09. レリッサの困惑5

「レリッサお嬢様。お客様です」


 お天気の良い昼下がり。

 エメリアは今日も勤務で城下町。ホーリィはお友達のお家にお茶会に。双子はもちろん学園だ。

 レリッサは父や兄から頼まれた、夜会の招待状への返信の代筆を午前中のうちに終え、庭を臨むテラスで本を読んでいたところだった。


 膝にはあったかい膝掛けと、肩にはショール。目の前には湯気が立ち上る香りの良いお茶と、料理長がレリッサの好みに合わせて作ってくれた焼き菓子のバスケット。冬の始めにしては、今日は気候が良くて、風もない。

 絶好の読書日和。もちろん、読書はさくさくと進んで、本日二冊目の本に取り掛かろうと、伸ばした手を引っ込める。


「お客様?」

「応接間でお待ちです」


 事前に訪問の知らせはなかったはずだ。だがダンが通したと言うことは、怪しい人物ではない、と言うことになる。

 彼は、レリッサが会うべきではないと判断した者は、彼自身の判断でいつも追い返してくれている。


 レリッサが応接間の扉を開くと、焦げ茶色のフロックコートを羽織った男性が、ソファに座りもせず立って待っていた。


 鳶色の髪に、同じ色の瞳。おそらくスタッグランド王国で一番よく見る色合い。服の色も相まって、応接間の内装の中に溶け込んでしまうようだ。男性としては華奢なように見えて、少し頼りないような感じがする。彼はレリッサをみとめると口元に笑みを浮かべて、胸元に手を当てて簡易の礼を取った。

 レリッサもスカートを持ち上げて小さく屈む。


「レリッサ・ラローザです。何かご用でしょうか?」

「エド・レインと申します。本日は貴重なお時間を頂戴し、申し訳ありません。主から、こちらをお届けするように言付かり、お邪魔した次第です」


 エドと名乗った男性が差し出した物を見て、レリッサは戸惑う。

 手紙と、薔薇の花が一輪。それも美しく花を咲かせたリリカローズだった。


「これは…」


 レリッサはリリカローズに手を伸ばす。

 茎に生えているはずの棘が、全て削り取られていた。とても手間のかかる作業だ。今までにもリリカローズを贈られたことはあるが、こう言うことをしてきたのは、兄しかいなかった。

 続いて手紙を手に取った。上質でシンプルな白い封筒。表に『レリッサ・ラローザ様』と書かれてある。くるりと裏に返して、レリッサは「あ…」と声を漏らした。


 そこには『リオネル・カーライル』の文字。


「このリリカローズも、リオン様が?」


 尋ねると、エドはにこりと微笑んだ。人好きのする優しい顔だ。笑うと目尻にくしゃりと皺ができるのが印象的だった。


「レリッサ様の手を傷つけることのないようにと、自ら一つ一つナイフで棘を削っておりましたよ」

「まぁ…」


 茎には紫の細いリボンが結ばれている。

 そっとリボンに触れると、エドが「それは…」と口を開いた。


「レリッサ様の瞳の色と同じものをと。いやぁ、こういった気の利いたことができるとは、長年付いてますが、意外でしたね」


 そう言ってエドは頭をかいた。

 口調が少し崩れた。もしかしたら、普段はもっと雑な話し方をする人なのかもしれないと、レリッサは頭の片隅で思う。

 けれど今は、目の前の、リオネルが選んでくれたと言う紫のリボンの方がずっと重要で。

 レリッサは、綻びそうになる口元をなんとか抑えて、「何かお礼を…」とつぶやいた。


「あ、でしたら、一筆いただけませんか?」


 エドがにこやかに言った。

「主もきっと喜びます」と言われて、レリッサは慌てる。


「え、今ですか?」

「良ければ。主に手紙を届ける手段が、私しかないもので。軍の本部に送られても、きっと届かないんじゃないかと」

「はぁ…」


 エドの口調は、最初のきっちりしたものよりフランクさを感じさせた。

 レリッサは突然の来客で張り詰めていた体の力を抜いた。不思議と怪しさは感じない。彼の柔らかい物腰のせいかもしれなかった。


「少しお待ちいただけますか? お茶を用意させますわ」

「お構いなく」


 彼は笑って首を振ると、側にあるソファにようやく腰をかけて、応接間の中を見回し始めた。


 レリッサは部屋の隅に控えていたダンに目線で合図を送る。お構いなくと言われてもそういう訳には行かない。ダンが傍に立っていた侍女にお茶の用意を指示するのを視界の端で捉えながら、レリッサは一度応接間を出た。


