35. ホーリィとエド3

 身を起こすと、肢体の上を薄いシーツが滑り落ちて、艶めかしくやわな丸い頂が露わになった。

 ホーリィはシーツを手繰り寄せ、顔にかかる乱れた髪をかき上げた。ちらりとサイドボードに乗った見慣れぬ時計に目をやって、今が明け方なのだと知る。

 身体には情事の後の気だるさが残り、横を向けば、昨夜身を任せた、顔と名前がようやく一致する程度の、よく知りもしない男が、枕を抱きしめて眠っている。


「呑気な顔」


 ホーリィはそう呟くと、床にそっと足を下ろした。

 少し毛羽立った絨毯が足の裏を受け止めて、寝台の周りに散らばった自分の服をかき集めて身につけていく。


 身支度が終わって、ホーリィは少し考え込んでから、財布からきっちり宿代の半分にあたる紙幣を出して、男の枕元に置いた。

 メモまでは残してやる必要はないだろう。

 ホーリィはその間一切無言で、男の方を振り返りもせずに部屋を出た。


 歓楽街の中の一角。

 カップルが秘密のむつみごとをするのに適した、一晩いくらと言う宿の一つ。その中でも高級な部類に入る宿を、ホーリィは名残を惜しむでもなく、後にする。


 外へ出てみれば、夜の街はすでに息を潜めるようにそのあでやかさを手放していて、霧がかった通りには、誰かが落として行った靴やら、飲みかけの酒の瓶以外には、ゴミを漁る猫くらいしかいなかった。


