26. レリッサの葛藤5

 目を開くと、見慣れた天井が見えた。

 そのことにひどくほっとする。

 起き上がろうとするが、右手が固定されて動かない。見ると、手が握られている。

 温かでやや節張った指がレリッサの手を優しく握り込んでいた。その手の主は…と目で追っていって、レリッサは目を瞬いた。


(リオン様…?)


 リオネルが、レリッサのベッドの枕元で、椅子に腰掛けて目を伏せていた。


(寝て…る…?)


 リオネルの胸が規則正しく吹子のように動いている。

 やはり寝ているようだと確信して、レリッサは、なぜ…と思いながら記憶を掘り起こした。


(そうか、昨日…)


 昨夜は大変な夜だった。

 あのあと、腰が抜けてしまったレリッサは、リオネルに横抱きにされて馬に乗せられ、このラローザ邸に戻ってきたのだ。

 だがここ最近続いていた睡眠不足と、緊張が解けたことの安堵感が眠気を誘って、王都の中心部に着く前に眠ってしまった気がする。


 部屋の中は薄暗く、まだ早朝らしい。

 着ていたドレスはナイトドレスに変わっていて、髪も解いてあった。おそらくマリアがやってくれたのだろう。服を脱がされ、髪までいじられているのに気づかなかったとは、どれほど寝入っていたのか。

 それをまたリオネルに見られていたのだから、恥ずかしくて堪らない。


 レリッサは、繋いでいる手を弱く握った。

 リオネルの手は大きくて、レリッサの手なんか簡単に包んでしまう。


 けれど、こうして握っていてくれたから、きっとちゃんと眠れたのだろう。

 そうでなければ、昨日は眠れなかったに違いない。


 レリッサが手を握った弱い力が伝わったのか、座って目を伏せていたリオネルがゆるりとその瞼を開いた。

 瞬きをして、レリッサの目と視線が合うと、ふわりと微笑む。


「起きたんだ」


 そう言うと、リオネルは椅子から立ち上がり、レリッサの枕元に腰掛けた。

 そっと頭を撫でられる。


「よく眠れた?」

「はい…その…すみません…」


 最後の方は、恥ずかしさに声が消え入りそうなくらい小さくなった。

 かけ布団を鼻先まで持ち上げて、顔を隠す。


 リオネルは「ごめんね」と言って、軽く笑った。


「さすがに俺も、寝てるのに悪いなと思って、昨日はあのまま帰ろうとしたんだけど、君の侍女がね」

「マリアが?」


 なんでも、起きた時に、リオネルがそばにいた方が絶対に良いと、父を説き伏せたのだとか。


「マリアったら…」


 レリッサは、気が利くのだか、お節介なのだか分からないマリアの親切に、顔を赤くする。


(寝顔を見られて嬉しいわけないじゃないの…!)