 玄関ホールを横切り、階段を登る。自然と足の運びは忙しなくなって、ようやく自室の扉をくぐって、レリッサは一度大きく息を吐いた。

 文机に腰を下ろす。机の上に置かれていた花瓶に、リリカローズを差す。紫色のリボンがゆらりとひらめいて、レリッサは目を細めた。

 それから、白い封筒の上に書かれた自分の名前の上を、そっと撫でた。いつかのカードと同じ、綺麗な字だ。

 心持ち緊張しながら、ペーパーナイフで封を切る。


 マルセル侯爵邸での夜会から一日が過ぎていた。あのまま馬車で屋敷まで送ってもらって、別れ際に、次の夜会は八日後のミルドランド公爵邸でと約束をした。あと一週間も会えないのだと、名残惜しく思っていたのを気づかれていたのだろうか。リオネルからの手紙には、会えない間、せめて手紙くらいはと思い立ったこと。けれど、女性に手紙など送ったことがないので、何を書けばいいか迷っているということ。自分は普段、仕事しかしていないので、特に趣味も持ち合わせていないが、レリッサは普段どう過ごしているだろうか。…そんなことが、やはり端正な字で書き連ねてあった。


 仕事も忙しいだろうに、こうして筆を取り、レリッサのために時間を割いてくれたことに、どうしようもなく胸が熱くなる。


 レリッサはなんとも言えない、歓喜に満ちたため息を小さく零して、引き出しから一番気に入っている花の縁取りの便箋を取り出した。


「可愛らしすぎるかしら…」


 男性に送るなら、もう少しシンプルなものの方がいいだろうか。ごそごそと引き出しから趣味で集めている様々な便箋をあれこれと見比べて、結局、やはり最初の便箋にすることにする。


 筆ペンの先をインク壺につける。

 とりあえずは、手紙とリリカローズの礼、それから先日の夜会での礼も書き添える。


『私も次の夜会までお会いできないことを、寂しく思っていましたので、お手紙とても嬉しく拝見いたしました』


 そこまで書いて、レリッサは「うぅ」と小さく呻いた。

 これではまるで、恋文のようでないか? あと、ちょっと固すぎる気もする。

 レリッサは、便箋を折りたたんで足元のゴミ箱に放り込んだ。それから、新しい便箋を、もう一枚。


 そして、もうかれこれ一時間。「あー」とか「うー」とか、部屋に他に人がいないのを良いことに、小さく呻きながらなんとか文字を書き進めていく。


 流石にこれ以上はエドを待たせられない。レリッサは、結局、普段は父や兄の手伝いを少しだけしていること。その他の時間は、ほとんどを読書に費やしているというようなことを書いた。


『最近はバレッタ・ロンドの新作を心待ちにしているところです』


 そこまで書いて、レリッサはまた考え込んだ。それから、もう一行書き添える。


『大好きなリリカローズの香りを、指に傷が付くことを気にせずに楽しめて嬉しく思います』


 本当は、『この花弁が散るまでにはお会いできたら』とか、『これからは、リリカローズの香りとともにリオン様を思い出します』とか、気の利いたことが書けたら良かった。

 けれどそれではやはり恋文のようで、レリッサはやめておくことにする。


「エド様、お待たせして申し訳ありません」


 レリッサは階段を駆け下りると、少し息を整えてから応接間に入った。それから目を丸くする。


「このお菓子めっちゃ美味しい!」

「ふふふ。うちの料理長の自慢の品なんですのよ。こちらのマフィンは、レリッサお嬢様のお気に入りで」

「へぇ。お嬢様の?」

「よろしければ、お持ち帰りになってはいかがでしょうか。料理長に包ませましょう」

「良いの!? めっちゃ嬉しい! リオネルにも食べさせよー。あいつ甘いもの食べないけど、これならいけるわきっと。いや、お嬢様の気に入りって言ったら、なんとしてでも食べそうだし」

