22. レリッサの葛藤1

 レリッサは微睡まどろみの中でぼんやりと目を開いた。

 白いシーツがひんやりとレリッサの頰に触れる。

 ゆるりと身体を起こせば、カーテンを引いた部屋の中はまだ薄暗く、窓の隙間から入ってくる冷気に、レリッサは小さく身体を震わせた。


 あまり、眠れなかった。


 昨日の父の話から一夜が経った。

 遅めの夕食を取って、ベッドに潜り込んだのは真夜中近くのことだった。頭は多くの情報を抱え込んでとても疲れていたのに、レリッサはさほど眠れないまま目覚めてしまった。


「…マリア…」


 無性にいつもの顔を見て安心したい気分だったが、あまりに朝が早すぎる。


 レリッサはベッドからそっと床に足を下ろした。ベッドのそばにある、暖房用の魔道器具のスイッチを入れる。いつもなら、レリッサが目覚める前にマリアが入れておいてくれるのだが、それがされていないということは、やはりマリアはまだ出勤していないということなのだろう。


 レリッサはドレッサーを開くと、昨晩のうちにマリアが用意しておいてくれた服を手に取った。普段着くらいは自分で着られる。手早く身に着けると、髪をさっと櫛でといて、鏡を覗き込んだ。


(ひどい顔…)


 寝不足と、心に重くのし掛かる憂いが、顔にそのまま出ていた。


 レリッサは部屋を出た。

 隣はそれぞれエメリアとサマンサの部屋だったが、物音一つ聞こえないところを見ると、二人ともぐっすり眠っているのだろう。


(まだ、こんな時間だものね)


 廊下の窓から見えるのは、朝靄に漂う屋敷の前庭だった。薄暗く、未だぼんやりと街灯が点いている。

 物音を立てないようにそっと廊下を歩いて、階下へ降りる。


 階下は自室よりもさらに冷えていた。レリッサは無人のサロンに入って、暖炉に火をつける。暖まるまで少し時間がかかる。それまで厨房でお茶でも淹れようと、レリッサはサロンを一度出て、厨房へ向かった。


 厨房には先客がいた。朝食の仕込みをする料理人たち…ではない。


「お兄様、そちらで何を?」

「わっ」


 ビクッと身体を大きく揺らして、パトリスがこちらを振り向いた。

 兄の手元には、ポットと、ティーカップと茶葉の缶がある。


 レリッサはカップの中身を覗き見て、「まぁ」と小さくこぼした。ティーカップの中には、茶葉がたくさん浮いている。これでは飲めたものではない。おまけに、恐ろしいほどの濃さだ。


「お兄様、これでは飲めませんわ」

「…だと思った」


 そう言うと、パトリスはため息をついて肩をすくめた。


「お茶が飲みたくてね。でもわざわざ使用人を起こすのも悪いし、自分で淹れようと思ったんだけど…」

「お淹れします」


 ちょうどレリッサも淹れようと思っていたところだ。ポットで出すなら、一人分より二人分の方が、無駄がなくて良い。

 レリッサが一旦、パトリスが使っていたポットやティーカップを洗って、お茶を淹れ直すまで、パトリスは感心したように隣で見ていた。


「なるほど、それを使うのか」


 レリッサが、ポットから出てくる茶葉をティーストレーナーで受け取るのを見ながら、パトリスが頷いている。


「レリッサは本当になんでも良くできるな」


 よしよしと、頭を撫でる兄の手に、レリッサは苦笑いをする。


「子供ではありませんのよ。それに、お兄様もお茶くらいご自分で淹れられるようになってくださいませ。いつでも使用人任せではいけませんわ。うちはいつだって人手が足りていないのですから」

「うー、耳に痛いね。善処するよ」


 そうは言ったものの、上手くお茶が淹れられるようになるかは五分五分だろうなとレリッサは思った。


 パトリスは大抵のことはソツなくこなすが、生活能力は皆無だった。ハンカチを折り畳むのすら、彼がやるとぐちゃぐちゃになる。本人のやる気の問題とも言えるが、貴族の子息などみんな似たようなものだろう。そういう意味では、パトリスはいかにも伯爵家の嫡男らしかった。


 レリッサはお茶を淹れ終えると、ティーカップをパトリスに手渡して尋ねた。


「サロンを暖めておいたのですが、一緒にいかがですか?」


 それに、パトリスは「いいね」と答えた。


 厨房の横の使用人の休憩室から聞こえる、早朝番の使用人たちの立てる微かな物音を聞きながら、静かに通りすぎる。夜中も屋敷に待機している使用人はいることはいるが、皆、何事もなければ仮眠を取っている。それを起こすのは本意ではなかった。


