27. レリッサの葛藤6

 リオネルは何かに耐えるように苦々しい顔をすると、レリッサを抱きしめた。

 腰に回された手が熱い。

 身に纏っているのは心許ないナイトドレス一つで、レリッサはそれを恥ずかしく思いながらリオネルの腕の中に収まる。

 けれどそんな気持ちは、すぐに吹き飛んだ。


「君が学園を出てすぐだ。君は、婚約した」


 ズンと気持ちが重たくなった。

 リオネルの、レリッサを抱きしめる腕の力が強くなる。


「悔しかった。俺にもし、こんな事情がなければ。他の男になんて触れさせもしなかったのに…」

「リオン様…」


 もし、最初からリオネルと出会っていたら。

 レリッサはきっと、あの婚約はしなかった。


(だって絶対に、私もリオン様を好きになっていたはずだから…)


 リオネルは小さく息を吐いて、吹っ切るように小さく笑った。


「当時は、パトリスとエドにずいぶん八つ当たりをしたよ」

「まぁ…」


 レリッサはリオネルにつられて、くすりと笑った。

 もっとも、ここに二人がいれば、笑い事ではないと抗議したに違いない。


「暗殺者もめんどくさいし、君は婚約するし。将軍が持ち出したアザリア行きの話は、正直に言えば都合が良かった」


 スタッグランドになんて、いたくない気分だった。


「それぐらい、君のことが好きだったんだ」


 リオネルはそう言った。


「リオン様…」


 だけど、とリオネルはつぶやいた。


「状況は…二年でだいぶ変わって。その辺りは将軍から聞いたと思うけど。やむなくスタッグランドに戻ってきた。そこで久しぶりに君を見た。君は」


 泣いていた。


「軍の本部の小さな中庭の、隅の隅で」

「…見ていらっしゃったんですか…」


 それは他でもない、レリッサが婚約者に裏切りを知らされた、あの日のことだ。


「事情はエドに調べさせたらすぐにわかったよ。腹わたが煮え返るって、ああ言うことを言うんだね」


 でも、とリオネルは少し眉を下げた。


「正直、ホッとした」

「リオン様…」

「君がまだ誰のものでもないことに、心底ホッとした」


 そして、あの軍の本部の回廊で――出会った。


「本当は、通り過ぎるはずだった。そうしなきゃならなかった。だけど…」


 琥珀色の瞳が、濡れたように潤んで、少し泣きそうに笑った。


「どうしても君の声を、聞いてみたかった。…俺は、君の声すら、聞いたことがなかったから」


 あの、回廊で。


『ラローザ伯爵令嬢』

『はいっ?』

『ラローザ将軍なら、今は作戦室にいる。お一人だから、行っても構わないよ』

『あ…ご親切に。ありがとうございます』


 たったそれだけの会話だったけれど。


「本当に嬉しかった」


 満足げに笑うリオネルの顔が、少し幼さを帯びる。

 その笑顔が、それが彼の紛れもない本心なのだと教えてくれる。


(胸が苦しい…)


「声を聞いてみて…どうでしたか?」


(どうしてこんなに…)


「幻滅、しませんでしたか…?」


 リオネルが優しく微笑んで、レリッサの頰を撫でた。


「ちっとも。いつまでも聞いていたいくらい、美しい声だったよ」


 レリッサは顔を伏せた。

 苦しくて苦しくて、胸の前でぎゅっと手を握る。


 彼が想ってくれた十八年を、レリッサは何も知らない。

 こんなに想われていたのに。

 十八年のうちのたった一瞬、言葉を交わしただけで、こんなに喜んでくれるほど。


 それが、ひどく悔しくてたまらない。

 彼と出会っていたはずの十八年。

 本当なら、もっと別の過ごし方があるはずだった。


「レリッサ」


 リオネルがレリッサを抱きしめる腕を解いた。

 襟元から、チェーンを引き抜く。そして、チェーンに通っている何かをするりと手のひらに落とした。


 金色の土台に輝く、琥珀の指輪。


 リオネルは立ち上がって、レリッサの足元にひざまずくと、レリッサの手を取った。

 その手を、額に当て、唇で触れる。


 スタッグランド王国の、求婚の儀式。


 指輪と同じ、琥珀色の瞳がレリッサの瞳を捉える。


「君に苦難の道をいることは分かってる。それでも、俺はもうこの手を離す気はないし、君を他の男にやるつもりもない。道は平坦ではないけれど、必ず君を守り通す。必ず幸せにする」


