10. レリッサの困惑6

 目のくらむような金と銀の装飾。回廊の壁を飾るのは、著名な芸術家が歴史の一場面を描き記した絵画、あるいは彫刻。足元には金の房飾りが彩る赤い絨毯。壁と反対方向はガラス戸がずらりと続く、ここは、王宮。


 レリッサは、侍女を二人従えて、王宮の回廊を歩いている。

 昼下がり。ガラス戸からは光が差し込んで、冬だと言うのに暑いほど。

 前を行くのは王宮を警護する兵士と、遣いとしてやって来た侍従が一人。


(なんでこんなことに…)


 レリッサは、今に至る経緯を思い出して、小さくため息をついた。




「はい、これ。今日の分ね」


 そう言って、エドは手紙を差し出した。そして、「それから…」と本を一冊。


「これも」

「あ、これ…」


 レリッサは本を受け取って、目を輝かせた。


「これ、アザリア公国の…!」

「リオネルが個人的に持ってたやつね。良かったらって。たいして面白くもない経済書みたいなやつだけど」

「良いです。嬉しいです!」


 レリッサは本を抱きしめる。

 最初に手紙のやり取りをしてから数日、あれからほぼ毎日のようにエドはやって来て、リオネルからの手紙とリリカローズを一本、持って来てくれるようになった。


 エドはすっかりラローザ家の使用人達と打ち解けて、エドがやって来ると手の空いた侍女達が応接間に顔を出す。話が面白くて、話していると楽しいのだと言う。レリッサとしても、手紙の返事を書く間、エドが手持ち無沙汰でないならそれに越したことはない。仕事はそれぞれにしっかりやってくれているので、特に咎めないことにしたのだ。


「エド様、少しお待ちくださいね。お返事を書いて来ます」

「はーい。ごゆっくり〜」


 エドが手を振って見送ってくれる。


 レリッサは自室へ駆け込むと、リリカローズを花瓶に差し、ペーパーナイフを握る。リボン付きのリリカローズはもう五本目だ。


 当初、書くことがないと言っていたリオネルだったが、本の話から話題が膨らんで、この本だったら読んだことがあるとか、レリッサが勧めた本を試しに読んでみたら面白くて、つい夜更かしをしてしまったとか。あとは交換派兵されていたアザリア公国でのこと。文化の違いや、アザリア公国で訪れた観光地の話。兄のパトリスの昔話なども織り交ぜて、気づけば数枚の便箋に渡って手紙をくれるようになった。