 サロンは適度に暖まっていた。なぜだか、灯りを煌々とつけたい気分ではなくて、レリッサは暖炉が放つ柔らかな光だけを頼りに、近くに椅子を寄せて腰かけた。


「僕もそうしよう」


 パトリスがレリッサにならって、椅子を引っ張ってきて、レリッサから少し離れたところに座った。


 淹れたてのお茶は、レリッサが飲むにはまだ熱くて、冷めるまで小さく息を吹きかける。そうして冷ました適温のお茶をようやく一口飲んで、レリッサは息を吐いた。


 しばし、ぼんやりと暖炉の仄かな明かりを見つめていると、パトリスが口を開いた。


「レリッサも眠れなかったか」


 そう問われて、「あまり…」と答える。


「どうしても、昨日の話のことを考えてしまって」


 レリッサは、前のめりになって暖炉の明かりを見つめている、兄の横顔を見た。


「お兄様は昨日のお話、どこまでご存知だったのですか」

「僕? そうだな…」


 パトリスは少し首を傾けて、考える仕草をした後に口を開いた。


「父上にリオンを紹介された時に、彼が第二王子だっていう話は聞いていたよ。当時は第二王子の存在は、そんなに認知されていなかったけど、秘密でもなかったから。僕と同い年の王子様がいるんだなって、知ってはいた」


 ふっとパトリスが不意に微笑んだ。

 世の女性たちが頬を赤らめるような、優しげな笑みだ。


「最初のリオンは小さかったなぁ…。僕より拳一つ分、身長が低くて。すごく細かったし、当時理由は知らなかったけど、いつも元気がなかった」


 まぁ、あの話を聞いた後じゃ、無理もないって思うけどね。と兄は言った。


「僕は同い年の友達というより、弟ができたみたいな気分だった。ずいぶん世話を妬いたよ。もっと食べろとか、もっと遊べとか。ま、大人しくて元気がなかったのは最初のうちだけで、気づいたらやんちゃで、向こう見ずで、無鉄砲で、とんでもなく手のかかる…やっぱり弟になっていたけどね」


 はは、とパトリスは軽く笑うと、目を細めてレリッサを見た。


「たくさんの思い出がある。一緒に、先生の授業をさぼって、軍の宿舎を抜け出して、街に行ったこともあるし…」

「お兄様がですか?」


 レリッサは目を丸くして兄を見た。

 兄は真面目な人だ。とてもそう言うことをするようには思えない。


「もちろん、リオンのせいだよ。すごくウマの合わない先生がいてね。その先生の授業が、リオンは大っ嫌いだったから、よくサボるのに付き合わされた」


 それでも、出された課題はちゃんとできちゃうんだから、ずるいよね。とパトリスが肩をすくめる。


「こっちは、家に帰ってから、父上に叱られるわ、その日先生が置いていった課題はさっぱり分からないわ、で散々なのに」


 でも。と呟く。


「リオンのことが、僕は大好きだったし…、次第に、尊敬するようになって行った」


 こんな話がある。と言ってから、パトリスはお茶を一口含んだ。


「ある時、そのウマの合わない先生と、軍と国のあり方についての議論になった」


 兄と教師は、軍は必要ない。戦争などすべきではない。そう説いた。

 それに対して、リオネルは、平和を維持するためにこそ、軍は絶対に必要だ。と言った。


「リオンが言うにはこうだ。軍を本当に無くしたいならば、スタッグランドと接している隣国三国とのかなり強固な和平条約が必要だ。だが、それだけじゃいけない」


 隣国には、またその隣に別の国があり、またその国にも別の隣国があるだろう。地が続いていく限り、様々な国があり、集落があり、部族があり、そこには様々な思想が存在する。


「やがて海に行き着いたとして、その海の向こうにだって、武力を有した国がやはりある。もし本当に軍を無くしたいならば、この世界の、すべての国、すべての集落、すべての部族、すべての人が、一斉に武器を捨てなければならない。そうでなければ、武器があるところ、必ず争いは起こり、きっかけは小さくとも必ずそれは波及して大きくなる。それが戦争なんだと」


 すべての人が武器を捨てる。実際、それは不可能だ。


「色んな人が世の中にはいて、それは当然のことで、今こうして僕たちの意見が分かれたように、人には色んな考え方がある。故に、争いは決してなくならない。全世界の人に、赤が一番好きな色だと答えさせるのが不可能なことと一緒だよ、と」