 あとで、よくよく抗議をしなければ、と思っていると、リオネルがレリッサの頭をぽんぽんと叩いた。


「叱らないでやって。実際、レリッサはうなされていたし…、すごく心配したんだと思うよ」


 それに、とリオネルは部屋の扉の方を指差した。


「あそこで、昨日は遅くまで、寝ずの番をしていたみたいだからね」

「え?」


 レリッサは、扉の方を見た。

 扉はわずかに隙間が空いていて、その隙間から、椅子に腰掛けるマリアの後ろ姿が見えた。


「一応、完全に二人きりにするのはまずいと思ったんだろうね」

「マリアったら…」


 レリッサはベッドから起き上がり、床に足を下ろした。

 足首に包帯が巻いてある。はて、と思いながら立ち上がろうとして、痛みを感じてベッドに座り込む。


「っ…」

「痛む?」

「はい。…少し…」


 レリッサはリオネルの手を借りて立ち上がる。

 そろりと足を動かして、なんとか少し引きずりながらなら歩けることを確認して、部屋の入り口まで移動した。


「マリア…」


 マリアは、椅子に腰掛けながら、うつらうつらと頭を揺らしていた。


 彼女は、うなされるレリッサの夢見が少しでも良くなればと思い、リオネルに滞在を願い出て、そして主人の名誉を守るため、こうして一晩起きておくつもりでいてくれたのだ。


 足元にはランタンと、膝には膝掛け。

 廊下は冷え冷えとしていて、これでは夜中はかなり冷えただろう。


「マリア…起きて」


 そっと肩を揺すると、マリアがそっと瞼を持ち上げた。

 すぐにハッとした顔をして、レリッサの顔を見る。


「お嬢様!」


 がばっと抱きつかれた。


「お嬢様! ああ、レリッサお嬢様!」


 ぎゅっと身体を抱きしめられる。レリッサの頰に触れるマリアの頰が、生暖かく濡れる。


「泣かないで、マリア…」

「お嬢様。本当に怖い思いを…。どうしてお嬢様があんな目に…」


 それでも、本当に無事で良かったと、マリアはまた泣いて。


「もう一度、お顔をちゃんと見せてくださいませ」


 そう言ってレリッサの頰を包んだマリアの目は、涙で潤んで真っ赤だった。きっと泣いたのは今が初めてではないのだろう。


「マリア、少し寝てきた方が良いわ。なんだったら、今日はお休みしてちょうだい」

「いいえ、いいえ。何をおっしゃいますやら。お嬢様のお世話は私のご褒美ですのよ。それを取り上げないでくださいませ」


 マリアはレリッサの頰や頭を、存在を確かめるように何度も撫でながら言った。


「じゃあせめて、休憩だけでもしてくると良い。…ちょっと、レリッサと話したいこともあるしね」


 扉に寄りかかりながら、リオネルが言った。

 それは、聞かれたくない話をする、ということで。

 優秀な侍女であるマリアは、リオネルのその意図を正確に察して、礼を取った。


「それではしばし休憩をいただきますわ」


 マリアはランタンと膝掛けを持って下がっていった。

 マリアを見送って、レリッサは扉を閉じる。するとその途端、リオネルが屈みこんだ。


「ちょっとごめん」

「きゃっ」


 レリッサを横抱きにしてしまう。


「歩きづらそうだからさ。あんまり無理しない方がいい」

「…ありがとうございます」


 リオネルは、レリッサをベッドの上に下ろすと、窓際へ近寄ってカーテンを開けた。部屋の中が、僅かばかり明るくなる。窓の外は、うっすらと霧がかっていた。

 彼はそのままレリッサの方に戻ってくると、椅子をさらに引き寄せてベッドの側に腰掛けた。


「まず、気になってると思うから先に言っておくけど」


 そう言い置いて、リオネルは昨日の夜の話をした。


「昨日の夜の詳細については、朝になったら家族が揃った状態で話すことになってる。エメリア嬢が昨日は夜勤だったからね。知らせは行ってるから、すぐ帰ってくるよ」


 レリッサには、今にも剣の柄に手をかけんという程、美しく怒るエメリアの姿がありありと想像できた。おそらく、仕事が終わり次第、早馬で帰ってくることだろう。


「パトリスは軽症。肋骨にちょっとヒビが入ってるくらいだ。二、三日安静にってとこだね。弟君に関しては、肩を斬られてるけど、こちらも無事だ。…傷は残るだろうけど」

「…そうですか…」


 レリッサはそっと目を伏せた。

 それでも、命があっただけ良いと思わなければいけないのだ。


「それで、サマンサは…」

「妹君は昨日、戻ってから一旦目を覚ましていたよ。すぐに眠ってしまったけどね。魔力暴発の後はよくあることだ。もしかしたら、今日一日くらいは、寝たり起きたりかもしれない」

「そうですか…」


 それでも、サマンサも無事だった。

 レリッサはホッとして顔を手で覆った。


 あの青白く光る肌に、力のない身体。

 もう二度と起きないのではないかと、ゾッとした。


「ちなみに」とリオネルは苦笑混じりに言った。


「ホーリィ嬢が半狂乱で帰ってきて、しばらく君とサマンサ嬢の枕元に交互に張り付いていたよ。君たちがゆっくり休めないだろうからって、将軍が連れ出していたけどね。夜が明けたら、安心させてあげると良い」

