08. レリッサの困惑4

 レリッサとアイザックが踊り始めると、周囲の人間は、少なからず驚いた表情をした。ラローザ家とシンプトン家がペアを組むなど、何か思惑でもあるのか、と。


 レリッサはアイザックに身体を預けながら、その視線には気づかないふりをする。その代わり、肩越しにリオネルの場所を確かめた。

 彼は、先ほどの位置から変わっていなかった。誰とも踊ってはいない。ただこちらの様子には気づいたようで、腕を組んでこちらを見ている。脇に控える令嬢たちは入れ替わり立ち替わり声をかけているようだが、彼自身はもはや相手にすることをやめたようだ。


 レリッサは妙に後ろめたい気持ちになって、リオネルに背を向けるタイミングで視線を落とした。アイザックの着る、正装用の濃緑の軍服の生地が視界に広がる。視線を横に滑らせれば、彼の胸にも小さな金色のメダルとささやかな赤いリボンの勲章が輝いていた。軍の階級を表すメダルだ。軍に入って数年、まだ何も功績を挙げていないので、彼の勲章はそれだけだった。勲章には、薔薇の花と散る花弁が彫られている。この薔薇の咲き具合と散る花弁の数で、階級がわかるようになっているのだ。もちろん、これもリリカローズが模されている。


「おい」


 上から声が降ってくる。

 レリッサが顔を上げると、アイザックがこちらを見下ろしていた。


「集中しろ。足を踏むなよ」

「まぁ。私が今まであなたの足を踏んだことがある?」

「学園の頃、よく踏んでただろ」

「いつの話をしているのよ」


 レリッサは呆れて笑う。


 アイザックとは学園のダンスの授業で、よくペアを組んだ。どうしてだったかは思い出せないが、気づけば彼とペアになっていることが多かった。彼には一緒に踊りたいと言う令嬢がたくさんいたはずだが、たまたま近くに立っていることが多かったせいかもしれない。


 レリッサは、家で兄や姉に付き合って、すでに何度かダンスを踊ったことがあったから、授業でも特に教わらなければいけないことはほとんどなかった。対して、アイザックの方は、授業で踊るのが初めてのダンスで、しかも得意の剣術や乗馬とは使う筋肉が全く違うとかで、とても癖のある踊り方をしていたものだ。おかげで、ペアを組むレリッサは、不可抗力的に彼の足をよく踏む羽目になった。だって、レリッサが足を置くべきところに、すっとアイザックの足が入ってくるのだ。避けようがない。


「あれは貴方が悪いと思うわ」


 アイザックが苦笑いをこぼした。「そうだったな」とつぶやく。


「懐かしいわ。デビュタント以降、あまり踊らなくなってしまったけれど、思えばもっと踊っておけば良かったわ」

「あれはお前が――」

「え?」


 アイザックが、何か言いかけて口を閉じた。


「何?」


 お前が、つまりレリッサが。

 けれどアイザックは「なんでもない」と首を振った。


 音楽がクライマックスに差し掛かる。握られた手に力が入って、レリッサは少し顔をしかめた。彼にとっては少しの力でも、女性のレリッサには強かった。


「痛いわ」

「悪い」


 彼はわずかに力を弱めてくれた。

 それから、チラと外に視線を向けた後に、レリッサに尋ねた。


「あいつに惚れてるのか」


 指し示された『あいつ』が誰なのか。

 くるりと回って視界を上げれば、そこにリオネルが一瞬写って。

 レリッサがアイザックの意図することに気づくよりも先に、顔が熱くなった。


「そういうわけじゃないわ…! なに、もう、みんな寄ってたかって…」


 誤魔化すように言ったその言葉に、アイザックが顔をしかめた。

 普段のただしかめる表情じゃない。それは、苦しげな――。


「アイザック?」


 音楽が終わる。最後にきっちりと決めて、アイザックはレリッサの腰に添えた手を離した。


「あいつはやめとけ」


 何がそんなに苦しいのか。辛いのか。

 そんな表情で、彼は押し出すようにそう言った。


 告げられた言葉に、レリッサはどんっと強く突き放されたような気がした。先ほどまで、楽しい気分で踊っていたはずだった。けれど今は、周囲の音が聞こえない。周りの楽しい雰囲気が、自分の手前でなくなって、一人絶望の淵に立たされているような。妙に心細くなる。胸が苦しい。


 そんな相手じゃない。そう言っていたのは確かに自分自身のはずなのに。

 今は、アイザックにその言葉を否定して欲しかった。


「どうして、そんなこと言うの」

「お前の手に負える相手じゃない」

「どうして…」


 そう尋ねかけて、レリッサは、違うと思い直す。


「彼が誰なのか。あなたは知ってるのね、アイザック」


 エメリアは知らないと言った。けれど、彼は知っているのだ。そうでなければ、こんなことは言えやしない。

 リオネルが特別な人なのは、分かっていた。あの黒い軍服。将校を従えられる強い立場。思えば将軍であるはずの父も、彼に対してはどこか引いていたような気がする。彼の素性が気になって仕方ない。それは、この言い得ぬ不安感のせいだ。


