21. レリッサと父の追憶2
王宮に駆け込むと、まだ寝所にいた王をセドリックは叩き起こした。
「何事だ。こんな朝早くに」
「申し上げます。王太子夫妻が離宮からの帰り道、崖の崩落に巻き込まれ――」
お亡くなりになりました。
その言葉を。セドリックは絞り出すように告げた。
昨日まで笑っていた友の顔が、目の裏に焼き付いて、どうにも離れない。目の奥が猛烈に熱く、それでもなんとか王の御前であるが故に耐えた。
王は、セドリックの言葉に目を見開くと。呆然とした後、セドリックに掴みかかった。
「貴様! 余を
王は、息子の幼い頃からの友人であるセドリックのことを、よく知っていた。
嘘や冗談を言うような男ではないことは、充分に。
セドリックを床に押し倒し、何度も掴んだ胸ぐらを床に叩きつけながら、目に滲んだ涙を拭おうともしなかった。
やがて、セドリックの到着から少し遅れて、王太子夫妻の亡骸が王宮に到着した。
息子の亡骸を前にした王は、ふらふらと崩れ落ち、そして。
「陛下、どちらへっ!?」
突然、走り出した。
回廊を通り抜け、王族の居住区へ向かい、一番目の孫の私室の扉を騒々しく開くと、未だ寝ぼけ眼のセルリアンを抱きしめた。
そして、泣いた。
王宮の全てに響き渡るような
「セルリアン! 余にはもう、そなたしかおらぬ! 余には!」
セルリアンは王の腕の中で戸惑った顔をしていた。彼はまだ、両親が亡くなったことを知らされていないのだ。
「ラローザ少将、これは…?」
「殿下」
セドリックは跪いた。そしてセルリアンと目線を合わせる。
今までに、何度も戦場を共にした同僚達の死を見送った。そしてその家族に、幾度もその死を告げてきた。けれどいつだって、子供にこれを告げることほど、辛いことはなかった。
「ご両親が、お亡くなりになりました」
セルリアンの目が見開く。
「そんな…」
祖父を抱きしめていたセルリアンの腕が、力なく滑り落ちる。
今までその腕に抱きしめられていた王がゆらりと立ち上がった。
「陛下」
王はセドリックの方を見なかった。ゆらりゆらりと身体を揺らしながら、セルリアンの部屋を出て行こうとする。
セルリアンには、彼付きの侍女が付き添っていた。話を共に聞いていたこともあって、抱きしめ合って泣いていた。
セドリックはそれを確認すると、王の後を追った。
「陛下、どちらへ…」
王は、セルリアンの部屋の隣、リオネルの部屋の扉に手をかけた。
リオネルはまだ眠っていた。部屋の中はカーテンが閉じられて薄暗く、夜中にまた熱が上がったのか、額には濡れた布巾が乗っていた。
「起きよ…」
眠るリオネルを見下ろして、王はつぶやいた。
「起きよ」
囁くような声だ。それでは目覚めるわけがない。
「へい…」
「起きぬか!!」
そう叫ぶと、やおら王は、リオネルの眠る布団を引き剥がし、眠る彼の肩を掴んで、ベッドの下へと放り投げた。
「殿下!!」
「ったぁ…」
床へ叩きつけられた衝撃で目覚めたリオネルが、側に駆け寄ったセドリックと、目の前に立つ王の存在に気づいて表情を強張らせた。
「出てゆけ」
王は地を這うような声で告げた。
「陛下、何をっ…」
王はセドリックに近づくと、腰に差した剣に手をかけ、引き抜いた。
そして、それを孫であるリオネルに突きつけた。
「出てゆけ。そなたはいらぬ。セルリアンだけいればそれで良い」
リオネルはまだ五歳の子供だった。
突然の事態に戸惑い、向けられた剣の切っ先と、自身を支えるセドリックの顔を交互に見ていた。
動こうとしないリオネルに苛立ったのか、王は剣を振り上げた。
「出てゆかぬと言うなら、ここで」
「おやめくださいっ」
セドリックは声を張り上げた。
王が振り上げた剣をピタリと止めた。
「まだ殿下は五歳でいらっしゃる! ご両親亡き今、どこへ行けると言うのです!」
「なれど、いらぬ」
「陛下! ハインツ王子の忘れ形見ではありませんか!」
リオネルは、幼い頃のハインツにそっくりだった。
黒い髪も利発そうな顔立ちも、愛嬌のあるぱちりと開く目も。唯一違うのは、彼の母からもらった琥珀の瞳くらい。
セドリックの言葉に、王は少し心を動かされた様子だった。王が剣を下ろす。
