17. レリッサと夢の終わり4

 はぁと小さなため息をひとつ。

 零した吐息は、開かれたまま一向にページが進まない本に落ちて消えていく。


『君が好きだ』


 耳の奥に不意に彼の声が響いて、レリッサは本に顔を沈めた。


「あぁ…だめ…」


 顔が。顔が緩む。

 ダメだと思っていても、嬉しくないはずがなかった。

 想っている人が同じように自分を想ってくれることが、こんなに嬉しいなんて。


(そういえば…、あの人の時は、こういうのはなかったな…)


 ふと、前の婚約者のことを思い出す。

 思えば「好き」だとか「愛してる」とか、そう言うことを言われた記憶があまりない。「婚約して欲しい」とは言われたけれど。


(でも、お断りしなくちゃいけないのよね…)


 そう考えて、またため息をひとつ。


 レリッサは伯爵家の次女だ。上にはエメリアがいて、なんだったらホーリィだってサマンサだっている。他家との縁を結ぶのは、別にレリッサでなくても良いはずだ。このまま、平民に降りて、彼と生きていくも良いのではないか…。そこまで考えて、けれど、そんなことはできない、とどこかからもう一人の自分が現れて頭の中で言う。


 エメリアは軍人で、今のところ結婚を真剣に考えている様子はない。有事があれば、戦場に出ていく身でもある。サマンサはこれから魔術師団に入るのだ。レリッサはよく知らないが、魔術師となった時点で、結婚とか他家との縁が…などと言うのは二の次三の次なのではないか。


 だとしたら、ホーリィ一人にこの責を負わせるのだろうか。そのために、妹が望まぬ結婚をするのだとしたら。


(そんなことは…ダメ)


 自分のことは良い。けれどホーリィには幸せな結婚をして欲しい。

 レリッサはそこまで考えて、そしてまたため息をつくのだ。


 そうなると、やはり断るしかないのだと。


「「…はぁ…」」


 吐き出したため息が、図らずも重なった。


 斜め前から、同じタイミングで息を吐き出したのは、朝から上の空のホーリィだった。

 てっきり昨日のことをからかうなり何なりしてくると思っていたのだが、見ての通り、朝に顔を合わせてから、ため息ばかりついてどこか宙を見つめている。


 ホーリィは浮かない顔でこちらに顔を向けた。


「お姉様、どうしたの。ため息ばかりついて」

「…ホーリィこそ」


 いつも快活明朗なホーリィが、こんな表情をしているのは珍しいことだった。レリッサは自分の悩み事を一旦脇に置いて、ホーリィの隣の、普段エメリアが座っている位置に座り直した。


「どうしたの、一体」

「それがね、これ…」


 ホーリィが、ポケットから小さな箱を取り出した。

 ベルベットで包まれた、手のひらに収まるサイズの箱だ。「開けてみて」と言われて、レリッサは箱を手にとって縦に開いた。


「…これっ!」


 小さな箱の中央。綿を含んだ白い絹の膨らみが二つ。その間に固定されているのは、紛れもなく指輪だった。

 シンプルな金の土台に、中央にはそれなりの大きさのアクアマリン。薄い色合いの水色が、光を反射しながらそこに鎮座していた。


「これって…求婚指輪じゃ…」


 レリッサは指輪とホーリィの顔を交互に見た。ホーリィが、こくんと頭を縦に振る。


 スタッグランド王国では、求婚する際に、自身の瞳の色と同じ宝石を冠した指輪を贈る風習がある。俗に求婚指輪と言われ、その返礼として相手からも瞳と同じ色の指輪を贈られることで、婚約の成立となり、求婚指輪はそのまま婚約指輪として使われる。

 レリッサも数ヶ月前までつけていた。


「どうしたの、これ…」

「マグフェロー公爵よ」


 ホーリィが、ここ最近夜会を共にしていた公爵だ。


「マグフェロー公爵って。もう七十歳を超えてらっしゃるでしょう? それに、再婚とかは考えておられないんじゃなかったの?」

「そう言ってたわよ。最初は確かに。ただ少し楽しい時間を過ごしたいだけだって…。こっちもマグフェロー公爵は中立派だし、政府派にも軍派にも顔が利くから、こう言っちゃ何だけど、都合が良いからお付き合いしただけだったんだけど…」