「そうします」


 家族が暴漢に襲われたと、後で知るのはどれほど心臓に悪く、不安になることだろう。

 ホーリィが半狂乱になったというのも無理はない気がする。レリッサだって、きっと同じ立場なら、家に帰り着き、無事を確認するまで気が気でないだろう。


 話を終えたリオネルが、ふっと弱々しい笑みを浮かべた。

 彼の手が、レリッサの顔の横に垂れた髪をすくい上げて、耳にかける。そのまま頰を包まれた。


「俺も、心配した」

「リオン様…」


 レリッサは、自分の頰を包むリオネルの手に、手を重ねた。


「あんなに怒りで頭の中が沸騰しそうになったことは、今までなかったよ。君が見ていなかったら、あそこにいた全員斬っていた。――祖父に何をされても、怒りなんて感じたことがなかったのにね」


 レリッサはハッとして、リオネルの顔を凝視する。

 彼の琥珀色の瞳が、迷いで揺らめく。その琥珀色はレリッサの瞳を捉えて、細くなった。


「話は聞いたね?」

「…はい」


 頰を包むリオネルの手が、するりと離れていく。

 その代わり、彼の手に添えていたレリッサの手がきゅっと握りしめられた。


「少し、長い話になる。将軍の話とも重複する部分があると思うけど」


 レリッサはそっとうなずいた。

 この話を、ずっと待っていた。

 誰より、彼の口から聞きたかった。


「聞かせてください。リオン様のことを」


 リオネルが少し嬉しそうに微笑んだ。



**********



 どこから話そうかな。

 リオネルは、レリッサの柔らかで細い手を、弄ぶように握りながら、そう呟いた。

 ずっと話そうと思っていたのに、何をどう話せば良いかわからなくなってしまうのは、リオネルの中でも、この話が、いまだに心の奥底で棘を持って、消化されるのを拒んでいるせいかもしれない。