「ならば、貴様にやろう。そうだな…腐っても王族。軍の上にでも据えておくが良い。そこで生きるも死ぬも好きにせよ」
そう言うと、王は剣をリオネルの目前に突き刺した。
「目障りだ」
「…御前を、失礼します」
セドリックは、リオネルを抱き上げた。
身体は熱と、昂る興奮とで燃えるように熱かった。
「少将…なんで、こんな…」
「殿下…申し訳ありません」
セドリックは王に背を向けて部屋を出た。
廊下を、彼を抱き上げたまま走る。いつ王の気が変わるか知れなかった。できるだけ早く、王宮を出なければならない。
「ねぇ、どうしたの…。父様たちは?」
揺れる腕の中で、必死にセドリックの首に熱い腕を回しながら、リオネルが言った。
告げるべきか否か、悩みながらセドリックはリオネルの耳元に囁いた。
「殿下…ご両親は、お亡くなりになりました。事故です。馬車が、崖の崩落に巻き込まれ…」
リオネルが息を呑んだ。
そして、さらにぎゅっと強く、セドリックの首に抱きついた。
彼は、泣かなかった。
(なんとお強い…)
セドリックは抱きしめる腕に、力を込めた。
「私が、必ずお守りいたします。命に代えましても、必ず!」
生まれながらに王に疎まれた、不遇の王子。
このまま、彼を死なせてなるものか。
彼を不遇のままにしておけるものか。
そうでなくては。
(ハインツ…。お前の忘れ形見、必ず――)
**********
シン…と部屋の中が静まり返り、それは耳に痛いほどの沈黙だった。
誰も、何も言えなかった。
レリッサは瞬きをした。その途端、抑え込んでいた感情が溢れた。顔を手で覆う。
(リオン様…)
リオネルの温かな屈託のない笑みを想う。
どうしてあんな風に笑えるのだろう。
こんなに、辛いことがあったのに。
どんな気持ちで笑っていたのだろう。
両親を失い、祖父である王からは剣を突きつけられ、自分の居場所を一瞬でなくした、たった五歳の少年。
「姉様…」
隣に座っていたサマンサが、レリッサの背中を撫でてくれる。その反対側からはホーリィが、ハンカチを差し出してくれた。
コンコン、と扉がノックされた。
気づけば窓際には西陽が差していて、一番扉に近い席に座っていたライアンが父に示されて、扉のそばの明かりのスイッチを入れてから、扉を開いた。
「やぁ。帰ったら、みんなここで話し込んでるって聞いたからね」
入ってきたのはエメリアだった。
仕事から帰ってすぐ来たのだろう、軍服のままだった。
エメリアはパトリスに目を留めると、少し驚いた顔をしながら挨拶がてら軽く手を挙げ、そしてレリッサを見た。
「どうしたんだ、レリッサ」
妹たちに両側から抱きしめられ、ハンカチを目に押し当てたレリッサは、まだ涙が止まりきっていなかった。
「ご、ごめんなさい…。止まらなくて…」
「今、お父様からリオン様のお話を聞いていたところよ」
サマンサがレリッサの背中を撫でながら言った。
エメリアは「ああ…」と得心したように言うと、父を見た。
「話したのですね? 閣下はなんと?」
「構わないとおっしゃっていた。お前も座ると良い」
エメリアはソファではなく、レリッサの背後に立ち、ソファの背もたれに浅く腰をかけた。そしてふわりとレリッサの頭を撫でた。
「エメリアお姉様は、前からご存知だったの?」
ホーリィがエメリアを見上げながら尋ねた。
「ああ、軍に入隊した時に父上から聞いた。…だから、すまないね、レリッサ。前、君が閣下のことを聞いてきた時、答えてあげられなくて」
以前。そう、王宮での舞踏会の翌日だった。
レリッサは確かにエメリアにリオネルのことを尋ねた。その時彼女は、「知らない」と答えたのだ。
「閣下のことは他言してはならない。…これは軍規だ。エメリアに非はない」
父が言った。
ライアンが「軍規って?」と尋ねる。それにはエメリアが答えた。
「リオネル・カーライルについての軍規。一、彼の名を決して外で口にしてはならない。二、彼の存在を軍の外で認めてはならない。三、戦闘下において彼の命を無視してはならない」
「その軍規は、私と当時の将軍が定めたものだ。殿下の身を守るため、どうしても必要だった」
