16. レリッサと夢の終わり3

「あら、レリッサさんじゃありませんこと」


 そう言ってレリッサを取り囲んだのは、レベッカ・シンプトンに、ミルドランド公爵令嬢アレリア、その他に三人ほど。いずれも政府派の令嬢たちだった。

 片手にそれぞれ飲み物を持って、あくまで立ち話と言うていのようだった。

 レリッサは緊張を押し殺して、スカートを持ち上げて沈み込んだ。


「皆様、ご機嫌よう。お話しするのはお久しぶりですわね」

「そのようね。まあ無理もないことだわ。貴女と私たちとでは、話が合うはずがありませんもの」


 そう言うと、レベッカたちがばさりと扇子を広げて口元を覆う。

 けれどその覗いた瞳の奥に孕む色は隠せない。

 嫌悪、侮蔑、嫉妬。

 そんなところか。


「今朝の新聞、拝見しましてよ。それに、先ほどのご様子も」

「さすが、あのホーリィ・ラローザの姉君ですわね」

「ええ。レリッサ様は貞淑な方だと思っておりましたのに、私たち、すっかり騙されておりましたわ」


 ねぇ、皆さんとアレリアが他の令嬢に声をかける。

 レリッサは眉をひそめた。

 ホーリィの名前が出てくるのは頂けない。これはレリッサの問題のはずだった。


「何をおっしゃりたいのかわかりませんわ」


 レリッサがそう言うと、レベッカ達の目がより細められた。


「まぁ。お分かりにならない。さすが、無意識にたらし込むとは、もしかしたら妹よりもタチの悪い毒花なのかもしれませんわね」

「何を…」


 レベッカが扇子を閉じた。

 そして、その閉じた扇子の先で、くいっとレリッサの顎を持ち上げた。

 とても失礼な振る舞いだった。


 だが、レベッカの威圧的な美貌に、レリッサが口を開くのを一瞬ためらった隙に、レベッカがジロリとレリッサの顔を上から横から、あからさまに睨め付けるように見た。


「髪も目も地味。こんなののどこがいいのか。うちの弟も、どうかしてますわね…」

「弟…?」


 レベッカの弟はアイザックしかいない。


「アイザックが何か?」

「アイザック様でしょ! 伯爵家風情が馴れ馴れしい!」


 アレリアが声を荒げた。

 その声で、近くにいた男女がちらりとこちらを見たものの、すぐに視線は過ぎ去っていく。


「アレリア、やめときなさい」

「でもレベッカ様…!」


 レベッカがアレリアに視線を送る。それだけで、アレリアが黙り込んだ。

 アレリアが黙ったのを見届けて、レベッカはレリッサに視線を戻した。


 燃えるような赤茶色の髪に、弟と同じペリドットの瞳。ドレスの色も今宵は真紅だった。レベッカはドレスに合わせて真紅の紅が引かれた唇を、ぎゅっと引き結んでレリッサを睨みつけた。


「王太子様に、うちの弟に、あの黒服の男…! 両天秤どころでは足りませんわね。貴女が天秤にかけた男は何人いるのかしら! 全くふしだらですわ! こんな女がどうして王太子妃の候補などと!」

「私は誰も天秤にかけたりなどしておりませんわ」


 レベッカはレリッサの顎から扇子を退かして、再びばさりと開いて口元を隠した。

 だが、歪んだ口元が透けて見えるようだ。


「どうだか。でも勘違いしないことですわね。王太子様のお部屋に呼ばれようが、それはただの気まぐれ。正妃となるのはこの私。貴女ではせいぜい、王太子様の欲のけ口にしかならなくてよ」


 レリッサは一瞬何を言われたのか分からずに、ぽかんとレベッカを見た。


(欲の捌け口ですって…?)