 アイザックは、視線を逸らした。でもそれが答えだった。


 教えて、と。言おうとした。

 けれど言えなかった。


 身体が急に後ろに傾いた。

 後ろからお腹に手が回り、抱き寄せられたせいだった。


「もう彼女を返してもらっていいかな。シンプトン曹長」


 上から声が降ってくる。

 リオネルがぎゅっとレリッサを片手で抱き込んでいた。


「はっ。失礼…しました」


 アイザックが一礼する。

 レリッサに視線を残して去って行く。苦しそうな表情だった。


 アイザックの背中が人混みの中に消えていく。レリッサはそれを最後まで見届けると、顎を上げて、リオネルを見上げた。


 琥珀色の瞳と目が合う。

 彼は少し、申し訳なさそうにしていた。


 お腹に回された手が気になる。ドレスとコルセット越しに、熱が伝わるようで落ち着かない。

 レリッサはその熱を誤魔化すように言った。


「踊りますか?」


 楽団がまた次の曲を奏でようと準備を始めていた。

 リオネルは少し考える素振りをして、首を横に振った。


「いや。ちょっと話す必要がありそうだ」


 彼はそう言うと、レリッサのお腹に回していた腕を解いて、レリッサに手を差し出した。


「お手をどうぞ」


 恭しく差し出された手に、手を重ねる。


 レリッサたちは、いつの間にかまた目立ってしまっていた。仕方ないだろう。ラローザ家とシンプトン家の子供達というだけでも目立つのに、そこに一人で十分目を惹くリオネルがいるのだ。人々の好奇の視線が痛い。

 けれどリオネルは気にしないようで、レリッサをゆっくりとエスコートしながら、周囲に視線を巡らせた。


「あの、あちらから、お庭に出られると思います」


 レリッサは控えめに、広間のバルコニーを指した。


 バルコニーからは階段が続いていて、そのまま侯爵家自慢の庭園に出られるようになっているのだ。レリッサは、何度かマルセル侯爵邸での夜会の際に誘われたことがあった。応じたことはなかったけれど。


 そこまで考えて、レリッサは「あ」と思う。夜会で庭に誘うのがどう言うことか、わからないほどウブではなかった。だからこそ、今まで誘われても応じてこなかったわけで。


 自分から誘ってしまった。その恥ずかしさに、顔が熱くなる。けれどリオネルはその意味に気づいていないのか、構わずに歩をそちらへ進めた。


「いいね。行こう」


 手を引かれる。


 リオネルがバルコニーのガラス戸を開けた。そのまま、階段をゆっくり降りていく。レリッサが足を滑らせないように、一段一段振り返ってレリッサが足を下ろすのを待ってくれていた。


 庭園には誰もいなかった。当然だ。冬の走り、花々も少なければ、何より肌寒い。


 レリッサの身体がふるりと震える。すると、「ちょっと待って」とリオネルがレリッサの手を離して、いつかのように軍服を肩にかけてくれた。

 暖かい。前は気にしなかったけれど、ふわりとリオネルの匂いがした。


「ここでいいかな」


 歩き進めると、四阿に行き着いた。


 周囲に人はいなくて、四阿は薔薇の蔦で覆われてドーム状になっている。この夜のとばりの中では、四阿の中はまるで見えないと言っていい。


 話をするだけだ。分かっている。けれど妙にドキドキして、レリッサは胸に手を当てた。


(でも、嫌な感じはしない)


 レリッサはリオネルについて四阿に足を踏み入れた。その瞬間、ぽわんと淡い光が灯る。明るすぎない程度に、魔法の明かりが人の気配を察知して灯ったのだ。

 その光でいくらか緊張がほぐれて、レリッサは息を吐いた。


「何か聞きたいことがあるよね?」


 ベンチに腰掛けると、リオネルが言った。

 手は繋いだまま。けれどそれが心地よくて、レリッサはきゅっと弱く力を込めた。


 何から聞こう。逡巡して、レリッサはリオネルを見上げる。リオネルの瞳は慈しむように優しくて、途端に自分がとても子供になってしまったような気がした。


「リオン様の家名は何ですか?」

「俺、それも言ってなかった?」


 リオネルが目を丸くした。


「ごめん、それは言っておくべきだった」


 そう言うと、改まって胸に手を置いた。座りながらではあるが、簡易の礼だ。


「リオネル・カーライルと申します」


 改まって言うのがなんだかおかしくて、レリッサはふと口元を緩める。

 それを見届けて、リオネルは柔らかく笑んだ。


「爵位は賜っていない。だから、ただのリオネル・カーライル」

「本当に?」


 てっきり、かなり良い家柄の出だと思っていた。彼の所作が綺麗で品があったからだ。

 リオネルは眉尻を下げた。申し訳なさそうにする。


「そう。本当に。だから、こうして君をエスコートするのも分不相応なんだ。本当は」

「そんなことは…」


 軍は基本的には身分を問わない組織だ。

 エメリアやアイザックは貴族だが、同じ下級士官にも平民出身の者は多いと聞く。ただそれは尉官までの話で、佐官や将官クラスになってくると貴族ばかりだった。レリッサは詳しくは知らないが、幼い頃から剣術の指導を受け、知識を備えた貴族と、軍に入ってから訓練を受ける平民とでは、スタートがそもそも違うと言うことらしい。


