11. レリッサの困惑7

 サマンサは不機嫌だった。

 思春期特有のあれやこれやで、家族に言わせればサマンサはここのところずっと不機嫌なのだが、今は自分でも自覚できるほどに不機嫌だ。


 今日は、学園帰りに城下町の本屋に寄ると、ライアンには前もって伝えてあった。彼も欲しい本があると言っていたし、たとえ彼に欲しい本がなくとも、ライアンはいつもサマンサに合わせてくれる。どうせ馬車は一台しかないし、学園から屋敷までの間に本屋に寄るのは、通り道とは言わないまでも、大した寄り道にはならない。


 ところが帰りしな、いつものことと言えばいつものことだが、ライアンは女生徒に囲まれていた。同じクラスなら、それを予期して終礼の挨拶と共に彼を連れ出すことも可能だが、残念ながら双子は別クラスと決まっているために、それは叶わなかった。


 その上、サマンサの担任は毎度話が長いことで有名な老師で、それがまたサマンサの不機嫌を増長させたのは間違いない。分かりきった話を何度もするのは年寄りに限った話ではないが、それにしたって勘弁して欲しい。

 ライアンを教室に迎えに行ってみれば、やれ「お茶に行きませんこと」だの、「この後のご予定はいかが」だの、「勉強を教えてくださらない」だのと。


 挙げ句の果てには、「サマンサさんはお一人でも大丈夫だと思いますわ」と来たもんだ。サマンサはこの言葉に切れて、ライアンを置いてさっさと馬車に乗り込んだ。ライアンはどうやって帰るか? そんなこと知るものか。もちろん言われっぱなしにもしない。カバンの中に入っていた、一番重いと思われる歴史の教科書をライアンの顔面にクリーンヒットさせてきた。


 言ったのは令嬢なので、ライアンにぶつけるのは完全に八つ当たりなのだが、もちろん令嬢に手を挙げられるはずもない。


(ライアンの馬鹿。さっさと教室を出ないからああなるのよ)


 もちろん、こんなことは日常茶飯事ではある。

 その都度、サマンサはライアンを待って読書をしたり、宿題をしたりして時間を潰しているのだ。いつもちゃんと付き合ってやっているのだから、褒めて欲しいくらいだ。


 それを、何が「サマンサさんはお一人でも大丈夫だと思いますわ」だ。


「あー! また腹立ってきた!」


 サマンサはジタバタと足で床を蹴る。

 お行儀が悪いが、今は一人しかいないので良いだろう。


 サマンサの顔の周りでは、先ほどから終始、パチッ、パチッと青白い光が発光して、ピリピリと空気を震わせている。

 サマンサが気持ちを昂ぶらせると発生する魔力の発露だ。これがエスカレートすると暴発に繋がるので、普段から心を平静にと姉たちからは口酸っぱく言い含められているのだが、如何いかんせん、ここ一年ほどそれが難しくなってきた。


 何しろ、ちょっとしたことでイライラする。そのイライラを抑え込めるほどに、サマンサはやはりまだ大人ではないのだ。


「はーっ」


 それでもなんとか、息を吐いて心を落ち着けた。

 だから、そう。

 今日はまずいなと言う予感はあった。


 けれど、本屋に辿り着き、うず高く天井まで伸びた書架を見た瞬間、イライラは吹き飛んだ。サマンサもレリッサほどではないが、読書は好きだ。と言うか、勉強するのが好きだ。変わっていると言われるが、知識欲を満たせた時の快感はたまらない。


 見るのは、学園の勉強で必要な参考書と、あとは魔術に関する書架。魔術関連は店のオーナーに言って通してもらわなければいけない、店の奥にある。サマンサは常連なので、オーナーはサマンサが店に入るなり、奥の書架の鍵を開けておいてくれた。


 本格的に魔術を覚えるのは魔術師団に入ってからになるだろうが、知りたいと言う欲を抑え込むことは難しい。実際、本を読んでできるようになったこともいくつかあって、決して今からやって無駄なことではないと、サマンサは思う。


 けれど元々スタッグランド王国では魔術師団の勢力が弱いせいもあって、王都の本屋ですら、魔術関連の本はせいぜい棚が二列あるだけだ。しかも禁書でもなんでもない、誰でも手に取れるような内容なので、期待するほどには詳しくない。


