34. レリッサとお出かけ2

「もう帰っちゃうの〜?」


 再び馬上の人となったレリッサたちに、子供たちは残念そうに口々にそう言った。


「こら。リオン様はお忙しいんだ。我儘を言うんじゃない」

「はは、良いよ。また今度、様子を見にくるから。その時遊ぼう」

「約束だよ!」


 少年が出した拳に、リオネルがとんと拳をぶつけてやる。

 満足そうに少年が笑うのを確認してから、男性がリオネルを気遣わしげに見上げた。


「リオン様、東へ向かわれるので?」

「そのつもりだよ。ちょっと様子を見てこようと思ってね」

「正直、おすすめはしませんが…」


 レリッサたちは王都を南へと下ってきた。

 ここから東へ向かうとなると、王都の南東へと向かうことになる。

 リオネルは、不安げな顔をする男性やマザーを安心させるように微笑んだ。


「大丈夫だ。上から少し見下ろすだけだから。それより、『あっち』からこの辺に人が来るようなことはある?」

「はい、たまに」

「大人はともかく、子供なら、マザーたちが可能な限りで構わないから、たまに受け入れてあげてくれ。金銭的なことは、あとで言ってくれればこっちで用立てるから」

「賜りました」


 男性たちが頭を下げるのを見届けて、リオネルは「行こう」と言って馬の腹を撫でた。


「閣下、南東と言うと…」


 預かり所を出てまもなく、細い小道から馬が二頭横並びになれる程度の道に出ると、アイザックが後ろから馬を横に進めてきた。

 その表情は、先ほどの男性たちと同じように、どこか気遣わしげだった。

 分かっていないのはレリッサだけのようで、問いかけるようにリオネルを見上げると、「すぐにわかるよ」と返された。


 馬を進めていくと、やがて緩やかな登り坂になった。

 その道をリオネルの馬は軽々と登りきって、やがて坂の頂上でリオネルは馬を止めた。


「ほら」


 そこはちょっとした高台になっていた。

 崖とも言えない小さな岩場から下を見下ろせば、広い敷地の中におびただしい程の人の群れが見えた。


 群れ、としか言えない。

 広大なはずの敷地に、人がうごめくように群がっている。中には掘建て小屋なんかも見受けられるが、ほとんどは地面を寝床にしているような状態だ。


「これは…」


 アイザックはそれ以上言葉が出てこないと言う様子で口ごもる。それはレリッサも一緒だった。


「ここは元々、王都の中でも貧しく家を失った者たちが、青空を屋根にして細々と暮らすような場所だったんだ。そもそも無法地帯で、警邏けいらもここを警戒順路には入れていない。そうだろ?」


 リオネルがアイザックに問いかけると、アイザックは目線で頷いた。


「そうですね。王の直轄地ではあるものの、それを咎める者は特になく…。ここから追い立てても、他に行き場所がないために、結局ここに戻ってきてしまう。それなら無理に取り締まるのではなく、見逃そうと言うことで…。警邏部隊でもここを見過ごすのは暗黙の了解のようになっています」

