13. ホーリィとエド2

 一番最初にエドが手紙をレリッサに持って来た時、ホーリィはすぐに『リオン様の遣いのエド様』が、自分がよく知るエド・レインだということに気がついた。


 ラローザ家の兄弟姉妹きょうだいが、その日あったことを互いに話すのは日常のことだったから、レリッサが嬉しそうに、そしてどこか恥ずかしそうにリオネルから手紙をもらったことを夕食の席で話したのも、何ら変わりのないいつものことだった。

 ただいつもと違ったのは、ダンやマリア達までがその会話に加わって来たことだ。曰く、とても話しやすい男だったと。


『エド』と言う名は、そう珍しい名前じゃない。この王都の中にも両手で足りないくらいの『エド』がいることだろう。だがその中に、人から殊更に『話しやすい』と言われるエドは、きっとホーリィが知る彼しかいなかった。

 なぜなら、それこそが彼の『特性』だったから。




 中身のない宝石箱のようだ――

 いつだったか、何番目かにお付き合いをしていた人が去り際にホーリィを指して言った言葉だ。


(知ってるわ)


 そんなことは、言われなくてもホーリィ自身が知っている。


 凛々しく麗しいエメリアには、女だてらに剣の道がある。成績も優秀で、身のこなしに無駄のない彼女はダンスや普段の所作の美しさも格別で、すらりとした長身で踊れば華があった。そんな彼女が、今や軍人で、ドレスではなく軍服を纏い、扇子ではなく剣を持つ。もったいないとも思うが、いかにも姉らしいとも思う。


 二番目の姉レリッサには、人の追随を許さない読書量で鍛えた聡明さが。華奢な体に愛らしい顔立ち、控えめで大人しい性格だが、それがかえって、男たちに簡単に触れてはならぬという高貴な印象を与えている。まさに岸壁に咲く一輪の華。絶対に手折ってはならない。見ているだけでそんな気にさせるのだと、誰かが言っていた。


 たった一人の妹サマンサには、言うまでもない、生まれながらにして魔法の才があった。時に人形のようと称される可愛らしい風貌に似合わず、クールで人付き合いを不得手とする性格ながら、根は優しいので弱い者に手を差し伸べずにはいられない。それが分け隔てないので、意外と人から好かれている。


 ホーリィには、何もない。剣も、知性も、魔力も。幼い頃は、妖精のようだと言われた。成長してからは、女神のようだとも。けれど、それだけだった。ホーリィの中身は空っぽで、持っているのは外側の美しさだけだった。他の兄弟姉妹きょうだいを誇りに思えど、妬んだことはない。ただ、空虚だった。


 そんなだったから、昔から人のことをよく見ていた。その人が何を持っていて、何を持っていないのか。


 持っている人を見ればただ無闇に憧れた。逆に持っていない人を見ると、安心した。自分と同じだと思えたから。

 社交界にデビューした頃には、それはすっかり癖のようになっていて、扇のこちら側で愛想良く微笑みながら、人間観察をするのが常だった。そうすると不思議といろんなことが見えてくる。


 にこやかに微笑みあっている女性たちが、実は互いに良く思っていなかったり。ただすれ違っただけの男女が一瞬触れ合わせた指先が、二人が道ならぬ恋に燃えているのだと気づかせてくれたり。


 だから、彼の存在に気づいたのは、ホーリィにとっては必然だった。


 女も男も華やかに着飾る夜会の空間で、むせ返るような香水の匂いの中にただ一人。鳶色の髪に、同じ色の瞳。品を保つギリギリの地味さで彼は居た。にこやかに笑顔を浮かべて、彼がワイン片手に話しかければ、周囲を巻き込んで必ず人の輪ができた。話が盛り上がり出した頃、彼はすっとその場を離れる。話のきっかけは彼だったはずなのに、いつの間にか彼がいなくても話は展開し始めて、誰も彼がいなくなったことにすぐには気づかない。


 何度か、話の輪にいた人たちに、彼の名を尋ねたことがある。

 けれど、なぜか誰も彼の名前を知らず、顔さえよく覚えていない。だから彼らは、二度目に彼が目の前に現れても気づけない。


 気づいたのは、ホーリィだけ。

 一度彼の存在に気づいてしまえば、探し出すのは案外容易だった。話が盛り上がっているところに目を向ければ良い。大きな夜会には大抵彼もいた。


 最初は、ただ気になっただけだった。やたらと話の盛り上がっている一団がいるなと。そしてその中心に彼を見つけた。


(お兄様より上かな。二十五…とか、それくらい? よく笑う人。あ、でもダンスの誘いは断るのね。下手なのかしら)