 ただ基本的には軍は実力主義で、それを良しとする者の集まりでもある。だから、平民の下に貴族がつくこともあるし、貴族の家格に階級が左右されることもない。実際、将軍であるレリッサの父は伯爵位である。従える佐官や将官の中には、侯爵家や公爵家の者も多くいる。


 あとは、佐官以上になってくると、多数の功績を挙げていることが前提となるので、その過程で、国王から爵位を賜っていることが多いと言う側面もあるのだろう。


 だから、リオネルがなんの爵位も持っていないと言うのは意外だった。けれど、レリッサが意外だったのはそこだけで、彼が爵位を持っていようがいまいが、そんなことは気にならない。


「他には?」


 リオネルに促されて、レリッサはまた首を傾げて考える。

 それから先ほど誤魔化された問いを、もう一度繰り返した。


「リオン様の、軍での階級は?」


 肩にかけた黒い軍服に触れる。

 リオネルは、困ったように眉を下げた。

 だから、「ああ、言えないのだ」と、すぐに分かった。彼もさっき言っていたではないか。『秘密』だと。

 軍には、『秘密』がたくさんある。そんなことは、幼い頃から分かっていたことだ。


 レリッサは、自分がとても悪いことをしてしまったような気になった。首を横に振る。


「やっぱり良いです」

「…良いの?」


 リオネルが首を傾げる。そう尋ねながら、彼が少しホッとしたような表情になる。


『お前の手に負える相手じゃない』


 アイザックの言葉を思い出す。

 彼は何か、レリッサに忠告をしてくれようとしたのだ、きっと。


(ごめんなさい。アイザック)


 心の中だけで謝る。どうして謝ろうと思ったのか、分からないけれど。

 それから、小さなため息をひとつ。そして微笑む。


「これは本心から申しますけれど。私は相手の身分で人となりを判断するのは好きではありません。平民も貴族も、生まれは違っても、個人として相対した時には常に平等であると思っています」


 リオネルはまた「真面目だなぁ」とつぶやいて笑った。

 不意に、彼はにやと少し意地悪に笑った。


「じゃあ、俺が君を好きになっても、君は困らないわけだ」

「っ!?」


 ぶあっと顔に熱がこもった。

 言われたことを反芻して、また熱くなる。耳の先まで熱い。きっと赤いだろう。隠そうと、リオネルの手を解こうとしたけれど、彼がレリッサの両手を握りこんでしまって、それは叶わない。


「どう?」


 顔を覗き込まれる。


「ご…ご自由に…」


 答えた声は、掠れてしまった。

 リオネルの琥珀色と目が合う。近づいてくる――。

 けれど、触れる前に、すっと離れていった。


「あー…困った」


 彼がそう言って、パッと片手が離れたと思うと、彼はその腕で顔を隠した。

 表情が見えなくなる。


「リオン様?」


 リオネルは動かない。握られた片手は熱くて、なんだか落ち着かない。

 なんだかずるいなと思った。

 レリッサは先ほどから赤い顔を何度も彼の前に晒しているのに、彼は隠してしまうなんて。


(どんな顔をしているのか、見たい)


 欲望に負けて、レリッサはリオネルの腕にそっと触れる。

 そう力をかけなくても、その腕は簡単に下ろせた。


「リオン様。お顔が真っ赤ですわ」

「君が悪い」


 そう言うと、リオネルはレリッサの首の後ろに手をかけた。引き寄せられる。

 こつん、と額と額が触れた。


「君が可愛すぎて困る」


 ちゅっと、額に、小さなリップ音。

 額がゆっくりと離れると、リオネルは、たった今自分が口付けたばかりの、レリッサの額をそっと撫でた。


「今だけ」


 ぽつりと、リオネルが囁くように言った。


「え?」


 よく聞こえなくて、レリッサは小さく聞き返す。

 リオネルは、困ったように笑んで、レリッサの両手を優しく握った。きゅっと柔く力を入れられる。


「これは、夢なんだと思ってる」

「夢?」

「そう、夢」


 リオネルが立ち上がる。

 レリッサも彼に手を引かれて立ち上がった。


「行こう。もうお開きの時間だ」

「リオン様」


 続きが聞きたくて、レリッサは少し咎めるようにリオネルを呼んだ。

 リオネルは眉尻を下げて、その困った笑顔を崩さずに、レリッサの手を引いて四阿を出る。

 二人並んで、ゆっくりと元来た道を戻っていく。


「あと少しだけ」


 バルコニーに階段の下に辿り着いた時、リオネルがレリッサの前に向き直って言った。


「あと少しだけ、俺の夢に付き合って」


 なんだか、寂しそうな顔でそう言うから。

 レリッサは、言いたいことがあったのに、言えなかった。


 あと少し、だなんて。どうしてそんなことを言うのか。

 けれどそれを聞くこともできなくて、レリッサはただ小さくうなずいて。

 手を引いてゆっくりと階段を登ってくれる彼の背中を、ただ見つめることしかできなかった。



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