24. レリッサの葛藤3

 夜会は盛況だった。

 スタングレー侯爵家は、やや軍派よりの中立派であると言うこともあって、招待客は軍派、政府派、中立派とバランスの良い散らばり具合だ。


「さすがスタングレー侯爵、顔が広いな」


 ファーストダンスが終わって、各々、ダンスを踊る者、談笑を始める者、酒を飲み始める者が入り乱れる中を、パトリスがグラスを二つ両手に持ちながら近寄ってきて言った。


「そうですわね。アイゼルフット侯爵などは、王宮の夜会以外では久しぶりに見ましたわ」


 レリッサは、パトリスからグラスを受け取りながら、ちらりと視線をパトリスの背後へと向ける。

 そこには、普段はもっぱら夜会嫌いとして知られる、政府派の重鎮の姿があった。今は同じく政府派の人間で集まって、何やら話をしている。


「本当だ。僕も久しぶりに見たな」


 夜会嫌いすら、夜会に引っ張り出すことができる。

 スタングレー侯爵の人脈の広さと、その人柄だろう。


「あ、姉様たちいた! ライアン、こっち」


 人波の中から、サマンサとライアンが顔を覗かせて、やはりグラスを持ってこちらへと向かって来た。


「もう。人多い。帰りたい」

「そう言うなよ、サマンサ」


 サマンサは早速愚痴を言いながら、ライアンからジュースの入ったグラスを受け取っている。


「姉様、大丈夫だった? 何も変なことない?」

「大丈夫よ。少しのことじゃない」

「その少しが、油断ならないんだからね」


 良い? とサマンサに念を押されて、レリッサは苦笑いをしながら「はいはい」と答える。


 今日はどうやらセルリアンは来ていないようだった。

 いくらスタングレー侯爵と言えども、王都の外れまでは王太子を誘い出せなかったと見える。

 その代わり、シンプトン公爵家はしっかりと招待に答えていて、レリッサが聞いてもいないのに、レベッカが今日はアイザックを伴っていたと、広間が開くとすぐにサマンサとライアンが教えてくれた。


「あの…」


 か細い、少女の声。

 レリッサは自分のすぐ近くから聞こえた声に、反射的に振り返った。

 そこには、可愛らしいオレンジのドレスを着た令嬢が一人。まだ幼さの残る顔を赤く染めて、レリッサの傍の…ライアンを見つめている。


 レリッサは、なるほどと、ライアンの肘をこっそりと突いた。


「なんです? 姉さ…」

「あの、ライアン様!」


 振り返ったライアンに、令嬢が勇気を出して声をかけた。


「踊っていただけませんか!」


 周囲の人が一瞬振り向くような大きな声は、途中、少し裏返ってしまっていて、彼女の緊張を如実に表しているようだった。

 レリッサは心の中で、彼女の勇気にパチパチと拍手をして、ライアンの背を押す。


「いってらっしゃい」

「でも…、今日は…」

「良いのよ。ね?」


 いつまでも家族で集まってなどいられない。ここは夜会。踊ったり、社交を交わしたりする場なのだ。

 仕方ないと言う顔でうなずいて、一歩踏み出したライアンを、あっという間に他の令嬢たちも囲む。どうやら、声をかけるタイミングを見計らっていたのは、あのオレンジのドレスの令嬢だけではなかったらしい。

 次々とダンスの約束が埋まっていく様を、感心しながら眺めていると、くいっとスカートを引かれた。


「何? サマンサ」

「姉様、あれ」


 呆れた顔のサマンサの目線の先には、やはりライアンと同じく、いつの間にか令嬢たちに囲まれているパトリスの姿。こちらは妙齢の淑女から若い令嬢まで、幅広い。

 パトリスにとっては今シーズン初めての夜会とあって、彼の登場を今か今かと待っていた人々がいたと言うことなのだろう。


「ほら、言った通りになった」

「そう言わないの」


 ともあれ、令嬢二人が揃って広間の真ん中に立ち尽くしているのは、逆に目立つ。サマンサと二人、いそいそと壁の花になるべく、壁際へと移動する。

 途中、サマンサに声をかけたそうな令息が何人かいたが、サマンサは完全に見ないふりを決め込んで、早足で駆け抜けてしまった。


 レリッサにはそういうお誘いはない。

 今現在、レリッサは相変わらず王太子の婚約者候補の有力筋と目されているようで、それを、いくら今回の夜会にはセルリアンが参加していないとは言え、王太子に目をつけられてまでレリッサを誘いたいという令息はいないのだ。


