14. レリッサと夢の終わり1

 早朝。まだ陽も上りきらぬ頃、レリッサは書斎の前に立っていた。

 冬の朝だ。まだ人気のない廊下はひんやりとしている。それでなくても緊張で手が冷えて、ナイトドレスの上に羽織ったガウンの前を強く握りしめる。


 今夜は夜会がある。元々早く起きる予定ではあったが、マリアに予定より少し早く起こされたのは先ほどのことだ。

 父が突然帰ってきて、レリッサを呼ぶようにと言ったという。


(なにかしら)


 こんなことは今までなかった。

 軽くノックをする。その音も、シンと静まり返った屋敷の中では大きく響いた気がした。


「入りなさい」


 父の声が聞こえて、レリッサは一つ息を吐いてから扉を開いた。

 中に入ると、父が暖房用の魔法器具の調節をしているところだった。


「お父様、おかえりなさいませ」

「ああ。こんな時間に起こしてすまない。夜会の支度の前にと思ってな」

「お父様こそ。もしかしてそのために、この時間に合わせて帰ってきて下さったのではありませんか?」

「いや、私のことは良いんだ」


 そう言うと、父はレリッサの背中に手を添えてソファに座らせた。

 部屋の隅に控えていたハンナが、温かいお茶を目の前に置いてくれる。お茶のカップを両手で包んで暖を取っていると、父がためらいながら新聞をローテーブルの上に置いた。


「これは?」


 父が、ぺらりとページをめくる。

 目に入ったその見出しに、レリッサは息を詰まらせた。


『ラローザ伯爵令嬢 王太子妃争いに一歩抜きん出る』


「これは…」


 内容は、読まなくても分かった。

 先日、セルリアンに呼ばれて王宮に行ったことが、どこかから漏れたのだ。


「お前が王太子殿下に呼ばれて王宮に赴いたことは、私も報告を受けて知っている」


 父の、エメラルドの瞳がレリッサを見つめる。


「王太子と何を話した」

「何って…」


 レリッサは口ごもった。

 とても言いにくい。言いにくいが、父の表情は真剣で、誤魔化すことなどできそうになかった。


「その…リオネル様と、お付き合いをしているのかと」


 父が、少し視線を揺らす。

 レリッサは慌てて首を振った。


「否定しましたわ。実際、お付き合いはしていませんもの。それから…」


 レリッサは考える、どんな話をしただろうか。


「そうだわ…絵のお話を」

「絵?」


 父が、意外そうに目を見開く。


「はい。殿下は絵がご趣味でいらして。私の絵も二枚ほど描いてくださいました。とてもお上手で。スケッチの方は頂いて帰ってきたのですが、後でご覧になりますか?」

「そうだな…、後で見せてもらおう」


 それから、と父は言葉を繋いだ。


「もう一枚はどうした?」


 もう一枚。あの素描はどうしただろう。


「さぁ…。おそらくまだ王太子殿下のお手元にあるのでは、と。お部屋にもたくさん絵が飾られていましたわ」

「そうか…そう言うことか…」


 父は、どこか得心がいったというように、小さく何かをつぶやいている。


「お父様?」


 レリッサが声をかけると、父は顔を上げた。


「いや、なんでもない。…レリッサ」


 父の手がレリッサの肩を掴んだ。


「気をつけなさい。今日はミルドランド公爵家での夜会だろう。ミルドランド家は政府派だ。シンプトン家とも親密な仲にある。噂では、シンプトン家の令嬢を王太子妃に据えるために、政府派を取りまとめていると聞く」

「まぁ…」


 そう言えば、とレリッサは思う。

 ホーリィがミルドランド公爵家のお茶会に行った時に、レベッカ以外の候補者を集めて牽制していたようだったと言っていた。

 ミルドランド公爵家にも妙齢の令嬢はいる。だがそれでもレベッカを王太子妃に推すということは、それなりの見返りがあるからなのだろう。


「わかりました。気をつけます」


 レリッサは肩に置かれた父の手に手を重ねて、安心させるように少し握って微笑んだ。




 夜会の日は本当に慌ただしい。

 本番は夜だというのに、夕方になる頃には、レリッサたちを磨き上げてくれた侍女たちはすっかり疲れ切っていた。なにせ少数精鋭のラローザ家。それも一度に四人もの支度をするとあって、休憩する間もないのだ。