「父上、その後リオンはどうしたんです?」
パトリスが父に話の続きを急かした。
**********
セドリックはその後、軍の宿舎にリオネルを匿った。
王の動きは早かった。
セドリックが宿舎の自分の部屋にリオネルを寝かせた頃には、追って王宮から遣わされた伝令が、セドリックが近衛部隊を指揮する権限を失ったこと、そして、その代わり元帥として新たに就任したリオネルの後見人という立場になったことを告げた。
「下手なことを。あのまま近衛の隊長であれば、将軍職に一直線だったものを」
当時の将軍が、惜しむように言った。
彼はセドリックを大層買ってくれていて、セドリックが大将になるまで、自分が将軍の席を温めておいてやるとすら言ってくれていた人物だった。
「どうして捨て置けましょうか」
「王太子はお前の友人でもあった、か」
将軍は、致し方ないと納得したようだった。
もちろん理由はそれだけではなかった。人道的にリオネルを見捨てることはできなかったし、何より彼は、セドリックの子供と同い年だった。
自然と、かつての自分とハインツを重ねるように、息子とリオネルの成長を見守ってきたのだ。
「王子を守らねばなりません。決して、蔑ろにして良い方ではない」
「それは同意だ」
将軍はそう言うと、すぐに全ての将校を招集し、事態の説明を行った。
もちろんたった五歳の少年を、軍の一番上に置くという王の決定に反発する者も多かった。だが、セドリックの説明から、彼が行き場をなくした王子であることは皆が理解していた。
王子の母である王太子妃は両親をすでに亡くしていて、彼女の家門であるアルタイル男爵家は、今は別の縁戚筋の者が継いでいる。王子とは血の繋がりが薄く、その家格を考えても、王子の行き場として適切とは言えなかった。
行き場がない以上は、ここが…つまり軍の本部が一番彼にとって安全であるということを、否定する者はいなかった。
結局リオネルは、『お飾りの元帥』として軍に受け入れられた。
名を、彼の祖母の婚姻前の家門から取り、リオネル・カーライルと改め、彼はひっそりと軍の一番奥で暮らし始めた。
彼は最初の一ヶ月、熱を出しては寝込み、回復したと思えば熱を出す。その繰り返しだった。無理もなかった。血の繋がった祖父から剣を向けられ、その存在を否定される。それがこの小さな少年にとって、どれほどの衝撃だったことか。心中を察して余りある程だった。
だが、同時にセドリックには懸念があった。
「『呪』ね」
末の娘の言葉に、セドリックは頷いた。
「そうだ。当時はまだ、そういう類の力だと私は知らなかった。だが、ハインツが言ったあの言葉を、軽んじることはできなかった」
王は当時すでに六十歳を越えていた。
結果的には十九年経った今も存命ではあるが、当時のセドリックには、王の代替わりはそう遠くない未来だと思われた。
王太子であるハインツが亡くなった今、次の玉座に座るのはリオネルの兄、セルリアンしかいない。
そうなれば、またあの血の惨劇が繰り返される可能性があった。
「ハインツがどういうつもりでいたのかは分からない。だが私には、私にできることをするしかなかった」
セルリアンがもし戴冠と共に
セドリックは、リオネルを鍛えることにした。
残された時間は、そう多くないように思えた。よって必然的に、それは厳しい指導になった。
「いったぁ…」
「お立ちください、殿下」
木剣を弾き飛ばされ、尻もちをついたリオネルに、セドリックは容赦なく告げた。
だが彼は立たとうとしない。
セドリックは小さく嘆息すると、自ら飛ばされた木剣を取りに行った。それを座り込むリオネルの手に握らせる。
「さぁ、次です」
「嫌だ」
「殿下」
リオネルが、強い瞳でセドリックを睨むように見上げた。
「なんでこんなことしなくちゃいけないんだよ! 嫌だよ、もう! 毎日毎日…。痛いし、少将は怖いし、手はボロボロになるし…」
確かに、リオネルの手は豆が潰れ、またその下に豆ができ、皮がむけてボロボロだった。かつての、大切に育てられた王子の手とは、とても思えなかった。
セドリックは、彼のその手の上に、自身の手を重ねて置いた。