 だから。


「俺と、結婚しよう」


 霧が晴れ、窓の外から朝陽が緩やかに部屋の中を照らし始めた。

 温かな光が部屋の中を包む。


 琥珀色と紫が混じる。

 その瞳には熱が孕んでいて。

 目が離せなくなる。


 じわりと目の奥から何かが滲んだ気がした。

 胸が熱い。

 心が震える。


 レリッサはリオネルが握っていない方の手を持ち上げた。

 そっと、ひざまずく彼の頭に触れる。

 そして屈んで、彼のこめかみに小さくキスを落とした。


「覚悟…はまだついていないのですけども」


 レリッサは囁くように言った。


『王妃』になるなんて、そんな大それたこと、今のレリッサにはやはり考えられない。

 けれど。


「リオン様の歩む道が苦難の道だとおっしゃるなら…、私は、その道をお一人で行かせたくはありません」


 レリッサに苦労をさせたくないと、そう言ってくれたパトリスには申し訳ないけれど。


 彼が想ってくれた十八年。

 それに応えるには、どれほどの時間と、たくさんの想いが必要なのだろう。

 そう思えば、彼と同じ道を歩むことは、容易いことのように思えた。


「ですから、どうか私をお連れください。覚悟はこれから育てて参りますので、リオン様、どうか導いてくださいませ」


 リオネルの表情に喜色が広がる。

 彼は微笑んで、レリッサの指に、琥珀色のその指輪を嵌めた。


「指輪の土台は安物なんだ。全部落ち着いたら、ちゃんとしたのを作りに行こう」

「はい。楽しみにしています」


 リオネルはレリッサを膝の上に乗せると、抱きしめながら額や瞼にキスの雨を降らせた。


「ごめん。抑えられなくて」


 彼の十八年の想いが降ってくる。

 レリッサはそれを甘く受け止めながら、喜びに目を細めた。


「王宮の外で君に会ったのは偶然。でも、声をかけずにいられなかった。君があんまり綺麗だったから。そうしたら、あとは止められなかった。君と、もっとずっといたくて。君の笑顔が見たくて、触れたくて」


 リオネルの降らす雨を受け止めた後、レリッサは彼の腕の中で首を傾げた。


「疑問だったのですが」

「何?」


 レリッサはリオネルを見上げる。


「アゼリアへ退避なさっていたリオン様が、陛下の体調から代替わりが近いと判断されて、スタッグランドへ戻って来れられたのは伺いました。けれど、今まで避けていらっしゃった夜会に出ようと思われたのは何故なのでしょう?」


 父はリオネルの存在を、国王から遠ざけていた。

 それなのに今シーズンのリオネルは、もう三回も夜会に出ている。

 セルリアンはすでにリオネルの存在を知っているし、必然的に、国王がリオネルの存在を認知していると考えて間違いない。


「またお命を狙われるのではありませんか?」

「うん、そうだね」


 言葉が持つ重さとは裏腹に、リオネルは軽く肯定した。

 いぶかしむレリッサにリオネルは少し笑って、また額に口付けを落としてから口を開いた。


「あれは仕掛けなんだ」

「仕掛け?」

「そう」


 リオネルが言うにはこうだった。


 リオネルが姿を現すことで、彼の正体に気づく者は必ず出てくる。

 そうなった時に、それぞれがどんな行動を起こすのか。

 それを見極めようと言うのだった。


「もし『王』になったとしたら、出来るだけ早く基盤を固めてしまう必要がある。そのためには、側近を一から選んではいられない」


 そのために、今から、自分の存在を肯定的に捉える者を選別する目的があるのだ。


「リオン様は…『王』になると言うことについて、どうお考えなのですか?」

「…まるで、入隊試験の面接みたいだね」

「もう、茶化さないでくださいませ」


 レリッサが眉を上げてそう言うと、リオネルは笑って「ごめんごめん」と謝った。

 それから少し考え込んでから口を開いた。


「そうだな…。俺はそんなに玉座自体に興味があるわけじゃない。でも…」


 リオネルが窓の外に視線をやる。

 どこか、遠くを見つめながら、目を細めた。


「王族であると言う意識は、いつまでも身体の中に残っていて、この国はこのままじゃいけないと、その意識が告げる以上は…放っておけない、と思う」


 それに何より、とリオネルは言って、レリッサを見下ろした。


「君の父上が、俺のために捧げてくれた十九年を、無駄にしてはならないと思ってる。それは君たち家族の犠牲の上にあり、君の父上がそうまでして俺に尽くしてくれたのは、すべてはこの国のためだ」


