった。
そして、レリッサとアイザックの顔を交互に見ると、訝しげな顔をした。
「珍しい組み合わせだ。どうされたのかな。アイザック殿」
「…特に理由を申し上げる必要はないかと」
「そう言うわけにもいくまい」
公爵は、ソーセージのように太い指で顎を撫でた。
「貴君は娘婿になるのだ。他の令嬢の側におるのを見て、良い気がするものではないことは、理解していただけるだろうな」
娘婿。
その言葉に、レリッサはちらりとアイザックの横顔を見上げた。
僅かにアイザックが眉を上げている。はた目に分かりにくいが、彼が苛立っているのだとレリッサには分かった。
「仕事です。これ以上、申し上げることはない」
「…仕事、か。まぁそれならば致し方ない」
それでは、とミルドランド公爵が階段を上がっていく。
「アイザック、あなた結婚するの?」
レリッサは、その後ろ姿を見つめながら小声でアイザックに尋ねた。
「父親が勝手に言ってるだけだ。俺にそのつもりはない」
そういえば、とレリッサは思い出す。
ミルドランド家の執事が言っていた。
ミルドランド家の令嬢アレリアは、長いことアイザックに片思いをしているのだと。
おそらく、レベッカを王太子妃に推す代わり、アレリアをアイザックに嫁がせる。そう言う算段だったのではないだろうか。
王太子妃にはなれなくても、筆頭公爵家と繋がりを持てるならば、十分に旨味がある。
どうりで、ミルドランド家がレベッカ以外の令嬢を、必死に牽制していたはずだった。
「行くぞ」
アイザックがラローザ家の馬車の扉を開ける。
レリッサは王宮の扉を振り返った。
階段の頂上で、ミルドランド公爵が肩を大きく動かして、息をついていた。
レリッサは王宮に背を向けて身を翻す。
ふわんと、公爵が付けていた甘い香水の残り香が、鼻の奥を通り抜けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます