36. レリッサと不穏1

 その一報は、まだ夜の明けきらぬ薄暗がりの中で届いた。


 眠っていたレリッサは、忙しなく廊下を駆ける音が、隣のエメリアの部屋の前で立ち止まったことで目を覚ました。目を開けても、厚いカーテンを引いたままの部屋の中は暗く、手元を見るのも危ういほどで、レリッサは手探りで枕元の明かりをつけた。


 隣の部屋の扉を、荒く、殴りつけるように叩くダンの声が響く。


『エメリアお嬢様! 緊急の知らせです』


 いつも冷静なダンの、珍しく慌てた声。

 何かあったのは明白で、気になって廊下に顔を出したのはレリッサだけではなかった。エメリアの部屋を挟んで向こう側の部屋から、ナイトドレスにガウンを羽織ったサマンサが、目をこすりながら顔を覗かせていた。


「何事なの、ダン」


 レリッサが声を掛けると同時に、エメリアの部屋の扉が開いた。

 エメリアはすでに軍服を身に纏っていて、上着を羽織ると、レリッサたちには一瞥いちべつをくれただけで、廊下を歩き始めた。その後ろを、ダン、レリッサ、サマンサの順で慌てて追いかけていく。


「たった今、遣いの方がいらして…」

「何かあったな。本部に向かう」


 階段を駆け下り、上着のボタンを留め終わると、エメリアはダンから細剣を受け取って腰に差した。

 階段の下には、すでにパトリスやホーリィ、ライアンも起き出してきていた。ダンの声は、三階にも響いていたのだろう。


「エメリア、何事だ?」

「分からない。とにかく行ってくるよ」


 エメリアは、兄弟姉妹きょうだいの顔を見回すと、その薄い唇を凛々しく引き結んだ。


「どう言う状態かは分からないが、下級士官である私まで召集がかかると言うことは、有事である可能性が高い。父上はおそらく、しばらく戻ってこられないだろう。家のことは、みんなで頼むよ」

「お姉様、お気をつけて」


 エメリアは頷くと、不安そうに見上げるサマンサの頭をぽんと撫でて、玄関の扉を押し開いて出て行った。




 そうして眠れないままに、兄弟姉妹きょうだい揃って、サロンで朝を迎えた。

 誰一人、自室に戻ろうとはしなかったし、サロンに集まったのは、レリッサたちだけではなく、ダンやマリアたち使用人たちも同じだった。

 皆が、落ち着かないまま夜が明けるのを待っていた。

 唯一ディートルだけが、悠然と日が昇る頃に起きてきて、のんびりとお茶を飲んでいた。


 事態の全容が分かってきたのは、朝食後のことだ。

 今朝は誰も一言も発せずに、喉につかえそうになる食材をなんとか飲み下して、食べたのだかどうだか実感の湧かない朝食を済ませた時。

 食堂に飛び込んできたのは、エドだった。


「パトリスっ」

「エド!」


 エドは額に浮かんだ汗を拭いもせず、迷わずパトリスの元に駆け寄った。

 いつものフロックコートではなく防寒用の上着を着ていて、大きな荷物を肩にかけている。見た所、旅支度のようだった。

 走ってここまで来たのか、荒い呼吸を整えながら、エドがなんとか言葉を絞り出した。


「これっ…リオネルから…」


 折りたたんだ便箋が一枚。

 強く握られて、皺の寄ったそれを、エドの手からひったくるようにして取り上げて、パトリスは鼻先にずれた眼鏡を持ち上げてから、その手紙を開いた。


「…お兄様?」


 レリッサたちは、席を立ってパトリスを囲んだ。

 パトリスの表情が、だんだんと険しくなっていく。

 読み終えたパトリスが口を開くより先に、卓上に乗っていたパトリスのグラスから勝手に水を飲み干したエドが話し出した。


「西の国境軍が、勝手にテルミツィアに攻め込んだ」

「え、なんで?」


 ライアンの言葉に、エドが首を横に振る。


「わからない。リオネルはそんな命令してないし、将軍だってもちろんしてない。こっちは寝耳に水で、外交部を通してテルミツィアからの抗議文が届いて知ったくらいだ。今、軍は、上へ下への大騒ぎだよ」