(でも読まずにはいられないんだよね)


 今日も腕いっぱいに本を重ねて、会計をする。

 ついでに、とレリッサが贔屓にしているバレッタ・ロンドの新作を手に取る。


「おじさま。これ、もううちに卸した?」


 この店のオーナーは、定期的に屋敷に本を売りに来てくれる。あまり店に足を向けないレリッサは、たいていこの行商の機会に本を買うことが多かった。


「いえいえ。今月はまだお持ちしていません。そちらも一緒にお包みしましょうか」

「ええ、お願い」


 レリッサは、きっと喜んでくれるだろう。

 ありがとうと言って、ぎゅっと本を抱きしめて。そしてきっと、華やぐように笑うのだ。


 サマンサはレリッサの笑顔が、大大大大好きだった。

 あの朝陽を浴びた花が、ゆっくりと花開くような笑顔。

 サマンサは、兄姉きょうだいの中ではレリッサが一番好きだった。ライアンに言わせれば、『盲目的』なレベルだそうだ。兄のパトリスは過保護で口煩くて、心配性だから面倒臭い。エメリアも好きだけれど、年齢の差が大きいこともあって、少し近寄りがたい。ホーリィとはいつも喧嘩になる。ライアンは別枠だ。


 レリッサは、怒るとすごく怖いけれど、それにはいつも理由があって、理路整然としている。そう言うところも好きだし、何より優しくて、包み込んでくれる暖かさが好きだ。母代わりと言って良いと思う。


 だからこれは不本意だ。


 本屋を出てまもなく。

 怒り顔の大好きな姉に、サマンサはぷくっと頬を膨らませた。



**********



「「お疲れ様でございました」」


 王宮から出て、馬車に乗り込む。


 そこでようやく大きくため息をついたレリッサに、アンナとハンナがそう声を掛けてくれた。その二人も、顔には疲労の色が濃い。普段慣れない場所、それも王宮で、ただひたすら主人を待つだけの時間は、どれほど精神を疲労させることだろうか。


「二人も本当にお疲れ様。付き合わせてしまってごめんなさい」

「とんでもございませんわ」

「お嬢様こそ、本当にお疲れ様でございました。今日はお風呂にリリカローズの香油を落としますわ。マッサージもいたしましょうね」


 疲れているマリアにとても夜までそんなことはさせられない。けれど提案自体はとても抗いがたい魅力で、レリッサは「良いわね」とだけ言って微笑んだ。


「お嬢様方、出して構いませんか?」


 御者席と箱馬車の室内を結ぶ小窓を開けて、御者から声がかかる。ハンナが「お願い」と答えて、馬車がゆっくりと走り出した。


 お昼過ぎに出たと言うのに、もう陽がだいぶ低くなっている。まもなく夕方だ。

 その時間の経過がまた疲労感を膨らませて、レリッサはぐったりと窓辺にもたれかかった。


(結局、なんだったのかしら)


 セルリアンの意図は全く読めなかった。

 ぼうっと考えていると、隣に座っていたハンナが、肩にショールを掛けてくれた。


「冷えますので。どうぞ屋敷までお休みください」


 決して眠たいわけではなかったのだが、ありがたくショールは貰っておく。


 馬が駆ける軽やかな音と、ガラガラと車輪の回る音。窓の外は王宮の馬車寄せから門までの僅かな並木道を通り抜け、分厚い城壁を抜ける。門番が窓越しに中を確認するのに会釈して、また馬車は速度を上げて走り出す。城門からまた並木道をしばらく行く。今はすっかり木々が葉を落として、枝の向こうに寒々しい空が見えた。それをぼんやり眺めていると、やがて目貫通りに差し掛かる。


 目貫通りを下っていくと、次第に店が増え始める。貴族向けの宝飾店や服飾店。話題の高級レストランや化粧品店なども。目貫通りから二筋交差点を越えると、次第に庶民向けの店が増え始める。貴族と庶民が混在するエリアをここからしばらくひた走り、次の交差点を曲がって行けばやがて貴族の住宅街につながる――というところで、レリッサは窓際から勢いよく身体を起こした。