「お話ししたはずです。貴方は強くならねばならない」
「兄上が僕を殺しに来るって言うんだろ! でも別に良いじゃないか! 死んだって、どうせ、誰もっ」
パンッと乾いた音が響いた。
セドリックが、リオネルの頰を打った音だった。
軍の宿舎の裏の、今は滅多に使われない修練場。囲むように立つ木々が、風に揺られてさわりと揺れた。
「ご両親の墓前で言えぬようなことは、口になさいますな。私の友は決して、貴方が死んでも良いなどとは思っていない」
ざりっとリオネルの豆だらけの手が、砂を掻いた。
激しい苛立ちを必死に抑え込むその様子に、セドリックは目を細める。
「…じゃない…」
風に吹かれる枝葉の音に負けるような、微かな声。
聴き直そうとしたセドリックを見上げて、諦めたような顔でリオネルは言った。
「もう、殿下じゃない」
「殿下は殿下です。尊い方だ」
「でも、もう王子じゃない。リオネルで良い」
そう言ったリオネルを、セドリックは腕を引いて立たせた。
そして息子によくするように、膝をついて目線を合わせる。
「ではこうしましょう。私は貴方を閣下と呼びます。貴方は元帥だ。呼び名として何もおかしくない」
「…わかった」
リオネルは絶対に泣かなかった。
厳しい鍛錬に、愚痴や恨み言をこぼすことがあっても、絶対に涙を見せなかった。
そのうちにセドリックとリオネルの鍛錬に、他の軍人達も混じるようになった。宿舎の裏のささやかな鍛錬は、宿舎で休む軍人たちの目に良く触れた。小さい体で、必死にセドリックに向かっていくリオネルの姿に、少なからず心を動かされた者たちがいたのだった。
「閣下」
そう呼ぶ者が、次第に増えていった。
それは敬称というよりは、あだ名のようだった。
リオネルはとても聡明だったし、活発で、愛嬌のある、男の子らしい男の子だった。皆がいつの間にかリオネルを、弟、あるいは息子のように受け入れていった。
だが、軍で受け入れられ、鍛錬にも真面目に取り組む様子とは裏腹に、リオネルの食は次第に細くなっていった。
「閣下、少し痩せられたのではありませんか」
木剣で弾き飛ばしたリオネルの腕を掴み、立たせたセドリックはその腕の細さに眉をひそめた。
その腕を、リオネルは軽く振って、セドリックの手をふるい落とした。
「別に。気のせいだよ」
「閣下」
セドリックはリオネルの服を剥ぎ取った。
愕然とした。
痣だらけの体。これは鍛錬による物だ。彼は毎日のように、セドリック達に打ち込まれていた。
だがそれよりもセドリックを驚愕させたのは、骨が浮き出んばかりに痩せたその胴体だった。少し、なんてものではなかった。リオネルはすっかり痩せ細っていた。
「これは…」
「…食べられないんだよ」
さすがに隠せないと思ったのか、リオネルがつぶやいた。
「食べても、気持ち悪くて…」
セドリックは悟った。
自分のやり方は間違っていたのだと。
リオネルが軍に来て、一年が経っていた。
「閣下。少し鍛錬はお休みしましょう」
セドリックの言葉に、リオネルがほっとしたような顔で頷いたのを、今でも覚えている。
「じゃあ、僕がリオンに会ったのは、その時ですね」
パトリスは合点が行ったと言うように頷いた。
「そうだ。私はまず、閣下には年頃の友が必要だと考えた。だから、このラローザ邸に閣下をしばらく引き取ったのだ」
何よりも、ラローザ家には誰より彼の相談相手として、打って付けと言える人物がいた。
「シシリア。お前達の母親だ」
シシリアは、アザリア公国の第三公女だった。
王族の悩みは、やはり王族にしか解せない。
そう考えたセドリックは、妻を頼ったのだった。
当時、ラローザ邸には六歳の長男パトリスと、三歳になったばかりのエメリア、そして、妻のお腹にはもうまもなくこの世に生を受けようとしているレリッサがいた。
セドリックは、目の前に座るレリッサを見た。
淡い茶色の柔らかな色合いの髪に、アメジストの優しい瞳。生まれ出でた彼女の、なんと愛らしかったことか。
その娘は、今や立派な淑女となって、セドリックの前にいる。
「この辺りのことは割愛する。レリッサ、自分で閣下に伺いなさい」
それはセドリックなりの、リオネルへの配慮だった。