 あとはドレスを着て化粧とヘアメイクをするだけというところで、侍女たちには一旦休憩に入ってもらって、サロンには姉妹だけが集まっていた。

 ちなみにサマンサは今回の夜会に出席しない。以前の宣言通り、夜会には極力参加しないことにしたようだ。だが、家族団欒の場にはいたいと言う可愛らしい妹心で、こうして姉たちの休憩に付き合っていた。

 一方で男のライアンは、素肌にコルセットとバスローブをまとっただけという、視線のやり場に困る姿をしている姉たちに遠慮して、部屋で休んでいるようだ。


「なんだ。じゃあ本当にレリッサは王太子とお茶して帰ってきただけなのか」


 その引き締まった体をバスローブで包んだエメリアは、ソファに優雅に腰掛けながらそう言った。


 ここのところ夜会を避け続けてきたエメリアだったが、シーズンの開始からまもなく一ヶ月を迎えるとあって、さすがにこれ以上は避けられないと判断したのだろう。今回の夜会は出席することにしたようだった。

 今朝方まで城下町の詰所で当直をしていたのでほとんど寝ていないはずなのだが、平気そうな顔をしている。


 エメリアの手元には、今朝レリッサが父から見せられた新聞が握られていた。


「そうよ。それ以外に何があるというの?」


 レリッサがそう尋ねると、エメリアはにやと妖艶に笑って、新聞をテーブルに置いて立ち上がると、ソファに腰掛けるレリッサの手をとってその場に跪いた。


「どうか、私の妃になっていただきたい。――とかね?」


 声色をわざと少し低くして言った。おまけに、スタッグランド王国の正式な求婚の手順である、握ったレリッサの手を額につけ、そのあと唇を落とすと言う仕草付きである。

 中性的なエメリアがやると、女性だと分かっていてもあまりに様になった。


「きゃーーっ! エメリアお姉様ステキ! 私もされたい!!」


 ホーリィが頰に手を当てて、エメリアに同じことをしてくれるようねだっている。

 エメリアは、丁寧にもホーリィとサマンサにも同じようにしてから立ち上がった。


「ま、それは冗談として」


 腰砕けになっているホーリィと、顔を真っ赤にして固まっているサマンサに背を向けて、エメリアは何事もなかったかのようにソファに戻った。


 ちなみに、レリッサもかなりときめいてしまった。妹として、エメリアの魅力にはある程度免疫があるつもりなのだが、それでもこれである。もしエメリアのファンに同じことをすれば、冗談ではなく失神者が続出することだろう。