 レリッサも同じように、読んで面白かった本の話や、兄弟姉妹きょうだいのこと、ラローザの領地で見た景色のことや、日々のちょっとしたことを書いていく。


 文字でしかやり取りをしていないのに、不思議とリオネルの表情が浮かぶようで楽しい。

 会ったのは片手で足りるほどの回数だと言うのに、いつの間にか彼のことがだいぶ分かるようになっていた。

 マメな性格であること。頭の中は、仕事のことでいっぱいなこと。この国の行先を本気で憂えていること。真面目な性格ながら、時々お茶目なところがあること。


 レリッサは、最後に自分の名前をしたためて、封筒の封を閉じた。

 応接間に戻ると、エドを囲んで数名の侍女が立ち話をしていた。今日もエドの前には焼き菓子がたくさん用意してある。


「お待たせしました」

「いや、全然。じゃ、また来るね。またね、お嬢様。みんなも」


 バイバイと手を振って、エドはもうすっかり慣れた様子で玄関を出ていく。

 エドが帰ると、集まっていた侍女たちも散り散りに、それぞれまた自分の仕事へと戻っていく。


「エド様ってとても不思議な方ね」


 応接間で茶器を片付けていたマリアに、レリッサは後ろから声をかけた。


「そうですわね。きっと誰からも好かれる性格と言うのは、ああ言う方のことを言うのかもしれませんわ」


 自然と人を引き寄せる。きっとそう言う人なのだろう。

 面白く、楽しく、そして裏表を感じさせない。彼と話していると、楽しくなって気楽に口を開いてしまう。不思議な魅力を持つ男性だ。


「お嬢様にも新しいお茶をご用意しますわ。料理長が新しい茶葉を仕入れたとかで、旦那様にお出ししても良いか試飲していただきたいと――」


 マリアの言葉は、最後まで続かなかった。

 応接間の扉が開いて、ダンが入ってくる。その表情の険しさに、マリアは口を閉じたのだ。


「どうしたの、ダン」

「レリッサお嬢様にお客様です」

「あら、どなた?」


 今日は特に誰とも約束をしていない。レリッサが首を傾げて言うと、ダンは少し言いづらそうに眉を寄せたあと言った。


「王宮から、遣いの方が」




 そう言うわけで、レリッサはこうして王宮の長い回廊を歩いている。


 本当なら今頃、リオネルから借りたアザリアの本を読んでいるところだったのに、とレリッサは小さくため息を吐く。


 王宮に呼び出された場合は、従者の付き添いを二名まで許される。レリッサはマリアと、以前王宮勤めをしていたハンナという古株の侍女を連れて来た。ハンナは、今は屋敷の家事の他、父が屋敷にいる時は主に父の身の回りの世話をしている。ちなみに、ダンの奥方である。


 そのハンナが、レリッサに近づいてこっそりと耳打ちして来た。


「お嬢様。この先は、王族の居住スペースでございます」


 その言葉に、レリッサはぎょっとして後を振り返る。


(そんなところに、どうして…!)


 ハンナが首を横に振って見せる。自分にも分からない、ということだろうか。


 王宮からの遣いとしてラローザ邸にやって来て、レリッサに、「至急、王宮にお越しください」と告げた侍従は、『誰から』とも、『何の目的で』とも言わなかった。レリッサには呼び出されるような理由は全く思い当たらない。それでも、王宮からの呼び出しでは無碍むげにすることはできない。至急と言われたので、慌てて訪問用のドレスに着替えるのが精一杯だった。


 今までにレリッサが立ち入ったことがあるのは、舞踏会が行われる大広間と、先日リオネルと共に庭園を臨んだバルコニーくらいだ。ここが王族の居住スペースということは、王宮を職場とする官僚たちも滅多に足を踏み入れない部分ということになる。だが、どこがその線引きだったのかは、レリッサには知る由もない。ここに至るまで、誰にも会わなかった。


「お付きの方は、こちらでお待ちください」


 長く歩いて、ようやく一つの扉の前で立ち止まった。

 兵士が二人、扉の前で番をしていて、レリッサと侍従の顔を見るとさっと左右に分かれた。


「ここからは、どうぞお一人でお入りください」

「一人で入るんですか!?」


 声を落として聞き返したが、侍従は聞こえていないのか、聞こえないふりをしたのか、レリッサの方はそれ以上見もせず、マリアとハンナの横に並ぶ。


 どうやら、一人で入らないわけにはいかないようだ。


 この先に誰がいるのか、王族の居住スペースだと聞いた時点で何となく予想はできているが、それにしたって勇気がいる。

 レリッサは深呼吸をして、扉を控えめにノックする。


「入れ」


 声が返って来た。レリッサはもう一度息を吐いてから、気合を入れて扉を押し開いた。


 中は、眩い回廊の装飾とは打って変わって、造り自体はシンプルだった。白い石造りの壁に、金の彫刻が彫られた柱。今は開け放たれているが、カーテンの色は深い青色に銀糸の縁取りで、いかにも部屋の持ち主らしかった。入って正面に、応接用のローテーブルと長椅子が二つ。そして右手の部屋の隅に、文机。