「そう。ところが、ここ数ヶ月で地方の貧民たちがここに集まって、生活共同体コロニーを築き始めたんだ」


 レリッサは思い当たることがあって、はっとする。

 そう言えば、以前に御者のギャランが言っていたのではなかっただろうか。


『冬が深くなる前に、ぞくぞくと王都に集まってるんじゃないかって言う話で。王都の外れにはすでに、貧民街ができ始めてるって言う話です』


 これがその貧民街なのだろう。


「…これだけの人数だと、個人ではなかなか支援もしづらい。下手に手を差し伸べると、支援を受けられた者と受けられない者とで争いになってしまう」

「王宮は何をしているんだ…。当然、政府の耳にも入ってるはずだ…」


 アイザックは、苦しげに顔を歪ませた。

 彼は、自分の父親のことを思っているのだろう。


「王宮にも下町の住人からは再三、援助を求める声が上がってる。地方から流入してきた貧民たちによって、元々住んでいた下町の者たちの生活も脅かされている状態だからね」


 けれど、王宮にどれだけ訴えても、梨のつぶて。

 状態は改善されることなく、貧民は増え続けている。


「俺は、王に責を問おうと思ってる」


 ぽつり、とリオネルは言った。

 見上げたレリッサの瞳を、リオネルが見下ろす。そして眉を下げて、少し笑った。


「これが、君の不安への答えになると良いんだけど」


 どうやってリオネルと父が王位を取るつもりなのか。

 レリッサはずっと不思議で、そして不安だった。

 リオネルはレリッサのその不安に答えようとしてくれているのだ。


「今回のこの、貧民の王都への流入の件だけじゃない。そもそもどうして地方の貧民たちが、王都へと流れ込んでくるような事態になったのか。王都へ移ってくる貧民たちは、元々は政府派の領地で暮らしていた者たちばかりだ。なぜ、そこまで飢えているのに、放っておいたのか」


 レリッサは、パトリスの言葉を思い出した。


『…僕は、リオンの命令で三十四領を見て回ってきたけど、政府派の領地は、どこも滅茶苦茶だ。それもこれも、国王がこの十九年、執政から距離を置いているせいだ』


「だからリオン様は、兄に三十四領を見回らせたのですね。実態を掴むために」

「うん。一つ一つ証拠を積み上げないと、王を降ろすことはできないからね」


 それからリオネルは視線を鋭くして、もう一度眼下へと視線を移した。


「領地の腐敗は、そのまま政府の腐敗だ。今の政府は、すべてが政府派の貴族の手の平の上で動かされている。そこには、王も、王太子もいない」

「…その筆頭が、父ですか」


 アイザックが、奥歯を噛み締めて、苦々しく呟いた。


「残念ながらね。――だが、そもそもは王の責任だ。政府を動かすのは王の責務で、それを放棄している今の王は、『王』に相応しくない」


 それを突きつけて、退位を迫るのだ。


「…もっと、物騒なことをするのかと思っていました」


 レリッサは素直な感想を漏らした。

 正直に言って、父とリオネルが剣を片手に、王宮に攻め込んでいくのではないか。そんな想像をしていたのだ。

ほっと表情を緩めたレリッサに、隣に馬を進めたアイザックが首を横に振る。


「いや、軍の中にもそう言う意見はある。一刻も早く、閣下を『王』にすべきだと。悠長に話し合いの場を設けている場合ではない、とな。つい二ヶ月前にも、閣下に特に心酔している過激な一派が、クーデターを勝手に画策していたのを取り締まったばかりだ」


 そういえば…、とレリッサは頰に手を当てた。


「そう言う新聞記事を見た気がするわ」

「彼らの言うことも、もっともだけどね」


 リオネルは苦笑いで言った。


「二ヶ月前には性急だったその意見も、今の現状をかんがみれば、時間に猶予がないと言う点で、同意せざるを得なくなる」


 屋根のないこの状況で、あとどれくらい冬を耐えることができるのか。先日の雪は、特に致命的だったはずだ。

 王都に来たところで、食料が得られるわけでもない。


「一刻も早く、どうにかしなければいけませんね」

「うん。でも、今はまだ材料が足りないんだ」

「材料が足りない?」


 レリッサとアイザックは、リオネルの顔を見つめた。

 そこには悔しげな表情がある。


「王の責は問えても、今のままでは実質的に政府を動かしている、宰相たち政府派の重鎮の責任までは問えない。領民が飢えていると言うだけでは、今年の収穫が上手く上がらなかっただけだと、いくらでも言い逃れができてしまう。…財政を見てみれば、それだけでないのは明らかなんだけどね。王の首をすげ替えても、実働している彼らを入れ替えなければ、政府の腐敗は終わらない」