「そんな…」


 レリッサはホーリィと顔を見合わせる。

 リオネルや父、エメリアの顔が頭に浮かぶ。


「攻め込んだは良いが、こっちは準備も何もかも不十分で、逆に攻め込まれてる。ミルドランド領が丸ごと戦場だ」


 西の国境軍はミルドランド領に拠点を置いている。

 そこを攻め込まれているのだ。


 もともとテルミツィア王国とは、以前から戦の絶えない間柄ではある。

 かつてアンドロアスがテルミツィアを離脱した際に自身の領土とした、西の領地を奪い返さんと、思い出したように戦争を仕掛けてくるのだ。

 だが、こちらから戦争を仕掛けたことは、一度もなかったはずだった。少なくともスタッグランドには、その理由がないからだ。


「しかもどうしてこんな時期に? 冬だぞ…」


 パトリスが呻くように言った。


 テルミツィアは雪深い国だ。西の国境付近は山岳に囲まれた不毛の地であることもあって、冬のこの時期に戦いになることは今までほとんどなかった。


 エドは、パトリスの肩を掴んだ。


「なんか怪しいよな? だから俺もミルドランド入りする。パトリス、こっちのことはお前に任せる」

「ミルドランドって戦場じゃないの! 貴方、戦えないんじゃなかったの!?」


 ホーリィが悲鳴を上げるように言った。

 エドはホーリィを見下ろして、一瞬視線を彷徨わせた後に、ポンとその頭に手を置いた。


「俺には俺の仕事があんの。戦うだけが戦争じゃないってね」

「エド、気をつけなよ」


 レリッサたちの後ろから、変わらずのんびりと食後のお茶を堪能していたディートルが話に割って入った。

 ディートルはお茶をかき混ぜたさじを、宙でくるくると回した。


「見えないところに潜んでる」

「…お前が言うと、不吉なんだよなぁ…」


 エドが口の端を引きつらせた。


「あの、エド様…」


 エドがレリッサを見る。


「リオン様や父は…」


 聞きながら、当然戦場に出るのだろうと、頭では分かっていた。

 今まで、戦いが起こって、父が戦場に出なかったことはない。


 エドは眉を下げて、気遣わしげに弱く微笑んだ。


「リオネルと将軍は、準備が出来次第、出軍する。きっかけはこっちだったけど、このままだとミルドランド領が略奪される。西の国境軍からも援軍要請が来てるみたいだ」

「…そうですか」


 エドがレリッサの肩をぽんと叩いた。


「王都を出る前に、多分一度こっちに来ると思うよ。それくらいの時間はあるはずだから」



**********



 エドは、リオネルたち軍よりも先に王都を出ると言った。

 急場のことだったので、取るものとりあえずで用意したエドの旅支度は、どう見ても不完全だった。


「せめて食料くらい持って行きなさいよ」


 ホーリィはそう言って、すぐにも出ようとするエドを引き止めた。

 ダンに合図を出して、旅の間に食べられそうなものを用意させる。一連の話を聞いていたダンの行動は早く、ホーリィが目を合わせると同時に、厨房へと向かっていった。


「…この前は悪かったわ」


 玄関でダンが食料を持ってくるのを待っているエドの隣に、ホーリィは並んでそっと囁いた。

 俯いて足元を見れば、防寒靴を履いたエドの足が目に入る。

 一昨日、ホーリィが踏みつけた足だ。


「いや、なんか俺が悪かったんでしょ? ごめんね」

「…分かってないのに、謝らないでくれるかしら?」


 そう言うところが、またホーリィを苛立たせるのだが、この男はそのことには全く気づいていない。

 気づいていない、と言うことが、もう苛立たしい。


 エドはホーリィの機嫌を伺うように、顔をのぞき込んだ。


「俺、頭悪いからわかんないんだけど。なんであんなことしたかだけ、教えてくんない?」

「…なんでよ」


 どうせ、言ったところで、やっぱり分からないくせに。

 エドの鳶色の瞳が、ホーリィの瞳を見つめてくる。


「ホーリィは、あんなこと、なんの考えもなしにしないじゃん? 俺、それは分かってるから。だから、なんでかなって」


 その瞳には、疑いも何もない。ただ、ホーリィを言葉の通り信じている、エドの真摯な想いだけが乗っている。

 ホーリィはぎゅっと唇を噛み締めた。


(ああ…本当にもう…)