 その文机に、レリッサを招いた人物は座っていた。


 レリッサは、スカートを持ち上げて深く屈み込んだ。


「王太子殿下におかれましては、本日もご機嫌麗しく。レリッサ・ラローザでございます。本日はお招きに預かり、恐悦至極にございます」

「顔を上げて構わない。少し待っていてくれ」


 王太子、セルリアン王子だった。


 王子は文机の上で、書類にひたすら印章を押し続けていた。左手でページをめくり、右手ですかさず印象を押していく。

 ペラリ、ペタン、ペラリ、ペタンと子気味いいリズムを聴きながら、レリッサはちらりと視線を文机とは反対の方向へ向けた。広大な部屋の大半の、壁という壁、床という床に、絵が飾られていた。壁には額縁に飾って、床にはイーゼルをいくつも立てて。客の応対用であろうローテーブルの上は、ここが王太子の部屋とは思えないほど、あらゆる画材が所狭しと乗って、積み上がっている。お茶を広げるスペースもなさそうだ。


(これを片付けようと言う侍従はいないのかしら?)


 あまりに乱雑で、とても一日そこらで広げたようには見えない。


「待たせてすまない。座ってくれ」


 レリッサが部屋を眺めている間に、王子が仕事を終えて立ち上がっていた。

 長椅子の片方を指し示されて、レリッサは一礼してから腰掛ける。


 見計らったように、ノックと共にレリッサをここまで案内して来た侍従がティーセットをワゴンに乗せて入って来た。彼はローテーブルの上を見て、困ったように眉を下げてから、「失礼します」と小声で言って、画材を少し動かし、なんとか二人分のカップを置く場所を確保した。香り高いお茶がカップに注がれて、レリッサと王子の前に置かれる。


 王子が、カップを近づけて香りを楽しむ素振りを見せてから、一口口に含んだ。

 容姿端麗な王子が、美しい所作で香り高い紅茶を飲む。なんと絵になる光景だろうか。だからこそ、この乱雑な机の上とのギャップがすごい。ひどくチグハグで、奇妙だ。


 レリッサは王子がカップを置くのを見計らって、今度は自分もカップを手に取った。受け皿からカップを持ち上げる。ふわりと花の香りのするお茶だった。口に含むととろりとした感覚が喉の奥へと落ちていく。甘味はない。ストレートで飲むのが王子の好みなのだろう。


 お茶の感想を告げようと、レリッサが口を開こうとするより先に、王子が「待て」と言った。


「え」


 カップを受け皿に戻そうとしていた手を止める。

 その間に、王子は何を思ったか、ローテーブルに乗っていたスケッチブックと木炭を手に取った。


「そのまま動かないでくれ」

「このまま…でございますか?」


 カップを持った手は宙に浮いている。

 この体制を維持するのは辛そうだ。


 だが、王子の様子から何をしようとしているかは明白で、レリッサは諦めて、出来るだけ腕を動かさないようにしながら、早く解放されることを願うことにする。


 王子がスケッチブックに木炭を滑らせる音が、広大で静かな部屋の中に響く。ちらりちらりと、その涼やかな瞳がこちらを向くのがどうにも落ち着かない。愛想笑いを貼り付けて、レリッサは震え始めた腕を何とか抑え込む。


「もう良いぞ」


 その言葉に、王子の御前であるにも関わらず、レリッサは息を吐いた。

 王子はびりっと躊躇いなくスケッチブックを破ると、レリッサにそれを差し出した。


「まぁ…。とてもお上手ですわ」


 お世辞ではない。本当に上手かった。

 レリッサはそこまで絵には詳しくないが、簡単なスケッチにも関わらず筆致は美しく、流麗で、こう言っては何だが、本物の画家のようだった。


 レリッサの感想に、王子は気を良くしたのか口元に笑みを浮かべる。


(笑ったわ…)


 彼の笑顔を見たのは初めてだ。

 夜会で、どんなに美しい令嬢を前にしても、ぴくりとも口元を動かさないあのセルリアン王子が。


(いつもそうしていたら、もう少し親しみがあって良いのに)