 そのためには、政府派の官僚たちの責任を問えるだけの、確固たる材料が必要なのだった。


「財務室の横領事件や、王宮内での賭博事件はその一端だ。だけど、肝心の宰相や、その取り巻きたちまでは行き着かなかった」

「父のことでしたら、自分がなんとかします」


 アイザックが、馬をさらにリオネルに近づけた。


「実家にある父の書斎から、何か見つかるかもしれません」


 だがそれに、リオネルは首を横に振って「だめだ」と答えた。


「今、君は宰相に近づくべきじゃない。君は『何も知らない』――その確かな状況を、崩すべきじゃないんだ、アイザック」


 今のアイザックは、父親の行いについて、何も知らない。

 何をどう不正を行い、どんな悪行を重ねているのか。

 そのことが、シンプトン公爵を断罪する際に、アイザックを守ることに繋がるのだ。必要以上に父親の罪を知ろうとすることは、彼の立場を危うくする。


「ちゃんとその辺りのことは、エドとパトリスが動いてるから大丈夫だ」

「兄が?」


 そう言えば、パトリスは王都に戻ってきてからも、よく家を出ている。


「そうだよ。あと、ホーリィもね」


 レリッサは目を丸くして、リオネルを見た。

 ここでホーリィの名前まで出てくるとは思わなかったのだ。


「なぜホーリィが…」

「彼女は、生まれが違えば良い諜報員になっただろうね」


 リオネルは笑いをひそめながら言った。

 ホーリィはここ最近、また精力的にお茶会に顔を出すようになっていた。それも、何件も掛け持ちしているようで、朝出かけてから、夜遅くまで戻ってこないことも多々ある。


 ホーリィとエドが以前から知り合いだったこと。

 そして、妙にホーリィが耳聡かったこと。

 そこから、もしかして、とレリッサは思い至る。


「もしかして…、ホーリィは以前からリオン様のお仕事のお手伝いを…?」

「彼女自身も、そうとは知らずにね。彼女には、本当に頭が上がらないよ。俺やエド、パトリスじゃ得られない情報を、たくさん持って帰ってきてくれる。度胸もあるしね」


 お茶会が好きで、夜会が好きで、たくさんの男性たちと浮名を流すホーリィ。

 レリッサはただ、ホーリィがそう言うことが好きなだけだと思っていた。


(私、ホーリィのことを誤解していたのかも…)


 ホーリィはホーリィなりに、すべきことがあって、そのために動いていたのかもしれない。


「リオン様」


 レリッサはリオネルを見上げた。

 琥珀色の瞳が「なに?」とレリッサを見下ろす。


「私にできることはなんでしょう?」


 パトリスはリオネルの手足となって動き回り、エメリアは彼をその剣で以って守り、ホーリィはその社交性で彼の耳となる。

 では、レリッサには何が出来るだろう。


 レリッサだって、リオネルのために何かがしたい。


 リオネルは目を瞬いて、それから嬉しそうに微笑んだ。


「君に出来ることは、まずは自分の身を守ること。…きっと、君の望む答えとは違うだろうけど。でも、本当にそれが一番なんだ」


 リオネルが、こつんとレリッサの額に、額をつけた。


「俺の弱点にならないで、レリッサ。俺は、君に何かあったら、絶対に取り乱す自信があるし、君を守るために、他の全てを投げ打つだろう。それを俺は絶対に迷わない。他の何よりも、君のことが大切なんだ。王位よりも、この国の未来よりも、この命よりも」