レリッサは少し首を傾けて、「わかりました…」と分かったような、分からないような曖昧な返事を返した。
「ともあれ、だ。結果的に閣下は、ここで少し気持ちを持ち直され、やがて軍に戻った」
「どうしてうちでずっと暮らさなかったの? そうすれば良かったのに」
ライアンが不思議そうに尋ねた。
「閣下は、世間にあまり認知されていなかった。それは、王の目からできるだけ閣下を遠ざけるには好都合だった。だが、
彼は本当に父親にそっくりだった。成長していけば、間違いなくかつての王太子の姿を、彼に重ねる者も出てくる。ハインツは国民に人気の王太子だった。よく市井の者に混じって無償の労働をしていたし、城下町にもよく出ていたものだ。
城下町の人々が、やがてリオネルをハインツと重ね、その名前から、彼が第二王子だと気づくのは、何もあり得ない話とは言えなかった。
だが、王が、いつまたリオネルの存在を疎ましく思って、彼の死を望むか分からなかった。彼は元々、気難しい王として知られていたのだ。
「できるだけ、王の耳目から閣下の存在を遠ざけておきたかったのだ」
軍に戻ってから、一番奥の修練場で、彼は毎日必死に木剣を振るうようになった。暇にしている者があれば、セドリックがいない時でも、鍛錬の相手を頼むほどに。
セドリックの方も、リオネルへの対応を変えた。
まずはしっかりとした睡眠と、食事。それから、鍛錬以外に、勉学の時間を取った。
「彼は第二王子。セルリアン殿下が王として戴冠し、もし上手く殿下の劔をやり過ごせたなら…彼は王弟となる」
セルリアンとリオネルは、仲の良い兄弟だった。
もしかしたら、王となったセルリアンであれば、リオネルをもう一度王族として復帰させることができるのではないか。
そんな希望を、セドリックは微かながら抱いたのだ。
そのためには、リオネルには国政に携わるのに十分なだけの知識が必要だった。
「…だから…」
パトリスは、小さく頷いた。
妹達の視線に答えて、パトリスが口を開いた。
「僕は昔、リオネルと机を並べて勉強していたことがあるんだ。最初はこの家に週に二回来て、同じ先生に習ってた。そのうちに、場所は軍の宿舎に変わったけど…。それでも、僕が学園に入学するまで続いたかな」
「そうだったのですか…。週に何度か、お兄様がどこかへ出かけられるのを、何故なのかと思っていたのですが…」
レリッサが納得したように頷いている。
妹の反応に気を良くしたのか、パトリスが得意げに言う。
「勉強だけじゃなくて、一通りのマナーや、ダンスもやったな。僕が女役で、リオンが男役だった。何をやってもリオンは上手くできたよ」
それはまるで、幼い頃のハインツを見ているようだった。
ハインツもまた、何をやらせても上手くできたし、口が立ち、頭の回転も早かったので、教師を言い負かしてしまうことすらあった。リオネルは、そんなところまで、父親にそっくりだった。
「閣下は実に頭が良い子供だった。そして、大胆で、柔らかい物の発想ができた」
セドリックは、思い始めていた。
この方が、王であったなら…と。
そして長じるにつれ、それに足るだけの威風を身につけ始めてもいた。
「長く話しすぎたな」
セドリックは窓の外を見た。
もうすっかり暗くなっている。先ほどから、扉の外にダンの気配が、何度か様子を伺いに来ていた。
「少し話を急ぐ。…閣下は、次第に元帥という器に足るだけの実力をつけていった」
リオネルは武の才能もあった。ここはハインツと違うところだ。彼は剣に関してはからきしだった。
十代も半ばを過ぎると、下級士官ではとても相手にならなくなった。尉官、佐官でようやく同等程度。彼の実力を、誰もが認めないわけにはいかなかった。
剣も使えるが、彼は知略にも長けていた。
いつ頃からか、彼は戦場に出るようになっていた。王の命令だった。こういうところでも、セドリックは『生きるも死ぬも好きにせよ』と言った王のあの言葉が本気だったのだと、そう理解をせざるを得なかったのだが、結果的には、リオネルは戦場で死ぬことはなかったし、むしろスタッグランドに勝利をもたらす者だった。