 レベッカの言葉を反芻はんすうして、レリッサはさっと顔を赤らめた。

 新聞には、確かに『数時間、王太子の部屋から出てこなかった』と書かれていた。それを彼女達は、とんでもなく下品な方向に捉えたのだ。


「とんでもない勘違いですわ! 私は、そのようなことはしておりません!」


 あの記事をレリッサも読んだ。

 そんなふうに思わせる描写はなかったはずだ。つまり有り体に言えば…レリッサが、王太子の部屋で、王太子としとねに入ったのだと。

 記事にはちゃんとお茶に呼ばれたと書いてあった。


 しかし、レリッサの抗議を令嬢達は嘲笑で返した。

 彼女達はむしろ、それを真実としてしまいたいのだろう。こんな、婚前に王太子に言い寄るようなふしだらな令嬢では、王太子妃になど相応しくないと。そう流布して回るつもりなのだ。


「貴女には、せいぜいあの黒服の男がお似合いですわ。あの方一体どなた? 見た目は良いようですけれど、社交界ではお見かけしたことはございませんわね。私、貴族の子息令嬢のお顔は全て記憶しておりますけれど、あの方のお顔は記憶にございませんの」

「まさか平民ですの?」

「まぁ、汚らわしい。平民ってあれでしょう? 汚いお仕事もされるのではなくて? 私、そんな方と一緒の空気を吸っているだなんて嫌ですわ」

「全くですわ。平民が貴族の夜会に紛れ込むだなんて、お門違いも良いところ」

「伯爵家のご令嬢と平民。ま、良いんじゃありませんこと? 少なくとも、貴女にはお似合いですわ」


 レベッカの発言を皮切りに、先ほどまで黙っていた令嬢達が口々に話し始める。

 政府派の中には、貴族と平民との間にあからさまに優劣を付けたがる者が多いのは知っている。平民でも実力で官位を上げられる軍とは違い、官僚の序列は家格が物を言う性質なせいもあるだろう。


 だが、それにしてもあんまりだった。

 レリッサは気づけば口を開いてしまっていた。


「今、ご自分がどんなに卑しいことを口にされたのか、振り返ってご覧になったら!」


 声は、知らずと大きくなった。

 滅多に声を荒げないレリッサが、鋭い声を上げたからだろう。令嬢達はびくりと肩を震わすと、呆気にとられた顔でこちらを見た。口元を扇で隠すことも忘れている。


 レリッサはおさまらずにさらに口を開いた。


「皆様の生活があるのはどなたのお陰だと思ってらっしゃるの!? そのドレスは! 宝石は! 皆様がそう言って嘲る平民が、ひと針ひと針丁寧に生地に針を入れたドレスであり、ひと堀ひと堀必死に土を掘り返して見つけた宝石ですのよ!」


 ドレスや宝石だけではない。レリッサ達の衣食住に関わる全てが、彼らが言うところの『平民』の手によって成るものだ。ここで給仕をしてくれている執事や侍女達だって、もちろん『平民』であり、彼女達はこう言うが、今日の招待客の中には、貴族によってビジネスのために招かれた商業などを主に展開する中産階級の平民もいることだろう。


「私たちの生活は、彼らがいなくては成り立たないのです。なぜそれがお分かりにならないの。もし分かっていて、そのようにおっしゃるのでしたら、愚かとしか言いようがありませんわ!」


 こんなに人に対して声を荒げたことはなかった。

 今やすっかり周囲の人々がレリッサ達の方を見ていた。

 喉の奥が震えて痛い。怒りと興奮で目がチカチカとした。

 それでも言葉は止められずに、レリッサはさらに言った。


「そんな方がどうして国母となれるでしょう! 王太子妃に…ひいては王妃になりたいとお望みなら、もう少しご自分のお考えを改めてからになさったら! 今のままでは、私は貴女を王太子妃様などとは呼べませんわ!」

「何ですって!」


 カッと、レベッカが目を見開いた。

 その腕が振り上げられる。


(叩かれる!)


 レベッカの手にはグラスが握られたままだった。

 レリッサはとっさに顔を隠すように腕を上げた。


 ガチャン!