 だから俺は、『王』になることを受け入れたんだよ、とリオネルは言った。

 レリッサは、なんと言っていいかわからずに口ごもった。


 レリッサは犠牲になっただなんて思わない。

 けれど、父が彼の為に、そして今は亡き彼の父親の為に、奔走した十九年であることは、間違いないのだろう。


 唐突に、レリッサの肩が重くなった。

 リオネルがレリッサの肩に額をつけて、もたれかかっていた。

 顔周りに、リオネルの黒くて張りのある髪が当たって少しくすぐったい。レリッサが少し身をよじると、リオネルはレリッサの肩にもたれたまま、くすりと笑う。


「もう時間だ。君の侍女が、さっきからずっと、扉の外をうろうろしてる」


 外はすっかり明るくなっていた。朝陽がレリッサの部屋の中を明るく照らしている。

 相当長い間話し込んでしまったらしい。

 そろそろ朝食の時間だった。


「リオン様、全然眠っていらっしゃらないのではありませんか?」


 彼はレリッサが眠っている間、ずっと手を握っていてくれた。

 椅子に座って僅かばかり眠っていたのかもしれないが、あれでは到底、身体を休めたとは言えないだろう。

 だがリオネルは、「平気だよ」と笑った。


「野戦になると、横になって眠れないことは良くあるしね」


 それから、すっと目を細めて、レリッサの顎に手をやった。

 くいっと上を向かせられて、軽く口づけられる。


「あと、ちょっとだけ」


 くすぐるような軽いキスが繰り返される。

 それがもどかしくて、レリッサが薄く唇を開くと、深く口付けられた。

 息苦しさとともに、甘くほぐされていく。


 もっと、もっとと思ってしまう自分が怖くなる。


(甘くて、全部溶けてしまいそう…)