 どうやら、一緒にいるうちにマグフェロー公爵が本気になってしまったようなのだ。

 十代の滑らかな肌に、ホーリィの艶やかな色気と肢体は、年齢を問わず男性にとっては相当な魅力であるらしかった。


 それにしても七十過ぎのご老人まで虜にしてしまうとは、妹ながら恐れ入る。

 感心している場合でもないのだが、レリッサは感嘆のため息を隠せなかった。


「はぁ…すごいわね」

「すごいわよね! もうちょっとご自分の年齢を自覚して欲しいもんだわ! 何だったら孫と祖父よ!? ねぇ、どうなの?」

「…世の中には、ないことはないんじゃないの?」


 稀に聞きはする。ここまで年が離れているかは知らないが。そして、そう言う場合、大抵が政略結婚であった気もするが。


「やめてよ、もう…」


 ホーリィがソファの肘掛けにぐったりともたれ掛かった。

 レリッサはその背中を優しく撫でた。


「それで今朝からずっと悩んでいたのね」

「そう。お断りしに行かなくちゃ。…お姉様、ついてきてくれない?」

「私が?」


 レリッサは目を瞬かせる。

 ホーリィはガバッと身体を起こして、レリッサの手をぎゅっと握った。


「お願いよ! 一人でちゃんと断れる気がしないの!」

「良いけど…。でも私まで伺ってはご迷惑じゃないかしら?」


 レリッサはマグフェロー公爵とはほとんど面識がない。遠巻きに顔を見たことがあるくらいだ。


「大丈夫よ。公爵もお姉様とは一度お話ししてみたいっておっしゃってたし」

「私と?」

「王太子様のお眼鏡に叶った才女。如何なる者か、ってね」


 ホーリィがウインクをする。

 先ほどまで浮かない顔をしていたのが嘘のようだ。


「そういうことじゃないのに…」


 レリッサはため息をついてから立ち上がった。


「お姉様?」

「お断りするなら早い方が良いでしょう? 先触れはもう出してあるの?」

「お姉様!」


 ホーリィが立ち上がって抱きついてくる。


「だから大好きよ!」

「もう…調子が良いんだから」


 レリッサは苦笑いをしながらホーリィの頭を撫でた。




 マグフェロー公爵の屋敷は貴族街の外れにあった。大抵、貴族の屋敷は王宮に近い順に公・候・伯・子・男の爵位の順に、円状に広がっているのだが、公爵の屋敷は王宮から最も遠い位置に配置されていた。案外歴史の浅い公爵家なのかもしれないな、とレリッサは馬車の窓の外を通り過ぎる、大小様々、様式の異なる数々の屋敷を眺めながら思った。


 敷地の大きさも爵位の順に比例する。伯爵家から男爵家に至る間に、次第に屋敷と屋敷の間隔は狭くなった。だが軒を連ねる屋敷が不意に途切れ、広大な敷地が見えてきたと思った頃、馬車がとある邸宅の敷地内に入った。

 つまりそこがマグフェロー公爵家だった。


「お待ちしておりました」


 お仕着せのエプロンドレスを身につけた年の行った侍女が出迎えてくれた。

 屋敷の中は人気がほとんどなく、昼間だと言うのに薄暗い。馬車寄せから玄関に至る間にも、厚いカーテンで光を遮った窓がたくさん見えた。おそらく屋敷の規模に対して、使っている部屋はそう多くないのだろう。決して埃が溜まっているとか、掃除が行き届いていないというわけではないのだが、心地が良いとは言い難い。