「…貴方って本当に、どうしようも無い人ね?」

「えっと…ごめんなさい?」


 エドが不思議そうな顔で、こてんと首を傾けた。


「…そんな顔したって、可愛かないわよ。おじさん」

「ひでぇ…。俺、まだ二十九…。いや、ホーリィからして見たら、十分おっさんか?」


 ぶつぶつと顎に手を当てて考え込んでいるエドに、ホーリィは囁くように言った。


「…ちょっと、お姉様が羨ましくなっただけよ」

「それって…?」


 どう言うこと? とエドが再び首をかしげる。

 だがこれ以上説明してやるつもりはなかった。ホーリィは肩に乗っていた髪を払い落とした。


「そんなことより、気をつけなさいよね。非戦闘員のくせに、戦場で殉職なんてシャレにならないわよ」

「いやー俺、軍籍じゃないから、殉職じゃなくて、ただの巻き込まれ死になるんじゃない?」

「笑い事じゃないから」


 からからと笑うエドは、相変わらずやっぱり軽薄で、緊張感が感じられない。


「エド様。こちらをお持ちください」

「お」


 ダンが厨房から、紙袋と皮袋を持ってやってきた。

 紙袋の方には、日持ちのする食料が。皮袋の方には半日分くらいにはなる飲み水が入っている。


「ありがとさん」

「気をつけてくださいよ、エド」


 サロンからパトリスやレリッサたちもエドの見送りのために出てきた。


「大丈夫だって。戦場には近寄らないし。ちょっと様子を見てくるだけ。…それに、ちょっと予感がするんだよな」

「…予感?」


 パトリスが訝しげに眉をひそめた。


「そ。ちょっとキナ臭いやつ。でも、俺の予感が当たれば、いい手土産が持って帰れるかも」

「…貴方のその予感に、どれほどの信憑性が?」

「…予感とかなんとか、バカなこと言ってないで、さっさと行って、さっさと帰ってらっしゃい」

兄妹きょうだい揃ってひでぇ…」


 辛辣なパトリスとホーリィの物言いにレリッサが苦笑いをして、それからエドに革の手袋を差し出した。


「これ、父の物ですが、よろしければ。西の方はここより寒いと聞きますので」

「うわー、めっちゃ嬉しい!」


 エドがレリッサから手袋を受け取って早速はめる。

 見せびらかすように手を閉じたり開いたりした後に、「じゃ」と片手を上げた。


「行ってくるわ」

「気をつけて」


 エドが手を振りながら、玄関を出て行く。

 扉が閉まると、パトリスたちはやはり不安げな表情でサロンに戻っていった。今日は一日ずっと、落ち着かない気持ちでサロンで過ごすことになるだろう。


 ホーリィはレリッサたちに続いて、サロンへ入ろうと身体を回転させた。

 けれど思い止まって、玄関の扉へと駆け寄る。

 扉を開けば、エドの背中はもうホーリィの声の届かないくらい向こうにあった。門を抜けて、曲がって行く。

 エドがホーリィに気づくことはなかった。


「…気をつけて…」


 ホーリィは靄のかかったように不快な、その気持ちを抑え込むように、胸の前で手を強く握りしめた。



**********



 父とエメリアが一旦帰宅したのは、エドがラローザ邸を出てから一時間以上経ってからのことだった。


「なんでお前まで戦地に行く必要があるんだ!!」


 パトリスの、似つかわしくない怒声がサロンに響いた。


「うるさいよ、兄上」


 エメリアがわざとらしく耳を手で覆う。


「お前は警邏けいらだろう! それをなんでわざわざ志願して、戦場に出るんだ! お前は、伯爵家の令嬢で! 女性で! 僕の大切な妹なんだぞ!」

「でも軍人だ」


 エメリアがその美しいエメラルドの瞳で、パトリスを睨みつけるように見返した。


 有事とは言え、全員が全員、戦地に向かうわけではない。王都を変わらずに警護する警邏部隊も、当然必要になる。

 エメリアは女性であるということもあり、本来であれば王都に残る予定だった。それをわざわざ志願して、戦地へと向かう部隊に編入したのだと言う。


「俺も一応止めたんだけどね…」


 リオネルが申し訳なさそうに眉を下げた。

 彼はエメリアと父と一緒に、ラローザ邸を訪れた。

 出軍前に兵士は皆、家族とひと時を過ごす。その時間を使って、レリッサに会いに来てくれたのだ。


「兄上がどう言おうと、私は行くよ」

「…ほんっとうに頑固だな、お前は!」


 パトリスが頭を抱えて、呻くように言う。

 それを聞いたホーリィとサマンサが、呆れた顔をパトリスに向けた。


「うちで一番頑固なのはお兄様じゃない」

「そんな人が何言ってんの?」

「お前たちは、エメリアが心配じゃないのか!!」


 あら、とホーリィが肩に乗った髪を振り払う仕草をした。


「当然心配に決まってるじゃない。だけど、それを女性だから、と言う理由で止められるなら、同じ女性として心外だわ」

「ホーリィ、よく言った」


 エメリアが大仰に拍手をしてみせる。


「父上ぇ…」


 パトリスがサロンの奥に視線を向けた。

 ダンに留守中の雑事を指示していた父がこちらを向く。


「諦めなさい。エメリアが人にどうこう言われて、自分の意思を曲げると思うのか? それに、すでにエメリアは出征することを決めたのだ。今更、やめたと言うのは他の兵士の士気に関わる。家族なら、腹を括って送り出してやることだ」