 そして、リオネルは言ったのだ。


「だからこそ、軍がある。たゆまぬ訓練を続ける軍隊ほど、他国に対しての抑止力になるものはない。攻め入って、簡単に落とせる相手ではないと思わせること。相手に武器を取らせないこと。それが平和な国作りには必要なんだと」


 パトリスは肩をすくめた。


「僕はスタッグランド、一国のことしか考えてなかった。この国だけ軍をなくしても、もし他国に攻め込まれたら、民を守る者がいないんだってことには気づいてなかった。でも、無理もないと思わないかい? ――当時、僕らはまだ八歳だったんだ」


 レリッサは息を呑んだ。

 その年で、その思考に至れる子供がどれほどいるだろうか。

 リオネルはかなり早熟で、達観した物の見方ができる少年だったのだ。


「僕はリオンを単純にすごいと思ったし…、後からこのことを思い出しては、彼はまるで『王』のようだと思ったものだった。彼はやっぱり生まれながらに王族で、国という大きなものをどう動かすべきなのか、本能的に知っているんだ、と」


 レリッサは、リオネルからもらった手紙の内容を思い出した。

 思えば彼は、国の内政を本気で憂えていなかっただろうか。レリッサは、それを読んで、彼がとても真面目な人なのだと思ったのだが、それも無理からぬことだったのだ。


 パトリスもまた、表情に憂いを見せた。


「今のスタッグランドの内政はすごく危うい。官僚の不正は相次いでいるし、予算案や政策の内容も不透明であやふやだ。政府派の貴族が力を持ち、王宮の内外で権力を振りかざしている。…僕は、リオンの命令で三十四領を見て回ってきたけど、政府派の領地は、どこも滅茶苦茶だ。それもこれも、国王がこの十九年、執政から距離を置いているせいだ」


 パトリスはレリッサを見つめた。

 その目は、もう笑ってなどいなかった。


「もう一度言うよ、レリッサ。僕は、今のリオンと道を共にするのは、反対だ」

「お兄様…」

「父上も言っていただろう? リオンはいつも死の危険と隣り合わせだ。アザリアへ逃げたことで、確かにリオンを狙う暗殺者は一旦はいなくなった。だけど、リオンが戻ってきたことでその日常はまたすぐに戻るだろう。そうなった時、リオンの隣にいたら、レリッサまで危険な目に遭うのは目に見えてる」

「…リオン様は、どうしてそんな危険を冒してまで、スタッグランドに戻ってこられたんですか?」


 レリッサは、昨日父の話を聞いていて、疑問に思ったことを尋ねた。

 父には話の流れで聞けなかったのだ。

 レリッサの問いに、パトリスが目を伏せた。


「代替わりが近い。…レリッサも見たんじゃないか? 国王の姿を」


 レリッサの脳裏に、痩せ細り目の落ち窪んだ国王の姿が浮かんだ。


 だがあの様子は、結局未だに新聞には載っていない。王都に戻ってきたばかりのパトリスがどうやって知れたのか。

 レリッサの視線で、聞きたいことが伝わったのか、パトリスはふっと笑った。


「僕とリオン、そしてエドは密に連絡を取り合ってる。…エドは、そもそも僕とリオンの伝令役なんだよ」

「そうだったのですか…」

「そう。話の内容柄、手紙のやり取りをするにも、他人には預けにくいからね。まぁ、エドは他にもいろんな仕事をしてるけど」


 話を戻すよ、とパトリスは言った。


「僕は父上がリオンを『王』にしたいと思う理由までは聞かされていなかったけど、父上がそう言うのなら、反対する気はなかった。僕もリオンは『王』に相応しいと思っていたし、今の内政を見れば、少なくとも国王が今のままではいけないと思っていた。同時に、王の代わりに執務を行っているはずの王太子も、こうなった国を、王になったとして御すことができるか、僕は懐疑的だ」


 レリッサはセルリアンを思った。

 彼は、レリッサが訪れたあの部屋で、レリッサを待たせてまで仕事をしていたではないか。


「王太子殿下は、ちゃんとお仕事をされていますわ」

「だったら何故、国はこんな状況になっている?」


 パトリスが剣呑な空気を帯びて言った。

 その厳しい言い方に、レリッサが口ごもると、パトリスはハッとして、慌ててレリッサの肩を叩いた。


「ごめんごめん。怒ったわけじゃないから。ちょっと…この問題については、思うところがたくさんあってね」


 パトリスは苦笑いをすると、カップに残っていたお茶を飲み干した。


「とにかく。レリッサが思っている以上に、この国は今、弱くなってる。だから、もし、リオンが『王』になれたとしても、その先に待っているのは、苦難の道だ。まず、突然姿を現した第二王子が『王』として認められるかも定かじゃないし、国を立て直すのも容易じゃない。…僕は、レリッサに苦労して欲しくはないんだよ」