 人はいないが、その代わり飾り付けは豪華だった。廊下に設置された棚の上に、壺やら置物やらが所狭しと乗っている。

 特別こだわりが感じられるとか、統一性があるとか言う並べ方ではないので、とてもごちゃごちゃした印象だった。


「こちらです。旦那様をお呼びしますので、しばしお待ちを」


 侍女は応接間にレリッサ達を置いて出て行ってしまった。部屋の中は無人で、お茶を給する侍女がいるわけでもない。


「マグフェロー公爵、ご家族は?」


 レリッサは、応接間のソファに腰掛けながらホーリィに尋ねた。

 夜会のパートナーを務めるくらいだ。それくらいの話はしているだろうと思って聞いたのだが、ホーリィは首を横に振った。


「知らないわ。公爵はご自身の話はあまりされなかったから…。いつも私の話を聞いてばかり」

「そう…」


 暖炉の上に、大きな肖像画が飾られていた。

 若かりし頃の公爵と、おそらく今はすでに亡いという夫人だろう。


「奥様、とても美人ね」


 ホーリィが感心したように肖像画を眺めて言った。


(確かに美人だわ…。そして、ホーリィに似てる…)


 レリッサは口には出さなかったが、公爵がホーリィに声をかけた理由が分かった気がした。

 茶に近い金の髪に、濃い緑の瞳。肢体は豊満。ホーリィと違うところがあるとすれば、夫人は可愛らしい顔立ちだった。ホーリィはどちらかと言うと年齢に対して大人びた風貌だが、今の公爵から見れば、ホーリィは十分可愛しく見えることだろう。


 一方で並び立つ公爵は、一言で言えば陰気な青年だった。黒い髪は肩で切り揃え、瞳は薄く色づく水の色。肌も青白く、身体もひょろりと細いので、豊満な夫人の横に並ぶと、公爵の存在感はほとんどないと言って良かった。実際、肖像画を目の前にすると、どうしても夫人の方に目が行ってしまう。


 この青年が、どんな風に成長して、どのような人物になったのだろうか。気難しい人だったらどうしようと、ちょうどレリッサが不安に思い出した頃、応接間の扉が開いた。


「ようこそ、ホーリィ。おや…」


 待ちかねていた、と言うような顔で公爵が入って来た。


 腰は曲がり、杖をついている。肖像画のイメージで、スラリとした人物が入ってくると思っていたレリッサは、少々面食らった。公爵は、すっかり小太りになっていた。かつて黒一色だった髪は、今や白に近い灰色だ。それを後ろで一つに結んでいる。加齢のためか、瞼が目にかかって、かつては美しく光っていたであろう、そのアクアマリンの輝きは、ぱっと見ただけでは伺えない。


 公爵の顔がこちらに向いて、レリッサは立ち上がって膝を折った。


「ホーリィの姉、レリッサ・ラローザでございます」

「ああ、貴女が噂の。一度会ってみたいと思っていた。さぁ、かけるが良い」


 座るようにと、促す手の指には、所狭しと嵌められた指輪の数々。どれも金と宝石を使った豪華な品だ。あまりまじまじと見るのは不躾だと思いながらも、その存在感に思わず目が奪われてしまう。廊下と同様、こちらもやはりごちゃごちゃした印象だった。


 屋敷の外観とは裏腹に、さすが公爵家というべきか、懐具合はかなり豊かなようだ。


「ホーリィ。私はがっかりしたよ」


 対面のソファに腰掛けるなり、公爵は背もたれにどっしりともたれ掛かってそう言った。

 非難する目つきで、ホーリィを見る。

 その途端、隣に座るホーリィがぴりっと緊張したのが分かった。


「断りに来たんだろう。昨日の今日で。酷いじゃないか」

「ごめんなさい。公爵…」

「私は君にたくさんの物を与えられる。もっと美しく着飾れる。何が不満だ? え?」


 なるほど、とレリッサは思った。

 マグフェロー公爵は、とても威圧的な話し方をする。その声色と話し方、そしてその佇まいで、こちらを圧倒してくる何かがあった。


 これでは、ホーリィが『ちゃんと断れる気がしない』と言ったのも頷ける。ホーリィ一人であったなら、この責めるような物言いで、公爵はホーリィへの求婚を押し通しただろう。

 ホーリィは、厄介な相手に手を出したのだ。


「マグフェロー公爵」


 レリッサは、ホーリィの背に手を当てて、公爵を見据えた。


「今回のご縁談、妹には身に余る光栄なお話です。ですが、妹はまだ十七。公爵家を切り回すにはまだまだ経験も浅く、とても公爵のお力にはなれませんわ」


 レリッサはここまで言うと、すっと息を吸い込んで、それからにこりと微笑んだ。

 決して、物怖じしてはならない。物事を交渉する上で、一番大事なことだ。


「…何より、年相応の方と、笑い合って同じ目線で物を見、同じ体験を通じて成長し、あるいは子を育み、そして寄り添って生きて欲しいと、そう願うのは、家族としては至極当然の考えと、そう思っていただきたいのです。ですから、今回のお話をお受けすることはできません」