 壁にもたれかかって、人の動きをぼんやりと見る。

 人の輪の中心で、鮮やかに踊るホーリィの姿を見つける。

 次々と様々な男性と踊る妹の姿をしばらく見つめていると、視線の端にワインレッドの強烈な色合いのドレスがちらりと覗いて、レリッサはダンスホールの中心から視線を逸らした。


(レベッカ様だわ)


 その隣にはシンプトン公爵、そしてアイザックがいる。

 アイザックが周囲に視線を巡らした。ふと、視線がかち合う。

 レリッサは小さく手を振るが、すっと視線をそらされた。


「あら…」


 いつもなら、手を挙げるくらいはするのに。

 行き場をなくした手を下ろす。


 隣では、サマンサがすっかり壁に寄りかかって、コツコツと靴を鳴らしていた。暇を持て余しているのだろう。


「疲れてきた? お庭にでも出る?」

「庭に出るには、ここ突っ切らないとダメでしょ?」


 サマンサが、ダンスホールを指差して「それもちょっと…」とため息をついた。


「あ」


 サマンサが、レリッサの背中に向かって声をあげた。


「何?」


 レリッサは振り返って、目の前にあった深緑の軍服に瞬きをした。

 上を向けば、先ほど視線をそらされた相手の顔があった。


「踊らないか」


 アイザック・シンプトンだった。



**********



 彼女が、今日の夜会に来ていなければ良かった。

 もしくは気づかなければ良かったのだ。


 だが困ったことにアイザックの視線は、広間に入ってすぐに、可憐な苔桃色のドレスを着たレリッサを見つけてしまった。

 幸い、父親は気づいていなかったので、一旦は無視を決め込む。


 だがその後も、ファーストダンスを兄と踊っている彼女を。

 あるいは弟妹きょうだいと語らっている彼女を。

 アイザックの目はいとも簡単に見つけてしまう。


 そうか、と腑に落ちる。

 今までだって、ずっとこうして彼女を見てきたのだ。

 レリッサ・ラローザのことを。


 学園に入学した当時、彼女は、とても大人しく、控えめな少女だった。

 決してクラスの中心になるようなタイプではない。

 アイザックとて、一学年目で彼女と同じクラスにならなければ、そして彼女が他でもないラローザ伯爵家の娘でなければ、目に止めなかったに違いなかった。


 彼女の姉や妹のように人目を引く派手さがあるわけではない。

 けれど気心は優しくて、彼女と一旦言葉を交わしてみれば、その芯の通ったたおやかな内面が透けて見えた。


 同じクラスのよしみで何度か言葉を交わして、すぐに彼女が、父親や姉が言う『ラローザ家の人間』とはかけ離れた人物像であると気づいた。

 アイザックの、人から少し距離を置かれがちな、人相の悪い外面を物ともせず、彼女は笑顔を向けてくる。

 彼女のそばは心地良くて、三年間たまたま同じクラスであったことも手伝って、彼女の手の届く範囲に居続けた。


 学園にいる三年間は、身体も心も大人へと目まぐるしく変化していく時期に重なっている。

 気づけば彼女は、学年で一番清楚で、一番美しい令嬢へと成長していた。

 自然と彼女へと向ける、周囲の視線が変わっていくのを、アイザックは彼女のすぐ近くで見ていた。


 時折他の男を牽制しながら、早々に自覚した想いを持て余す。

 なにせ、こちらは『シンプトン公爵家』で、あちらは『ラローザ伯爵家』なのだ。

 これが何のしがらみもなければ、早々に婚約の申し込みでもして、自分の物にしてしまったのに、現実はそうはならなかった。


 デビュタントでパートナーを組むことすら、父親は猛反対だった。求婚など、とてもできるはずがなかった。

 それでもデビュタントは、『他に相手などいないが、息子があぶれていても別に良いんだな』と体面主義な父親を、半ば脅すように説得してパートナーの座を勝ち取った。


 彼女は、アイザックが周りを牽制したが故に誘いがなかったことなど全く知らないで、デビュタントのギリギリになってエスコートを名乗り出た、こんな失礼な男に、とても感謝してくれたのが、なんとも居た堪れなくて。