「ほらね」


 エメリアが勝ち誇ったように、麗しく微笑んだ。

 パトリスががくりと肩を下げる。


「でもお姉様。心配しているのは本当ですのよ」


 レリッサの言葉に、エメリアは初めて眉を下げた。


「わかってる。気をつけてどうなるものでもないが、油断はしない」


 大丈夫、だなんて答えは気休めにもならない。

 エメリアは軽はずみに、レリッサたちを安心させるような言葉は言わなかった。

 その代わり、レリッサをぎゅっと抱きしめて、落ち着かせるようにレリッサの肩を撫でた。


「家のことを頼む。兄上はしっかりしているが、この王都の屋敷のことは、君の方が分かってるだろう。…いつも任せてばかりですまない」


 エメリアは腕を解いて、サマンサを抱きしめに行く。

 その後ろ姿を見ていると、そっと手を引かれた。リオネルだった。


「俺も、良い?」

「リオン様」


 手を引かれて、そのままサロンを出る。

 向かいにある食堂に入り、リオネルが後ろ手に扉を閉めた。

 ぱたん、と扉が閉まる音と同時に、包み込まれるように、抱きしめられる。


「リオン様…」


 名を呼べば、ぎゅっと腕が締まる。

 暖かな体温が移ってくる。


 言葉が出てこない。

 気持ちよく送り出さなければ、と。今まで幾度も父にそう声をかけたように、前向きな声をかけなければ、と思うのに、その言葉は喉の奥につかえてしまう。

 それが何故なのかは、わかる。

 本心じゃないからだ。

 頑張って、も。必ず帰ってきて、も。無事を祈ってる、も。どれも本心とは言えない。

 本当は、『行って欲しくない』――それしかないのだ。


 リオネルは、レリッサに言葉を求めなかった。

 しばらくレリッサの体温を堪能した後に、そっと腕を解いた。


「レリッサ、手を出して」

「手?」


 レリッサは手を持ち上げる。

 その手の平の上に、しゃらりと音を立てて、アクセサリーが乗った。


「これ…」

「この前の、サマンサの魔力を封じたクリスタル。ブレスレットにしてもらったんだ」


 真ん中にサマンサのクリスタル。それからチェーンを少し挟んで、琥珀とアメジストが飾られている。リオネルと、レリッサの瞳の色だ。

 チェーンは蔦を模したデザインで、他にも、こちらは魔力も何もない雨粒のようなクリスタルが間に挟み込まれている。


「つけて良い?」


 レリッサの手首に、リオネルがブレスレットをつけてくれる。

 サイズはレリッサの手首にぴったりと合っていて、持ち上げると、サマンサのクリスタルがキラキラと虹色に輝いた。


「綺麗…」

「間に合って良かった。今朝、開く前の店を特別に開けてもらって、エドに取りに行ってもらったんだよ」

「そうだったのですか…」


 どうりで、エドが汗をかいていたわけだ。

 身支度をして、宝飾店に行って、軍本部に行って…ということであれば、相当慌ただしかったに違いない。


 リオネルが、レリッサの手首の、サマンサのクリスタルをそっと撫でた。


「君を守ってくれますように」

「…私も」


 レリッサはスカートの縫い目のポケットから、ハンカチを取り出した。

 白いハンカチだ。


「このために用意していた訳では無いんですが…」


 本当は、求婚指輪の一時的なお礼のつもりで用意していたものだ。

 すぐに返礼の、レリッサの瞳の色の指輪は用意できそうになかったので、その代わりのつもりだった。

 無地の白いハンカチに、リオネルの頭文字を、飾り文字で刺繍したシンプルなもの。本当はもう少し意匠を加えようと思っていたのだが、渡すなら今だと思ったのだ。


 レリッサはリオネルにハンカチを差し出して、唇を噛み締めてから、微笑んだ。


「帰ってきたら、一度返してくださいませ。もう少し刺繍を増やしたいと思いますので」

「…分かった」


 リオネルがレリッサの手からハンカチを取って、握る。


「そのために、絶対に帰ってこないとね。最終的にどんなデザインになるか、楽しみだ」


 その笑顔を見つめていると、ふっと喉の奥が痛んだ。

 リオネルの顔を見続けていられなくて、顔を伏せる。


(だめ…)