「それでしたら、多めにご用意しましょう。あと、こちらのクッキーもオススメです。こちらは甘いのでエド様向きでしょうね」


 エドとダン、それから侍女のマリアがわいわいと楽しく盛り上がっている。

 マリアはともかく、ダンまでもが来客に対してこんなにも打ち解けている様子を、レリッサは今までに見たことがなかった。


 レリッサが立ち尽くしていると、まずダンが気づいて、少し気まずげにコホンと小さく咳払いをした。それでようやく、マリアとエドもレリッサの存在に気づく。


「申し訳ございません。お嬢様」

「俺が一緒に話そって誘ったんだよ〜。叱らないでやってね、お嬢様」

「いえ、それは、エド様がよろしいのでしたら、私は構いませんが…」


 エドはすっかり口調が変わってしまっていた。砕けたこの物言いが、普段の彼の素なのだろう。レリッサの周りには、あまりこういう話し方をする者はいないが、悪い感じはしない。レリッサは少し笑いをこらえながら言った。


「エド様。ご口調はもうよろしいのですか?」

「あ、やべっ」


 エドが口元に手を当てる。


「ふふ。でもできましたら、そのままで。私とも、もっと気軽にお話しください」


 エドは「しまったなぁ…」とつぶやきながら、頭を掻いている。

 いつの間にか談話室を出ていたダンが、包みを持って戻ってきた。先ほど話していた、マフィンとクッキーを用意してきたのだろう。レリッサはそれと合わせて、手紙を差し出した。


「リオン様によろしくお伝えください」

「賜りました。じゃ、またね」


 エドはにこやかに、手を振りながら去って行った。

 エドを門の外まで送って戻ってきたダンが、再び読書に戻ろうとテラスに座ったレリッサの横に立った。


「申し訳ありません。お嬢様」

「ふふ。良いのよ。お客様を飽きさせないのもあなたの仕事だもの。でもあなたがお客様とあんなに楽しそうに話しているところを初めて見たわ」


 そう言うと、ダンがバツの悪そうな顔をする。これもまた珍しい表情だ。


「非常に話運びの上手い方で。すっかり乗せられてしまいました」

「あなたにしては珍しいわね。でも、私も嫌な感じはしなかったわ」


 決して行動が粗野なわけではない。むしろ所作には洗練されたものが見えたし、きっときちんとした場ではきちんとできる人なのだろうという気がした。


「何を話していたの?」

「そうですね。レリッサお嬢様の普段のご様子や、あとはホーリィお嬢様のお話なども少し。ですがほとんどは、城下町の話題でございましたね。最近流行りの店ですとか、噂話の類のような」


 レリッサとはダンやマリアが決して交わすことのない内容だ。

「そう…」とレリッサはつぶやいた。そう言う話ができることを、少し羨ましく思う。レリッサも、城下町の本屋や、目貫通りの貴族向けの店をのぞいてみることくらいはあるが、気軽にカフェに入ったり、買い物をしたりと言うことはほとんどない。


 食べたいと言えば料理長がなんでも作ってくれるし、味はもちろん申し分ない。美味しいお茶も、ダンやマリアがしてくれる給仕も、全て城下町より質の良いものだ。買い物があれば、基本的には直接屋敷に売りにきてくれるので、レリッサがわざわざ足を運ぶことはない。


 城下町でのショッピングを楽しみとする貴族ももちろんいるが、どうしても貴族だと分かると店員に気を遣わせてしまったり、他の客の迷惑になってしまうこともあって、レリッサはあまり気が進まなかった。


「冷えて参りましたね。新しいお茶は中にご用意致しますか?」


 ダンが空を見上げて言った。

 確かに、陽が当たっていたテラスには時間の経過と共に影ができつつあり、風も出てきたようだった。ダンの申し出に、けれどレリッサは首を横に振って、肩にかけたショールを抱き寄せるようにして掛け直した。


「もう少しだけここで読むわ」

「かしこまりました」


 こぽこぽとダンがポットにお湯を注ぐ音が聞こえ始める。茶器が擦れる音や、ダンが紅茶の缶を振って鳴る茶葉の音も。そんな音を背に聴きながら、レリッサは小さく微笑んで本を開いた。


 本を読み始めれば、没頭して時間を忘れてしまうのはいつものことで。

 少しだけと言ったにも関わらず、レリッサは本の後半に差し掛かるまでその場を動かなかった。無意識に手を伸ばしたカップがすっかり空になって、唇を全く潤さないことに気づいてようやく顔を上げる。