 けれどデビュタントで緊張する彼女をエスコートしながら、絶対に彼女を手に入れたいと気持ちを新たにした。


 卒業後は、迷わず軍に入った。父親はこれまた猛反対だったが、学園を出た後どう生きるかまで指図を受けるつもりは毛頭なかった。

 軍に入り、功績を上げれば、身を立てることができる。

 筆頭公爵家の公爵の座など、糞食らえという気概だった。


 だが、彼女は学園を卒業してすぐに婚約してしまった。

 相手は、とても剣の腕が立つと噂の、彼女の父親の部下だった。


 勝てるはずがないと思いながら、手合わせを願ったことがある。

 もし勝てたなら、彼女を奪ってやろうとすら思って。

 だが負けた。


 悔しくて泣いたのは、あれが最初で最後だった。




「踊らないか」


 そう言って差し出したアイザックの手を、レリッサは瞬きをして見つめている。

 彼女が何かを言う前に、すっとアイザックと彼女に間に小さな影が割って入った。


「アイザック様。今日は姉様は誰とも踊らないの」

「妹か」

「サマンサよ」


 名前を呼ばれなかったのが気に入らなかったのか、妹がふくれっ面を作る。


「踊らなくて何をしに来たんだ。壁の花になるつもりか」

「誰のせいだと思ってるのよ?」


 言外に言わんとしている意味に、すぐに気づいた。

 彼女は、先日の夜会でレベッカが姉に絡んできたことを気にしているのだ。


「だったら問題ないな。姉は今日はこいつに用がないし、俺は用があって、俺がいれば姉は来ない」


 曲が終わろうとしている。

 次の曲が始まる前に、と、戸惑っているレリッサの手を引いた。


「行くぞ」

「アイザック様!」


 妹の抗議を無視して、レリッサの手を引いてダンスホールへ向かう。

 彼女は、妹を振り返って安心させるように手を振ってから、アイザックを見上げた。苦笑いだった。


「どうしたの? 強引だわ」

「悪いな。いつも丁寧な誘い方ができなくて」


 そう言いながら、彼女の肩を支えてホールドする。

 握り込んだ彼女の手は折れそうに細くて、抱いた肩はこちらが不安になる程華奢だった。


「ちゃんと食ってるのか」


 思わずそう言ってしまう程度には、彼女はとても細くて。

 だが、よくよく見てみれば、思わず告げた言葉が的外れでもないくらい、彼女の顔色は悪かった。


「何? いきなり」

「いや…。顔色悪いぞ」


 そう言うと、レリッサはさっと表情を曇らせて少し俯いた。


「ごめんなさい。ちょっと最近、寝不足なの」

「どうせまた、本ばっかり読んでるんだろ」


 彼女の読書好きは、学園に通っていた頃から変わらない。

 休憩時間はいつも本を読んでいたし、アイザックはその姿を見ながら居眠りを決め込んでいたものだ。

 彼女は、アイザックが心から焦がれてやまない笑顔で、くすりと笑った。


「ふふ、そんなところね」


 アイザックは音楽に乗ってリードしながら、上着のポケットに入れた小さな指輪のことを考える。

 馬鹿馬鹿しいと思いながら、母が持たせてきた指輪をこうして持ってきてしまうくらいには、アイザックはやはり彼女を諦めきれないでいる。


 でも分かっているのだ。

 彼女が、本当に今想っているのは。


「今日は、黒服の男とは一緒じゃないんだな」


 はるか高くに座る上官を差して言う。

 レリッサの表情が曇る。


(ほらな)