「レリッサは今日の夜会は気をつけた方がいいな。今日の夜会は王太子も出席する。もちろんレベッカ・シンプトンも来るだろう。あの女はいつだって過激な方法を好む」


 レベッカを嫌という程知っているエメリアが言うのだ。レリッサは、小さく唾を飲み込んだ。


「分かってるわ…」

「本当に気をつけてよね、レリッサお姉様」


 ホーリィが、まだ耳を赤くしながらも言った。


「本当はずっと側についていてあげたいけど、今日もマグフェロー公爵とだから…」

「マグフェローってあの爺さんかい?」


 エメリアが驚いてホーリィを見た。

 マグフェロー公爵は、前回の夜会の時にホーリィがパートナーを組んだ老紳士だ。とても気に入られて、今回も一緒にファーストダンスを踊ることになったらしい。


「そうよ」

「いくら何でも守備範囲が広すぎじゃないか?」

「男の人に興味のないエメリアお姉様には言われたくないわ」

「ちょっと待て。それじゃあ語弊がある」


 レリッサを心配していたはずが、ホーリィとエメリアがいつもの掛け合いを始めてしまった。

 レリッサが苦笑いをしていると、横から手が伸びてきて、レリッサの手をキュッと握った。サマンサだった。


「本当に気をつけてね。姉様」

「サマンサ…」

「こんなことなら、私も出席すれば良かった。そしたら姉様を守れたのに」


 パチッ、パチッ、とサマンサの周囲で青白い光が発光する。

 気が立っているのだ。


「もう…。大丈夫よ」


 レリッサは、サマンサの手を優しくぽんぽんと叩く。

 続いて頭を撫でると、サマンサは甘えるようにレリッサの手に頭をこすりつけてから、顔を上げてにこと笑った。


「ま、そうよね? 姉様にはリオン様がいるもの」


 サマンサは先日リオネルに会ってから、なぜかすっかり彼を気に入ったらしかった。

 レリッサは、サマンサの頭をもう一度撫でて、「そうね…」とだけ呟いて、曖昧に微笑んだ。




 時計の針は、あっという間に進む。


 支度を終えたライアンが、パートナーの令嬢を迎えに行くために、最初に出て行った。家を出る間際にレリッサの部屋に顔を出して、「何かあったら呼んでくださいね」と告げて言った。ライアンはライアンなりに、レリッサのことを心配してくれているらしい。

 次は、やはりさっさと支度を終えたエメリアが、レリッサの様子を見に部屋へやってきた。


「レリッサ。先に出るよ」


 軍服よりはやや明るい色合いの、深い緑のドレス。裾の広がりはさほどないが、その分スレンダーなエメリアによく映えた。軍服を模した立ち襟のボレロを合わせていて、その胸には軍の階級を表すメダルが飾られている。軍属の令嬢はあまりいないので目にする機会はそうないが、この立ち襟のボレロは軍属の女性の正装用衣装だ。ドレスの方は自前なので、ボレロに合わせて何着か作ってあるうちの一着だ。


「もうお迎えがいらしたの?」

「ああ。少し早めにと頼んでおいたんだ。早めに着いて、現場の警備状況を確認したくてね」


 今日のお相手は、同じ部隊に所属する同僚だと言っていた。

 休みの日にまで仕事熱心なことだ。職業病と言っていいかもしれない。

 エメリアは、去り際に「くれぐれも気をつけて」と、レリッサの肩に手を置いてから出て言った。


「…戦地に赴く兵士の気分になってきたわ」


 レリッサはため息交じりに呟いた。

 みんな心配してくれているのだろうが、ああも口々に「気をつけろ」と言われると、余計に気持ちが落ち着かない。

 レリッサの髪を梳かしながら、マリアが鏡ごしに「ふふ」と笑ったのが見えた。


「皆様、お嬢様のことが心配でならないのですわ」

「分かっているけれど…」


 マリアが、するりと髪から櫛を抜く。側に控えていたもう一人の侍女に櫛を渡すと、レリッサの髪を持ち上げた。緩やかにウェーブするしなやかな髪だ。マリアはそれを、器用に数カ所編み込んでまとめていく。


 今日は以前リオネルが贈ってくれた紺と銀のドレスにした。紺地の部分には同色の刺繍が刺されていて、銀色に輝く透け感のある生地はふわりとして、やはり銀糸で刺繍と小さなパールがいくつも縫い付けられている。