 素直な感想だが、そんなこと言えるはずもない。

 王子はいつの間にか、次のページにまた木炭を滑らせている。また身動きをとることができなくなって、レリッサはいつもよりさらに姿勢正しくソファに腰掛けながら、迷った末に口を開いた。


「あの…殿下。それで、ご用件は…」


 レリッサから口を開くだなんて不敬以外の何物でもないが、そうでもしなければ、このままずっと彼のデッサンに付き合わされて、本来の用件は聞けそうにない。まさか絵を描くためだけに呼ばれた訳ではないだろう。

 王子が手の動きを止めた。少しきょとんとした顔をしているのが意外だ。


「ああ…」


 王子は小さくうなずいて、また手の動きを再開する。


「リオネルとは交際しているのか」

「は」


 今度は、レリッサが目を丸くする番だった。

 唐突に告げられた言葉を理解するために、時間を要することしばし。それにどう答えたものか、考えるのにもまた時間を要して、レリッサはだいぶ経ってから口を開いた。


「いえ。交際はしておりません」

「そうか」


 王子はまたレリッサと紙上の上を、視線を行き来させるのみで、それ以上話さない。


「リオネル様とはお知り合いなのですか」

「昔、少しな」


 そして、無言。

 レリッサは仕方なく、また自分から話しかけた。


「あの…本日のご用件というのは…」

「それだけだ」

「はぁ」


 レリッサは思わず間抜けな返事を返しながらも、愕然としてしまう。


(こんな…たった、それだけのために…?)


 別に、何を期待したわけでもないが、まさに今をときめく王太子に呼び出されたとあっては、社交界を上へ下へと駆け回る格好の噂のネタになる。マルセル侯爵邸での夜会で接触がなかったので、ようやくあの新聞のゴシップをみんな気にしなくなったと言うのに、これでは元の木阿弥どころか、もっと悪い。

 こっちがどれほど面倒な思いをすることか、この王子には想像もつかないのだろうか。


 文句の一つや二つ言いたい気分だったが、とてもそんな雰囲気ではない。…たとえそんな雰囲気でも、言えるはずもないが。


「口を動かすくらいは構わないぞ」

「え」


 レリッサの沈黙を、どう理解したのか。

 王子はそう言った。

 目が合う。


(これは、何か話せってこと…?)


 逡巡した挙句、レリッサは何とか話題を決める。


「殿下は、絵がお好きなのですね」


 この部屋に有って、これを聞かずにはおれまい。

 王子はレリッサの肩越しに自分の部屋の様子を見て、小さくうなずいた。


「そうだな。幼少のみぎりより、時間はたっぷりとあったのでな。外へ出ようにも行動が著しく制限されるゆえ、こうして筆を取ることが多くなった。あれは、すべて私が描いたものだ」

「すべてでございますか…!?」


 レリッサは先ほどちらりと見ただけの部屋の様子を思い出す。

 壁という壁、床という床に飾られた、大小様々な絵。先ほど彼がレリッサに差し出したスケッチのような、簡単なものではないことは遠目にもわかった。


「後で案内しよう」

「…光栄でございます」


 本音を言うと、用件が終わったなら部屋を辞したかった。


「レリッサと呼んで構わないか」

「殿下に名を呼んで頂けるとは、この上ない誉れでございます」


 もし動いてはいけないと言う制限がなければ、立って深く礼をしているところだ。

 だがレリッサは、続いた言葉に固まってしまう。


「貴女も、私のことはセルリアンと呼ぶといい」


 ぎょっとして、思わず顔を動かしてしまった。

 けれど顔をしかめられたので、慌てて戻す。


「そう言うわけには参りませんわ」

「何故だ。私は、殿下と呼ばれるのは好きではない。王太子も、王子も」

「ですが…」

「セルリアン」


 目が合う。

 呼べと言うことらしい。

 レリッサは、小さく息を吐いた。本当なら深くため息をつきたいくらいだ。


「セルリアン様」


 セルリアンが小さく微笑んだ。

 先ほどよりもずっと、笑ったと分かる笑みだ。極上の、品のある笑顔。


(これは…)