 レリッサの綺麗なアメジストの瞳が、心配そうに揺らめく。

 それすら美しいと思いながら、リオネルは口を開いた。


「まずは謝っておきたいんだけど」

「…謝る、ですか?」


 レリッサがこてんと首を傾げる。


「うん。…俺は、最初に会った時から君を知ってたし…、君をずっと見てきた」


 口にすると、なんだかすごく怖いことのようで、リオネルは少しうなだれる。

 だがレリッサは今ひとつピンと来ないようで、不思議そうな顔をして、先が聞きたいと、促すようにリオネルの手を優しく握った。


「君が生まれた瞬間を知ってる。君が初めて立った日のこと。パトリスやエメリア嬢の後を追いかけて遊ぶ君の姿も」


 学園に入学して、初めて制服に袖を通した日のこと。

 あるいは、デビュタント。その手を握るのが他の男で、ひどく嫉妬した。

 卒業式の日の、美しいドレス姿。目の前で称賛できないのが残念だった。


 リオネルは、片手でレリッサの手を握りながら、その顔を覗き込んだ。

 その瞳は、リオネルを純粋に見つめ返してくる。あの日と、変わらずに。


「最初は、妹みたいな気持ちだったんだけどなぁ…」


 リオネルはそっと目を伏せた。


 五歳で両親を失って以降、周囲の環境の変化に慣れるのには、とても時間がかかった。

 リオネルはそれまで、いくら国王に疎んじられていようとも、両親からは愛され、大切にされて生きていたし、どちらかといえば、両親は過保護だった。

 身体の弱いリオネルをあまり外に出そうとはしなかったし、常に両親のどちらかが側にいてくれた。

 それは思えば、国王に蔑ろにされるリオネルを、国王の意思に準じて大雑把に扱おうとする周囲への牽制でもあったのかもしれない。


 そんなだったから、セドリック・ラローザ――当時、少将の、『鍛錬』と称した『しごき』は、リオネルにとっては拷問以外の何物でも無かった。


「将軍、五歳の子供に手加減しないんだ。容赦なくてさ」


 苦笑いでリオネルがそう言うと、レリッサが「すみません…」と申し訳なさそうにつぶやいた。


「いや、彼の気持ちも、今となっては理解できるんだけどね」


 ラローザ少将は、五歳のリオネルに容赦しなかった代わりに、五歳だからと言って、何かをごまかしたり、嘘をついたりも決してしなかった。

 リオネルは、軍の宿舎を居室とするようになってから、かなり早い段階で、少将が懸念している、王の代替わりに関する風習について聞かされていた。


 五歳の子供には、話しても理解できないかもしれない。

 内容も血生臭く、あまりに衝撃的だ。

 それでも、嘘偽りなくリオネルに告げたのは、それだけリオネルの覚悟が必要だったからなのだと思う。そうでなければ、厳しい鍛錬には、どうやっても耐えられないのだ。


 頭で理解はした。

 理解はしたけれど、セルリアンは優しい兄だったから、そんな彼がつるぎを手に自分を殺しに来る、なんて言う想像は、あまりに不似合いで滑稽なほどだった。

 けれどそれも、抗いがたい何かしらの力が働くのだと聞かされれば、納得せざるを得なくなる。


「俺は正直、自分が死のうがどうしようが、どうでも良かった。両親が死んで、国王にはいらないって言われたんだ。生きる理由づけがどうしてもできなかった」


 レリッサが悲しそうに眉を下げた。


「王宮内の狭い空間の中でしか、五年間生きてこなかった。国王の冷遇ぶりはあからさまだったから、その時点で、もともと自分は必要とされていないとわかってた。…両親が必要としてくれている。そのことだけが、俺が生きる理由の全てだった」


 だから、両親が亡くなってしまえば、生きる理由なんて、無いと同じことだった。


 自分は死ぬのか。それも殺されるのか、と思ったら怖かったけれど、それも少将の厳しい鍛錬の前では、こんなに辛い思いをするくらいなら死んだほうがマシだと、文字通り本気で思っていた。


 毎日毎日、身体のどこかが傷つき、痛む。

 それを満足に回復できないまま、厳しい鍛錬は続いていく。

 そのうち、もうどうにでもなれ、と言う気持ちでいたところ、気づけば食事が喉を通らなくなっていた。


 食べては戻し、その繰り返しで、見る間に自分でも自覚できるほどに痩せたけれど、『隠さなければ』と言う意識が働いて、人と接する時には極力バレないように、空元気で過ごした。


「リオン様…」


 レリッサが、今にも泣きそうな表情になる。

 リオネルは『大丈夫』と伝えるように手を強く握った。


 本当は、彼女にこんな顔をさせたいわけではないのだ。

 それでも、話さなければならない。

 自分は今、彼女に一世一代の覚悟を問うている。ならば自分もまた、彼女には真摯でいなければならない。


「そんな時だった。この屋敷に連れて来られたのは」


 リオネルはぐるりと部屋の中を見回した。

 ちょうど、この部屋だった。当時、客人であったリオネルが与えられたのは。


「少将には、俺と同い年の男の子がいて。そして、三歳の女の子がいた。それから」


 レリッサを見る。

 薄い茶色の柔らかな髪に、紫色に深く輝くアメジストの瞳。


「シシリア様のお腹の中に、君がいた」


 シシリアは優しい人だった。

 もう臨月で、少しでも休んでいたい時期だっただろうに、リオネルが屋敷に来ることを受け入れ、夫の意志を汲み取って、毎日のようにリオネルを自分のそばへと呼び寄せた。

 話すのは、隣国のこと。いかに過ごしやすい風土で、花々が美しく咲き誇り、木になる実がどれほど甘く蕩けるのか。

 そして、王族としての気苦労や、その矜持きょうじについて。


 リオネルは今でも覚えている。

 金色の豊かな髪に、アメジストの美しい輝きが告げた、その言葉を。


『リオネル様。王族はいつだって民の物。民の為に身を削らねばなりません。王には始業時間もなければ終業もないのです。王は常に王。王族もまた、常に王の側にはべる者として同じこと。それはとても息が詰まり、贅沢の裏腹に不自由で、どこへ行くこともできない』


 それでも、とシシリアは笑った。


『民が、幸せに今日も過ごして、果てのない明日を、なんの疑問もなく受け入れて、それが当然の幸せなのだと、そう思ってくれること。そう思わせられる、安定した御代を築けていること。王として、それほど冥利に尽きることがあるでしょうか。それは、子に対する親の愛と同じことですわ』


 そう言って、シシリアはその膨らみきったお腹を撫でた。


「子に対する、親の愛…」


 零すようにレリッサがつぶやく。


 子供は勝手で、与えられる愛情が当然だと思っている。

 そこに親のどんな気苦労や、努力や、葛藤があるかなど知らないで。

 けれど、そんな苦労があるなんて、別に知って欲しくて親になるわけではない。ただ、子供が笑って、健康で過ごしてくれたなら、もうそれだけで十分なのだと。


「…シシリア様は、そう言っていた」


 本当はその後、『でも、ちょっとくらい、こっちの苦労もおもんぱかって大人しくしておいて欲しいものだわ』と、当時やんちゃだったエメリアを撫でて、茶目っ気たっぷりにそう言ったのだけれど。

