15. レリッサと夢の終わり2
馬車に乗り込むと、ゆるゆると馬車は動き出して、やがてリズミカルな蹄の音と車輪の音を立てながら、滑らかに走り出した。
ラローザ家からミルドランド公爵家までは少々距離がある。大通りを横切って、ラローザ家とは反対側の貴族街へと馬車は進路を取った。
レリッサは膝の横に置いた手を見下ろす。手は繋いだままだ。
不意に手が軽く握られて、レリッサはリオネルを見上げた。
「今日も綺麗だね」
また胸が一つ、きゅっと苦しくなった。
(だめなのに…)
なんてままならないのだろう。
想ってはダメだと分かっているのに、心と頭が乖離して、心の方はちっとも言うことを聞いてくれない。
今にも『好き』と告げてしまいそうになるのを、口の中で甘く転がして、レリッサは苦し紛れに言った。
「どなたにもそんなことをおっしゃるのですか?」
「まさか」
手が持ち上げられる。
ちゅっと軽く指に口付けられた。
「こんな照れ臭いこと、君にしか言わない」
(ずるい)
その琥珀色の瞳は、眩暈がするほど蠱惑的だった。
(こんなの、好きにならない訳ないのに)
『じゃあ、俺が君を好きになっても、君は困らないわけだ』
先日の夜会で、彼が冗談半分に言った言葉が、脳裏で再び響く。
あれが冗談にならなくなったのだと、まだ何も告げられてもいないのに、レリッサは悟った。
そうでなくては、彼の瞳の奥に
リオネルは、レリッサの手を下ろすと、もう一度、今度は優しく、けれど強く握った。
「君に話したいことがあるんだ」
「話したいこと?」
レリッサが首をかしげると、リオネルは頷いて窓の外に視線をやった。
「でも今ここで話すには、時間が足りない。長い話になるから。だから夜会の後で」
良い? と問われて、レリッサは頷く。
馬車が次第にスピードを落とし始めた。気づけばすでにミルドランド公爵邸の敷地内で、馬車寄せの順番待ちの列に入っていた。数度、動いたり止まったりを繰り返した後、御者が扉を開いた。
「行こうか」
繋いだままの手を引かれる。
馬車を降りると、リオネルはレリッサをエスコートして玄関に向かいながら囁いた。
「レリッサ。今日は俺のそばから離れないで」
見上げた視線の先で、リオネルがレリッサを気遣わしげに見下ろしていた。
父やホーリィ達と同様に、彼もまた今日の夜会でのレリッサの身を案じてくれているのだと知れた。
玄関先に設けられた受付が目前だった。レリッサは、返事の代わりにリオネルの腕に添えた手に少しだけ力を込めた。
リオネルとレリッサの招待状を二枚差し出すと、受付係の執事が招待客の名簿とリオネルの持ってきた方の招待状を、何度も繰り返し見直した。腰の曲がりかけた老執事で、どうにも手元が
「今日はセドリック・ラローザ伯爵の代理で来たんだ。ほら、ここに一筆書いてある」
「ああ…。失礼致しました」
執事は鼻の先にずり下がっていた老眼鏡を指で押し上げてから、どうぞと広間の方を手の平で指し示した。
「もうまもなく皆様お揃いになります。ダンスが始まるまで、中でお待ちください」
リオネルがレリッサをエスコートしながら、小声で囁いた。
「ラローザ将軍に招待状を融通してもらったんだ。俺には招待状が来てなくてね」
「そうだったんですか…」
そう言えば確かに、以前レリッサが夜会の欠席の代筆をしたリストの中に、ミルドランド公爵家の招待状はなかったなと思い出す。
広間に一歩足を踏み入れると、空気がざわついた。入り口の近くに立っていた者から順に、視線がこちらに集まってくる。その視線の矛先は、今日に限っては、リオネルではなく、レリッサだった。
「ほら、ラローザ伯爵令嬢よ。二番目の、レリッサ様」
「おかしいわ。王太子様とご一緒ではないのね」
「あら、王太子様は先ほどレベッカ様と一緒にいらっしゃったじゃない。当然でしょ?」
「ほら、またあの方とご一緒」
「本当にあの方が王太子妃になられるの?」
こそこそと、けれど確かに耳に入ってくるのは、そんな声が一つや二つでないからだ。
