37. レリッサと不穏2

 訪問着用の、一番上等なドレスに袖を通す。

 足元は編み上げのブーツ。マリアが足元に跪いて、靴紐を丁寧に穴に通していく。

 最後に防寒用の白い毛皮のケープを羽織る。


「できましたわ」


 マリアが、緊張した面持ちで、レリッサのケープを留めるリボンから手を離した。

 レリッサは、マリアを安心させるように少し微笑んで頷いた。




 セルリアンから届いた手紙は、二人だけのささやかなお茶会のお誘いだった。

 場所は王宮。日にちは、二日後。


「俺は反対だ」


 全員でその手紙を見下ろし、中身に目を通した後。

 開口一番そう言ったのは、アイザックだった。


「王宮は父の手の中だ。俺も王太子の私室までは入ることができない。何かがあっても対応できない。それに父が、お前がまた王太子の招待を受けたことを知れば、今度こそ直接的な手段に出てくる可能性がある」

「だが、実質的にこれは拒否権のない招待だ。断りの返信をするにも、日にちがなさすぎる」


 パトリスが悩ましげに、眉間を揉みながら言った。


 王宮からラローザ邸までは目と鼻の先。

 だが、レリッサの手元からセルリアンまで手紙を届けようとするならば、数々の検閲をくぐり抜けなければならない。相当な時間がかかる。逆も然りで、この手紙は何日か前に出されたものだろう。

 セルリアンが、その検閲の時間まで考慮していなかったのか、それとも断りの連絡が来るなどと思いもしなかったのか。本人に聞いてみなければわからないが、返信が間に合わない以上は、招待に応える他ない。


「せめてリオンがいる時に届いていれば…。指示を仰げたんだが…」

「申し訳ありません。私が郵便受けの確認を怠ったばかりに…」


 ダンが深く頭を下げる。


「良いのよ、ダン。今朝からずっとみんな緊張していて、郵便どころじゃなかったもの」


 レリッサはダンの頭を上げさせて、もう一度手紙を見下ろした。

 青いインクで書かれた、端正な文字。セルリアンがリオネルの兄なのだと知って見てみると、不思議と文字の書き方が似て見える。


「こうなった以上は仕方ありません。王太子様のご招待をお受けします」

「おい」


 レリッサは険しい顔をしているアイザックを見上げる。


「どうしたってお断りできないなら、応じるしかないわ。そうでしょう?」

「…そうだが」


 アイザックは苦虫をすり潰したような顔をして、小さく息を吐いた。


「近衛に同期がいる。出来るだけ人払いができるように、頼んでみる。閣下の意向は近衛も承知してるから、聞いてもらえるとは思う」


 けれど、強制力はない。

 宰相が押し通ろうとすれば、それを拒否する権利を近衛は持たない。


「十分よ。ありがとう」


 あとは、宰相と鉢合わせないことを願うしかなかった。




 馬車で王宮の門をくぐり抜ける。

 馬車から降り立てば、レリッサを待っていたのは、以前にもレリッサを案内したセルリアン付きの侍従だった。


「お待ちしておりました。本日は庭園にてお待ちです」


 こんなに寒いのに、庭園でお茶会とは。

 酔狂なことだったが、レリッサにはどうこう言う権利などない。

 だが後ろからついて歩くアイザックは、少しほっとした表情を見せた。

 庭園なら、誰かが近づいてきてもわかりやすい。護衛がしやすいと踏んだのだろう。


「お嬢様」


 アイザックと一緒についてきたマリアが、レリッサとの距離を埋めて耳打ちをしてきた。


「こちらを」


 手に持っていた自分のストールをレリッサに差し出した。

 膝掛け代わりに使うように、と言うことだろう。

 レリッサは微笑んで「ありがとう」と小さく囁いた。


 王宮の庭園に入るのは、初めてではなかった。

 デビュタントの年、シーズン最後の王宮の夜会で、父やパトリスと一緒に散策した覚えがある。その時は夏前だったので、木々は青々と茂り、薔薇やジニア、ペチュニアといった数々の花々が咲き誇っていたものだが、冬の庭園は見るからに寒々しかった。