 どうしてだか、彼が気になって仕方なかった。だからホーリィは、夜会のたびに彼を探して、ずっと見ていた。


 それを数度重ねるうちに、彼が、その年齢にそぐわない人々と多く言葉を交わしていることに気づいた。

 若者は、若者同士で集まりがちだ。けれど彼は、ホーリィ達若者の輪にはほとんど入ってこなかった。

 やがて社交界に慣れて、彼が言葉を交わした面々の家門が分かってくると、彼が言葉を交わすのはいつも、政府派の人間だということにも気づいた。


(何かを探っているのかしら…)


 気づいて見てみれば怪しいことこの上ないのに、誰も彼に意識を留めない。

 ただ確実なのは、彼がとても話を回すのが上手い男だということだった。彼の周りには、いつも笑顔があって、人々は気持ちよく彼にいろんな話をしていた。そして彼は、目的の話を聞き出すと、そっとその場を離れるのだ。




「僕と踊らない?」

「気分じゃないわ」


 ホーリィは学園の同級生に声をかけられて、扇を振ってふいと顔を背けた。それだけで、彼は肩をすくめると、「またね」と言って去って行った。


 社交界にデビューした当時、ホーリィは今とは違って壁の花を決め込むことが多かった。言葉を交わしたこともない男性にいきなり誘われてダンスを踊るのは疲れるし、ダンスをしながら身体に注がれる、不躾で下品な視線にもうんざりだった。


 不用意に相手の会話に乗ってしまえば、話が盛り上がったと相手が勘違いして、そのまま別室に連れ込まれそうになるということが、最初の頃は何度もあった。


 だからダンスを踊っても、後腐れがないように会話は最低限にした。それから、断っても問題のないような――先ほどの同級生のような相手の誘いは、極力断ることにした。


 不思議なことに、誘ってもなかなか応えてもらえないと分かると、かえって誘いが増えた。いつの間にか高嶺の花の扱いになっていると気づいたのは、少し経ってからだ。ホーリィは、気づけば男性の誘いが引きも切らない『社交界の華』になっていた。


 誘いをいちいち断っていくのも疲れる。ファーストダンスを踊った相手とずっと一緒にいられれば虫除けになるのかもしれなかったが、それはそれで、変な勘違いをさせる。

 あるいは姉のように婚約者を決めれば無駄な誘いは減るのだろうが、ホーリィには今の所、婚約者を決めるつもりはなかった。


「疲れた…」


 その日ホーリィは、最低限応えなければいけない誘いにだけ応えて、さっさと一人でバルコニーに逃げ込んでいた。

 このまま、時間を潰して夜会がお開きになる頃に戻ろうか。季節はまもなく夏。長く外にいてもなんら辛いことはない。


「もう夏か…」


 ホーリィの、デビューして最初のシーズンが終わろうとしている。

 どこか感慨深い気持ちになりながら、バルコニーの欄干に肘をついてもたれかかっていると、不意に後ろのガラス戸が開いた。


 バルコニーからは庭園に出る階段が伸びている。誰か、これから庭園に出て睦み合うつもりなのだろう。

 気まずい思いで、バルコニーに入ってきた人物から顔を背けようとして、ホーリィはハッとして顔を引き戻した。


 あの『彼』だった。

 それも一人だ。


(どこへ行くのかしら…)


 彼がバルコニーから庭園へ降りていく。小さな鼻歌が聞こえる。

 ホーリィは彼がバルコニーの階段を降りきったのを確認すると、彼の後を追った。躊躇わなかった。


 彼は庭園を奥へ奥へと進んでいく。足取りに迷いがない。何度か来たことがあるのかもしれない。

 幸い生垣の多い造りの庭園で、隠れるところはたくさんあった。彼が角を曲がると、生垣の陰から出て走り、また彼が角を曲がるまで隠れて見る。というのを何度か繰り返した。


(しまった…見失ったわ)


 曲がってすぐにまた道が枝分かれしていた。彼がどちらへ行ったのか、もう分からない。

 それでもなぜか諦めきれなくて、ホーリィはなんとなく、まっすぐ伸びる道を選んで進んだ。


 どうしてこんなに必死に、彼を追っているのかも分からない。追ってどうするつもりなのか。声でもかけるつもりか。


 けれど足は止まらなくて、やがて生垣が目隠しになった四阿を見つけて、ようやく足を止めた。

 音が聞こえたからだ。

 人の息遣いと…わずかな衣擦れの音。


「はい、ストップ」


 後ろから、腕を引かれた。

 悲鳴を上げなかったのは、ホーリィにしては賢明な判断だった。


 ホーリィの腕を引いたのは、あの『彼』だった。


 彼は黙ってホーリィの腕を引いて少し道を戻ると、腰に手を当ててホーリィを見下ろした。


「ここから先は、デビュタントして間もないお嬢ちゃんには、ちょ〜っと早いかな? 出歯亀したいってんなら、止めないけど? 分かるよ、分かる。そういうの気になっちゃうお年頃だもんな?」