 きっと、夜会で周囲を取り巻く令嬢が見たなら、みんな卒倒して、彼を中心にドレスの花を作ることになるだろう。

 セルリアンの容姿を美しいとは思えど、婚約者にと望む令嬢たちほどに盲目的にときめいたりはしないレリッサだったが、この笑顔には流石に、彼女たちの気持ちを理解しないわけにはいかなかった。


 だがレリッサの心情など知る由もなく、セルリアンはまたその笑顔を引っ込めた。相変わらず、レリッサと紙の上とを交互に見つめながら、小さくため息交じりに息を吐いた。


「貴女は今までに自分の立場に疑問を抱いたことはないか」

「疑問、でございますか?」

「そうだ」


 レリッサは考え込む。

 この質問の意図はなんだろう、と。

 けれど明確な答えは出なくて、ただ「いえ」と答えた。


「特には。もし平民であったならと考えたことはございますが。疑問を抱く程では」

「そうか…」


 セルリアンは少し落胆したようにそう呟くと、顔を上げ、スケッチブックを立てて、レリッサとスケッチブックを見比べると、小さくうなずいた。


「動いて構わないぞ」


 その言葉に、長く同じ角度を維持していて凝り固まった体を、無礼にならない程度に動かす。ダンスの練習よりずっときつい。

 スケッチブックを差し出されたので受け取る。


「まぁ。素敵…」


 先ほどもらったスケッチとは違い、こちらは素描と言って良い出来だった。木炭で濃淡をつけ、レリッサの顔の細部から髪の質感、ドレスの皺や艶に至るまで、細かく書き込まれている。柔らかで、光を感じさせる軽やかなタッチだ。このまま、城下町の画廊に持っていけば、それなりの値がつくような気がする。