 ここから屋敷までは歩いて三十分というところだ。この時間では乗合馬車もまだ動いていないし、億劫ではあるが、歩いて帰る他ない。

 冬の早朝の冷たい空気が、ホーリィの身体を冷やす。少し身震いしてから、屋敷へ向かって足を踏み出した。


 コツコツとヒールが鳴らす音が歓楽街にやたら大きく響く。

 少し歩いたところで、霧の向こうに、よく知った――そして、今は会いたくなかった顔があった。


「いーけないんだっ」

「エド」


 ホーリィは足を止めて、肩にかかった金の巻き毛を払い落とした。


「ストーカーならお断りよ。さようなら」


 そのまま、エドの前を通り過ぎる。

 だが通り過ぎざまに、手首を掴まれた。


「ちょっと、待って待って。俺、言いたい事めっちゃあるんだけど? 伯爵家のお嬢様が何やっちゃってんの?」


 掴まれた手首を引かれる。

 顔が一気に近づいた。


「俺、こんな事頼んでないんですけど?」


 その瞳は、彼にしては珍しく怒気を孕んでいた。


「どうやって情報を得ようが、私の勝手でしょ?」


 離して、と腕を振れば、案外簡単にエドの手が外れる。

 けれどこの場を見過ごす気はないようで、エドは腕を組んで、ホーリィの行く道を塞ぐように立った。


「いつもこう言う事してるわけじゃないだろ?」

「…たまたまよ。趣味と実益を兼ねたら、こうなっただけ」

「いやいや、何が趣味で、何が実益だよ?」


 エドは呆れた顔でそう言うと、ガシガシと頭をかいた。


「なぁ。何焦ってんの? こう言うやり方、らしくないじゃん? ホーリィならもっと頭使って、言葉遊びでいくらでも情報引き出せるだろ」


 頭の悪いやり方をするな。そう言われているようで、ホーリィはムッとする。

 胸元からメモを取り出して、ひらりと振って見せた。


「じゃあ、これはいらないのね」


 手を離せば、メモはひらひらと地面に向かって落ちていく。


「おわっ」


 エドがそれを慌てて掴んだ。

 メモにエドが目を通す。少し読み進めたところで、エドの目が驚きで大きくなった。


「よくこんだけ聞き出せたね」

「できない男ほど、愚痴だけは大層よね」


 ホーリィの言葉に、エドは「言うねぇ」と苦笑いでつぶやく。


 先ほどの男は、王宮の執政室で侍従をしている男だ。一応貴族ではあるが末端も末端で、本来であれば『社交界の華』が相手にするはずのない男。

 それを酒を飲ませて、甘い言葉を一つ二つかけてやれば、すっかり気が大きくなって、こちらが聞いていない事までペラペラと話し出した。

 ベッドまで行ったのは正直成り行きだったが、おかげでより多くの情報を聞き出せた。酒の入ったピロートーク程、男が饒舌になる瞬間も他にない。

 ただ、多少自棄気味であったのは否定できない。


「とりあえずお礼は言っとくけど。でも金輪際、こういうのはやめてね」

「私の勝手でしょ」

「…だったらもう頼まない」


 真剣な表情で発されたその言葉に、ホーリィは唇を噛んだ。


「…貴方には関係ないでしょ」

「あるよ。大アリ。こういう自分を傷つけるやり方で得られた情報を、リオネルは喜ばない」

「…それだけ?」


 エドが目を瞬く。

 他に何かある? いかにもそう言いたげで。

 ホーリィは苛立ちと共に、前に立ちふさがるエドの足を思い切り細いヒールで踏んでやった。


「っテぇっ!?」

「こんのっ、鈍感男!」


 痛みに悶絶するエドの横を、負い目一つ感じる事なく通り過ぎる。

 しばらく歩いてから、思い直して、いまだにうずくまるエドの元に戻る。そして、その能天気な頭に向かって言葉を降らせた。


「人が身体張ったんだから、さっさとお姉様に危険が及ばないようにしてちょうだい。貴方たちが、どういう算段で動いてるかなんて知った事じゃないけれど、お姉様にもしものことがあったら、絶対に許さなくってよ!」


 そして今度こそ、ホーリィは振り返ることなく歩き出した。



**********



「ねぇ、俺って鈍感?」


 エドは椅子に逆向きに腰掛けて、背もたれに頰を乗せながら尋ねた。

 視線の先ではリオネルが、文字通り山となった書類を傍らに積み上げて、絶え間なくペンを動かしている。

 彼は、昨日の、できたばかりの恋人とのデート(約一名コブ付き)の代償として、今日は早朝から起き出して、仕事をこなしている。


 リオネルは、一瞬手元から視線を上げて、エドの方をちらりと見た。

 そして端的に言った。


「主語を俺にした、お前が悪い」

「えー? 何それ? わっかんねぇ!」


 ホーリィに踏みつけられた足は、今もまだ少し疼く。

 エドにしてみれば、自己犠牲的で自己破壊的な、あんなやり方は絶対に認められないし、ホーリィにはもっと自分を大切にして欲しかった。

 いくら情報が欲しいと言ったって、彼女にそこまでの物は求めていないし、言い方は悪いが、そこまで期待もしていないのだ。


 エドがつらつらとそう述べると、リオネルは呆れた顔をしてようやく顔を上げた。


「なら、そう言ってやれば良かったんだ。それを、俺を引き合いに出すから、ホーリィは怒ったんだろ」

「えー? 何で? だって、リオネルだってこういうやり方、嫌いじゃん?」

「もちろん。彼女には、二度とこういう情報の取り方はして欲しくない。彼女は諜報員じゃなく、あくまで伯爵家の令嬢なわけだし、身体と心を傷つけてまで得た情報で救われても、レリッサは喜ばない」