中には興味本位というただの好奇の視線もあるが、ほとんどはざらついた、敵意に似た視線だった。今宵は政府派の夜会。当然、招待客も政府派の家門がほとんどなのだろう。
リオネルが心配そうにレリッサを見下ろした。それに、レリッサは少し微笑んで首を横に振って答える。
この程度は予想していた通りだ。王太子妃の最有力だなんて新聞に書かれているのに、他の男性と共に夜会に参加すれば、反発されもするだろうとは思っていた。
広間の中程まで進んでから、立ち止まる。さらに広間の奥の方を見ると、一際大きな人だかりがあった。
レリッサ達の前に入場した招待客達がこぞって、その人だかりに向かっていく。その中央で、臙脂と金の派手な夜会服を着た恰幅の良い男性が、夫人を伴って招待客達の挨拶に答えている。
テオドア・ミルドランド。本日の夜会の主催者で、ミルドランド公爵である。
レリッサとリオネルも人だかりの輪に加わる。程なくして目の前の招待客が退いて、レリッサ達は公爵の前に進み出た。
レリッサはスカートを持ち上げて深く沈み込んだ。
「本日はお招きありがとうございます」
「これはこれは。噂のお嬢さんではありませんか。新聞、拝見いたしましたよ」
「ただのゴシップに過ぎませんわ。公爵閣下のお目に耐えるような内容ではありませんでしたでしょうに」
近くで見ると公爵の夜会服のジャケットのボタンは今にも吹き飛びそうなほどだ。その重量感ある身体で、こちらを威圧しながらレリッサを見下ろしてくる。そこには確かに侮蔑と冷笑の色があった。
「そうでしょうな。あれはただのゴシップ。有る事無い事書き立てる新聞屋には、ほとほと困ったものだ」
それから公爵はリオネルの方を見た。
「それでこちらは? 初めて見る顔だ」
「リオネル・カーライルと申します。ラローザ伯爵のご紹介で参りました。お見知り置きを」
リオネルが差し出した手を握り返して、公爵は「ほう」と小さく呟いた。
「リオネル…カーライル…と申されるか」
公爵はリオネルの頭の先から足の先まで、あからさまに不躾な視線でリオネルを舐めるように見た。その視線は、意味深で、それでいてシンプルな驚きを秘めているような気がした。
「昔、あなたに似た人をお見かけしたものだ」
「そうですか。ですが人違いでしょう。私が夜会に参加するのはこれが三度目ですので」
リオネルがそう言うと、公爵は顎を撫でながら頷いた。
「人違い。そうだろうな。もちろん…。ああ、すまないが、そろそろファーストダンスが始まる時間だ」
公爵は唐突に話を切り上げた。
そしておざなりに手を挙げると、レリッサ達に背を向けて広間の奥へ歩き出した。公爵の後を、慌てて夫人がついていく。
「リオン様?」
レリッサはリオネルの横顔を見上げた。
彼は、公爵の背中をじっと見つめて、やがて公爵が人の波の向こうに消えるまで目を離さなかった。やがて公爵の背中が完全に見えなくなってから、リオネルはレリッサを見下ろした。
「ん、ごめん。ちょっと確認したくてね」
確認。何をだろう。
けれど聞いてもきっと答えてはもらえない気がして、レリッサはその代わり、リオネルの手に触れた。
公爵の言う通り、ファーストダンスの時間だった。
公爵の簡単な挨拶の後、楽団が緩やかに音楽を奏で始める。
音楽に乗り、リオネルに身を任せながら、レリッサは彼の肩越しに視線を外へと向けた。入り口に近いところで、エメリアが踊っているのが見えた。あちらもレリッサを探していたようで、くるくると回りながらも目が合った。ホーリィとライアンは見つからない。今日は満員御礼と行った様子で、広間の中がとても窮屈だ。これほどの人数の中では、見つけられないのも無理はない。
その代わり、レベッカと踊るセルリアンを見つけた。今日も涼やかな目で感情の起伏を感じさせない表情で踊っている。身体を押し付けるように踊るレベッカが対照的で、とてもチグハグなペアだった。
(あら…)
くるりとリオネルに促されてターンする。その一瞬の間に、部屋の隅に見知った姿を見つけて、レリッサはリオネルの腕の中に戻ってから、もう一度同じ場所に視線を向けた。