 ホーリィは顔を真っ赤にして首を横に振った。

 ここから先、四阿の奥に何があるかは、彼に言われずとももう分かっていた。興味がないとは言わないが、そう言うのはまだ良い。


「君、ずっと俺を追ってきてたでしょ? 何か用? ラローザ家のお嬢さんに声をかけられるようなこと、俺したっけ?」


 想像したよりも、軽薄な物言いだった。

 ホーリィは小さくため息をついて、それから少し逡巡した。


 せっかく声をかけてもらった。この機会を、これだけで終わりにしたくなかった。

 なぜだかは、分からないけれど。


 だからホーリィは、彼の気の引く言葉を選んだ。


「あなた、何者? 政府の高官にばかり声をかけて。ご存知の通り、うちの父は軍のトップなの。問題があるなら、父の前に引きずり出して差し上げてよ?」

「…そう来るか」


 今より少し幼いホーリィの、その高飛車な物言いを、けれどエドは笑って受け流したりはしなかった。

 エドはこれから何度も見ることになる、降参を示す両手をあげる仕草をして苦笑いをした。


「ずっと見られてるな〜って思ってはいたけど、そこまで分かってたんだ。さすがラローザ将軍の娘。君、洞察力があるね」


 ホーリィは、目を瞬かせた。

 洞察力がある。

 そんなことを言われたのは、初めてだった。


「安心して。俺、どっちかって言うと将軍側の人間だから」

「お父様の?」

「そう。ま、俺の雇い主は将軍とはまたちょっと違うんだけどさ」


 そう言うと、彼は頭の後ろで手を組んで、元来た道を戻り始めた。


 彼を追ってきただけのホーリィには、もはやここが庭園のどこなのかは分からない。置いていかれてはたまらないと、彼の後ろを小走りでついていく。淑女の足の速さに合わせられないとは、残念な男だ。