「流石に止まらなくなりそうだ」


 レリッサを味わい尽くしておいて、そんなことを言う。

 リオネルがぺろっと自分の唇を舐めるのが扇情的で、レリッサは今の自分の行いを思い出して真っ赤になった。


「あの…もう少し…ゆっくりと…」


 どうせもう散々見られているのだけど、心ばかりの抵抗で、赤くなった顔を手で隠す。

 リオネルは満足そうに笑って、レリッサの額にキスを落とした。


「わかってる。でも今日だけは許して。嬉しくてたまらないんだ」


 そんなことを言われたら、許さないわけにいかなくなる。

 リオネルが降らせるキスの雨を、甘んじて受け入れてしまう。


 またリオネルがレリッサの唇に触れようとしたその時、躊躇いがちに扉が鳴った。


 顔を見合わせて、くすりと苦笑いをし合う。


「時間切れだ」


 リオネルはそう言うと、レリッサを膝から下ろした。




 一旦リオネルには外に出てもらって、マリアに服を着付けてもらう。

 足首の包帯。マリアは「見ないほうが良い」と言ったものの、どう言う状態になっているのか気になって、レリッサは包帯を解いた。

 言葉にできずに、目をそらす。

 そこには、くっきりと人の指の跡がついていた。


「だから、ご覧にならない方が良いと申しましたのに…」

「そうね…ごめんなさい」


 マリアがもう一度丁寧に包帯を巻き直してくれる。

 精神衛生上、もう包帯の下を自分で見るのは止めようと心に誓う。

 ぞわりと昨日の不快感が背筋を走って、レリッサは耐えるように手を握りしめた。


「大丈夫?」


 着替えが終わったからと、マリアがリオネルを部屋の中に通していた。

 リオネルはレリッサの様子がおかしいことに気づいて、ベッドに座るレリッサの顔を覗き込んだ。


「はい…」

「お嬢様が、足首をご覧になられて…」


 レリッサは黙っていようと思ったのに、マリアがあっさりと告げてしまう。

 リオネルは表情を険しくすると、レリッサの足首の包帯の上にそっと手を当てた。


「君が思い出して辛くなったら、いつでも来るよ」

「…リオン様」

「もし眠れないなら、君が寝付くまでずっと手を握っているし、足首が痛いなら、ほら」


 リオネルがベッドの上からレリッサを横抱きにして持ち上げた。


「俺が君を運ぶから」


 リオネルは微笑んで、「良い?」と言った。


「絶対に我慢しないで。思ってることは、なんでも言って」


 レリッサはこくんとうなずいた。

 素直にリオネルの気遣いが嬉しくて、そしてマリアが「まぁまぁ」と嬉しそうに言うのが気恥ずかしくて。

 レリッサはこと、とリオネルの肩に額をつけた。


「ありがとうございます。リオン様」

「うん。君のわがままならいくらだって聞きたいんだから、それは忘れないで」

「はい。私も、リオン様のわがままをたくさん聞いて差し上げたいです。なんでも言ってくださいね」


 レリッサが笑顔でそう言うと、リオネルは「あー」と顔をそむけた。


「リオン様?」

「うん。ちょっと待って。気持ちの整理をつけてる」

「はぁ…」


 レリッサが首をかしげていると、マリアが割って入った。


「さぁ、朝食に致しましょう。すでに皆様、お嬢様が降りてらっしゃるのをお待ちですわ」

「…そうだね。行こうか」


 リオネルはレリッサを抱えたまま歩き出した。


「自分で歩けます」

「俺がこうしたいんだよ。せめて俺がいるときくらいは、無理させたくないんだ」


 そう言われるとレリッサはそれ以上は言えなくて、このまま抱きかかえられていることにする。

 気恥ずかしいけれど、幸せで嬉しいのも事実なのだ。


「お姉様!」