 陽は沈みかけていた。いつの間にかテラスの灯りが灯っていることにも気づいていなかった。

 後ろを振り向くと、侍女が一人、テラスの隅に立っている。ずっと控えていてくれたのだろう。


「ごめんなさい。寒かったでしょう」

「大丈夫です」


 そうは言うが、顔がこわばっているように感じる。

 まだ年若い侍女でリズと言う。おそらく年齢はレリッサやホーリィとそんなに変わらないはずだった。レリッサは肩にかけていたショールを侍女の肩にかけた。


「いけません、お嬢様」

「良いのよ。あなたは休憩ね、リズ。温かいお茶を飲んできて」

「でも…」


 レリッサはリズの手を取って、ショールの前を握らせる。案の定、その手は冷たくなっていて、とても申し訳ない気持ちになった。主人に何かあった時に対応できるよう、そばに付いているのは侍女の職務ではあるが、だからこそ、彼女たちが快適に仕事ができるように取り計らうのは、主人であるレリッサの役目だった。だから、これはレリッサの落ち度なのだ。


「私ももう中に入るわ。そうだ。今日は寒いから、夕食は暖かいシチューが良いって、私の我儘を料理長に伝えに行ってくれないかしら?」


 厨房の脇に、使用人の休憩室がある。料理長に伝言を伝えたら、休憩室にそのまま行けば良い。

 リズはレリッサの意図を理解して、「かしこまりました」と頭を下げた。


 テラスからサロンに入る。そろそろ双子たちが帰ってくる頃だろうか。エメリアも夕方で勤務が終わると言っていた。ホーリィも夕食までには帰ってくるだろうから、今日は揃って夕食が食べられそうだ。これで父と兄がいれば正真正銘、家族が揃うのだが。


 レリッサは小さく息を吐いて、壁にかかっている絵を見上げた。家族の肖像画だ。


 赤ちゃんのライアンとサマンサを抱く、まだ少年少女のパトリスとエメリア。その前には手を繋いで並ぶレリッサとホーリィ。ホーリィはお気に入りのウサギのぬいぐるみを反対側の手に抱きしめている。そして、兄弟姉妹きょうだいを包み込むように後に立つ、父と、母。


 この絵は、母が亡くなってしばらくしてから画家に描かせたものだ。実際に画家の前でポーズを取ったのは子供達だけで、後付けで画家が父と母の姿を描き込んだ。父は仕事で、画家のデッサンに付き合う余裕を持つことはできなかったし、母はすでに亡くなっている。母に関しては家にある他の絵を参考に描いてあるので、絵の中の母は実際より少し若い。


 美しい金の巻き毛に、煌めくアメジストのぱっちりとした目。陶器のような白い肌に、しなやかで豊満な女性らしい体付き。スタッグランド王国ではあまり無い色彩だったが、隣国アザリア公国では、大公の血筋に見られる典型的な王族の色彩だ。


 美しく、優しく、そして強い人だった。


 婚約を解消してから、母が生きていたら、と考えることが増えた。

 一緒に泣いてくれるだろうか。それともホーリィのように、レリッサの代わりに怒ってくれるだろうか。もしかしたら、エメリアのように元婚約者の元に怒鳴り込みに行こうとしたかもしれない。もの凄く行動力のある人だったと聞いているから、正解は後者だろうか。


 そこまで考えて、レリッサはふふっと笑った。

 母が亡くなって随分経つ。その間、何度も母が恋しいと思ったけれど、母の面影はいつも兄弟姉妹きょうだいの中にあった。そのことに気づくたび、母は側にいてくれていると感じる。そして兄弟姉妹きょうだいがいて良かった、と思うのだ。