 ガラスが割れる音が響いた。それから、シン…と静まり返る。いつの間にか、音楽は止まっていた。

 ぽたり…ぴちゃん…、と水滴が跳ねる音がして、レリッサは恐る恐る顔を上げた。


 レリッサは痛いところなどどこもなかった。


 その代わり、肩を温かいものに包まれて、抱き込まれていた。


「リオン様っ」


 リオネルがレリッサの肩を抱いて、差し出した腕でグラスを受け止めていた。

 割れたガラスが足元で粉々になって、リオネルの上着の袖からはグラスに入っていた赤いワインが滴っている。

 リオネルがレリッサを見下ろした。


「すぐに助けに入らなくてごめん。――君の言葉に聞き惚れた」


 リオネルが、レリッサの耳元で囁くように言う。

 レリッサの頰と耳にまた熱が集まる。けれど今はそんな場合ではない。


「申し訳ありません、リオン様。お怪我は…」

「いや、これくらい大丈夫」


 そう言うとリオネルは、呆然と立ち尽くしたままのレベッカ達を見据えた。

 彼女達は、先ほどの勢いがどこへ言ったのか、リオネルの顔を凝視している。

 レリッサはレベッカ達の表情を見て、悟った。


(初めてリオン様のお顔を、ちゃんと見たのね)


 あんなに嘲っていた『黒服の男』の、その洗練された存在感に、彼女達は面と向かって初めて気づいたのだ。

 それくらい彼には確かに人を惹きつける何かがあった。


「これは何事か」


 不意に、声が響いた。

 涼やかで、けれど鋭い声だった。


「王太子殿下」


 人混みが、さっと分かれていく。

 その向こうから、セルリアンが現れた。

 慌てて淑女はスカートをつまみ上げて深く沈み込み、紳士は片膝を折って胸に手を当てて礼をとった。

 セルリアンは手を振って、礼をすぐにやめさせると、レベッカには目もくれずにレリッサの前に立った。


「レリッサ。これは何事だ」

「王太子殿下」


 セルリアンの眉がわずかにひそめられる。

 レリッサはその意図に気づいて、少し控えめに彼の名を呼んだ。


「セルリアン様」

「うん。そう」


 セルリアンが少しだけ口元を緩める。

 視界の端で、レベッカが悔しげに顔を歪めた。彼女は彼の名を呼ぶことを許されていないのだろう。


「それで? 何事かな、シンプトン公爵令嬢。まぁ、大体の経緯は見ていたが」

「お、恐れながら…王太子殿下のお考えのようなことは…」

「ない? 本当に?」


 セルリアンの視線が鋭くなった。

 その涼やかな瞳が剣呑な空気を醸す。すると途端に、ひやりと周囲が冷たくなるような鋭さを持つのだと、レリッサは知った。

 やはり彼は王族なのだ。それ相応の威厳を持っていた。


 レベッカは答えずに、唇を噛み締めて俯いた。

 その様子にセルリアンは嘆息すると、レリッサの肩に手を置いた。


「私の友人にこれ以上何か言い掛かりをつけるようであれば、今後の夜会のパートナーは別の令嬢にさせていただく。宰相にもそう伝える故、自身の行いをよく振り返るが良い」

「ご友人…でございますか」

「そうだ。友人だ」


 セルリアンはそう言うと、レリッサの肩から手を下ろして、レリッサ越しにリオネルを見た。


「リオネル・カーライル」


 リオネルが臣下の礼を取る。


「は」

「大事なものは手の中に握って、決して離さないことだ。一度離したものが決して戻らないこともあると、肝に銘じるが良い。…私は、過去に二度そういう経験をしている」


 セルリアンはそう言うと、胸元のスカーフを抜き取って、レリッサの頰を拭った。

 そしてレリッサの手のひらにスカーフを落とす。


「ワインが飛んでいたようだ。ではレリッサ。今度またお茶に来ると良い。次は扉の隙間を開け、我々がいかに有意義で高尚な話をしているか、周囲に聞かせてやりたいものだ」

「…ありがたいお言葉でございます」


 セルリアンが去っていく。その背中に礼を取り、レリッサが顔を上げた頃には、セルリアンは人波の向こうだった。


 令嬢達は、気づけば親である侯爵や公爵が引き取りに来ていた。よりにもよって王太子に目をつけられるようなことをしたために、激しく叱られている令嬢もいる。レベッカとアレリアはそれぞれに悔しげに唇を噛み締めて俯いていたが、レリッサはリオネルに促されてその場を離れた。