「停めて!」


 レリッサの声に、驚いて目を見開いたハンナが、慌てて御者に馬車を停めさせる。馬車が停まりきらないうちに、レリッサは馬車の扉を押し開いた。


「お嬢様!?」

「サマンサが!」


 その言葉で、アンナは何も言わずに馬車を飛び出したレリッサに付き従う。理解したのだ。


 馬車越しに一瞬見えた光景。一瞬だったが、見間違えはしない。サマンサだった。それも、本を手にたくさん抱えて。男の人に囲まれていた。

 いつだったか、アイザックが言っていたことを思い出す。


『この前、大通りの本屋の外で変な奴らに絡まれてたぞ』

『一人で行かせるなよな。護衛ぐらいつけとけ』


 馬車はサマンサからだいぶ離れてしまっていた。必死に駆けるが、何せ裾の長いドレスに走るには適さない高さのヒールだ。ピンヒールでなかったのは幸いだが、所々痛んだ石畳の上を走るのには苦心する。すれ違う人々が、走るレリッサを何事かとぎょっとした顔で見てくる。羞恥と息切れで顔が赤くなるが、そんなことには構っていられない。

 走っていく先に、人だかりが見えた。


(あそこだわ)


 レリッサは、人をかき分けて、その中へ飛び込んだ。


「サマンサ!」


 相対するサマンサと、大柄な男性が二人。その間に、サマンサを庇うように背にして、レリッサは男達に向き合うように走り込んだ。


「何事ですの!」

「姉様!?」


 サマンサの周囲ではパチパチと青白い光が絶え間なく発光している。それがレリッサの髪や身体に触れて、軽い痺れを感じる。サマンサが相当な興奮状態にあることは間違いない。

 男達は、息を切らして突然割って入ってきたレリッサに虚を突かれたのか、呆気にとられた顔をしていた。


「私の妹に無体を働くことは許しませんわ」

「いやいや、お嬢さん。いや、お嬢様?」

「俺らはねぇ…」


 赤茶の髪の男が、がしがしと頭をかく。身体の大きさに伴って動きも大きく、それだけでレリッサは身体をびくりと震わせる。もちろん、何かされてレリッサに敵うわけもない。身なりからして、貴族ではなさそうだ。だが小綺麗にはしているので、庶民とは言えそれなりに裕福なのかもしれないと思う。もう片方の男は金髪で、こちらは困った顔で赤茶の髪の男の反応を伺っているようだった。


「さっさと退きなさいよ。木偶の坊」


 ぎょっと、レリッサは声がした方を振り向いた。

 つまり、サマンサを。


「サマンサ! あなたなんてことを!」

「だって本当だもの!」


 そう言うとサマンサは、ぷんとそっぽを向く。

 男達が盛大なため息をついた。レリッサは、恐る恐るそちらを向く。


「嬢ちゃん。だから俺たちはなぁ…」

「そう言うのをやめろって言ってんだ! てめぇで処理できねぇくせに、相手を煽るんじゃねぇ! この前だってなぁ、俺たちが間に入らなきゃ…」

「やめとけ、デレク」


 金髪の男が怒涛の勢いで怒鳴り始めたのを、赤茶の男が肩を掴んで止めた。

 それから、赤茶の男の視線がレリッサに向く。


「すいませんね。お貴族様に利く口なんか、持ち合わせちゃいないんで言葉遣いは悪いですが。まぁ、でも、そちらの妹さんもいかがなもんかと思いますがね」

「おっしゃる通りですわ…」


 最初に割って入った時の威勢はどこへやら。レリッサは身体を縮めて頭を下げた。

 それから、レリッサは先ほど聞いた言葉を問う。とても聞き流すわけにはいかなかった。


「あの。先ほど、そちらの方が、『この前』とおっしゃいました。『間に入らなければ』…とも。何があったか、教えていただけないでしょうか」


 どうも、レリッサが思っていた事態とは、少し違う気がする。

 男達は言葉遣いは粗野だが、かと言ってレリッサやサマンサに手を出してくるような剣呑な雰囲気は持っていない。


 レリッサが尋ねると、男達は顔を見合わせて、おや、と言う反応をした後、言いづらそうに教えてくれた。

 曰く、何度か双子の兄と二人か、あるいは一人で本を買いに来ているサマンサを見かけたことがあること。二人の時は双子の兄の方が周囲に目を光らせているようだが、一人の時は、目立つだけにあまり評判の良くない男達に絡まれたりしていること。その都度、警邏けいらの兵士が割って入ったりするが、間に合わない様子の時は、男達が何度か助けたこともあること。