 必死で瞬きを繰り返す。

 唇を引き結んで、唇から漏れそうになる何かを押し殺す。


「レリッサ…」


 リオネルの声が降ってくる。


「すみません…」


 顔を上げられない。

 上げたら。

 泣いてしまう。


 レリッサはよく知っている。

 出陣前の兵士が見たいのは、家族の泣き顔ではない。嘘でも良いから、笑っていて欲しい。そうでないと、安心して行けないからだ。

 だからレリッサは、今まで幾度も父を戦場に送り出してきたけれど、いつだって笑顔でその背中を見送ってきた。


 だから、今回もそうしなくては。


 レリッサは、細く息を吐いた。

 胸の内にこみ上げる感情を、すべて吐き出してしまう。

 そして、意を決して顔を上げた。


 にこりと微笑む。


「いってらっしゃいませ、リオン様」

「レリッサ…」


 リオネルが目を細めた。

 そして愛しげに微笑むと、レリッサの髪をかきあげて、頰を包んだ。


 こめかみに唇を落とされる。

 ちゅっと音を立てて、続いて、額に、瞼に、頰に。

 そして唇に軽く、合図をするように軽く口付けられて、薄く唇を開けば、リオネルの熱い舌が差し込まれた。


 深く、深く、息ができないくらい深く。

 歯列の裏を撫でられて、ぞくりと背筋が痺れる。


 漏れ出した声が、だんだん甘くなっていく。


 散々レリッサを攻め立てた後、リオネルはレリッサの鼻先にちゅっと軽くキスを落とした。


 言葉はいらなかった。




「それじゃあいってくる」


 リオネルと父、エメリアはそれぞれに愛馬にまたがって、馬上からレリッサたちを見下ろした。


「いってらっしゃいませ。お気をつけて」

「うん。君達も」


 リオネルはレリッサの後ろに立つアイザックに視線を向けた。

 アイザックはこのままレリッサの護衛として、王都に残る。彼にも緊急で召集がかかったようだったが、彼は自ら望んで、王都に残ってくれたのだ。


「頼むよ、アイザック」

「直接閣下の背をお守りすることはできませんが、ここで閣下の心臓を守っておきますよ」

「さすがだね」


 リオネルはにやりと笑う。


「リオン」

「ディートル」


 レリッサたちより少し遅れて、ディートルが玄関から出てきた。

 それから、軽くさっと手を振った。


「僕からの餞別だ」


 彼がそう言うと、リオネルたちが乗る馬の脚元に風が渦を巻いた。

 リオネルが顔をしかめる。


「戦時の魔術の使用はご法度だぞ」


 戦いに魔術を使用してはならない。

 それは過去の大戦から得た教訓で、今もなお、各国が暗黙の了解としているルールだった。


「これくらい大した魔法じゃない。ただ馬の脚を軽くするだけだ。戦いに直接関係なければ、問題ないよ」

「…物は言いようだな」