(ミルドランド公爵と、シンプトン公爵だわ)
たった今言葉を交わしたばかりのミルドランド公爵が、広間の奥で踊りもせずにシンプトン公爵と立ち話をしているのが見えた。その両隣で、夫人達が呆れた顔で控えている。
(何かしら…)
ふとシンプトン公爵が、こちらを見た気がした。
けれどその視線をレリッサが受け止める前に、リオネルにぐっと腕を引かれた。
耳元に、リオネルの吐息がかかる。
「レリッサ。俺を見て」
耳が熱い。
顔を上げると、満足げな琥珀色の瞳と目が合った。
リオネルはにこりと笑うと、レリッサの腰にさっと手を移して、ぐっとその手に力をかけた。
「きゃっ」
軽々と持ち上げられる。
周囲で踊っていた人々が、驚いた表情でこちらを見ているのが視界の端で見えたが、かまってなどいられない。
くるりくるりとリオネルは楽しげに何回転かして、そのまま、まるで子供にするようにレリッサを抱き上げてフィニッシュした。
「リ…リオン様…」
「何」
「恥ずかしいですわ…」
抱き上げられて、レリッサの頭は他の人々よりも一等高いところにあった。自然と周囲の視線がレリッサに向く。レリッサは羞恥に顔を手で隠しながら、リオネルを見下ろした。
「下ろしてくださいませ」
「君が余所見しているのが悪い」
リオネルはそう言うと、レリッサの喉元にちゅっと軽く音を立てて口付けた。
誰かが「きゃあ」と可愛らしい悲鳴をあげたのが聞こえた。けれどレリッサは、もうそれが誰なのか確認するために顔を上げることもできなかった。
顔が熱い。耳まで熱い。頭が沸騰しそう。
そんな顔を、周囲に晒せるはずがなかった。
「ごめんね」
顔を手で隠したままのレリッサをようやく下ろして、リオネルは悪びれもなく謝った。
「意地悪ですのね」
「うん。ごめん」
言葉とは相反して、ニコニコと機嫌よく笑っている。
周囲はちらちらと、どこかにやついた表情を浮かべて、レリッサ達を遠巻きに見ながらも、次の曲が鳴り出したので音楽に乗って踊り始めていた。
レリッサは、もちろん次の曲なんて踊れる状態ではない。
リオネルがレリッサの背中に手を添えて、踊る人々の邪魔にならないように誘導しながら、広間の隅へと案内してくれる。そこでようやく一心地ついて、レリッサは顔から手を退けた。
「はい」
グラスを差し出される。
いつも通りエスコートにはそつがない。レリッサは大人しくグラスを受け取って、ちびりとグラスの中身で唇を潤した。
確かにレリッサは、ダンスに集中していたとは言い難かった。けれど、あんな目立つことをするなんて、あんまりだ。
羞恥と共に、少し拗ねた気分でいると、リオネルがレリッサの顔を覗きこんだ。
「ごめん」
今度は、本当に申し訳なさそうな表情だったので、レリッサはふっと息を吐いて首を横に振った。
「いいえ。私も、余所見をしてしまって申し訳ありませんでした」
「…んー、文字通り受け取られたか…」
リオネルが、何やら苦笑いをした。
レリッサは首を傾げる。その拍子に、髪に飾っていたリリカローズがずれた。
「あ」
落ちる前に、レリッサは慌ててリリカローズに手を添える。
マリアがしっかりと固定してくれていたはずだが、流石にダンスで持ち上げられて振り回されるとは思っていなかったに違いない。髪が緩んできてしまったのだろう。
「大丈夫?」
直せる? と言いながら、レリッサのグラスをリオネルが持ってくれる。
「少し難しいかもしれません…」
このままリリカローズを抜いてしまっても良かったが、まだ夜会も序盤。せっかくリオネルが贈ってくれた花を差してきたのに、ここで抜いて捨ててしまうのは惜しい気持ちだった。
「鏡を見ながらなら、なんとかなるかもしれません。ちょっと行ってきますね」
ミルドランド公爵邸には何度か来たことがある。すぐそばにある扉を出れば、そこがお手洗いのはずだった。
「あ、レリッサ!」
「すぐ戻ります」
レリッサは扉を出た。思った通り、すぐそばがお手洗いだ。
ちらりと、先ほどリオネルに『そばから離れないで』と言われたことを思い出す。けれど、この距離なら、離れたうちに入らないだろう。