 歩いていくと、やがて白い蔦の文様を模した、大きな四阿に行き着いた。

 護衛をしている近衛が、レリッサたちがやって来たのを見て、四阿の入り口から少し脇に避けた。


「レリッサ、よく来たな」


 出迎えたセルリアンは、今日は青いフロックコートを着ていた。

 四阿の階段を颯爽と駆け下りると、手を差し出してくる。その手に手を添えて、レリッサは深く沈み込んだ。


「本日はお招きありがとうございます」


 セルリアンはレリッサの手を引いて、四阿の中に招き入れる。

 ちらりとレリッサの後ろに控えるアイザックを見て、少し意外そうに目を瞬いた。


「シンプトン家の…」

「アイザックと申します。本日は、彼女の護衛で参りました」

「…シンプトン家の嫡男が?」


 流石のセルリアンも、シンプトン公爵家とラローザ伯爵家の対立については把握しているようだった。

 レリッサはその表情に苦笑いを浮かべる。


「少し事情がありまして」

「まぁいい。さぁ、こっちへ」


 セルリアンがレリッサに椅子を引いて、座るように促す。

 まさか一国の王太子に椅子を引いてもらうようなことになるとは思わず、レリッサは慌てて腰掛けた。


「申し訳ありません。セルリアン様に椅子を引いていただくなんて…」

「気にするな。前に言ったろう。私は、王太子である前に、一人の男だ。女性に椅子を引いてやるのは、男としては至極当然の振る舞いだと思うが?」

「はぁ…」


 確かにそう言えるのかもしれなかったが、夜会でも令嬢たちにつれない対応をしているセルリアンから出る言葉だとは、とても思えなかった。


 侍従がセルリアンとレリッサの前にお茶を並べる。

 続いて焼き菓子が、レリッサの前にだけ並べられた。


「食べると良い。私は甘い物は好まないが、女性は好きだろう」

「お気遣いありがとうございます」


 供されて口にしないわけにもいかない。レリッサはクッキーを手にとって、一口かじった。歯を当てるとさくりと割れて、ホロリと溶ける。


「とても美味しいです」


 さすが王宮の料理番が作ったお菓子だった。

 ラローザ家の料理長もお菓子づくりは得意だが、ここまでの物はなかなか出てこない。


「そうか。よかった」


 セルリアンが、嬉しそうに微笑んだ。


(わらっ…)


 笑った。

 以前より、ずっと笑顔と分かる笑顔だった。


 唖然としているレリッサをよそに、セルリアンは口元に笑みを浮かべたままお茶を飲んでいる。


「貴女が最近夜会に出てこないので、どうしたのだろうと思っていた」


 しばらく静かにお茶を飲んだあと、セルリアンが言った。


「あ…。それも、少し事情がありまして…」


 まさか、宰相から、セルリアンに気に入られていることを疎まれて、危うく貞操の危機だったとは、当事者である彼に言えるはずもない。…もちろん、外聞が悪いので、どこへ言ったって言えるわけはないのだが。


 言葉を濁したレリッサを、セルリアンはそう気にした様子もなく「そうか」とだけ言って、眉を下げた。


「思えば、貴女と一度もダンスを踊っていないと気づいてな。こうして誰よりも一緒に過ごしているのに」

「ええ…そうですわね」


 誰よりも一緒に…と言えるほど、レリッサとセルリアンが接した時間は多くない。

 だがそもそも人と接する機会が少ないセルリアンにとっては、レリッサは一番言葉を交わした相手と言えるかもしれなかった。


「次は、どの夜会に参加する予定だ? エスコートはリオネルに任せるとして、よければ一曲踊ろう」

「ええっと…」


 そのリオネルは、二日前に戦地へ行ってしまったのだが。


(まさか…王太子が把握していない…なんてことは…)


 それにレリッサは、この状況が続く限り、夜会には出席しない予定だ。すでに招待されている夜会については、欠席の返事をしてある。


 だが、なんと答えようか。

 迷っていると、王宮の方から女官が急ぎ足でやってきた。年嵩の女官だった。ハンナよりも少し若いくらいか。白髪の混じる髪をアップにして、眼鏡をかけている。


「失礼いたします」


 さっと礼を取ると、女官は四阿に入ってきて、セルリアンに耳打ちをした。


「…陛下が?」


 セルリアンが驚いた表情をして、女官の顔を見た。

 そして、セルリアンと女官の顔が、レリッサに向いた。


「陛下が、君に会いたいそうだ」


 告げられた言葉に、レリッサは思わず口をぽかんと開けてしまった。


(今、なんと…?)