「いや、俺たちゃ、そこで食堂をやってましてね。この時間、休憩に入ってるんで、よくこの辺にいるんですわ」


 この辺、と指を回して一帯を指し示すと、赤茶の男は、食堂は近くの交差点を曲がってすぐだと教えてくれた。レリッサ達が曲がる交差点の反対側だ。


「で、このお嬢ちゃんがまた、相手の男を煽るようなことばっか言うもんで。今日は幸い、誰にも絡まれちゃいなかったんですがね、忠告だけはしとこうかと思いましてね」

「最近、この辺りもだんだん素行の悪い奴らがうろつくようになりましてね。本来なら、こんな王宮に近い目貫通りなんかにゃ見かけなかったんだが。まぁ、そんなわけで、お嬢ちゃんが一人でどうこうできる相手じゃないんですわ。だから、あんま相手を煽ることばっか言ってると、本当に攫われるか乱暴されるかわかんねぇんで。見てくれだけは良いお嬢ちゃんみたいなんでね」


 俺たちも、いつも助けられるわけじゃないんで、と男達は言った。

 レリッサは顔が火を吹くやら、背筋が寒くなるやら、とにかく申し訳ないやらで、居た堪れない思いで頭を下げた。


「大変申し訳ありません! 妹が! いえ、私も! 助けていただいた恩人になんと言うことを! サマンサ! あなたも謝って!」


 サマンサは相変わらずそっぽを向いている。

 レリッサは、サマンサの代わりに再度頭を下げた。


「本当にすみません。すみません! ご忠告はごもっともですわ。妹にはしっかりと言いきかせますので」

「私、悪くないもん…」

「サマンサ!!」


 サマンサの頰がぷくと膨れる。

 レリッサは大きくため息をついて、もう一度頭を下げる。


「本当にすみません…」

「いやいや…なぁ?」

「そこまで謝ってもらわんでも大丈夫ですわ。俺らは気にしちゃいないんで。お貴族様にそう頭を下げられちゃ、こっちもどうしたもんだか。顔を上げてください」

「何かお礼を…」


 かと言って、何ができるでもない。

 お金を渡すのも違うだろう。

 レリッサが悩んでいると、赤茶の髪の男が手を振った。


「いや、良い良い。あくまで俺らのお節介なんで」

「あ、だったら今度うちに食べに来てくださいよ」

「おい!」


 金髪の男が、赤茶の男の肩をポンと叩いて言った。


「兄貴の飯はうまいんで、お嬢様にもご満足頂けますよ」

「やめとけ! ハードル上げるな!」


 赤茶の男は、金髪の男の頭をバシッと叩いた後、頭をかきながらレリッサを見下ろした。


「だけどまぁ、お茶くらいは飲みに来てくださいや。うちはたまにお貴族様も来る店ではあるんで、それなりのもんは出せるかと…。この通り、接客にはご期待いただけないと思いますがね」

「喜んで行かせていただきますわ」


 レリッサはほっとして頷いた。


 周囲は、話の成り行きがそう物騒なものではないと悟った時点で、人だかりが散り散りになっていた。今はたまに横を通り過ぎる人々が、明らかに貴族であるレリッサ達と、そうではない男達の立ち話を物珍しそうにちらっと見ていくくらいだ。少し離れたところにマリアが控えている。マリアもまた、やり取りを聞いて、間に入るようなことではなさそうだと判断したのだろう。


 不意に、どこからか馬の蹄の音がした。それもこんな大通りでは珍しく早駆けの音だ。レリッサ達が思わずそちらの方に目を向けると、黒々とした馬がこちらへ駆け込んでくるところだった。馬はレリッサ達の近くで止まると、馬上の人がひらりと飛び降りた。