(それに…ずっとそばにいるのは、持ちそうにないもの)
レリッサの心臓が。
こんなにもドキドキしてしまって、これでは、この想いを諦めるのがさらに難しくなる。
それでもリオネルの側にいて、胸の高鳴りを抑えるのは至難の技だった。
お手洗いの中に足早に入っていくと、ちょうど鏡台の前に見知った顔があった。
「マルガレーテ様」
以前、ラローザ家でのお茶会に来てくれたマルガレーテだった。彼女も驚いた顔をして、こちらを振り向いた。
「まぁ、レリッサ様! お久しぶりですわね」
「ええ、先日のお茶会以来。あの後、素敵なお礼状ありがとうございました」
「いいえ。ぜひまたお茶会を致しましょう。ホーリィとも次の日程はいつが良いか、この前会って話していたところでしたの」
マルガレーテはそう言うと、ふふと口元に扇子を当てて笑った。
ほのかにその頰が色づく。
「それにしても、先ほどの。見ておりましたわ」
「あ…」
レリッサは、一旦冷めていた頰の熱が、また戻ってきたのを感じてうつむく。
「すみません…」
「いいえ。羨ましいですわ。あの様子を見せられては、やはりゴシップはただのゴシップでしかないと、嫌でも思い知らされますわね」
「え…」
レリッサは顔を上げる。
マルガレーテは優しげな微笑みを浮かべてレリッサを見ていた。
「あの後、少し空気が変わったように思いましたから、皆さん、きっと同じように思われたのではないかしら?」
今朝のあの記事が、ただの眉唾なのだと。
レリッサには、すでに想う人が他にいるのだと。
この超満員の夜会の中で、おそらく全員があの瞬間すぐに理解をしたのだ。そうせざるを得ないほど、レリッサ達は目立っていたし、レリッサの表情はあまりに分かりやすかったに違いない。
(リオン様…もしかしてわざと…)
レリッサの居心地の悪い思いを払拭するために、わざとあんな目立つことをしたのだとしたら。
レリッサは胸元を握りしめた。
じわりと、胸の奥が温かい気持ちになる。
「では、私はこれで」
マルガレーテが小さく礼を取って、お手洗いを出ていく。
レリッサは鏡台に向かって立つと、少し崩れかかった髪に手をかけた。
緩んだピンをもう一度付け直したり、編み込みを引っ張ってみたりと、いろいろやってみて、なんとか形になった。リリカローズを元の位置に差し直す。
「できた…」
リリカローズが落ちてこないのを確認して、レリッサは小さく息を吐いた。
自然、甘い吐息になったことには気づかない。
鏡の中で、少し頰を染めたレリッサが、アメジストの瞳でこちらを見返してくる。
(どうしよう…)
戻らなければ。
けれど、戻ったらまたきっと、胸が高鳴ってしまうだろう。
出会って間もないはずなのに、気づけばこんなにも好きになってしまったのだ。
『恋に時間は関係ないの。たくさん恋をしてきた私が言うんだから、間違いないわよ、お姉様』
いつだったか、ホーリィが言っていた。
(本当だわ…)
いつからかは分からないけれど、恋に落ちるのは一瞬で、落ちてしまえば、元いた場所にはもう戻れない。
(諦められるかしら…)
それでも、この想いは告げられない。
胸に痛みが走った。
ジクジクと痛むのを、手を当ててやり過ごす。
リオネルに爵位があれば。そんなことを思ってしまう自分が嫌だ。
「戻らなくちゃ…」
時間をかけすぎた。
リオネルが心配しているかもしれない。
レリッサは鏡台から離れて、全身をくるりと見回してから、お手洗いから出ると急いで広間に入った。
すでに何曲かダンスが終わった後だ。レリッサたちが先程までいた位置には、グラスを片手に歓談する人々で溢れていた。
「あら、レリッサさんじゃありませんこと」
不意に。声がかけられた。
コツコツと近づいてくる複数のヒールの音。
しまった、と思ったが遅かった。
レリッサは扉を背にしたまま。令嬢たちがレリッサを取り囲んだ。
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