「今日はもう帰ろうか」


 広間を出て、玄関ホールでリオネルは言った。

 リオネルの服は汚れてしまっている。この状態でこの後の夜会を過ごせるはずもなかった。


「申し訳ありません。お側を離れてはいけないと、そう言われていましたのに…」


 玄関から馬車寄せに出る。

 馬車を待つ間、レリッサは途端に申し訳なくなってリオネルに頭を下げた。


 そもそもレリッサがリオネルの側を離れなければ、起こらなかった事態なのだ。少しの距離なら良いだろうと思ったレリッサの認識が甘かった。


「良いんだ。君が怪我をするようなことがなかった。それだけで十分。そもそも君の髪が崩れるほど振り回した俺が悪いんだし」

「いえ、それも…」


 リオネルの意図を、レリッサはもう知っていた。

 改めて礼を言わなければと、口を開きかけたところで、「お嬢様!」と屋敷の中から声をかけられて、レリッサは振り返った。今ここに、令嬢はレリッサしかいなかった。だからおそらく、呼ばれたのはレリッサのはずだった。


 屋敷の中から、執事が一人こちらへ向かって小走りで走ってきていた。よく見れば受付をしてくれた老執事で、小走りをするには足元がやや心もとない。レリッサは、距離を埋めるように執事に駆け寄った。


「お嬢様。ラローザ家のレリッサお嬢様」

「はい。どうされましたか?」


 執事が顔を上げる。その目の淵に、水滴がうっすらと溜まっていた。


「先ほどのお言葉。この老体に沁み至りましてございます。ミルドランド公爵家にお勤めして早数十年。あのようなお言葉を耳にする機会があろうとは…」


 レリッサはハッとして、すがるように差し出されていた執事の手を握った。

 膨らみの多い、歪な手だった。見なくとも嫌でも分かった。この手のひらは、幾度も幾度も、鞭で打たれた手のひらなのだと。


「どうして…こんな…こちらでは、みんなこのような…?」


 給仕をしてくれた執事や侍女達を思い返す。

 皆、冷静に与えられた仕事をこなしているように見えた。


「いいえ、いいえ。私は先代様からの頃のお仕えでして。今の旦那様はここまではなさいません。扱いは似たようなものですが」


 執事の目から、目の縁が受け止めきれなくなった涙がポロリと一滴だけ流れた。


「本日は、当家のお嬢様の失礼な行い、申し訳ございません。アレリアお嬢様は、シンプトン家のアイザック様に長いこと懸想けそうされておいでなのです。ですがアイザック様がご自分を見てくださらないのが悔しくてならないが故の、本日の愚行なのでございます。申し訳ありません。お嬢様をどうか、どうかお許しくださいませ…」

「アイザックを…そうですの」


 レリッサは、アイザックの友人でしかなかったが、それでも彼の一番仲のいい女友達と言えるかもしれなかった。彼は令嬢を遠ざけがちだ。だから、殊更レリッサの立場が羨ましく思えたのかもしれない。


 執事はレリッサの手に額を擦り付けるように何度も頭を下げた。これほどに酷い扱いを受けながらも、アレリアのためにここまでできるのだ。アレリアも単に意地の悪い令嬢という訳ではないということなのだろう。