 不意に、サロンの外で話し声がした。声と足音が近づいて、まもなくサロンの扉が開く。


「あら、お姉様。いたの」


 入ってきたのはホーリィだった。後からダンも姿を見せた。


「お帰りなさい。ホーリィ」

「ただいま。あー、疲れたぁ。ダン、何か飲み物。冷たい物がいいわ」


 ホーリィはソファの自分の定位置に腰掛けると、帽子とストールをダンに預けながら言った。


「かしこまりました。レリッサお嬢様は如何いたしますか」


 レリッサもホーリィの斜め前の、自分の定位置に腰掛けながら少し考えて、「同じ物を」と告げる。


「そうだわ。さっきリズに休憩に行ってもらったの。随分長いことテラスで待たせてしまったから。こちらのことは良いから、十分休憩させてあげてね」

「リズから直接聞いております。お部屋のベッドメイクが終わりましたら、誰か一人こちらに来させますので、それまではご不便おかけします」


 ラローザ家は、必要最低限の使用人しか雇っていない。今はパトリスが領地にいるため、そちらに使用人を同行させたこともあり、王都にあるこの屋敷は若干の人手不足だった。

 ダンやマリアたちの負担を考えれば、新しい使用人を雇い入れたいところだったが、何しろ父が使用人を増やすのを嫌う。パトリスが王都に来たら、一度話して、父に使用人を雇い入れることを進言してもらわなければ、とレリッサは思う。


 ダンが果実水をテーブルに置いて、また部屋を出て行った。夕方のこの時間は、使用人達が一番忙しい時間帯だ。


「ねぇ、聞いてよ、お姉様!」


 果実水をぐっと飲み干して、ホーリィはグラスをテーブルに置きながら身を乗り出した。

 レリッサは、空いたグラスに果実水を足してやる。


「今日のお茶会、すっごく疲れたわ」

「それはお疲れ様だったわね」


 レリッサも果実水を口に含む。柑橘の爽やかな香りが鼻を抜けていく。


「今日はミルドランド公爵家でのお茶会だったんだけど、政府派の家がほとんどで。もう、レベッカ様、レベッカ様ってうるさくて」

「あら、レベッカ様もいらしてたの?」


 スタッグランド王国の貴族は、政府派と軍派、そして中立派の三派に分かれている。もちろんラローザ家は軍派の筆頭である。


「いいえ。レベッカ様は来てなかったわ。ただ今日は、レベッカ様を持ち上げる会だったのは確かみたいね」


 そう言うと、ホーリィはソファの肘置きに肘をついて、はんっと鼻で息を吐いた。


「どうも、この前王太子様と私が踊ったのがお気に召さなかったみたい。しっかり牽制しに来たわ」

「まぁ」


 先日の、マルセル侯爵邸での夜会。

 ホーリィは当初の目的をしっかりと果たし、王太子と一曲踊って帰ってきた。それ以上の進展はなく、曲が終わってそのまま別れたらしいが、数多あまたいる令嬢の中で踊れただけでもかなり頑張った方だろう。


「やれ、レベッカ様こそ王太子妃に相応しいだの、やはり王太子妃は公爵家から出さなければだの。品位がどうの、身持ちの固いがどうのって」

「まぁ、あなたは身持ちが固いとは言えないわね」


 レリッサがそう口を挟むと、ホーリィは頰を膨らませた。


「別に不誠実なお付き合いをしてる訳じゃないんだから良いじゃないの。私は浮気したこともなければ、股を掛けたこともないんだから!」


 そこのところの判断は王太子なり側役なりがすることだろう。

 レリッサは口をつぐんで、ホーリィがさらに言い募るのに耳を傾ける。


「とにかく。一応、軍派と中立派も何人かいたけど、今日のお茶会の目的は丸分かり。レベッカ様以外の候補者を集めて、王太子様にこれ以上手出しさせないようにってことらしいわ」


 馬鹿馬鹿しい、とホーリィは怒り狂っている。


「王太子様が誰を選ぶかなんて、王太子様にしか分からないんだから! あんなやり方は卑怯よ。もっとフェアであるべきだわ!」

「ホーリィは、他の方が王太子殿下の婚約者になっても構わないの?」


 レリッサがそう尋ねると、ホーリィは腕を組んでフンッと息を吐いた。


「別に、王太子様がお選びになる訳だから、良いも悪いもないわ。ただ私は、チャンスがあるなら手を挙げたいし、何もしないでそのチャンスをフイにしたくないだけ。それなのに、候補者同士が争って、蹴落としたり蹴落とされたり…。ステイシア様なんてお可哀想に、この前の夜会の後、虐められてこっそり泣いてらっしゃったって」