「レリッサ!」

「リオン様?」


 まさか、と思いながら、レリッサは手を口で覆う。

 馬から飛び降りてきたのは、リオネルだった。

 リオネルはレリッサに駆け寄ると、レリッサの肩を掴んだ。


「大丈夫? 君が王宮に呼ばれたと聞いて…。その後、なんだか厄介ごとに巻き込まれてるってエドから聞いてね」

「エド様が?」

「偶然通りかかったって。俺のとこに慌てて知らせに来たよ」

「まぁ」


 と言うことは、先ほどの人だかりの中に、エドがいたと言うことだろうか。

 リオネルが、ちらりと男達の方に視線をやってから、レリッサの顔を覗き込んだ。


「それで? 大丈夫なの?」

「あ、はい。それはもう…」


 レリッサは、男達の方を向き直る。


「この方達が、妹を助けてくださったということで。少し誤解もあったんですが、今、お礼を申し上げていたところです」

「黒服の旦那じゃないですか」


 金髪の男が、リオネルを見て言った。

 リオネルの方も、「あ」という顔をする。


「黒鹿亭の…」

「へぇ。いつもご愛顧ありがとうございます」


 男達が頭を下げている。

 レリッサは、きょとんとして、男達とリオネルの顔を交互に見た。


「お知り合いですか?」

「たまに行くんだ。お酒を飲みにね」

「あんな閉店間際の時間に来るのなんか、旦那くらいですわ。酒一杯だけ飲んで帰っていくんで、うちとしちゃ利益にならないわ、店閉められんわで困った常連さんでね」


 客にここまで言えるのだ、きっと気心知れた仲なのだろう。

 金髪の男が、にやと笑った。


「そうだ。旦那もたまには飯食いにきてくださいよ。お嬢様連れて」

「お、良いね。とびきり腕振るいますよ」

「君達の店、彼女が行くような店じゃないだろ」

「何を言いますやら。最近はお貴族様のお客も増えてきたんすから」


 リオネルと男達が談笑を始める。それを傍で聞いていたレリッサは、袖をくんっと小さく引かれて後ろを振り返った。サマンサだった。腕に抱えていた本は、いつの間にかマリアが肩代わりしている。


「姉様。帰りたい」

「そうね。…リオン様、私たちはこれで…」


 声を掛けると、リオネルと男達は話をやめて振り返った。


「これは失礼。じゃ、黒服の旦那、またお待ちしてますよ。お嬢様も」


 赤茶の髪の男が不器用なウインクをこちらによこして、手を振って去っていく。その後を金髪の男が追っていくのを、レリッサは頭を下げて見送った。


「じゃあ俺も。何もなくて良かった」

「ご心配おかけしてすみません」


 頭を下げ、くるりと後ろを振り返ると、マリアとサマンサが何やら耳打ちして話し合っていた。

 それから、サマンサは先程までの不機嫌顔がどこへ行ったのか、にこりと微笑んだ。滅多に見ない、極上のお人形フェイスだ。


「姉様。私とマリアは馬車で先に帰るね。せっかくだから、送っていただいたら?」

「え?」


 きょとんとレリッサがしている間に、マリアがニコニコしながら追随する。


「そうですわ。せっかくお嬢様をご心配くださって、わざわざお越しいただいたんですもの。うふふ。あんなに急いで。このままここでお別れだなんて」

「え、でも。リオン様はお仕事が…」


 リオネルを見上げると、彼は微笑んだ。


「俺は平気。もし良ければ、本当に送らせてもらっても良い?」


 その言葉を聞いて、サマンサが小さくスカートを摘まみ上げる。


「では。姉様をよろしくお願いします。じゃあね、姉様」


 ひらひらと手を振ってサマンサはくるりとあっちを向いてしまう。その後をマリアが追っていく。一瞬、レリッサの方をニコニコしながら振り返って、リオネルに頭を下げてから、さっさと歩いていくサマンサに馬車の場所を指し示しているようだった。


「なんだかすみません。リオン様」


 こんなつもりはなかった。

 レリッサは眉を下げながらリオネルを見上げる。


「いや。多分、気を遣ってくれたんだと思うよ」

「…というと?」


 レリッサが首をかしげると、リオネルは「分からないなら良いんだ」と言って、レリッサの手を引いた。

 黒々としていると思った馬は、近づいてみれば黒に近い茶色の毛をしていた。リオネルが降りた場所で大人しく待っている。リオネルは馬にまたがると、レリッサを引き上げて前に乗せてくれた。横乗りで乗ると、自然とリオネルの肩に横顔を預ける形になる。