 母親の言葉に感じ入っている様子のレリッサの手前、それは秘密にしておく。


 リオネルは椅子から立ち上がり、レリッサの隣に腰を下ろした。

 その細くて薄い腰を抱き寄せる。

 ここから先の話は、ちょっと、彼女の顔を見ながらはできそうにない。なにせ、気恥ずかしい話だから。


 シシリアと言葉を交わし、パトリスと友達になり、リオネルの心は次第にほぐれていった。

 それでも、少将の厳しい鍛錬にまた戻って、そこまでして生きたいとは、リオネルにはどうしても思えなかった。


「そんな時だよ、君が生まれたのは」


 赤子の状態の安定や、産後のシシリアの回復を待つ意味もあり、リオネルやパトリスがレリッサに対面したのは、彼女が生まれてからしばらく経ってからのことだった。


 今でも覚えている。

 シシリアの寝室の扉を開ける時の緊張感。

 中から響く、赤子の、元気で、それでいてどうにも不安になる、耳につく泣き声。


 パトリスはすでに兄だったから、赤子はそんなものだと思っているのか、泣いているレリッサを軽く抱いたあと、すぐにシシリアの元に戻した。


『リオネル様。リオネル様も、抱いてみませんか』


 そう言って、シシリアが泣くレリッサを、リオネルの腕に乗せた。

 赤子は見た目の割に意外と重い。腕に乗せられた重みと、止まぬ泣き声に慌てながら、恐々とレリッサを抱いた。


 身内ではない、別の手に預けられたことに、驚いたのだろうか。

 レリッサが、きょとんとした顔をして、泣き止んだ。

 そして微かに微笑んだ気がした。


『まぁまぁ。レリッサは、リオネル様が大好きなのね』


 先ほどまで泣いていたのに、うとうとと気持ち良さそうに眠り始めたレリッサに、シシリアは笑って言った。


 たった、それだけ。

 それだけだけど、初めて抱いたあの時、レリッサが泣き止んで、リオネルの腕の中で眠ってくれたこと。


 それがどれだけ、リオネルの心を強く揺さぶったか。

 その感情を、どんなに言葉を尽くしても、うまく彼女に伝えられなくて、ひどくもどかしい。


 レリッサは次第に笑うようになり、自由に手を動かせるようになると、抱くリオネルの髪をひっぱったり、その小さな手で、リオネルの指を握り込んだりした。

 その生命の力強さ。


 生きている理由がないなんて、そんなことを言って、投げやりになろうとしている自分が、ひどく情けなくなった。

 こんな小さな赤子だって、必死に生きようとしているのに。


「君に必要とされる人間になりたいと思った。求められれば、いくらでも、抱きしめて、気持ちよく眠らせてやりたいと思った」


 本来、それは兄であるパトリスが抱くべき感情だったのかもしれないけれど、リオネルはすっかり気分はレリッサの兄だったし、それ以降も、レリッサの成長を見守っていくつもりだった。


 だが、まもなく、シシリアはさらに子供を身籠った。

 生まれて間もないレリッサと、すでに二人の子供がいるラローザ家。使用人を増やす必要があった。


 使用人を増やすということは、それだけ、リオネルの出自を知る者が増えるということを意味していた。それは、リオネルの存在をできるだけ秘匿しておきたいという、屋敷の主人であるラローザ少将の意思に反していた。