 リオネルの手が、彼の心臓の上に置かれる。


「だから、俺に、君のために他の全てを捨てさせないで」


 それは、レリッサが思っていた答えではなかった。

 けれど彼の言う通り、彼の弱みにならないことが、今レリッサができる最大限のことだと理解する。


 レリッサは、リオネルの心臓の上に置かれた手に、手を重ねた。


「わかりました」


 レリッサは、何も持たない。特別度胸があるわけでも、戦えるわけでも、魔法が使えるわけでもない。

 ならばできることは、たった一つなのだ。


「決して貴方の弱みになりません。決して貴方に他の全てを捨てさせたりしません。そして、必ず貴方を信じています」

「それでいい」


 満足そうにリオネルは微笑んで、さっとレリッサの額に唇で触れた。

 そして、気を取り直すように、眼下を見下ろした。


「レリッサ、アイザック」

「「はい」」


 答えた声は同時だった。


「この光景を覚えておいて。彼らを一人残らずすくい上げる。たとえ不可能でも、俺は理想を諦めたりしない。そのために、すべきことが山ほどある。身を削り、時間を削り、心を削り、それでもなお奔走してこそ、国をべる者だ。二人には、必ず俺を助けてもらう時が来る」


 レリッサとアイザックは顔を見合わせて、そして頷いた。


「どこまででもお伴します」

「この身を如何様いかようにもお使いください」


 レリッサたちの言葉に、リオネルは強く頷くと、手綱を軽く引いて馬の向く先を変えた。


「さて、用事は以上だ」

「リオン様は、私たちにこれを見せたくて、お連れくださったのですね」

「うん。この光景と、さっきの預かり所の子供たちをね」


 それは、リオネルが最も心を砕いている場所を、明かしてくれたということ。彼からの信頼の証なのだと、レリッサもアイザックもわかっていた。




 王都の中心部へと戻りながら、馬上から露店をひやかして歩いていく。

 物珍しい食べ物もあったけれど、これから食事の予定があるからと聞かされて、レリッサは我慢しておいた。装飾品や服飾品の類は、可愛らしいものもたくさんあったけれど、それよりもその値段に驚かされる。


「…あんなに可愛らしいのに、こんな値段なんですか…」


 呆然と目を瞬くレリッサを、後ろからリオネルが笑う。


「レリッサには安すぎる?」

「…というより、もっと高くても良いのではと…」

「それだと、庶民は買えないからね」


 それももっともな話で、レリッサは自分の金銭感覚がどこまで行っても貴族の感覚なのだと、そう思わざるを得ない。

 レリッサはほとんど町歩きをしたことがない。行商に来てくれる商人たちから買い入れることばかりで、物の価値をそれほど知らないのだと改めて知らされる。


「私、何も知らないんですね」

「レリッサは正真正銘、箱入りのお嬢様だからね」


 レリッサは、隣を行くアイザックを見た。

 アイザックは筆頭公爵家の嫡男だ。レリッサよりもずっと大切に育てられているはずで、浮世離れしているのは、彼も同じだと思ったのだが、彼は特に珍しそうにしている様子もなく、周囲を警戒しながら馬を進めている。


「アイザックは驚かないのね」

「俺は警邏でこの辺によく来たからな。…それに、学園時代はそれなりに外で遊んでる」

「そうなの…」


 レリッサは、学園から家まで馬車で直行直帰だった。

 どうしても新刊が待てない時に、本屋に立ち寄ったくらいの記憶しかない。


 だが、考えてみれば、パトリスはリオネルに付き合って、街へ出ることが幾度もあったと話していたし、エメリアは昔から活発で下町にも良く遊びに行っていたように思う。ホーリィは、お友達とウィンドーショッピングをするのが趣味のようなものだ。サマンサとライアンだって、学校帰りにどこかへ寄って帰ってくることは珍しくない。