 マダム・モリソンはドレスと一緒に、このドレスに合うパールのアクセサリーも用意してくれていた。


「できましたわ」


 マリアが、鏡でレリッサの後ろを見せてくれる。

 その出来上がりに、レリッサは小さく息を吐いて、パチパチと手を叩いた。


「さすがマリアね。まるで魔法みたい」

「あら、恐れ多いことですわ。慣れれば誰でもできますのよ」


 マリアは、鏡台に飾られたリリカローズを一本手に取った。鋏で茎の長さを調節して、レリッサの髪に差し込む。


「これで完成ですわ」


 そう言うと、マリアともう一人の侍女がレリッサの横でスカートをつまみあげ腰を落として、簡易の礼をとった。


「お嬢様。我々使用人一同も、お嬢様の無事のお帰りを願っております」

「…大袈裟だわ」

「何が大袈裟なものですか」


 マリアが顔を上げる。

 その瞳の奥に、心からレリッサを案じているのだという懸念の色を感じて、レリッサは安心させるように微笑んだ。


 レリッサとて、不安な気持ちがないわけではない。

 それでも、行かない訳にはいかないのだ。


「大丈夫よ」


 レリッサがそう言って、マリアの手をきゅっと握ったのと同時に、扉がノックされた。


「お姉様。リオン様がいらっしゃったわよ」

「ホーリィ」


 ベビーピンクのドレスを着て、髪をハーフアップにしたホーリィが顔を覗かせていた。


「ありがとう。…ホーリィにしては珍しい色の選択ね?」


 ホーリィははっきりした色合いのドレスを好む。

 このように可愛らしい印象のドレスを着ているホーリィを見るのは、子供の頃以来のことだ。

 レリッサの指摘に、ホーリィはなんとも言えない顔をして苦笑いをした。


「これ、マグフェロー公爵からの贈り物なのよ。贈り物だから着ないわけにいかないんだけど…、どうやら公爵は、私のことをまだ幼い赤ちゃんか何かと勘違いされているみたいね」


 よわい七十を数えようかと言う公爵にとっては、十七のホーリィは確かに随分子供だろう。それはそれとして、公爵は贈る相手の好みを把握するというプレゼントの基本的な部分を怠ったようだ。


「でも似合ってるわ。ホーリィもたまには、こういう優しい色合いを身につけるのも良いんじゃないかしら」

「んー、これっきりにしとくわ。外見はともかく、内面がそぐわないもの」

「そんなことないのに」


 実際、よく似合っていた。

 柔らかな色合いのドレスが、ホーリィの少し気の強い性質を柔らかな印象に変えている。


「私のことは良いの。ほら、行きましょ。あんまりお待たせしちゃダメでしょ?」


 そう言って、ホーリィが後ろに回ってレリッサの肩を押した。

 肩を押されながら、そのまま廊下に出る。


「もうホーリィったら、そんなに強く押さないで」

「あら、だって早く会いたいでしょう?」

「それは…」


 レリッサが返事をし切らないうちに、肩を押していたホーリィの手が離れた。

 気づけば階段の上だった。

 後ろを振り向くと、ホーリィは柔らかく微笑んで、レリッサの耳に顔を寄せた。


「お姉様の気持ちは分かってるつもり。だけど色々考えすぎるのは、お姉様の悪い癖よ。今は、今を楽しまなくちゃ」


「そうでしょ?」とそう言って、ホーリィは背中をポンと励ますように軽く叩いた。

 それから、階段の下を目線で指し示された。

 その視線を追っていくと、玄関ホールでダンと談笑していたリオネルが、レリッサに気がついたところだった。目が合う。その瞬間、彼から目が離せなくなる。


 胸が高鳴る。

 とくとくと優しく、けれど早足で胸が鳴る。その音を聞きながら、レリッサは階段に足を伸ばした。


 レリッサが階段を降りていくのを、迎えるようにリオネルが階段を上がってくる。

 彼もまた、その琥珀色の瞳にレリッサしか映していない。そのことに、言いようもない歓喜を感じて、レリッサはほぅと息を吐いた。


 階段の中腹で、リオネルがレリッサに手を差し伸べてくる。レリッサは引きあうように彼の手に手を乗せた。


「こんばんは、レリッサ」


 リオネルが微笑む。

 優しく目が細められて、レリッサの胸がきゅうと締め付けられる。


「お待たせしてすみません」

「うん。――君に逢うのが待ち遠しかった」


 一昨日会ったばかりだ、なんて、そんな無粋なことは言わない。

 それが、そんな意味で口にされた言葉ではないことは、レリッサにも分かった。


「行こう」


 リオネルが優しくレリッサの手を引いた。


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