 レリッサはスケッチブックを返すと、セルリアンにならって、すっかり冷めきってしまったお茶を飲む。冷めていても、花の香りが損なわれていないのは、流石に一級品だ。


「私は、いつも疑問を抱いている」


 ぽつりと。

 溢れるようにセルリアンが呟いた。

 彼の視線は手で包み込んだカップの上。


「何故、私なぞが王子なのか。王太子なのか」


 何を惑っているのか、彼の涼やかなサファイヤの瞳がゆらゆらと揺れる。


「この瞬間、私はただのセルリアンでしかないのに。人前に出れば、途端に王子であり、王太子となってしまう。セルリアンという一人の男は、いなくなってしまう」

「セルリアン様…」


 彼のこの言葉を、聞くのは果たしてレリッサで良かったのだろうか、と思う。


 これは、ただ気まぐれに側に召された者が聞いて良いようなつぶやきではない。


 けれどセルリアンは、レリッサに答えを求めるようにこちらを見た。どこか縋るような視線に、レリッサは少し眉を下げた。


 とてもほうっておけない。今、彼に上っ面の返事を返すのは、真摯とは言えない。


 レリッサは、小さく息を吐いた。彼に出来るだけ分からないようにため息を押し殺すのは、本日一体何度目だろうか。それから冷めたお茶を一口。

 その間、セルリアンはレリッサが話すのを待っているのか、微動だにしなかった。


「私が思いますのは、私も、セルリアン様も、とても恵まれていると言うことですわ」

「それは立場がか」

「それもありますが…」


 なんと伝えたものか、とレリッサは少し首を傾げる。


「自分が一体何者なのか。本来どうあるべきなのか。どうありたいのか。そう考えることができるのは、余裕があるからだと思うのです」


 レリッサは、領地で見て回る領民の暮らしを思う。あるいは、城下町で稀に目にする人々の暮らしを。またあるいは、屋敷で働いてくれる使用人達の暮らしを。


「下々の者には、その日自分が、あるいは子供達が食べる物をなんとか得ようと、必死になって働く者がおります。多少金銭的に蓄えがあっても、己の行く先のため、もしくは子供の教育や将来のため、貯蓄をしたいと日々仕事に精を出す者もいるでしょう。はたまた、従業員を雇い、自分の店を持つだけの資材と技術を持つ者もいて、そう言う者は自分と家族だけでなく、従業員が十分生活できるだけの利益を出さねばなりません。そのために、彼らもやはり必死に働いているでしょう」


 レリッサには想像することしかできない。

 きっと彼らの中にも、余裕を持てる者とそうでない者とがいることだろう。

 けれど。


「彼らには、己が何者か。どこにあるべきか。そう考えるだけの時間的余裕もなければ、そう考えたとて、他の何者にもなれないのです」


 ですから、とレリッサは言った。


「私もセルリアン様も、恵まれていると申し上げました。私たちには、今こうして議論するだけの時間的余裕があり、もしなりふり構わなければ、家を飛び出して一平民として歩むこともできるでしょう」

「貴女はそうしたいと思ったことはないのか」


 セルリアンの問いに、レリッサは首を横に振る。


「いいえ、一度も」

「…何故だ。私には、ひどく魅力的に思える」


 どこか渇望するようにセルリアンは言った。


「そうですね…。私には、伯爵家の令嬢として生まれた以上、家のため、他家との縁を結び、子を育むと言う責務が課せられています。それを反故ほごにするということは、今まで私を『お嬢様』と呼び、付き従ってくれた使用人達や領民達の想いを無に付すことになります」


 頭の片隅で、ホーリィやエメリア、あるいはサマンサが「本当に生真面目ねぇ」と呟いた気がした。

 けれど、これは伯爵家に生まれたレリッサの矜持きょうじなのだ。

 セルリアンは、彼の欲しい答えを得たかったなら、問う相手を間違えたのだろう。


「彼らが私を『お嬢様』と呼び、身の回りの世話をし、頼めばお茶でもなんでも用意してくれるのは何故でしょう。もしかしたら、場合によっては、彼らは私のために身を投げ出して、私を守ってくれるかもしれません。私が、いくらいらないと言っても、彼らはそうするでしょう」


 それは、レリッサが『ラローザ伯爵家』の令嬢だから。


「私が、『ラローザ伯爵家』の令嬢であり、果たすべき義務を果たすからこそ、彼らはこんな小娘に頭を下げてくれるのですわ。私がもたらす家の繁栄は、家に還り、使用人に還り、領民に還る。なればこそ、彼らは私が気持ちよく責務が果たせるように取り計らってくれるのです。それは、私が、責務を果たす上で、我慢しなければいけないことが多いことも、彼らほどに自由ではないことも、彼らがよく知っているからです」


 レリッサは、マリアやダン、ハンナの顔を思い浮かべる。いつも気持ちよくお世話をしてくれる使用人達。レリッサ達がオフシーズンに訪れる領地では、いつも領民達が手を振って出迎えてくれる。


 彼らのように、気軽に外に出て、カフェに入ったり、物を買ったり、行きたいところに行き、会いたい人と会い、想う人と結ばれる。そんな自由に憧れたことはある。


 けれど、レリッサは生まれた時にはもう『ラローザ伯爵令嬢』であり、生まれた瞬間から、彼らからたくさんの想いを受け取って生きてきた。レリッサが望むとか、望まないとかに関わらず、受けた想いは返さなければ、不誠実だとレリッサは思う。