「だから、俺はホーリィ嬢が生まれる前にラローザ家を出て、軍に戻った」


 軍に戻ってからは、心を入れ替えた。

 必死で鍛錬をした。

 強くなりたかった。強くなって、レリッサを守ってやりたかったし、そのためには、セルリアンには絶対に殺されるわけにはいかなかった。


「君が俺の生きる理由になった」


 リオネルは、彼女の膝に置かれた手を握って持ち上げた。

 そっと、その柔らかな手の甲に口付ける。


 あの時握った、あの小さな手が、こんなにも大きく、女性らしくなった。


「リオン様…」

「ごめん、あと少し」


 窓の外は、うっすらと明るくなり始めていた。

 夜が明け、陽の光が霧に反射して、ぼんやりと柔らかな光を孕み始めている。


 リオネルは少し先を急ぐことにして、話に戻った。


「本当は、君の成長をすぐ近くで見ていたかったし、そのつもりだった」


 けれど、箱入りの令嬢であったレリッサの成長を、使用人に気づかれずに見守ることはとても困難なことだった。

 稀に、パトリスが上手く手引きをしてくれて、屋敷の中に潜り込んで、離れたところからレリッサを見ることはあった。けれど、なにせ秘密なんて持てない幼いレリッサの前に姿を現して、万が一、レリッサの口から使用人にリオネルの存在が漏れれば、勝手にリオネルを屋敷に入れたパトリスは叱られるだろうし、その後、もう二度と同じ方法で彼女の様子を見守ることはできないのは分かっていたから、ぐっと堪えた。


 あと少し。もう少しレリッサが大きくなったら、こっそりと秘密の友達になろう。

 そう思っていた。


「私、リオン様の記憶がありませんわ…」


 レリッサが必死に記憶を掘り起こそうと考え込んでいる。

 リオネルは笑って首を振った。


「結局、顔を合わすことはできなかったんだ」


 何せ、レリッサの一つ下にホーリィ、そして更にその三つ下に双子が生まれたのだ。

 そろそろ良いかな、と思った頃にまた、秘密を共有できない弟妹きょうだいが生まれて、おまけにその弟妹たちは、先日、エメリアがリオネルに語ったように、レリッサにべったりだった。


「そんな状態だったから、俺は結局ずっと、遠くから君の姿をたまに見るか、パトリスの手紙で君の様子を知るかのどっちかだった」


 ふとレリッサが顔を上げて、リオネルを見つめた。


「もしかして…昔、棘を削いだリリカローズを差し入れてくださったのは、リオン様ではありませんか?」

「そうだよ。よく分かったね」


 幼い頃のレリッサは、たまに熱を出して寝込むことがあった。

 その度リオネルは、レリッサの手を傷つけることがないように、リリカローズの棘をナイフで削いで、パトリスに託したものだ。


 リリカローズは、王家の華。

 少しでも彼女のそばに居たかった。


「やっぱり…」


 レリッサが嬉しそうに微笑んだ。


「兄はとても不器用なんです。…なのに、あんなに丁寧に棘を削ぐことができるなんてと、不思議に思っていました。先日、父から話を聞いて、もしかして、と思っていたんです」


 レリッサは無邪気に、パトリスが聞けば落ち込みそうなことを言う。

 リオネルは苦笑いをして、レリッサの頭を撫でた。


 それから、なんだか堪えきれなくなって、顔をレリッサに近づける。


「…良い?」


 レリッサの頭が、少し惑った末に、こくんと縦に振られる。

 それを待って、リオネルはレリッサの唇に口付けた。


 長く口付けると、少し苦しげにレリッサが吐息を漏らす。

 シャツの胸元を握るレリッサの手が、可愛らしくていじらしくて、名残惜しく思いながら唇を離した。


「妹、のつもりだったんだけどな」


 それがいつから、こんなに熱い気持ちを注ぐ相手になったのだろう。

 もう覚えていない。

 けれど確実に言えることは、彼女は成長するにつれ、眩しく感じるほど美しくなっていったと言うことだった。


 リオネルは次第に戦場に出るようになっていた。

 その手はすでに何人も人を斬っていたし、若さ故の潔癖さで、リオネルは、汚れたこの手で彼女に触れることを躊躇ためらった。


躊躇ためらっている間に、暗殺者に命を狙われるなんて事態になって、とうとうパトリスに約束させられたよ。妹には近づくなってね」


 リオネルは肩をすくめた。

 パトリスは、事態が全て落ち着くまで――当時はまだリオネルを『王』に、なんて話は出ていなかったので――、つまりセルリアンが国王となり、リオネルが王族に復帰するまでは、決してレリッサに近づかないことを、リオネルに求めたのだった。


 当時は、一歩軍の宿舎を出れば、朝も晩もおかまいなしに、所構わず命を狙われるような生活だった。

だからリオネルも、パトリスの要求はもっともなことだと、理解をしたのだ。


「だけど、すぐにそれを後悔した」


 リオネルは、当時のことを苦い気持ちで思い出した。


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