 陛下。国王が。レリッサに?


「えっ、でも…」


 全く心の準備ができていない。

 今日着てきたのは、レリッサが持っている訪問着用のドレスの中では最も上質な物だったが、それでも国王に拝謁するには十分とは言えない。

 靴も、カジュアルにブーツで来てしまった。


 どうしようと、後ろに控えるアイザックを振り向けば、彼も驚いた表情をして固まっていた。


「そんなに緊張することはない。最近、少し老いて来てはいるが、今日はまだ体調が良いようだし、話してみれば優しい方だ」


 あの老い方は少し、とは言わないし、優しい人ならばリオネルを邪険に扱ったりはしない。

 色々思うところはあったが、レリッサが混乱している間にも、セルリアンは席を立ち、レリッサにも立ち上がるように促してくる。


「ほら、こっちだ。おいで」


 セルリアンが、レリッサの手を引いて歩きだす。


(手が…。いえ、それよりも、ちょっと待って…。何がどうなって…)


 セルリアンの歩く速度は、少し早かった。

 レリッサは小走りになりながらついていく。レリッサの後ろを、セルリアンの護衛がついてくる。そしてそのさらに後ろを、アイザックとマリアが慌てて追ってきていた。


 庭園を通り抜け、回廊へと出る。

 そこは以前にもセルリアンの私室に行くために通った、王族の居住スペースにつながる回廊だった。

 回廊を渡りきり、階段を登っていく。三階分上がると、再び回廊を行く。

 その回廊が、どこに続いているのかは、その内装の違いで良くわかった。他と比べて、格段に豪華だった。壁にかかった絵画、飾られた彫刻や、壺や、宝飾品。どれもが、見て分かるほどに、稀少性が高く、高価だった。


 一番奥の扉に行き着く。セルリアンは「少しここで待っていてくれ」と言い置いて、先に一人で扉をくぐっていった。

 間違いなく、そこは国王の私室だった。


「どうしましょう…」


 レリッサは、アイザックを振り返って、助けを求めるように囁いた。

 アイザックが、「はぁー」と深く深くため息をついて、額を手で覆った。


「良くわかった」

「え、何?」

「お前が一番、手に負えない」


 その隣でマリアが、うんうんと頷いている。


「お前が分かってないから言っておくが、国王がお前をわざわざ私室に呼んだのは、お前を王太子の想い人だと思っているからだぞ」


 アイザックの告げた言葉に、レリッサは沈黙する。

 何度か、その文字の並びを頭の中で繰り返し、ようやく理解する。


「…なっ、ん…」


 言葉にならない。

 驚いている間に、扉が開いた。

 セルリアンが顔を覗かせる。


「入ってくると良い」


 そう促されたものの、どうしたら良いか分からない。

 レリッサは、アイザックとマリアを振り返る。

 二人ともなんとも言えない顔をしていた。言葉で表すならこうだ。

『諦めて、さっさと行ってこい』


 レリッサは、小さく息を吐いた。

 どちらにせよ、ここで入室しない訳にはいかない。

 王宮に来るのだって、十分腹を括ってきたというのに、もはやこれ以上、何を括れば良いのか。


 レリッサは胸に手を当てる。心臓が騒ぎ立てて、これ以上ないというほど鳴っている。

 その音を聞きながら、レリッサは部屋の中へと踏み入った。


 それはそれは広い部屋だった。

 広い部屋だが、がらんとしている。奥に、これまた大きくて立派な天蓋のついたベッドが一つあるくらい。他に調度品と言えるのは、せいぜい、壁際にあるサイドボードや、ベッドサイドの小さなテーブル、そして椅子くらいのものだった。


 日当たりを避けるためだろうか、カーテンが引かれて、香が焚かれている。

 だがその香でも隠せないくらい、病人特有の匂いが部屋に満ちている。


「じゃあ、私はここで」


 セルリアンはレリッサをベッドサイドまで連れてくると、そう言ってレリッサの手を離した。


(え、一人!?)