 リオネルが苦笑する。


「さっさと帰ってくるんだね。『王』の居場所は、そこじゃない」


 ディートルはそう言うと、ひらりと手を振って、屋敷へと先に戻っていく。

 その後ろ姿を見送って、リオネルは「仕方ないな」と少し笑って息を吐くと、その視線をレリッサへと下ろした。


「レリッサ」


 馬上から手が伸ばされる。

 その手の先を、レリッサは握る。


「おかえりをお待ちしています」

「うん。必ず」


 きゅっと一つ、強く握られて、指が離れていく。


「行きましょう」


 父がそう声をかけて、エメリアが少し微笑んで背を向けた。リオネルも馬の腹を撫でて、最後にレリッサに視線を残したまま、身体を前へと翻した。


 馬が三頭、遠ざかっていく。

 馬上の三人はいずれも背筋をピンと伸ばして、漂う緊張感が凛々しく、そして頼もしい。


 レリッサたちは馬の尾の、毛の最後の一本まで見送って、そして息を吐いた。


「無事に戻ってくるわよね…」


 ホーリィがつぶやく。

 レリッサはホーリィの肩を抱き、サマンサは反対側からホーリィの手を握る。


「大丈夫だよ、きっと。みんな強いもん」


 ライアンが、少し無理をした笑顔で励ますように言った。


「ほら、いつまでも立っていたら身体が冷えるぞ。僕らがここで風邪でも引いたら、帰ってきた父上たちに無用な心配をさせるだろう」


 入って入って、とパトリスがレリッサたちの背中を押す。


「もう、お兄様ったら、そんなに強く押さないでちょうだい」

「兄さん! 僕まだ腕が完治してないから!」


 わぁわぁとホーリィやライアンが文句を言いながら、パトリスに背を押されるがまま、屋敷に戻っていく。

 みんな、不安な気持ちを押し殺すように、わざと明るく振舞っているようだった。

 レリッサもまた、振り絞るように笑顔を浮かべて、その背中を追っていく。


「レリッサお嬢様」


 全員が屋敷の中に入り、サロンへと移動しようとしたその時、後から玄関の扉をくぐって入ってきたダンが、レリッサに声をかけた。


「どうしたの?」

「…こちらを」


 差し出されたのは、一通の手紙だった。

 ダンは申し訳なさそうな顔をした。


「こんな状況でしたので、郵便受けの確認を怠っておりましたところ、こちらが届いていることに今気づきまして…」


 レリッサは、手紙を受け取る。

 上質な手触りの白い封筒。少しキラキラとしているそれを、レリッサは今までにも見たことがあった。

 裏返す。


 雄鹿と、薔薇の紋章。


「これは…」


 セルリアン・ディ・レ・スタッグランドの名。


 それは、王宮からの手紙だった。


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