「お気になさらないで下さいませ。いつか、アレリア様と分かり合えました時には、お茶にお誘いしたいくらいですわ」

「なんとお心の広い…」


 ちょうど馬車寄せに乗ってきた馬車が回されてきたところだった。

 レリッサはリオネルに促されて、執事に向かって小さく礼を取ってから馬車に乗り込んだ。


 ぐるりと馬車は馬車寄せを回って、屋敷を背に遠ざかっていく。がらがらと車輪の廻る音を聞きながら、レリッサは窓の外に流れていく街灯を目で追った。


「レリッサ。こっちを向いてごらん」


 手を握られて、そっと引かれる。

 隣を、リオネルの方を向かなければ、と。そう思うのに、レリッサは何故だかそちらを向けなかった。


「レリッサ」


 握られた手が、とん、とんと優しく叩かれる。

 レリッサはきゅっと唇を引き結んで、リオネルの方を見た。

 柔らかく目を細めて、微笑む彼がいた。


「良い? 深呼吸して。ほら、吸って」


 吐いて。

 そう促されて、レリッサはリオネルが言うのに合わせて、何度か呼気を吐き出した。

 何度目か、深く息を吐き出した後。


 ぽろっ…


 と、涙が零れた。

 途端、目の奥から溢れ出した涙が止まらなくなって、レリッサは手で顔を覆った。


「ごめんなさ…」


 止めようと思うのに、目の奥から奥から溢れ出て止まらない。

 嗚咽をこらえようと、口元に押し当てた手が、リオネルに引き剥がされて、そのまま抱きしめられた。


「あれだけのことがあったんだ。怖くなかったはずがないんだから」


 泣いていいんだよ。

 リオネルはそう言うと、レリッサの頭を撫で始めた。


 溢れる熱い水滴が、リオネルのシャツに染み込んでいく。撫でられるのが心地よくて、身体に回された腕は温かくて力強くて、レリッサはいつの間にか身体の隅まで張り詰めていた緊張が、霧散するように解れていくのを感じた。


 恐らく、きっと今朝から、レリッサはずっと緊張していた。父や、姉、妹たち、みんなに『大丈夫』と、そう告げながら、レリッサ自身が、一生懸命、そう思い込もうと何度も自分に言い聞かせていたのだ。


 大丈夫だと。例え何かあっても、自分でどうにかしなくてはいけないと。


 頭の中に、今日あったいろんなことがぐるぐると巡る。

 人々の視線が辛かった。

 ミルドランド公爵の物言いはただただ不快で、嫌だった。うまく返せていたのかは分からない。

 レベッカの迫力。負けてしまいそうだった。怖かった。

 あの執事の手のひら。酷い。どんな気持ちで仕えているのかと思うと辛い。


 けれど全てを一旦脇にどけて、今はもう安心して良いのだと、彼の腕の中は安全なのだと、レリッサは、いつぶりかにちゃんと息をしたような気分だった。


「申し訳ありません…重ね重ね…」


 馬車の中は薄暗い。

 暗くて良かったとレリッサは思った。

 きっと涙で化粧は落ちて、酷い顔をしていることだろう。


 いつの間にか、窓にはカーテンが引かれていた。外から見えないように、リオネルが配慮してくれたのだろう。こんなところまで完璧だった。


 そのカーテンの隙間から見える景色は、もうじきラローザ邸に着くことを示していた。


「本当は今日話したかったけど…」

「あ…」


 レリッサは、行きの馬車の中で、リオネルが「話がある」と言っていたことを思い出した。

 緩やかに馬車が速度を落とし始めた。

 リオネルが腕を解いて、レリッサの手を握る。


「また今度にするよ。今日はゆっくり休んだ方がいい」

「はい」


 だけどこれだけ、と馬車が止まりきる前に、リオネルはレリッサの耳元で囁いた。


「君が好きだ」


(っ……!)


「返事は次会った時に」


 そう言うと、リオネルは止まった馬車の扉を開いた。

 手を引かれて降り立つ。

 レリッサは、赤くなった顔を誤魔化すように、座席に無造作に置かれたままのリオネルの上着を指差した。


「あのっ…、あれ、洗ってお返しします」

「良いのに」

「でも、私がそうしたいので…」


 リオネルの服が汚れたのは間違いなくレリッサのせいだった。だから洗って返すのは当然のことだ。

 彼はくすっと小さく笑うと、「じゃあお願いするよ」とレリッサの腕に上着をかけた。

 屋敷の扉の前までエスコートされて、レリッサは深く頭を下げた。


「今日は、本当にありがとうございました」

「こちらこそ。君に何もなくて良かった」


 琥珀色の瞳が優しげに細められる。


(そんな目で見つめられたら…)