 まさかここで、セルリアンにまで見放されるとは思ってもみなかった。


「外で待っているよ」


 そう言うと、セルリアンは美しすぎる笑みを浮かべて去っていく。

 ここまで案内してきた女官が、ベッドサイドの丸テーブルに、二人分のお茶を用意する。そしてその女官もまた、部屋を出ていった。


 本当に二人きりだ。

 レリッサをよほど信用しているのか、それとも、レリッサには何もできやしないと思われているのか。


 レリッサは、おずおずとベッドサイドに近寄った。


 国王が横たわって、目を伏せていた。

 白髪の豊かな波打つ長髪。容貌は変わらず頬骨が浮き上がり、眼窩は落ち窪んでいると言うのに、髪だけが艶やかで不思議だ。


 国王の顔がぴくりと震えた。

 そして、ゆるりと瞼が持ち上げられる。

 セルリアンと同じ、アクアマリンの瞳。


 その瞳がレリッサを見つける。

 その途端、レリッサはずんっと身体に圧力がかかったように、心と身体が重たくなった。足が床にのめり込んでいるのではないか、そう感じるほどに重たい視線。

 威圧的で、圧倒的な。


(これが…国王陛下…)


 レリッサは震える手を必死に抑え込みながら、スカートを持ち上げた。


「レリッサ…ラローザでございます。…本日は拝謁賜り、身に余る誉れでございます」


 絞り出すように告げると、国王は小さく頷いて、手を持ち上げた。

 夜着から覗く腕は、あまりに細い。

 国王は手をレリッサに差し出すと、反対側の手で、ベッドを押す仕草をした。


 起き上がりたいのだ。そして、それをレリッサに介助するように求めている。

 レリッサはおずおずと国王の手を握り、背中に反対側の手を差し込んで、国王の上体を起こした。

 少しでも楽になるように、余っていた枕を背中に差し込む。


 起き上がると、国王が咳き込んだ。レリッサは慌てて国王の背中をさする。

 ようやく国王の呼吸が落ち着いて、レリッサが乗り上げていた国王のベッドから降りようとすると、それを国王が制した。


「よい。そこで」


 よい、と言われても。

 そこはベッドである。


 レリッサは迷った末に、国王と向かい合うように、ベッドの淵に腰掛けた。


「ラローザ…。あの男の娘か」


 国王は、レリッサの顔をまじまじと見た。

 痩せ衰えているが、眼力だけは威厳を保ち続けている。


「ふむ。似ておらんな」

「…母似であると、よく言われます」

「アザリアのシシリア姫か。なるほど」


 国王は小さく頷いた。

 そして尋ねた。


「ご母堂は、元気であるか」

「母は…亡くなりました。十四年前に」


 国王の目がわずかに開く。

 驚いたのだろうか。


「そうか…。残念だ。彼女は、ハインツとも仲良くしておったと言うのに…」


 ハインツ。王の息子。かつての王太子。

 その名を口にするとき、国王は寂しそうに目を細めた。


 それから、ちらりとベッドサイドに置かれた、女官が淹れたお茶を見る。

 取れ、と言うことだろうか。

 レリッサはお茶に手を伸ばす。


 リィ――――――――ン


 不意に、細い鈴の音が鳴った気がした。


(今のは…)