 レリッサだけが外の世界を知らない。…知らなすぎるのだと、今更ながらに気づく。


「レリッサ」


 フードの上から、リオネルがレリッサの頭を撫でた。


「知らないことが、悪いことなわけじゃない。知りたいと思ったなら、その時に知れば良いんだよ」

「…私、もっと知りたいです。物の価値ですとか、あとは、みんながどうやって暮らしているのかとか」


 レリッサは本の中でしか、そういうことを知らない。

 これからは、もっとちゃんと自分の目で見て、知りたい。知りたいし、きっと知らなければならない。

 リオネルの横に立ちたいと思うなら、それは必要なことなのだ。


「良い心意気だ。今度また改めて来よう。町歩きもなかなか楽しいものだよ」

「閣下」


 リオネルの言葉に、アイザックが眉をひそめて咎めるように呼んだ。


「大事な御身であるということ、お忘れなきように」


 リオネルが、にやりと笑う。


「将軍のようなことを言うな、アイザック。なら、その時は君がついてくれば良い。俺もレリッサも守れて、一石二鳥だろ?」

「…パトリス殿に、貴方について歩くコツでも聞いておきますよ」


 アイザックが諦めたように嘆息する。

 それをリオネルが楽しそうに笑う。

 レリッサは、目を瞬いて、二人の顔を交互に見た。


「なんだか…とても仲良くなられたような気がしますわね」


 この短時間の間に。

 そう言うと、リオネルとアイザックは顔を見合わせて、それぞれにふっと微笑んだ。


「魔術師には魔術師の、相手の技量の測り方があるように。剣士には剣士の、相手の探り方があるってことだよ、レリッサ」

「お前には分からないだろうがな」

「はぁ…」


 分かったような、分からないような。

 そんな顔をしているレリッサに笑いかけると、リオネルはゆっくりと歩みを進めていた馬の歩調を、少し早めた。


「さ、食事にしよう」


 そう言ってリオネルがレリッサとアイザックを連れてきたのは、大通りを挟んで、ラローザ邸のある貴族街とは反対側の通りを、さらに小道へと進んだ場所だった。


「ここって、もしかして…」


 レリッサは、頭上に掲げられた看板を見上げる。

 黒い鹿の絵が描かれている。


「そうだよ」


 押し開いた扉の向こうは、ほどほどに賑わっていた。

 奥に厨房の見えるカウンター席があり、四人から六人が座れる程度の、テーブルがいくつかと、二人がけの小さな丸テーブルがいくつか。

 その間を、一人で動き回っているのは、いつかの金髪の男だ。確か、デレク、と呼ばれていた気がする。


 そう、ここは以前、サマンサを助けてくれた男性達がやっている食堂『黒鹿亭』なのだった。


「お、黒服の旦那!」


 デレクはリオネルの姿を見つけると、手に持っていた皿を給仕してから近寄ってきた。


「約束通り、お嬢様連れて来てくれたんすね」

「奥の席、良いかな」

「あーっと。ちょっと待ってください。今片付けるんで」


 デレクがトレーを持って一番奥の四人がけの席を片付けに行く。


 レリッサはこう言う町の食堂に入るのも初めてだった。昔はごく稀に父が目抜き通りの貴族御用達の料理店に連れて行ってくれたこともあった気がするが、それも随分前の話だ。


「意外と貴族らしい方もいらっしゃるのですね…」


 時刻はちょうどお昼時。

 平民らしい服装の者もいるが、中には貴族らしい、女性の集まりやカップルが混じっている。


「おい」


 とんとん、とアイザックがレリッサの肩を指で突いた。


「なに?」

「あれ、アイゼルフット侯爵じゃないか?」


 声をひそめて、店の一番隅のカウンター席を指し示す。

 真っ白な巻き毛を後ろに撫で付けて、後頭部で一つ括りにした後ろ姿。小さなカウンターが窮屈そうに見える、がっしりとした体躯は、文官というよりは軍人のように見える。

 確かにそこに一人で腰掛けて食事を摂っていたのは、政府派の重鎮の一人、アイゼルフット侯爵だった。


「お一人かしら…」


 正直に言うと、意外だった。

 夜会嫌いで知られるアイゼルフット侯爵は、貴族の中の貴族と言われる。厳格な人柄で、格式を重んじ、貴族としての品格を持たない者には、家格がどうであろうと容赦がないと聞く。