 公爵がこちらを見つめてくる。

 その落ちかかった瞼の奥に、冷たい輝きをようやく捉えて、レリッサはそらすことなくその目を見た。

 隣でホーリィが、ハラハラとレリッサと公爵を見ているのを感じる。


「はっ」


 不意に、公爵がそう言うと、ぱんっと膝を打った。


「ははっ。これはこれは…」


 ぱんっぱんっぱんっと、何度も膝を打ちながら、笑っていた。


「これはやられた。なるほど。要するに、私がジジイだからこの求婚は受けれんと。そりゃそうであろう。なるほどな」


 公爵は、前のめりになって膝に肘をつくと、レリッサの顔を覗き込むように見た。


「はっきりと言うことよ。建前を並べ立てるようであったなら、いくらでも押し切れようが、年齢を縦にされれば私にはどうすることもできん。――良い女であるな」


 ぞくりとするような、低い声だった。

 隣に座っていたホーリィが、さっとレリッサの手を握る。


「公爵。だめよ。お姉様は…」


 すると公爵はホーリィに向かって手を振った。


「分かっておる。あれだけの騒ぎになっておるのだ。王族の持ち物に手を出すほど、私も愚かではない」

「…公爵、私は王太子殿下とはそう言ったような…」

「分かっておる」


 公爵はそう言うと、もう一度レリッサを覗き込むように見た。

 その冷たい色の瞳と目が合う。年に見合わない、強い光だ。


「王族はやめておけ。あれはロクな血ではない」


 だから王太子とはそう言う仲ではないのだと。

 レリッサは、思いはしたが、口に出すことはできなかった。


 公爵の反論を許さない圧倒的な口調と雰囲気に、すっかり呑まれてしまったからだった。


 レリッサが口を開けずにいると、公爵の方が先に視線を外した。


「もう昼だな。食べていくと良い。こんな寂れた屋敷だが、腐っても公爵家。料理人は一流だ」


 レリッサとホーリィは顔を見合わせた。

 正直、これ以上マグフェロー公爵と顔を合わせていたい気分ではなかったし、この屋敷にもいたくはなかった。

だが、相手はやはり公爵。この誘いを断れるほどの強い理由は、レリッサもホーリィも用意していなかった。


「では…」


 仕方なく共にした昼食だったが、結論から言えば、公爵の言うとおり料理人は一流で、非常に美味しい料理だった。

 公爵は、食事中はあの威圧的な態度は取らなかったし、グルメなのか、公爵がする食材の産地に関する話には興味深いものがあった。


「これはリンドール産の鴨肉だ。この時期、リンドールの鴨は良質な脂を蓄える。その上にはブレンダ産のオレンジソースだ。あそこは織物ばかりが注目されるが、実は良いオレンジが取れる。量は少ない故、こうして出回るのは少量だが、特別に融通してもらっておるのだよ」

「まぁ、そうですの…」


 レリッサとホーリィは適度に相槌を打ちながら、おしゃべりに夢中で一向に食の進まない公爵にひたすら付き合い続け、断りきれずに食後のお茶まで頂いて、ようやく二人が公爵家を後にしたのは、太陽が傾きかけた夕方間近だった。


「「はぁ…」」


 馬車に乗り込んで、真っ先に二人ともため息をついてしまったのは、言うまでもない。

 求婚一つ断るのに、一日掛かりだった。


「本当にありがとう。お姉様」


 動き出した馬車の中で、ホーリィがレリッサにもたれかかるように座って言った。


「どういたしまして。これに懲りて、本当に気の無い方とのお付き合いはほどほどにしておくことね?」

「…そうするわ」


 ホーリィが小さく息を吐いて頷いた。

 それを見届けて、レリッサは窓の外に視線を移した。陽の光が、石畳に馬車の大きな影を作る。


(こんな時間…。今日は、エド様はいらっしゃったかしら…)