「バランス取りづらかったら、服掴んでくれてて良いから」


 そう言われて、控えめにその黒い軍服の裾を握る。それを確認して、リオネルは手綱を軽くしならせた。

 乗馬をするのは久しぶりだった。王都での移動はほとんど馬車だし、レリッサ自身は一人では馬には乗れない。領地に戻れば遠乗りに出るくらいのことはするが、大抵パトリスやエメリアが乗せてくれる。その時は後ろに乗ることが多い。


 前に乗るというのは、思ったより密着するものなのだな、と頰にリオネルの熱を感じながら思う。手綱を持つリオネルの腕がレリッサの身体を挟むようにあって、抱き締められているようだなと思ったら、顔が熱くなった。

 時刻は夕方。東からは夕闇が迫ろうとしていて、空はもう半分暗い。人々の足取りは早く、帰宅の時間と重なったことで馬車の通りも多かった。家路につく者と夜遊びに出かける者とが入り乱れて、道路は混雑している。その中を、リオネルがゆっくりと馬を進めていく。


 蹄が軽やかに鳴る。その音を聞きながら、レリッサは心持ちリオネルの方に身体を預けた。


「眠たくなった?」


 頭の上から、くすくすと笑う声が降ってくる。


(リオン様の笑う声、好きだな…)


 ぼんやりと思う。


「すみません…。今日は、なんだか慌ただしくて…」

「そうだね。君が王宮に呼ばれたと聞いて驚いた」

「そういえば、どうしてご存知だったんですか?」


 レリッサは顔を持ち上げた。リオネルがこちらを見ていて、目が合う。彼は苦笑いをした。


「王宮には兵士がたくさんいるから。たまたま、君を知っていて、俺のことも知っている兵士が、君が王宮に入っていくのを見ていたんだ」

「そうでしたか…」

「何かあった?」


 リオネルの問いに、レリッサは少し考え込んだ。

 何かは、あったと言えばあったし、何もなかったと言えば何もなかった。まさかリオネル本人に、王太子から「リオネルと付き合ってるのか」と尋ねられたとは言えない。


 仕方なく、限りなく最小限の事実だけを伝える。


「王太子殿下にお会いしました」

「そう」

「不思議な方でしたわ」


 ものすごくマイペースな人だった。レリッサはもっと、いかにも王子然とした尊大な人物かと思っていたが、自身の立場に疑問を抱くあの口ぶりはイメージとは真逆だった。


「そうか…」


 リオネルは、レリッサがこれ以上話さないと察したのか、ぽつりとそうつぶやいて黙り込んだ。


 冬の夕方。肩にショールを羽織っているとは言え、それだけでは冷える。寒さに身体を縮こまらせると、リオネルがレリッサを抱え込むように、手綱を持つ腕を締めた。先ほどよりもさらに密着して、リオネルの熱が身体に移る。

 何か話さなければ、と思うのに、この無言の時間が妙に心地よかった。


(ドキドキするのに、安心する…)


 レリッサは、図らずもセルリアンと話したことで自覚した思いを、心の中でつぶやく。


(私、リオン様を好きになってしまったんだわ…)


 あの胸の痛みは、そう言うことだ。

 同時に、ぎゅっと胸をわし掴みにされるような息苦しさを感じて、細く息を吐き出した。


(でも、だめ)


 好きになっても、その先は望めない。

 目の奥がじわりと熱を持つ。けれど、ここで泣くわけにはいかない。涙を押さえ込むように、目を閉じる。


(すぐに気付いて良かった。今ならまだ、忘れられるもの…)


 いつの間にか、ラローザ邸のすぐそばまで来ていた。

 お茶くらいと声をかけたが、流石に仕事があると言われればこれ以上引き止められるはずもない。


「じゃあ、明後日の夜会で」

「はい。ありがとうございました」


 リオネルが手綱をしならせて、屋敷の門を抜けていく。

 馬の尾が見えなくなるまで手を振って、レリッサは緩やかにその手を降ろした。

 唇を噛み締める。このまま、笑顔で屋敷に入らなくては。いつも通りに。

 そう思うのに、なかなか足が動かない。


 冬の風がショールの裾を揺らす。

 レリッサは、ショールを肩にぎゅっと抱き寄せた。



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