「だから、私は私の責務をしっかり果たしたいと思います。もちろん、幸せになれるように最大限の努力は致しますけれども。使用人達も、それを望んでくれていますので」


 ラローザ家は基本的には恋愛結婚主義なので、政略結婚をさせられることはほとんどない。それでも、誰とでも結婚できるわけでもない。長子であるパトリスは家の繁栄のため、ある程度の身分ある令嬢を選ぶ必要がある。それもまた、伯爵位を継ぐ者の定めなのだ。


 レリッサもまた、強制はされないとは言え、相応の身分ある男性との結婚が望まれる身だ。


(だから、爵位を持たないリオン様とは…だめ)


 ふと胸にそんな思いが去来して、チクリと胸が痛んだ。

 先日、身分で人となりを判断したりはしないと言った。あの言葉は嘘ではない。

 けれどそれが結婚となれば、どうしても話は別になってしまう。


 チクチクと胸が痛む。その意味を、必死に考えないように唇を噛み締める。


 レリッサは、膝の上で重ねた手をキュッと握りしめて、少し無理矢理に微笑んだ。そして、いつの間にか俯いていた顔を上げる。

 するとセルリアンは、呆気にとられた表情でレリッサを見ていた。


「貴女は、いつもそんなことを考えながら生きてきたのか」

「いつもというわけではありませんが…。私も、セルリアン様と同じく、考える時間は比較的たくさんある方ですので」

「責務か…」


 ぽつりと、セルリアンがつぶやいた。

 レリッサはお茶で喉を潤すと、カップを静かにテーブルに置いた。カップの中身はすっかり空だ。


「セルリアン様の貴重なお時間を、私などの長話で頂戴してしまい、申し訳ありません」

「いや。私が問いかけたのだ。気にすることはない」


 セルリアンは立ち上がると、レリッサに手を差し出した。


「絵を案内する。貴女の目に耐えうる出来のものがあれば良いが」

「まぁ。ご謙遜を」


 気づけば、この部屋を訪れる前のような、冷たい印象はなくなっていた。彼は、どこかマイペースで、絵をとても愛する普通の青年のようだった。


 ゆっくりと、セルリアンが描いたという絵を見て回る。壁に掛けられた絵は、レリッサの背丈ほどの大作もあれば、ハンカチほどの小さな作品もあった。どれも素描と同じように、柔らかなタッチで、光の表現が上手い。


 絵を描く対象も、静物画から風景画、人物画と様々だった。風景画は王宮内ばかりだったが、庭園を描いた作品は朝焼けの時間を切り取ったもので、美しいの一言だった。この光景は、この王宮に住まう彼にしか描けない絵であることは間違いない。人物画の方は、そんなに多くなかった。自画像がほとんどで、あとは侍従や侍女達だろうと思われる絵や、幼い子供の絵。


(これは…)


 イーゼルに掛けられた子供の絵の前で、レリッサは立ち止まる。


 王宮に子供というのが意外だったのだ。

 肩で髪を切りそろえた少年が、芝生の上で手押し車を押すよちよち歩きの子供に手を差し出している。まるで、「こっちへおいで」と言うように。


(こっちはセルリアン様…?)


 肩で髪を切りそろえた少年の方。銀色の髪に、上等な服。


(じゃあ、こっちは…?)


 子供の方をよく見ようと腰をかがめる。けれどよく見もしないうちに、セルリアンに声をかけられた。


「レリッサ。長らく引き止めて悪かった」

「あ、いえ」


 もう部屋の一番奥の角まで来ていた。一通り見て回っただろうか。

 レリッサは、それがこの部屋を辞すタイミングだと見計らって、別れの挨拶を口にする。


「本日は貴重な体験ができました。ありがとうございました」

「こちらこそ、有意義な時間だった。また来ると良い」


 セルリアンの言葉に、レリッサは心の中だけで、まさか、と答える。

 これが社交辞令であると良い。


 部屋の出入り口までエスコートされて、レリッサは深く礼をしてもう一度退室の挨拶をした。

 扉の向こうで、扉が閉まるまでセルリアンは手を振り続けていた。


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