「いつ頃からか、閣下に心酔する者も出始めたほどだ」
「そういう奴は、警邏部隊にも多いよ」
エメリアの言葉に、セドリックは頷く。
「だが、彼を王に、などというのは私の妄想に過ぎない。セルリアン王子は、
セドリックは、リオネルを鍛えるのと並行して、ハインツの言った戴冠式の夜の、儀式に似た風習について、なんとか調べられないかと動いていた。
簡単ではなかった。文献になど残っていない。それを知る者も他にいない。
それでも調べ続け、伝手を辿ってようやく、それについて詳しそうな者を見つけた。
「そこでようやく、それが『
そして、それがかなり強い強制力を持って働く力だと知った。
「その男は言った。閣下が生きている限り、その存在を、『呪』の実行者が認知している限り、地の果てまで追ってくる。それが『呪』の抗いがたい力なのだと」
セドリックがそのことを、絶望を持って受け止めたのと同時期に、リオネルを狙って暗殺を仕掛けてくる者が出てきた。
「主に他国の暗殺者だ。閣下は十分お強いので、その大抵はご自身で処理してしまわれるが…。幾重にも仲介を通しての依頼らしく、依頼主まで辿ることはできなかった」
だがおそらく、国王ではないか。これはセドリックの考えだったが、リオネルも同じ考えの様子だった。
その時、国王はまもなく八十を数えようとしていた。代替わりが近くなり、本格的にリオネルの存在が邪魔になったのだろう。
『呪』の理を知った以上、王がセルリアンだけを寵愛した理由も、リオネルを邪険に扱った理由も、だいたい察せられた。
「王は、『呪』をセルリアン殿下に発動させたくなのだろう」
それが何故なのかはわからない。だがやはり『呪』を実行する者として気持ちの良いものではないのは理解できる。
差し向けられる暗殺者は、次第に増えていった。いくらリオネルが自分で薙ぎ払ってしまうとは言え、煩わしいことに変わりはなかった。
『呪』の発動条件を考えても、リオネルの存在を一度消してしまうことが、対抗しうる一手と思われた。
「そこで、アザリア公国に交換派兵という形で協力を依頼したのだ。閣下にはアザリア公国へ一時的に退避していただいた」
暗殺の依頼者も、さすがに他国へと暗殺者を差し向けられなかったのか、暗殺者は現れなくなった。
リオネルがアザリア公国へ行っている間、セドリックは『呪』をどうにかして打ち破れないかと、その方法を探していた。
だが、どれだけ探しても、以前にそれが『呪』ではないかと特定した者が告げた、たった一つの方法しか見つからなかった。
「それは…?」
パトリスが促す。
セドリックはぐっと拳を握った。
「全てをひっくり返す。時制、言葉、劔、そして…血」
目の前に座っていたレリッサの瞳が揺れた。
セドリックが何を言おうとしているのか、気づいたのだ。
「私は、閣下を『王』にすることに決めたのだ」
**********
父が言ったのはこうだった。
まずは言葉。これは宰相から発せられる故、戴冠式の夜、一時的に宰相を隔離する。
次に劔。これは壊してしまう。
そして、一番大事なのは、血だと。
「先ほどサマンサも言ったが、覆しがたいという点で、アンドロアスの血を引く長男という条件は、この『呪』の中で一番大きな要になっている。それを覆すためには、現在、アンドロアスの血を引く長男であるセルリアン殿下を、王にするわけにはいかないのだ」
セルリアンが王になれば、この忌まわしい『呪』は永遠に続いていく。
「どこかで断ち切らねばならない。それが、この後の世に続く王族のためであり、
レリッサは、きゅっと手を握りしめた。
「リオン様は、それについてなんと…?」
父の瞳が、レリッサの方を向く。
「了承して頂いた。やむを得ないだろうと」
だから、と父は言った。
「レリッサ、よく考えると良い。私は閣下の決定に否やはないが、覚悟を持たねばならないのは、お前自身だ」
そうだ、とレリッサは思った。
けれど分からなかったのか、サマンサが「どういうこと?」と尋ねた。
「閣下のお気持ちに答えるということは、
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