 もうエドが手紙を持ってくるのは、すっかり習慣になってしまった。


 一本のリリカローズと、綺麗に文字が綴られた手紙。

 あの手紙を開封する瞬間の幸せな気持ち。

 それももうじきに失われてしまう。


 レリッサはそっと目を閉じた。


(私もお断りをしなくちゃ…)


 昨日預かった上着は、朝一番でマダム・モリソンにクリーニングの依頼を出した。明日か明後日には返ってくるだろう。

 そうしたらリオネルに上着を返しに行こう。


 そして言うのだ。

 気持ちを受け取ることはできないと。


 じわりと、胸に痛みが広がる。それを誤魔化すように、レリッサは目を開いて、こちらにもたれかかったままのホーリィに視線を落とした。


「どうしたの、ホーリィ」


 ホーリィは、顎に手を当てて、何事か考え込んでいるようだった。


「んー、ちょっと…気になって」

「気になる?」


 レリッサは首を傾げた。

 ホーリィが身体を起こしてレリッサの方を見た。


「さっきのマグフェロー公爵なんだけど…」


 がたんっと馬車が揺れた。

 車輪が石でも踏んだのだろうかと思っていると、素早いノックの音と共に、馬車と御者席を結ぶ扉が開いた。


「お嬢様方、少し飛ばします。捕まっていてください」

「え? えぇ…」


 レリッサが返事をし切らないうちに、御者が大きく手綱をしならせた。馬のいななきと共に、馬車が大きく揺れたかと思えば、突然速度を上げて走り始めた。


「きゃぁっ」


 ホーリィと二人、しがみつき合う。

 とても落ち着いて座席に座っては居られない。


「何事なの!?」


 レリッサは必死で捕まりながら、窓の外に目をやる。

 窓の外を、人影が通り過ぎた。

「え」と思っているうちに、人影の人数は増え続ける。


「あれって…」


 ホーリィも反対側の窓を見ている。おそらくそちら側も同様なのだろう。

 走り去る馬車に、群がるように近づいてくる人々。過ぎ去る一瞬では、しっかりと見ることはできなかったが、明らかに身なりは貧しい者のそれだった。


 全力で駆ける馬車に追いつくことはできないと悟ったのか、やがて馬車に群がる人はいなくなった。馬車も速度を緩やかに落とし、少し荒く揺れるくらいの速度に落ち着いた頃には、馬車は見慣れた屋敷の周辺に差し掛かっていた。


「お嬢様方、お怪我などされていませんか」


 馬車を止めるなり、御者が扉を開いて中を覗き込んできた。


「え、ええ…」


 手を差し出されて、順番に地面に降り立つ。

 長く揺れる馬車の中にいたので、怪我はなかったが胸のあたりが少しムカムカした。


「ギャラン、あれはなんだったの?」


 ホーリィもまた胸のあたりを軽くさすりながら、御者のギャランに尋ねている。

 ギャランは被っていた帽子を取ると、その帽子を手で弄びながら躊躇いがちに口を開いた。


「あれは…、お嬢様方のお耳に入れるようなことでは…」

「知りたいわ。教えて」


 ホーリィがもう一度強く促したので、ギャランは諦めたように小さくため息をついた。


「ここのところ王都に頻繁に、地方の貧民達が来るようになりましてね…。この辺り一帯は、伯爵家や侯爵家が多いんでほとんど見ませんが、子爵家あたりだと、よくうろついているようで…」

「出稼ぎに来ていると言うこと?」

「と言うよりは、物乞いと言ったほうが正しいかもしれませんね。運良く職を見つけられる者もいるんでしょうが、数が数なんで…。あちこちで盗みやら恫喝やらで悪いこと働く奴もいりゃ、ああして貴族街を回って施しを求めて一日中うろつく奴も…」