「えぇ?」


 レリッサは驚いて思わず声を上げてしまう。

 この前の夜会は、マルセル侯爵邸での夜会なのだ。王太子が、マルセル侯爵に花を持たせるために、その息女であるステイシアを伴うのはある意味当然のことだ。


「お手洗いで、レベッカ様と取り巻きの何人かに酷い言葉をかけられているのを、見たって言う方がいるのよ。何人も」

「まぁ…」


 レリッサもステイシアとは夜会で何度か話をしたことがある。大人しく控えめで、柔らかい笑顔が印象的な可愛らしい令嬢だ。確かに気の強そうなレベッカ達に詰め寄られれば、泣いてしまうのも無理はないかもしれない。


「でも、ステイシア様のお屋敷でしょう? マルセル侯爵だっていらっしゃるのに…」

「本当。よくやるわよね」


 ホーリィが呆れたように言って、また冷たい果実水を飲み干した。



**********



 エド・レインは、脇に小包を抱えて鼻歌交じりに薄暗い廊下を歩いている。手にはクッキー。一口かじれば甘い粉砂糖がエドの唇から離れて廊下に落ちていく。歩き食べとは行儀が悪いが、それを指摘する者はここにはいない。


 コツンコツンと、石造りの廊下は靴の音を響かせて、エドの来訪をこの道の先へ続く部屋の住人に告げる。


 目的とする、一番奥の扉が不意に開いた。

 一礼して出てくる男の腕には、山のような書類。白い軍服。相手が気づいてエドに頭を下げて挨拶するのを、こちらも頭を下げて答える。


 横をそのまま無言で通り抜けようとして、エドは「あ」と声をあげて後ろを振り返った。


「将軍」

「…何でしょう」


 ラローザ将軍がこちらを振り向いた。

 エドはにこりと笑って、脇に抱えた小包からさらに小さい袋を取り出して、書類の山の上に置いた。


「あなたの家の料理長、いい仕事をしますね。それはお裾分け。執事長さんが、最近旦那様のお帰りがなくてお嬢様たちが寂しそうだって言ってたから、アイツに付き合うのも良いけど、たまには帰ってあげてくださいね」


 将軍の返事は待たずに、エドはひらひらと手を振ってまた廊下を歩き出す。

 行き着いた扉は、古ぼけた木の扉だ。作りは丁寧で分厚く、元は精緻な彫刻でも施してあったのだろうが、今は時間の経過と共に彫刻の跡は丸く削られ、何の模様だか薄ぼんやりとしている。

 軽くノックをして、返事を待たずに開く。


「お待たせー」

「…別に待ってない」


 執務机に肘をついて、リオネルはそこにいた。

 手元には書類が広がっているが、足音でエドが来たのには気づいていたのだろう、ペンは置かれていた。


「またまた〜。本当に待ってない? これ」


 ちら、と胸元から手紙を見せる。

 リオネルの目が見開かれて、エドはニヤと笑った。


「どうしようかな〜? あげようかな〜? やめとこうかな〜?」

「良いから貸せ!」


 言うが早いか、リオネルがエドの胸元から手紙を抜き取った。慌ただしく、側にあったペーパーナイフで封を開けている。


「はー。お嬢様に一筆頼んだ俺、まじファインプレー。あ、初めてちゃんと顔見たけど、あのお嬢様、本当に可愛いね? ホーリィとは系統が違う美人って感じで。それにあそこの使用人めっちゃ人が良いし、俺、あの屋敷好き。流石に将軍が厳選してるだけあって、みんなフレンドリーなのに隙は見せないって感じで、ちゃんと教育されてるし。お菓子も美味しいしさぁ〜。あ、リオネルにもお土産あるよ〜」


 そこまで一息に言うと、エドははたと我に帰る。

 目の前には、一心にレリッサから託された手紙を読む主、兼、友人の姿。


「って、聞いちゃないな…」


 エドは、「食べちゃうぞ〜」とつぶやきながら、勝手に近くにあった椅子に腰掛け、小包を開けてマフィンをパクつく。

 あのお嬢様のお気に入りだと言う、オレンジジャムとチョコレートチップのマフィン。チョコレートが使われているのに、オレンジの爽やかな風味が、後口を優しくしている。


(これ、リオネル好きそ〜)


 そう思いながら、ふと思う。


(この二人、好み合うかもね)


 目の前の主は、今、己がどんな顔をしているか、知っているだろうか。

 エドは思う。


(あんな、幸せそうな顔しちゃってさ)


 殺伐とした軍の最奥部で。

 あんまりにも削ぐわない表情だったが、それを見るのは悪くない気分だった。


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