「…リオネルも主語がお嬢様じゃんか」


 リオネルがふっと笑う。


「俺は良いんだよ。お前だから問題なんだ」

「…良い加減、ちゃんと教えてくれない?」


 こう言う小難しいことを考えるのは嫌いだ。

 けれど、安易に答えを得ようとしたエドに、リオネルは首を横に振った。


「こう言うのは、人から言われて気づくべきじゃない。ホーリィもきっと望んでない。自分で考えて答えを見つけることだな」

「つれねぇなぁ…」


 エドは再び背もたれに頰をつける。

 その様子を、リオネルは少し笑って再びペンを動かし始めた。


「俺に言わせれば、お前は鈍感なんじゃなくて、無神経だったんだよ」

「…俺、悪口言われてる?」

「事実だ。受け止めろ。…彼女が、誰のために、今までせっせと情報を集めてきてくれたんだと思う? 彼女には利は一切ないのにも関わらずだ」

「お嬢様のためでしょ?」

「それは今回の話だろう。そりゃ、彼女が事を急いで大胆な方法に出たのは、レリッサのためっていうのは確かだろうけど」


 ラローザ家あそこは、みんながみんな、シスコンでブラコンだから、とリオネルは苦笑いをして。


「俺は、彼女が男を取っ替え引っ替えするのも、その裏返しだと思うけどね」

「はぁ…?」


 今度こそ、本当に分からない。

 頭をガシガシとかきむしるエドに、リオネルは小さく息を吐いて、それから表情を変えた。


「それより」

「ん」


 リオネルが空気を変えたことに気づいて、エドも顔を引き締める。

 今日はあくまでも仕事のためにエドはここにいるのだ。

 リオネルが差し出した二枚綴りの書類を受け取り、目を通す。


「アイゼルフット侯爵? って、外交部の大臣だっけか?」

「そう。内偵を頼む」

「夜会嫌いのおっさんだろ? 難易度高いな…」


 主に夜会が情報の収集源であるエドにとって、夜会にそもそも出てこない侯爵は、もっとも鬼門だ。


「無理か?」

「いや、やる。難易度高い方が燃える」

「そりゃ良かった」


 どういう方向で攻めるか、そんな事を考えながら、エドは心の中に抱えている懸念を口にした。


「お前を狙う暗殺者、いなくなったな」

「…ああ」


 昨日の外出は、もしリオネルを暗殺するなら絶好の機会だった。

 昨日だけではない。ここ最近、リオネルは数日に一回はラローザ邸に顔を出している。今まで軍本部の奥にいて滅多に出なかったリオネルが、外出をするようになったのだ。

 暗殺の難度は格段に下がったと言って良い。

 それなのに、リオネルがアザリア公国から帰ってきてから数ヶ月、暗殺者は全く姿を見せなくなった。


「やっぱり国王の体調不良が原因なのか?」

「どうだろうな…。それならむしろ、もっと躍起になって暗殺者を仕向けてきそうなもんだけど」

「…そりゃそうか」


 エドは夜会で見た国王の衰弱した姿を思い出す。

 あれはどう見ても、健康とは言えなかった。当然国王自身も、自身の死がそう遠くない未来と感じておかしくない。それならば、より一層、リオネルを殺すことに力を入れそうなものだ。

 ところが、そうはなっていない。


「そもそも、国王のあの衰弱具合、なんなの?」


 あまりに急すぎやしないか。

 前シーズンの最後には溌剌としていたのだ。それがたった半年で、あそこまで悪くなるものなのか。

 エドの問いに、リオネルは嘆息して首を振った。


「分からない。医者の話だと、加齢のためだろうと言うことにはなってるらしいが…」

「加齢って、そんな急に進むもんじゃないでしょ」

「そうなんだよな…」


 リオネルが顎に手を当てて、深く考え込み始めた。

 こうなるとエドがいくら話しかけても、答えはおそらく返ってこない。

 椅子から立ち上がって、エドはぺらりと手に持った書類を振った。


「じゃ、俺、行ってくるから」

「ん」


 リオネルは片手を上げるだけでエドに返事をする。

 その様子に小さく息を吐いて、エドはリオネルの執務室から出た。



**********



 その書状は、王都から早馬で届けられた。

 雄鹿と薔薇の印章の押されたその書状は、紛れもなく王からの勅命だった。

 そこに疑う余地はなく、よって男たちは迷うことなく投石機の縄を引いた。


 スタッグランド王国西方国境軍による、テルミツィア王国進軍の一報が届いたのは、その二日後の未明のことだった。


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