 レリッサはきゅっと目をつぶって、くるりとリオネルに背を向けた。

 今にも、先ほど告げられたことの答えを、本当の自分の気持ちを、伝えてしまいそうだった。いけないのに。


「おやすみなさいませ、リオン様」


 ドアノブに手をかける。

 引こうとした瞬間、リオネルが扉に手をついてレリッサの動きを止めた。


「最後に一つだけ。君にずるい魔法をかける」

「…魔法?」


 耳元に彼の吐息がかかる。

 熱い。


「俺を好きになって。レリッサ」


 それから、彼は「おやすみ」と囁いて、レリッサのこめかみにキスを落として去っていった。

 レリッサは、振り返ることもできずに、彼の足音が去っていくのを聞きながら、呆然と玄関の扉を開いて中に入った。

 中に入った途端、力が抜けて座り込む。


「もうその魔法には、かかってしまっているのですけれど…」


 赤面する顔を隠したくて、彼の上着に顔をうずめた。



**********



 リオネルは少し歩いて立ち止まると、玄関の扉が閉じてレリッサが中に入ったことを確認してから、再度ラローザ邸の門へ向けて石畳を歩き始めた。


 空気の冷たい月夜だ。雲が半分月にかかって、あたりは薄暗い。上着がないことで肌寒かったが、気分が高揚しているためかさほど気にならなかった。


 不意に、門柱の陰から知った顔がのぞいた。


「こっわい男だよ、お前は…」

「エド」


 エドは地味な色の夜会服に身を包んで、呆れた顔で立っていた。


「お前には、手加減とか、ほどほどとかそう言う言葉はないわけ? あれじゃお嬢様、絶対落ちるじゃん! お前にあんなに本気で落としにかかられて、落ちないわけないじゃん!?」

「本気出せって言ったのはそっちじゃないか」


 馬車はすでに帰らせてある。一杯引っ掛けて帰りたい気分だった。このまま黒鹿亭に向かうつもりで歩き出す。

 エドも同じ考えだったのか、彼を乗せてきたはずの馬車もすでになかった。


「言った? 言ったかな? …言ったわ。昨日の俺、マジでお嬢様に謝って…」


 相変わらず口を開けば騒がしい男だ。


「はぁ、お前を焚きつけたことマジで後悔してる。あんな派手なやり方ある? お嬢様、終始顔真っ赤だったじゃん。かわいそう。そういうの苦手そうなのに」


 だがその代わり、周囲の雑音はかなり減った。

 ちらりと、レリッサに申し訳なかったという気持ちも浮かびはするが、本気で恥ずかしがる顔は心底可愛らしかったので、リオネルとしては満足だった。


 エドは隣を歩きながら、リオネルを覗き込むように屈んだ。


「でも、ま、なりふり構わなくなったってことは、お嬢様に全部話す気になったわけだ」


 エドの言葉に、リオネルは立ち止まった。


 大通りがすぐそこに見えていた。通りに行き交う人々の姿が見える。けれど今立っている場所は貴族街。後ろを振り返れば、不思議なほど人気を感じない。未だ宵の口、貴族たちは皆、今日もどこかで催されている夜会に繰り出している。


「話さないと、ここから先には進めないからな」

「いいの?」


 エドが、頭の後ろに腕を組んで言った。


「お嬢様の覚悟が決まらなきゃ、結局彼女は手に入らない。それより、別の誰かになって、お嬢様と二人で穏やかに生きていく。…そう言う未来も、今なら選べるはずだけど?」


 ふっと笑う。


「もう遅いよ。全部動き出してる」

「ふぅん…。ま、いいけど」


 エドはそう言うと、頭の後ろに組んでいた手を下ろした。


「じゃあ、覚悟の決まったリオネルに、いっこ悪い知らせ」

「悪い知らせ?」

「パトリスが帰ってくるよ。もうだいぶ近いとこまで来てる」

「…怒るだろうな」

「怒るだろうねぇ」


 数年来の友人の顔が浮かぶ。

 彼はこと弟妹きょうだいの事に関しては、少し行き過ぎと言えるほど過保護になる。ここ数年直接顔を合わせていないが、きっと変わっていないだろう。


「それにしても早いな。結構大変な用事を頼んだのに」

「あー、あのえげつない命令ね。御者と馬が痩せこけてないか、俺、心配」


 そう言うと、エドはリオネルに背を向けて大通りに向かって歩き出した。「今日はリオネルの奢りだかんねー」とうそぶいている。

 リオネルは小さく息を吐いて、エドの背中を追いかけた。

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