「お兄様…」


 パトリスが、扉の方へと視線を向けた。

 気づけば、窓の外は明るくなり始めていた。サロンの外にはにわかに人の気配が増え、使用人達が朝の支度をし始めたことを示していた。


 パトリスは立ち上がって、軽く伸びをした。


「僕は一旦、部屋に戻る。まだ荷物を解いていないんだ」

「今回は、いつまでいられるんですか?」


 昨年は、シーズンが終わりきる前に、パトリスは領地に戻って行ってしまった。夏になる前に、農作物の様子を確認しておきたいのだと言って。

 パトリスは、ふっと微笑むと、レリッサの頭をぽん、と叩いた。


「しばらくはいると思うよ。レリッサも、少し気を抜くと良い。僕がいない間、エメリアは勤務で家を空けてばかりだし、父上もいないしで、気を張っていたんじゃないか? 家のことは兄上に任せて、少しゆっくりしなさい」


 ぽんぽんと、パトリスはレリッサの頭を撫でて。

 それから「また後で」と言ってサロンを出て行った。


 レリッサは、ぱたんと扉が閉じるのを見送って、暖炉の温かな明かりに視線を戻した。ぼんやりとしたオレンジの明かりが、今更のように眠気を誘う。


(どうしたらいいの…)


 カップをテーブルに置いて、肘掛けに、倒れこむようにもたれ掛かる。

 ぼんやりとしながらも、考えるのは、兄の言ったこと。リオネルのこと。父の話。


『覚悟を持たねばならないのは、お前自身だ』


 父の言葉が、耳の奥に木霊する。

 レリッサは目を閉じた。


 その覚悟を持つには、レリッサにはまだ時間も度胸も何も足りなくて。

 兄の気掛かりも当然だと言えて。


 けれども、本当に心の底に思うことは、たった一つで。


(リオン様に会いたい…)


 会って、抱きしめたい。

 大変な思いをして生きてきた彼を、ただ、抱きしめたかった。



**********



 ぜいを凝らした華美な屋敷。中に一歩立ち入れば、そこは宮殿かと見まごうような、金と銀の眩しい光。


 アイザックは、久しぶりに帰ってきた自宅の、その相変わらず居心地のすこぶる悪い佇まいに、辟易しながら軍服の詰襟に指を入れて喉元を広げた。


「おかえりなさいませ、坊っちゃま。剣をお預かりします」


 玄関に入るなりそう言って近寄ってきた執事長を、手を振って退ける。


「良い。長居はしない」

「そんな。奥様は、坊っちゃまがお帰りなるのを、それは楽しみに…」

「楽しみにしてたのは、愚痴を言う相手ができることだろ。俺じゃなくても良い」


 アイザックは、これ以上やり取りをするつもりはないと、執事を振り切って、玄関の正面にある階段を登っていく。


 髭を撫で付けた執事がいつまでも『坊っちゃま』扱いをするのにも、そして趣味が悪いこの華美な家にも、アイザックは心底うんざりしながら、重たいため息をつく。階段を登りきると、そこには今日も露出の多いドレスを着たレベッカが立っていた。