 ホーリィは彼の後を追いかけながら、その背中に問いかけた。


「ねぇ、別の雇い主って誰?」

「秘密」

「あなた、軍人?」

「それも秘密」

「じゃあ、なんであんなことしてるの?」

「あんなこと?」

「例えば、政府の高官の輪に入って、情報収集みたいなことしたり? さっきも、誰と誰がああいうことしてるか、確認しに行ったんじゃないの?」


 そう言うと、彼はぴたりと足を止めて振り向いた。

 困った顔をしていた。


「君、本当に聡いね。やだなぁ、さすがラローザ家って感じだよ」

「嫌な言い方しないでくれる?」


 それからホーリィは、ふむ…と考え込んだ。


 周囲は、いつの間にかホーリィにも見知った景色になっていた。屋敷も見える。彼と一緒にいられる時間も、もうほとんど残っていなかった。


 だから言った。これは賭けだった。


「手伝ってあげましょうか?」

「…手伝う?」


 彼がいぶかしげな顔をした。

 ホーリィは頭の中で目まぐるしく舞う言葉を、なんとか唇に乗せた。

 どうしても、ここで彼との縁を切りたくなかった。


「あなたの情報収集のことよ。男性はご存知ないかもしれないけど、淑女のお茶会って、情報の宝庫なのよ。こんな夜会よりもずっとね」


 それは、男性の彼には立ち入ることのできない範疇はんちゅうだ。

 お茶会は、淑女は淑女だけを。紳士は紳士だけを誘うことが多い。男性は、お茶というよりお酒を供するのだろうが。


 そういうとき、女性たちは何を話すか。

 家族の話。夫のこと。子供達の事。そして「ここだけの話」と前置きされる、数々の噂話。

 夫の話は次第に家庭の愚痴に。子供の話は、やがて自慢に。噂話は、その人の性格をあらわにする。


 みんな気づかずに話しているが、そこから引き出せる情報は、場合によっては家庭の問題を通り抜けて、その向こうの家門や領地の情報に通ずることが多くある。

 だが女性は、男性の前では決してこんな話はしないのだ。


「私なら、あなたが知り得ない、けれどあなたより有益な情報を手に入れることができるわ。あなたの周りに、他にこんな役回りができる女性がいて?」


 いるかもしれない。

 だからこれは賭けだった。


「俺より有益な情報ってとこには、ちょっと疑問符つけさせてもらいたいんだけど…。でも、そうだね」


 彼は、小さくうなずいた。


「君の言うことも一理あるか。いや、でも怒られっかな〜、将軍のお嬢さんだし」


 頭をがしがしとかいている。

 品がないわけではないが、正直許容できるギリギリだった。

 だが、それはともかくとして、どうやら手応えがありそうだと判断して、ホーリィはもう一言後押しをした。


「お父様には黙ってるわ」

「…ほんとに?」

「ええ、誓って本当に」


 彼は少し考え込んだ末に、意を決したように手を差し出してきた。


「じゃあお願いする。俺はエド・レイン」

「知ってると思うけど、ホーリィよ」


 軽く手を握る。

 普段なら、大抵このまま手の甲にキスをされる。

 だがエドの手はすっと離れていって、ホーリィはなんだか名残惜しいような残念なような、なんとも言えない思いでその手を見送った。


「いやー、正直助かった。手詰まりだったんだよね〜。俺のご主人サマ、要求が高度でさ〜」

「あなたは密偵なの?」

「ま、そんなとこ。あ、俺、非力だから戦闘能力はゼロだから。軍側だけど、そこのとこよろしく」


 よろしくと、エドが手を挙げる。


「あ、ええと、契約書とかいる? 俺そう言うのよく分かんないけど」

「いらないわ」

「じゃあ、なんか見返りとかいる?」

「見返り?」


 ホーリィは首を傾げた。

 そんなことは、思いもしなかった。


「特にないけど…」

「えー。まぁ、俺が提供できるもんなんて、ほとんどないけどさ〜。こっちは、雇い主に関することは秘匿したいし、俺のこともそんなに話してあげられないし、なのに情報提供してもらうのもな〜。いや、うちのご主人サマ、ほんと人遣い荒いから、きっと君にめっちゃお世話になると思うし…」


 何かない? と再度聞かれて、ホーリィは少し考えた。

 求めるものは何もなかった。彼と繋がりができた。それだけで、ホーリィの望みは達成されていた。

 けれどここで対価がなければ、この契約は長く続かない気もしていた。


「そうね…。何か…うちの領地に有益な情報が欲しいわ。あなたの情報収集の中で出てきたことだけで良いから」

「なるほど。それならお安い御用だ」


 そう言うと、彼はにこりと笑った。

 人好きのする笑顔。目尻に笑いシワがくしゃりとできた。


 それからホーリィとエドは、いくつか決め事をした。


 基本的に、ホーリィが情報を収集できるのはシーズンの間だけ。夏の間は領地に戻ることが多いので、お茶会の機会自体がぐんと減るのだ。

 お互いの連絡には、青いスカーフを使う。ホーリィは自分の髪と目の配色にあまり合わないので、この色のドレスを着ることがほとんどない為だ。お互いの服装のどこかに青を忍ばせ、見つければ適当なところで落ち合うこと。

 危険なことは依頼しないし、もし依頼されても応じないこと。情報収集の過程で危険が生じそうな場合は、深追いしないこと。この項目は、今に至るまでそんな事態には至っていないが。