 何。と思う間に、国王の手がお茶に伸びる。

 レリッサは慌てて、お茶を取って国王に差し出した。

 そして国王に倣い、自分の分のカップを手に取る。


 国王がカップに口をつける。

 レリッサもまた、カップを持ち上げた。


「そなたは飲まぬ方が良い」


 カップに唇が触れる直前、国王が言った。


「これは、毒だ」

「え…」


 レリッサはぎょっとして、カップから唇を離す。

 だが、王は平然と、毒入りのお茶を口に含んだ。


に出されるものには、すべて毒が入っておる。少量ゆえ、一度口にしたくらいでは死なぬが…。おなごは、口にせぬ方が良い」

「陛下は…」


 国王は、平然としている。

 そして、またお茶を飲む。


 毒入りのお茶を。


「…いけませんっ」


 レリッサは、国王の手からカップを取り上げた。

 取り上げた瞬間、お茶が跳ねて、ベッドに染みを作る。

 レリッサはハッとして、床に伏した。


「申し訳ありません! 陛下の寝台を汚してしまうなどと…!」


 汗が噴き出す。

 国王と目が合ってから、かけられ続けてきた圧が、レリッサの身体に負荷をかけて、意識を手放してしまいそうになる。


 国王は、「顔を上げるが良い」と言った。怒ってはいない。穏やかな声だった。


「良いと言っておる」


 顔を上げないレリッサに、国王は少し苛立ちを混ぜてもう一度言った。

 レリッサは顔を上げる。

 国王は、ベッドの、先ほどレリッサが座っていた場所を、ぽんぽんと叩いた。


「怒っておらぬ。座るが良い」

「…はい」


 大人しく座ると、国王は床に転がった、レリッサが取り上げたカップに、視線をやった。


「死など、恐ろしくもないものを…」


 ぽつりと呟くその声は、寂しそうで。

 気づけば、レリッサは口を開いていた。


「なぜ…毒が入っていると分かっていて、お召し上がりになるのですか…」


 しまったと思ったのは、言葉にしてしまってからだった。

 けれど国王は、レリッサの勝手な発言を咎めるでもなく、目を伏せた。


「さぁな…。どこの誰か分からぬが。余に相当な恨みを持つと見える」


 口ぶりからして、毒が混入されるようになったのは昨日、今日の話でもなさそうだ。

 レリッサは、国王のこの衰弱具合が、毒によるものなのだと気づく。

 もちろん加齢などではない。分かっていたことだ。だが、病気でもない。どうりで、急速に衰弱していった訳だ。

 だが、国王は分かっていて、毒を口にしている。


『死など、恐ろしくもないものを…』


 先ほどの国王の言葉。

 まるで。


(死にたいと、言っているよう…)


 急に切なくなって、レリッサは膝の上で手を握った。

 その手に、国王が目をやる。

 そして、「ほぅ」とつぶやいた。


「それは、求婚指輪であるな」

「あ…はい」


 琥珀色の、リオネルの色の指輪だ。

 それを、目を細めて見ると、国王は少し苦く笑った。


「セルリアンは、その意味を理解しておらぬようだ。…無理もない。あの子に、それがどう言う意味か教える者はおらぬのだ」


 求婚指輪の意味を知らない。

 子供ならいざ知らず、結婚適齢期の男性が、である。


「その色…余の思いつく限り、一人だけその瞳を持つ者がおる」


 その途端、国王の目が鋭くなった。


「余の温情だ。アレはやめておくが良い」


 深く、冷たい目だった。

 そこに浮かぶのは、憎悪に近い感情。


「どうして…そこまで…」


 国王は、ふっと視線を逸らした。


「悪いことは言わぬ。セルリアンにしておくが良い。あの子も、そなたを気に入っておるようだ。あの子は無自覚なようであるが」

「私は…」


 レリッサは、唇をキュッと引き結んだ。

 そして、ぎゅっと手を握る。


「私は、リオネル様の手を取りました。その手を、離すことはありません」


 告げた途端、国王がレリッサにかける圧が、増した気がした。

 鼓動がいやに大きく耳の奥に響く。

 アクアマリンの冷たい視線が、レリッサの瞳を射抜く。


「残念だ」


 ふっと圧がなくなる。

 国王は心底落胆したと言うように息を吐くと、背に積み上げた枕に身体を預けた。


「惜しいことよ。セルリアンの手を取れば、そなたは良い妃になるであろうに」

「私は…陛下に見込んでいただけるような…そんな人間ではありません」


 レリッサが、国王とこうして面と向かい合ったのは、デビュタントの時以降これが初めてだ。デビュタントすら、まるで流れる川のようにさらりと終わっていく挨拶で、向き合ったと言えるほどの時間もない。