 こちらへふらふらと歩いてくる足元は頼りなく、後ろをついて歩くレベッカの侍女が二人、手を貸すべきかどうかと、オロオロとしている。

 アイザックは強い香水の匂いに混じる、鼻を突く臭いに眉をひそめた。


「飲んでるのか」


 まだ夕方だった。臭いからして、今さっき飲み始めたという量ではない。


「何よ。勝手でしょ」


 そう言うと、レベッカは千鳥足のまま階段を降りていく。その手を慌てて侍女が掴んで、介助していた。


「おかえりなさいませ」


 レベッカに付いていた侍女の片方が、アイザックの傍らで礼を取った。

 古くからいる侍女で、アイザックも幼い頃は彼女に面倒を見てもらっていた。


「いつもああなのか」

「いえ、先日の夜会の後から…。旦那様に、大層お叱りを受けられたようで…」


 先日の夜会で、レベッカが下手を打った話はアイザックも聞き及んでいた。

 なんでもレリッサに詰め寄ったのを、王太子に咎められたと言うではないか。

 その後、王太子からは父を通して正式な抗議があったのだと言う。


 アイザックとしては、当然のことだし、相応の報いを受ければ良いと思うが、姉はそうは思わなかったようだ。

 階段の手すり越しに、「あの女っ!」と壁に向かって罵る姉の姿が見えた。


「変なことをしないように、見張っといてくれ」

「もちろんでございます。筆頭公爵家のお嬢様があれでは…」


 嘆かわしいとでも言わんばかりに侍女は頭を振って。

 アイザックに一礼して階段を降りていった。


(あれが王太子妃を目指す女かよ)


 アイザックは姉を一瞥して、再び廊下を歩き始めた。

 そこにある視線は、とうの昔から侮蔑一色だ。


 目的の扉をノックする。すぐに「入れ」と声がしたので、扉を押し開く。


「帰ってきたか。どう言うつもりだ。なかなか家に帰ってこないとは。お前はこの家の嫡男なのだぞ」


 書類片手に文机の傍らに立っていた父親は、そう言ってかけていた眼鏡を外した。


 アイザックは軍に入隊して以来、宿舎で生活をしている。

 貴族は、非常時や訓練時以外は家に帰る者がほとんどだが、アイザックはハナからそのつもりはなかった。

 幼い頃から、この家を早く出たくて仕方なかったのだ。


「別に。関係ないだろう。必要があればこうやって帰ってくる」

「…まぁ良い。座れ」

「用件は?」


 父親の指示をアイザックは無視して、上官に相対するときのように、後ろに手を組んでその言葉を待った。

 父親が苛立たしげに持っていた書類を机に叩きつける。


 この男はいつもそうだった。

 全てを自分の思い通りにしようとして、思い通りにならなければ簡単に物に当たる。

 その当たる対象が、『物』ではなく『者』であることも多い。


 そしてそんな父親が、アイザックは心底嫌いだった。


「早くして頂きたい。宿舎の門限を過ぎると困る」

「そう言うなら、軍になど入らねば良かったのだ!! なぜ軍など! お前は、シンプトン公爵家の嫡男! ならば当然、私の跡を継いで然るべきだと言うのに!」


 ガシャンッ、と音を立てて、机の上に乗っていたランプが落ちた。

 父親が払い落としたのだ。

 アイザックはそれすらもちらりと見るのみで、微動だにしない。


「っもう良い。…ラローザの娘、レリッサと言ったな」


 ぴくりと、アイザックは目の端を動かした。

 だがそのことに父親は気づかなかったようで、苛立たしげに机の周りを歩きまわり始めた。


「とかく目障りだ。王太子があの娘を気にしている。よりによって、ラローザの娘を!」


 宰相である父親と、将軍であるセドリック・ラローザの確執は、貴族であれば誰もが知っている事実だ。だがその理由までは、皆知らない。おそらく、ラローザ将軍自身も、なぜこれほどまでに自分が敵視されているか、きっと知らないだろう。

 この確執は、父親からの酷く一方的なものだ。


「アイザック。お前、あの娘が欲しいと言っていたな」

「…それが、どうした」


 動揺を悟られてはならない。

 喉が詰まりかけたのを、アイザックは必死に隠しながら、平然を装って返事をした。


「お前にやろう」

「…何をっ」

「ただし妾だ。お前にはミルドランド公爵家との縁談がある。子供は作るな。ラローザの血の混じった子などいらん。できたなら即刻堕ろせ。娘はそうだな、領地の離れにでも仕舞い込んでおくと良い。伯爵家の娘には、たとえ別館の離れであっても、実家とは比べ物にならないほどの贅沢であろう」