「まぁ…」


 そういえば、とレリッサは思い至った。


『最近、この辺りもだんだん素行の悪い奴らがうろつくようになりましてね。本来なら、こんな王宮に近い目貫通りなんかにゃ見かけなかったんだが』


 そんな話を聞いたのは、つい最近のことだ。


「まだ人々の噂程度ですが、冬が深くなる前に、ぞくぞくと王都に集まってるんじゃないかって言う話で。王都の外れにはすでに、貧民街ができ始めてるって言う話です」


 そう言うとギャランは、レリッサ達に言い含めるように「良いですか、お嬢様方」と言った。


「絶対に、王都の南東の外れには近づいちゃなりません。どうしても向かわれる際は、必ずこのギャランと、護衛を付けてください」

「わかったわ」

「あっちの方に用事ができることはほとんどないから大丈夫よ」


 レリッサとホーリィはそれぞれに、ギャランを安心させるように微笑んだ。



*********



 紙をめくる音が、広大にして閑静な部屋の中に、いやに大きく響いた。

 セルリアンは最後の書類に印章を押すと、書類の頭から文字を目で追って、軽く頭を振った。


「誰か」


 声をかければ、程なくして扉の外に待機している近衛が顔を出した。


「お呼びでしょうか」

「侍従を呼んでくれ。これを政務室と財務室に。それから、少々部屋を出る。護衛を」

「かしこまりました。少々お待ちを」


 程なくして、一応セルリアン付きの侍従ということになっている男が部屋に顔を見せ、セルリアンが先ほどまで印章を押していた書類を持って出て行った。

 部屋の外には近衛が五名立っていて、セルリアンが部屋を出ると、それぞれが敬礼を取った。


「殿下、どちらへ行かれますか」

「陛下の私室へ向かう。案内を頼む」

「承知いたしました」


 前に先導役として一人、そして後ろに二人。残った二人は、変わらずにセルリアンの部屋の番をする。

 セルリアンの部屋と王の私室とはさほど離れていない。もちろん自分の住まいだから、行き方も分かっている。それでも、どこに行くにも、最低三人は護衛を付けることがセルリアンには課されていた。


 それもこれも、この国唯一の後継者だからに他ならない。

 皆、セルリアンに万が一のことがあることを、酷く恐れている。


(あぁ、息が詰まるな…)


 無意識に、シャツと喉元の間に指を入れて、少し広げる。

 厚みのある絨毯は足音を吸収する。静かな回廊に、わずかな衣が擦れる音と、兵達が腰に差す剣が立てる小さな金属音だけが響く。


「陛下に目通りを」


 王の私室に着くと、中から侍女が出てきて、小さく首を振った。


「陛下はお眠りになっております」

「では中で待つ」

「なりません」


 さらに首を振る侍女に、セルリアンは微かな苛立ちを感じながら、扉に手をかけた。

 王は、ここのところずっと寝てばかりだった。無理もない。歳が歳だ。だが、いつ来てもこの調子で、セルリアンはここ最近まともに祖父である王の顔を見てもいなかった。


「孫が祖父の枕元で看病することの、何がおかしいものか。入るぞ」


 そう言って、セルリアンは扉を押し開いた。後ろで侍女が「お待ちください」と声を殺して言っているようだったが、構わない。

 中に立ち入ると、カーテンの引かれた薄暗い室内は、空気がすっかり籠っていた。薬と、病人の発する独特の匂いで満ちている。


「窓を開けろ。換気をした方がいい」


 セルリアンの指示に、王の傍らに付いていた二人の侍女が窓を開けに走る。

 彼女達は、日がな一日、こうしてほとんど寝ている王の様子をただ見ている。


「医師はなんと?」

「加齢により、お疲れになりやすいのでしょうと…」


 セルリアンの問いに答えたのは、女官長だ。彼女はずっと王の側について離れない。彼女の顔を見たのもまた、久しぶりだった。


「加齢…」


 本当にそうだろうか、と思う。

 この痩せようは。この顔色はなんだ。

 そう思うが、セルリアンには専門外だ。


 枕元に用意された椅子に腰掛ける。すっかり痩せ細った手を握ると、うっすらと王の目が開いた。


「陛下」

「…セルリ…アン」


 長く喉を使っていないからか、詰まるような音で名が発せられる。

 身体を起こそうとした王を、女官長が押しとどめた。王は素直に起き上がるのを諦めて、横たわりながら、幾分はっきりした目の色でセルリアンを捉えた。

 これならば話せるだろう。

 セルリアンは自分とよく似た色合いの瞳を見つめた。


「陛下、お伺いしたいことがあります」


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