 それなのに、なぜ、国王がレリッサにそんな言葉をかけるのかがわからない。


 国王は、レリッサに視線を戻すと、「あの子が」とつぶやいた。


「あの子が、ある日突然、余の部屋を訪れた」


 国王は長く眠っていた。

 毒で朦朧とする意識の中で、眠っていることだけが唯一、身体を維持する方法だったからだ。

 けれどセルリアンが、部屋のカーテンを開け、窓を開いた。

 久方ぶりに外の空気が肺に入って、国王は目覚めた。


「セルリアンは余に問うた」


『陛下。お伺いしたいことがあります』


 あまりにも純粋な瞳で、セルリアンは言った。


『王とは。王族の責務とは、なんでしょうか』


 国王は驚いた。

 今更だと思ったからだ。

 セルリアンは、今年二十七を数える。

 だと言うのに、彼はこの二十七年間、その疑問を抱くことすらなかった。


 そして気づいた。

 国王は、息子夫婦がこの世を去ってから、ずっとせっていた。

 その間、セルリアンに、『王』とはなんたるか。『王族の責務』とはなんたるか。

 それを教えてやれる者が、他に誰もいなかったのだと。


 そして国王は答えた。


『…王は国民の為にあり。国民は王の為にあり。すべからく、其は国の為成り』


 誰が国王であっても国は回る。だが、『王』が居なければ、国は回らない。『王』とは歯車の芯である。


 国王はそう答えた後、セルリアンに尋ねた。


『なぜそのようなことを急に聞いて参った』


 そしてセルリアンは、ある一人の令嬢を王宮に招いたこと。

 そこで交わした、彼女との会話の中で初めて、『王族の責務』について考える機会を得たことを告げた。

 セルリアンは、彼女が言った『貴族としての矜持』に、深く感じ入った様子だった。


「余も、久方ぶりにそのような気高い精神を持った貴族の話を聞いた。近頃の貴族は皆、上に立つことを己の資質ゆえと思い、勘違いしておる輩ばかりであると言うのに…」


 そんなことはない、とレリッサは思う。

 確かにそう言う貴族もいるが、そうでない貴族だってたくさんいる。


「そんなことはありませんわ。私の考えも、まだまだ未熟で、幼稚なものに過ぎません。例えばアイゼルフット侯爵のような、高貴な方の足元には、とても及ばないものです」

「アイゼルフット…?」


 国王が少し考え込むように顎に手を当てた。


「誰であったかな…」

「え…」


 レリッサは、驚いて目を見開く。

 アイゼルフット侯爵は、政府の要職を歴任している。知らないはずがない、と思うのだが、国王は本当に分からないという顔をしていた。


 本当に執政から距離を置いているのだ。

 今、誰が大臣をしているのか、それすらも把握していないほどに。


「アイゼルフット侯爵は…外交部の大臣でいらっしゃいますわ」

「そうか」


 まったく気の無い「そうか」だった。

 そして国王は、アイゼルフット侯爵の話題からは興味を失ったようで、レリッサの指の、琥珀の指輪に視線を戻した。

 おもむろにレリッサの方に手を伸ばし、指輪をはめた手を持ち上げた。


 そしてその琥珀を睨むように目を細めた。


「忌々しいことよ。あやつが琥珀の瞳を持っておらねば、もっと早く殺しておったものを…」


 囁くように口にされたその言葉に、レリッサは愕然として、咄嗟に国王の手から、手を引き抜いた。

 国王は自分の目前から去っていく琥珀を、ゆったりと視線で追って、それからレリッサに部屋の隅の、サイドボードを指し示した。


「あそこに行って、一番上の引き出しを引いてみるが良い」


 レリッサは立ち上がってサイドボードに近づいた。

 一番上の引き出しを引く。長く開けられていないのか、それとも中に入っている物が相当重いのか、引き出しはひどく軋んだ。

 開けにくい引き出しを、少しずつずらしながら引いて、やがて眼前に現れたそれに、レリッサは目を見開いた。


「おなごに見せるには、血なまぐさい物だが」


 国王はレリッサの背に向かって言った。


「不思議なことよ。どうしてか、そなたに話したくなった」


 そして、「昔の話をしようではないか」と国王は言った。



 レリッサの目の前。

 引き出しの中に収まっていたのは、どす黒く、血の固まったつるぎだった――


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