 食堂に入ると、ホーリィが金切り声に似た声をあげて、駆け寄ってきた。

 リオネルが椅子に下ろすのを待って、ホーリィはレリッサを強く抱きしめた。

 言葉にならないのだろう。ホーリィは無言でぎゅうとレリッサを抱きしめて離さない。


「ホーリィ…」

「…大丈夫? ううん、大丈夫なわけないわよね…」


 ホーリィはレリッサの身体から腕を離して、レリッサの手をきゅっと握った。

 目が赤い。食堂にはすでにエメリア以外の全員が揃っていた。ホーリィが、レリッサ以外の三人にも同じように抱きついて泣いたのは、簡単に想像ができた。


「…とにかくっ、無事でよかったっ」


 ぽろぽろとホーリィが涙をこぼし始める。

 その頭をレリッサは撫でて、苦笑いでその涙を拭ってやる。


「ほら、泣かないで」


 こくこくとホーリィが嗚咽を抑えながらうなずく。

 その後ろから、ライアンとパトリスが顔をのぞかせた。


「お兄様。ライアン」


 パトリスは頰にガーゼを貼って、腹部を手で押さえながら立っていた。動作のたびに、痛そうに顔を歪ませる。ライアンの方は、片腕を布で吊っている。


「ライアン…」


 脳裏に、ライアンが馬車を飛び出していった姿が浮かび、続いて、地面に横たわるその姿が浮かんだ。

 じわ、と目の奥が熱くなって、気づけばレリッサはライアンを抱きしめていた。


「もう、心配したじゃないっ」

「ごめん、姉さん」


 ライアンは腕をかばいながら、レリッサのされるがままになっている。普段ならば、「やめてよ」と嫌がるところだが、今回ばかりは致し方ないと思ったのだろう。

 ライアンはレリッサから離れると、後ろを振り向いて手招きをした。


「ほら、サマンサ」

「姉様」


 ライアンに促されて、サマンサが目を擦りながらレリッサの腕の中に入ってきた。

 今にも眠りそうなほど、ウトウトとしていて、レリッサの肩に頭を擦りつけている。リオネルが、今日は寝たり起きたりかもしれない、と言っていたのは本当のようだ。


「サマンサも…心配したわ」

「うん。でも姉様が無事だったから良い」


 サマンサは満足げに笑うと、レリッサの腕から出た。

 それから、サマンサは眠たげに目を擦りながら、食堂の奥を指差した。


「姉様とリオン様にお客様」

「お客様?」


 こんな朝早くに、とレリッサは目を丸くして、サマンサの指の指す先に目をやる。


「おはよー。お嬢様、リオネル。派手な登場だったね?」


 ゆったりと椅子に腰かけて、そこでひらひらと手を振っていたのは、数日ぶりに見るエドだった。

 今日も、壁紙に溶けてしまいそうな、地味な色合いのフロックコートを着ている。

 リオネルが呆れたようにため息をついた。


「お前…、何してるんだ」

「だって、急いで帰ってきたのに、リオネル、お嬢様のとこにいるって言うんだもん。そりゃ来るでしょ、急ぎなんだし」


 そう言うとエドは近づいてきて、リオネルの耳元で何かを囁いた。

 一瞬リオネルの纏う空気が固くなる。だがそれもエドが顔を離すと共に消える。


「わかった。その話は後にする」

「りょーかい。それから、お嬢様」


 エドが腰を折って、椅子に腰掛けるレリッサの前に跪いた。


「大変だったみたいだね。…でも、よかったね」


 エドの視線は、レリッサが嵌める、リオネルの瞳の色の指輪を見ていた。

 レリッサははにかんで少し笑う。


「ありがとうございます。エド様」

「いやー、無事に収まるとこに収まってくれてホントよかったー。あ、その琥珀、俺が探したの。ちょー大変だった! リオネルのやつ、もっと大きい方がいいとか、色合いがとかめっちゃうるさくて…」