「ホーリィ?」


 ホーリィは、声をかけられてハッと顔を上げた。

 いつの間にか、彼と出会った頃のことを思い出していた。

 エドは、先ほどの意地悪な笑みを引っ込めて、心配そうに腰をかがめてホーリィの顔を見ていた。頭に手を置かれる。


「大丈夫? なんかしんどくなった?」


 ホーリィは、頭に上に置かれた手を払いのけた。


「子供扱いしないで」

「やだなー。まだ十七じゃん。俺にとっちゃ十分子供」

「そうね、あなた見た目より年いってるものね」

「失礼な。俺だってまだギリギリ二十代です〜」


 口を尖らせて、二十、九と手で指し示すエドに、ホーリィは盛大にため息をついて。それから、スカートの縫い目のポケットからメモを取り出した。


「はい。本題」

「お、ありがとさん」


 複数枚に渡る小さなメモに、エドはざっと目を通して小さくうなずいた。


「これ洗い出すの大変だったでしょ。いつもありがとね。あと、こっちはこれ」


 エドが、コートの胸元から同じように小さなメモを取り出した。


「これは?」

「今年不作だった領地のリスト。これ使って、恩売るなり、いつもより農産物の値段上げて利益取るなり、使い道は結構あるんじゃない? ラローザ領、今年豊作だったもんね」

「なるほどね。お兄様にそれとなく言っとくわ」


 ホーリィはポケットにメモを仕舞うと、話は終わったと先に屋敷に戻ろうと歩き出したエドの背を追った。相変わらず、歩幅を合わせるということのできない男だ。


「ねぇ」

「なーに?」

「ひとつだけ教えてくれないかしら」


 なに? とエドが振り向く。


「リオネル・カーライル。…お姉様が好きになっても、問題ない人物よね?」


 もしかしたら、縋るような響きだったかもしれない。

 脳裏に、悲しげに笑うレリッサの顔が浮かぶ。

 ホーリィが見たいのは、いつだってレリッサの笑顔だけなのだ。


「んー。俺が言えるのは、ひとつだけ」


 エドは、今度は誤魔化さなかった。

 ふっと口元に笑みを浮かべて言った。


「俺はあいつに命かけてる。それに足る人間だってことだけ」



**********



 ラローザ家を出た足で、エドは軍の本部に戻っていた。


 エドは、正式には軍籍ではない。官位も肩書きも持たない。それでも軍の総本山である本部に入るのに、エドを見咎める者はいない。

 行き慣れた回廊を歩き、すれ違う兵たちと気軽に挨拶を交わす。こんなところでも、エドの人の良さは発揮される。


 回廊を行き、階段を降り、さらに歩く。やがて足元はいつもの石造りの廊下に変わり、古ぼけた扉の前に行き着く。

 軽くノックして中に入ると、中ではこの部屋の主人と将軍がソファに対面で座り、膝を突き合わせて何かを見ていた。


「おっと…。ごめん、出直すわ」


 エドの仕事は、軍内部の仕事とは一線を画す。故に、軍の事情にはノータッチというのがエドの基本姿勢だ。よって部屋を出ようとしたのだが、扉を引く前に声がかかった。


「お待ちください。私の用件はちょうど終わったところですので」


 そう声をかけてきたのは将軍の方だった。

 彼はリオネルの私的な部分には口を出さないと言うスタンスなので、よく顔を合わせはするが、こうしてエドに自ら声をかけてくることは滅多になかった。

 将軍はリオネルに向き直ると、軽く礼をとった。


「では、手筈通りに」


 そう言うと、将軍はエドの横を通り過ぎて部屋を出て行った。


「タイミング悪かった?」

「いや、本当に終わったとこだ。そっちの報告を聞こう」


 そう言って、リオネルが先ほどまで将軍が座っていた、ソファの向かい側を指し示した。

 ソファに腰掛けようとして、テーブルの上のものに目が止まる。

 新聞があった。ゴシップ欄が開かれている。内容は、深く読み込まずとも見出しで知れた。


『ラローザ伯爵令嬢 王太子妃に内定か』


「ってこれ、明日の新聞じゃん」


 記事の上に記載された暦が、明日の日付になっている。


「将軍が入手してきた」


 リオネルはさも当たり前のように言ったが、簡単にできることではない。新聞屋にとって、未来の記事の流出は大問題だ。


(新聞屋と通じてんだ。こわっ)


 良いのか、軍部と新聞屋がツーツーで。

 そうは思ったが口には出さない。


「やっぱ、昨日のが漏れてんだ」

「どこから漏れるのか…。当時、宮殿は人払いがされていたから、レリッサが王宮に着いてから出るまで、ほとんど人に会わなかったと近衛からは報告があったんだけどな…」


 リオネルがため息をついて弱り切った顔で言った。

 それにしても、とエドは紙面をトントン、と指で叩いた。


「良いの。これ?」

「ああ、流石に誇張が過ぎるってことで、見出しを変えさせることにしたよ」


 そんな権限まであるのか、とエドは汗をかく。

 だが、エドが言いたいのはそこではなかった。


「違うって。本当にお嬢様、王太子妃になっちゃうかもしれないじゃん?」

「…本人は、そのつもりはないって」

「そんなの、意見が変わることもあるでしょ」


 エドは、リオネルの眉間の皺を指で突いた。


「お前が悠長なことしてる間に、横からかっさらわれても知らないからな。ちゃっちゃと本気出せよな」


 人の恋路に口を出すことほど野暮なことはない。

 最低限、言いたいことは言った。

 これ以上この話をする必要はないだろうと、エドは胸元から先ほどホーリィから手に入れたメモを取り出した。


「で、これ、ホーリィから来た情報ね。ここ最近政府派で特に密な交流が見られたのは――」


 エドは言葉を止めた。

 目の前に座るリオネルが、相変わらず紙面を険しい顔で見つめているからだった。


(なんだよ。そんな顔するくらいなら、さっさと手に入れちゃえば良いのに)



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