 思った言葉は、気づけば口に出ていた。


「言っただろ。お前の手に負える相手じゃないって」

「アイザック…。アイザックは知ってる・・・・のよね」


 レリッサがアイザックを見上げてくる。

 彼女の言動から、彼女もまた『知った』のだと、アイザックは悟った。


「下級士官以上ならみんな知ってる。知ってて、俺たちは誓う。あの人の背中を必ず守ると」


 軍に属する人間なら皆知っている。

 リオネル・カーライルの、圧倒的な強さと、威風堂々とした佇まい。

 戦場において、あの背中ほどついていきたいと思わせる背中はなく、あの人ほど人間性に惹かれた者も他にない。


 だからこそ、嫌という程判るのだ。

 レリッサが、彼に惹かれていると言うことが。その理由が。


 知らず知らずのうちに、レリッサの手を強く握っていた。

 彼女が言葉にしないまでも、顔をわずかにしかめたことでそれに気づいて、アイザックはレリッサの手を握る力を弱めた。


「…俺じゃだめなのか」

「え?」


 レリッサが目を瞬く。

 そのアメジストの瞳が、自分の方を向けば良いと、ずっと思ってきた。


「俺なら、手に負えないって程じゃないだろ」


 それなのに、結局回りくどい言い方しかできないのだ。

 案の定、彼女には上手く伝わらなくて、彼女はくすりと笑った。


「あり得ないわよ。貴方のお父様が許さないわ。そう言う意味では、貴方も十分手に負えないわね」

「…そうだな」


(そうだよな)


 アイザックは目を伏せた。


 シンプトンとラローザ。

 家が違えば、少しでも可能性はあっただろうか。


 曲が終わろうとしている。

 ふわりとレリッサがスカートを膨らませて回転すると、最後の音が余韻を残すのに合わせて、スカートの畝がゆっくりと元の形を取り戻した。


「楽しかったわ。ありがとう」


 曲の終わりと同時に、すぐそばまで彼女の妹が迎えに来ていた。

 妹は強引にレリッサを連れて出たアイザックを軽く睨みつけて、レリッサに早く戻ってくるようにと急かしている。


「またね、アイザック」


 彼女の手が、するりとアイザックの手の中から抜けていく。


「待っ…」


 待て、と。言おうとした言葉が喉の奥に張り付く。

 ポケットの中に入れた指輪が重く存在を主張する。


「アイザック?」


 レリッサが首を傾げて、アイザックを振り返った。

 引き止める言葉をちゃんとアイザックが口にできなかったにも関わらず、彼女はそれを察して立ち止まったのだ。


(こういうところが…)


 アイザックはポケットに手を入れる。

 指先に触れる、ペリドットの、求婚指輪。


 レリッサが、アイザックが口を開くのを待っている。

 どうしたの、と、小さく首を傾げて。


 彼女はいつもそうだ。

 無愛想で、口も上手くないアイザックの、声にならない声を、すくい上げて、気づいてくれる。


 それなのになぜ、一番伝わって欲しい言葉だけが伝わらないのだろう。


「いや」


 アイザックは指輪を握りしめた。

 ぐっと強く。トップに施された石が、アイザックの手の平に食い込む。


「なんでもない。お前…」

「なに?」


 レリッサの瞳がきらきらと輝く。

 純粋で、素直で、なんの陰りもない瞳で。

 アイザックのそれとは違う。


「お前も、十分手に負えない女だよ。…だから、良いんじゃないか」


 何をとは言わない。

 けれどレリッサは、やっぱりアイザックの言いたいことを上手くすくい取って、泣きそうに笑った。


「もう、なんのことかしら」


 そして今度こそ本当に、「じゃあ、また」と言って、妹に腕を引かれて行ってしまった。

 背中を目線で追う。

 その細くて、けれど凛とまっすぐ伸びる背中が、人の波の向こうに消えていく。


 アイザックはポケットから手を引き抜いた。

 手を開けば、くっきりと指輪の形が手の平に残っている。

 手を傾ける。

 指輪は、するりと手の平を滑って、ポトンと床に落ちた。


「くそっ」


 それを、強く踏みつける。

 靴の底に、ガリッと不快な感触が広がった。


 視界の端に、父親の姿が映った。

 父親が自分たちの動向を見ていたのは知っていた。

 そして今のアイザックの行動で、結果がどうなったのかを悟ったのだろう。

 父親もまた、人混みの中に姿を消す。


 アイザックは、広間の外へと走り出した。


 後には、粉々に砕けたペリドットのかけらと、ポキリと折れた指輪の金の台座が残り、踊る人々の足元で、やがて散りになって行った。


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