 アイザックは、後ろ手に組んだ手を、ぎりっと強く握りしめた。

 胸の中に溜まる憤りと嫌悪を、必死に表に出さないように抑え込む。

 だが、それは不可能だった。


「あいつはっ、そんな扱いをされて良い女じゃない!」

「ほう。…やはり、まだ惚れていたか」


 ようやく感情を露わにしたアイザックに、父親が満足げに嫌らしい笑みを向ける。


「ぱっとしない娘だが、何がそんなに良いのか。息子ながら、女を見る目がないことには同情する」


 アイザックは咄嗟に剣の柄を掴もうとした手を、すんでのところで止める。

 命令外の切り捨ては規律違反だ。

 絶対にやってはならない。


「お前にあいつの何が分かる。ラローザの娘だと言うだけで嫌悪するお前にっ」

「父親に向かって、お前とはなんだ! 言葉を改めろ!」


 父親は怒鳴りつけるように言うと、サイドボードに乗っていた花瓶に手を伸ばした。

 赤い薔薇だ。


「花は、見ているだけで枯れる」


 薔薇の一輪。その花を、ぐしゃりと手で潰した。


「ならば、さっさと手折ってしまえ」


 手を開くと、ひしゃげた花が、ぽとりと床に落ちた。


「何を…」


 アイザックは、喉の奥から声を絞り出した。

 父親が、言わんとしていることが分かる。分かるが、分かりたくなかった。


「そこまでしてっ…」


 そこまでして、娘を王太子妃に据えたいのか。


 父親が、アイザックの背後に回る。


「これは、私から息子であるお前への温情なのだよ、アイザック。お前が欲していた物を得るチャンスを、せめて一度くらいはやろうと言うな…」

「一度…?」

「明後日の夜会だ。そこでカタをつけろ。それ以上は待たん」


 そう言うと、父親は「話は終わりだ」と告げた。

 だが、アイザックは動かない。


「もし明後日の夜会で、俺があいつを口説けなかったらどうするつもりだ」


 その問いに、父親は答えなかった。

 その代わり、ニヤリと、血の繋がりを否定したくなるほどの、底意地の悪い笑みをよこした。


「さて、私はまだ仕事がある。…出て行け」


 アイザックは部屋を出た。

 同じ部屋にこれ以上いることには耐えられそうになかった。


「アイザック…」

「…母さん」


 むしゃくしゃした気持ちのまま廊下を歩いていたアイザックを、階段の手前で母親が引き留めた。銀に近い金髪に、桃色の瞳。その配色は、アイザックやレベッカを生んだとは思えないほどかけ離れているが、間違いなく彼女はアイザックの母親だった。


 かつては美しかったのだろうが、今は顔には皺が深く刻まれていて、実年齢よりもかなり上に見える。

 身にまとっているのは、日がな一日ナイトドレスだ。彼女は一日の大半を寝て過ごす。

 こうしてアイザックが帰ってきた時だけ、部屋の外に出てくるのだ。


「俺、もう帰るから」

「そんなこと言わないで」


 どうしても母親を邪険にすることはできないで、アイザックは母親から伸ばされた白い手が腕に絡み付くのを許容した。


「お父様から聞いたのでしょう? あのお話」

「…どうして、あんな…」

「良いじゃないの」


 母親から出た言葉に、耳を疑う。

 ぎょっと腕にすがり付く母親を見下ろせば、にたりと笑う。


「あの人の娘と、私の息子。…これでようやく一つ」

「…何を…」


 そっと、手の中に何かが滑り込んできた。

 母親が握らせてきたそれを、アイザックは見た。


 小さな箱。開けば、大粒のペリドットの、求婚指輪。


「求婚なさい。そして一つになれば良いの。子供だって作ってしまえば良いのよ。あの人と、私の愛の結晶…」


 アイザックは、母親の腕を振り払った。

 そしてそのまま、身体を翻して階段を駆け下りる。


(なんだ、この家は…)


 催した吐き気を、喉の奥で咬み殺す。


 母親はその昔、セドリック・ラローザが好きだった。

 好きで、好きで、本当に好きで。

 けれど、ラローザ将軍は、母親の想いに気づきもしなければ、答えるつもりもなかった。

 気づけば独身貴族を謳歌していたはずの彼は、隣国から押しかけてきたお姫様に求婚され、あっさりと結婚してしまった。


 一方で、そんな母親を妄執的に追い求めていたのが、アイザックの父親だった。

 父親は、その、他家の追随を許さない圧倒的な権力で、母親を自分のものにした。家格の浅い伯爵家の出である母親には、その政略結婚をはねつけることは不可能だった。


 だが、結婚しても、子供を産んでも、母親は決して父親になびかなかった。

 追い求めるのはいつもセドリック・ラローザだけ。

 その様子が、尚更父親のラローザ将軍への敵意を冗長させたが、母親は、自分の気持ちを隠そうともしなかった。

 幼いアイザックはよく言われたものだ。


あの人セドリックのようになりなさい』と。


 父親はプライドを傷つけられ、嫉妬に狂いながら、将軍への憎しみを深めていった。


 元々、学園の成績においてライバル関係にあった父親とラローザ将軍の確執は、こうして、当事者の将軍すら知らないところで、深く濁った膿となって、今もこの家に溜まり続けている。


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