 政府の要職を歴任し、今は確か外交部の大臣であるはずだった。


「アイゼルフット侯爵か…」


 リオネルが、興味深そうにその背中を見つめている。


「旦那、席が用意できましたよ」


 デレクがやって来て、レリッサ達を一番奥の席に案内した。

 ちょうど、カウンター席が丸ごと見渡せる位置だ。レリッサの隣にリオネル、そして向かいにアイザックが座る。

 レリッサとアイザックはマントのフードを下ろしたが、リオネルは周囲を気にしてか、フードを下ろさなかった。


 ランチの時間帯ということもあって、選べるメインは三種類だった。レリッサは鶏肉を選び、リオネルとアイザックは牛肉を選んだ。


「夜に来てもらえたら、もっと色々あるんすけどね」


 デレクはドリンクとサラダをテーブルに並べながらそう言うと、忙しそうにレリッサ達のテーブルを離れていく。

 今や、店は満席で、店の外まで順番待ちの列ができているようだった。


 カウンター席に座っていた何人かが、席を立った。

 デレクが端から順に会計をしていく。

 そのうちの一人が、アイゼルフット侯爵だった。侯爵は席を立ち、そのままレリッサ達のテーブルまでやって来た。


「これは、珍しい組み合わせですな」


 向かい合って座るレリッサとアイザックに視線が向けられる。


「ご挨拶できずに申し訳ありません、侯爵」

「親の問題は、あくまで親のものですので」


 レリッサとアイザックがそれぞれに答えると、侯爵は気難しい顔で頷いた。


「それが良かろう。若い者が、親の確執に巻き込まれ争うなど、くだらんことだ。なんの実もない。貴君の父上には、くだらぬプライドで将軍に牙を見せ続けるのも如何なものかと、そう進言したいところだ」

「それは父に直接お願いしたい」


 アイザックがつれなくそう答えたのを、侯爵は特に気を悪くした風でもなく、視線をそのまま、レリッサの隣に座るリオネルに向けた。


「そちらは?」


 リオネルがフードを下ろした。


「お初にお目にかかる。アイゼルフット侯爵」

「…貴方は…」


 侯爵の目が、かすかに見開かれる。

 彼がリオネルの顔に誰を重ねたのか、レリッサにもすぐに分かった。


「…初めてとは思えん顔だ」

「よくそう言われる」


 リオネルが不敵な笑みを浮かべて言うと、侯爵は「ますます似ておられる…」と呟いた。

 そして、一度目を伏せた後、リオネルを見据えた。


「頂に掲げた椅子は錆つき、担ぎ上げる土台もまた深泥の中にある。霧は深く、深く、臭気は隅の、隅まで。貴方なら如何いかがされる」


 その問い掛けに、リオネルは淀みなく瞬時に口を開いた。


「金は錆びるを知らず、錆びれば其は偽り。如何いかに深い泥も取り去れば、そこに清水が湧くだろう。その汚泥の中、霧に包まれて、貴君は何を見、何を聞き、何をする。安寧と泥にまみれて居座り続けるつもりか」


 レリッサとアイザックは、固唾を飲んでリオネルと侯爵を見守る。

 唾を飲み込むことすらはばかられるような緊張感だった。

 その張り詰めた空気を、先に解いたのは侯爵の方だった。

 胸に手を当て、頭を下げる。――それは、まさに臣下の礼だった。


「御意。…少々回りが騒がしゅうございます。どうぞお気をつけくださいませ」


 侯爵はそのままレリッサとアイザックに目礼すると、身を翻して食堂を出て行った。

 レリッサは、いつの間にか浅くなっていた吐息を、深く吐き出した。周囲は、このテーブルで起きた出来事に気づいた様子もなく、変わらずがやがやと騒がしい。


「リオン様…」


 レリッサは、侯爵の背中を目で追っていたリオネルの横顔を見上げた。

 彼は思い出したようにフードをかぶり直して、微笑んだ。


「ここで彼に会えるとは思ってなかった」


 ついてたな、とリオネルは笑った。


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