「「エド、うるさい(わよ)」」


 調子よく話し始めたエドの話を、リオネルとホーリィがすかさず断ち切った。


「まったく、こんな朝くらい、あなた静かにできないの?」

「そりゃそうだ。ごめんごめん」


 ホーリィにたしなめられて、エドが手を合わせて謝った。彼が言うと、ものすごく軽薄な感じに聞こえてしまうのは何故なのだろう。


「レリッサ」

「…お兄様」


 パトリスがレリッサの指に嵌められた指輪を見つめている。

 何事か口を開こうとしたパトリスの前に、レリッサを庇うようにリオネルが立った。


「リオン。言いたいことが、山ほどありますよ」

「…後で一言残らず聞くさ」

「そう、後でだ」


 そう口を挟んだのは、父だった。

 食堂に入ってきて、まっすぐにレリッサの前にやってくると、レリッサをそっと抱きしめた。


「お父様…」

「無事でよかった」


 父にこうして抱きしめられるのは、久しぶりのことだった。

 その温もりに、ほっと息を吐く。

 父はレリッサの頭を一撫でして腕を解くと、子供たちを見回した。


「話はとりあえず後だ。朝食にしよう。…閣下もレイン殿もどうぞこちらへ」


 父がリオネルとエドをダイニングテーブルの一番奥の席に案内する。そしてリオネルを挟むように、父とパトリスが座って、その後を年齢順で腰掛けた。

 レリッサの隣にはサマンサがいて、今にもテーブルに突っ伏して眠ってしまいそうなサマンサを、時折起こしてやりながら、口に食べ物を運んでやる。

 普段なら、ワイワイと話を弾ませながら食事をするのがラローザ家の食卓だったが、今日は誰も喋らない。


 レリッサはサマンサの口にちぎったパンを入れてやって、テーブルの奥を見た。

 リオネルがこちらを見ていて、目が合うと微笑まれる。レリッサはこっそりと顔を赤らめた。


 食事が終わり、ダンやマリアたちがレリッサたちの食べ終えた皿を下げていく。


「旦那様。食後のお茶はどちらにご用意致しましょう」

「サロンに頼む。…閣下、話はサロンで」

「わかった」


 父とリオネルが椅子から腰を浮かそうと、椅子を引く。

 不意に、バタンッと騒々しく玄関の扉が開いた。そしてバタバタと足音が響いて、勢いよく食堂の扉が開いた。


「レリッサ!!」


 深緑の軍服姿のエメリアだった。

 そのままレリッサの姿を見つけると、飛び込むように抱きしめられた。


「無事か!? 何があった? 話を聞いて、気が気じゃなかったよ!」

「お姉様」


 エメリアはいつもは綺麗に一つに束ねている金色の髪を振り乱して、額に汗をかいていた。

 何をするにも優雅なエメリアが、足音を立て、扉の開閉音を鳴らすとは、どれほど彼女が取り乱しているのかが分かる。


「お姉様。私は無事です。大丈夫ですから」


 レリッサはエメリアの背中を、落ち着かせるように撫でる。

 それでもレリッサを離そうとしないエメリアに、呆れたようにパトリスが言った。


「…エメリア、お前、もう少し僕やライアンたちの心配をしても良いんじゃないのか?」

「僕も怪我してるんだけど…」

「エメリア姉様、レリッサ姉様が潰れちゃうわよ」


 サマンサの言葉に、エメリアがようやくレリッサを腕の中から解放する。

 いつもクールなエメリアの、めったに見ない泣きそうな顔に、レリッサは少し驚きながら、顔にかかった髪をよけてやる。


「お姉様。大丈夫です」


 レリッサが微笑むと、ようやくエメリアは安心したように少し笑顔を作った。

 それから、レリッサの隣に座るサマンサの足元に跪いた。


「サマンサも、大丈夫かい?」

「平気よ。ちょっと眠たいくらい」

「膝ならいつでも貸すから言ってくれ」

「極上の枕ね」


 サマンサが眠たそうにしながらも笑う。


「…本当に、妹たちの心配しかしないな…」

「本当だね、兄さん」

「諦めたら? エメリアお姉様が、兄弟より妹に甘いのはいつものことじゃない」


 レリッサやサマンサよりも、よっぽど見た目に重症なパトリスとライアンに、ホーリィが呆れながら諭している。エメリアが立ち上がって笑った。


「当たり前だろう。男の心配をして何が楽しいんだ。だいたい、二人の命に別状がないのは知っているからね。あとは傷を癒せばいいだけのことだ。それよりも、レリッサやサマンサの受けた心の傷の方が、どれほど深いことか」

「それには同意するかな」


 いつの間にか出来上がっていた兄弟姉妹きょうだいの輪に、後ろからリオネルが声をかけた。


「パトリス。お前はもう少し身体を鍛えた方がいい。弟君も、剣を手にするというなら、最低限、己の身を守りきるだけの実力がなくてはダメだ。そうでないなら、本職に任せた方がいい」

「…おっしゃる通りですね。耳が痛いです」


 他でもない、軍のトップに立つリオネルの言葉に、ひよっこ剣士のライアンは恥ずかしそうに身を縮めた。

 それからリオネルは、レリッサの前に立つと手を引いてゆっくりと立たせた。


「続きはサロンで話そう。ご家族が揃ったことだし、昨日の事情を説明したい。…それに、客人も来ているようだしね」

「客人?」


 レリッサが首を傾げたのとほぼ同時に、扉がノックされた。

 扉を押して入ってきたのはダンだ。


「旦那様、お客様です」


 そう言って、食堂に入ってきたのは。


「アイザック!?」


 アイザック・シンプトンだった。

 レリッサは驚いて、目を見開く。


 アイザックはレリッサの姿を目に留めると、迷わずこちらへ歩いてきた。

 そして。


「申し訳なかった」


 そう言って、アイザックは深く…それは深く、頭を下げた。

 レリッサは戸惑って、その赤茶色の後頭部を見つめた。


「アイザック? どうしたの?」


 だがアイザックは、頭を下げたままだ。

 レリッサは困って、隣に立つリオネルを見上げた。


「シンプトン曹長。ちょうど昨日の話をしようと思っていたところだ。君も同席すると良い。良いかな? 将軍」

「閣下の仰せの通りに」


 リオネルの言葉に、父が頭を下げる。

 それを見届けて、リオネルはレリッサを優しく見下ろした。


「レリッサ、おいで」


 そう言うと、さっと抱き上げられる。


「あ、あのっ、リオン様」


 家族の前でこれは恥ずかしい。


「下ろしてください。自分で歩けますから」

「嫌だよ。さっき言ったでしょ」

「でも…」

「あら、良いじゃない。お姉様」


 横からホーリィが、少し高いところにいるレリッサを見上げて笑った。


「せっかくだから、思い切り甘えてしまったら?」

「ホーリィ…!」


 ホーリィとエメリアは何故だか満足そうに笑っているが、お年頃のライアンは恥ずかしそうに顔を赤らめている。サマンサは眠気が勝るのかあまり興味がなさそうで、一方のパトリスは苦々しい表情をしていた。


「ほら、妹君もこう言ってる」


 リオネルは上機嫌でそう言うと、レリッサを抱き上げたまま歩き出した。

 その後ろで、エドはパトリスと顔を見合わせた。


「ねぇ、パトリス。あいつの独占欲? 凄すぎない? 俺、今からあんなで大丈夫かなって、心配なんだけど…。俺、そのうち口から砂糖が出るんじゃないかな?」

「言うな、エド。だから僕は嫌だったんだ…」


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