02. レリッサの憂鬱2
レリッサには婚約者がいた。つい二ヶ月ほど前まで。
相手はさる伯爵家の次男で、父の部下だった。
学園では先輩にあたり、何度か顔を見たことはあったものの、特に言葉を交わすような仲ではなかった。縁ができたのは卒業してからだ。父を介して何度か顔を合わすうちに、あちらからの強いアプローチと最終的には父の後押しもあって、婚約を結ぶに至った。
婚約期間は二年ほど。彼が昇格して一部隊を任せられるようになったら、結婚をしようと話していた矢先のことだった。
軍の宿舎に呼び出された。
彼が好きだった焼き菓子を持参して行けば、彼の小さな自室に、彼と、幾度か夜会で顔を合わせたことのある令嬢が、あろうことか彼のベッドに腰掛けて待っていた。
彼女の腹部は、見て分かるほどに膨らんでいた。
『子供ができた』と、彼は短く言った。そして、『別れて欲しい』とも。
あの時、何と言うのが正解だったのか、いまだにレリッサには分からない。
頭が混乱して、どうするべきか全く分からなかった。ただ『どうして…』と言う言葉だけが、唇からこぼれた。
そこから、彼は言い訳交じりに息急き切って言葉を連ねた。
君は退屈なのだと。地味でつまらない。いくら誘っても、夜の誘いに応じない。そんな君のせいだ、とまで言った。
この国では、婚前の交渉は決してタブーではない。ホーリィのように恋人が頻繁に入れ替わることも、あまり歓迎はされないものの、理解はされる。
ただしそれは婚約者がいない場合に限られる。婚約者がいる場合には、当然相手は婚約者以外であってはならない。
確かに何度か夜を一緒に過ごさないかと誘われたことはあった。特に、婚約して最初の頃に。けれどレリッサには、下にいる
彼も、理解してくれていると思っていた。申し訳なさそうにするレリッサに、彼は優しく『いいんだよ』と言ってくれたのに。そう言うところが、奥ゆかしくて良いのだと。『君は良い奥さんになりそうだね』と、いつも言ってくれたのに。
結局、彼の誘いに乗らなかったのが間違いだったのだろうか。
レリッサが答えきれないうちに、彼は厚かましくも、父にはこのことを黙っていて欲しいと言った。そして、婚約の破棄はレリッサから言い出したもので、ずいぶん前から二人の間では決まっていた事にして欲しいと。
『子供ができるのに、今の出世コースから外されるのは困るんだ』
頼む、と頭を下げる彼に、レリッサは、罵ることも、激昂することもできずに、静かにただ
部屋を出て、宿舎と本部の間を結ぶ回廊に出るまで、なんとか耐えた。
回廊に出た途端、堪えきれなくなって、鼻の奥が痛んだ。
信じていた未来が変わってしまったのだと、そう気づいた時ようやく、涙が流れた。
傷ついた自尊心と先行きへの不安に、流れ出した涙は止まらず、レリッサはいつ人が通るか分からない回廊から中庭に出て、しばらくの間その隅でひっそりと泣いた。
こんな軍部のど真ん中で、身内とは言え部外者が泣いているだなんて、知られるわけには行かず、声を押し殺して泣くのには苦労した。
なんとか涙を押さえ込んで、できるだけ人に顔を見られないように俯いて帰った。
馬車の中で、家族にどう告げようかと考えているうちに、あっと言う間に屋敷に着き、答えがまとまらないまま、運悪く帰宅が重なったホーリィに目が真っ赤に腫れ上がったままの顔を見られてしまった。
そこから、ホーリィの質問攻めに合い、結局取り繕うこともできずに洗いざらい話してしまった。
『信じられない! お姉様がいるのに、
そう言いながら、彼をどうしても悪く言うことができずにいるレリッサの代わりに、クズだの、そんな男と結婚しなくて良かっただのと、ホーリィが憤っている間にエメリアが帰ってきて、早々に姉の知るところになった。
『任せておけ。明日には血祭りにあげておく』
物騒に剣の柄に手をかけ、今にも宿舎に乗り込んで有言実行しそうなエメリアをなんとか
ライアンとサマンサが帰ってくる頃には、なんとか体裁を取り繕い、それでも結果だけは告げない訳には行かないので、訳あって婚約を解消したのだとだけ告げた。
二人は、明らかに泣き腫らした姉の顔に
生れながら魔力を有するサマンサは、無言でレリッサの目に手を当てて、目の腫れを癒してくれた。
『これくらいしか、できないけど』
その優しさが、その時のレリッサにはあまりに身に沁みて、また泣きそうになるのをなんとか堪えた。
父には、散々悩んだ末、結局彼が告げた通りのことを伝えることになった。ホーリィとエメリアは、どうせ少し調べれば分かることなのだから、本当のことを言うべきだと言ったけれど。
父が職務上問題もないのに、私的なことで彼を出世コースから外すような人ではないのは分かっていたから、もはや彼を庇うような道理もなければ、それほどお人好しでもないつもりのレリッサは、直前までは姉と妹の助言通り、ありのままを告げようとしていた。
だが、仕事帰りの父の疲れた顔を見てしまったら、婚約を後押ししてくれた父を悲しませるようなことを言えなくなってしまったのだった。
『お父様、ごめんなさい。私、婚約を解消することにしました。随分前に決めていたんですけど、なかなかお話することができなくて…。せっかく後押ししてくださったのに、ごめんなさい』
父は一瞬驚いた表情をした後、『そうか』と呟いた。
『お前が決めたのなら、それで構わない』
優しく頭に置かれた手が温かくて、切なかった。
軍本部の回廊。
父の荷物をバスケットに詰め込んで、いつの間にかレリッサはそこに立ち尽くしていた。
あの中庭が目に入って、思わず胸の痛みと共に二ヶ月前のことを思い出してしまっていた。
喉の奥が熱くなり、目が痛んだ。また涙が出てきそうになるのを、ぐっと押さえ込む。もう二ヶ月経つのに、ちっとも癒えてなどいない。
あの時傷ついた自尊心はそのままだ。
ふと、回廊の先の方からざわりとした人の気配を感じて、レリッサは視線を回廊の先へ戻した。軍の人間がこちらへ向かっているようで、話し声と複数の足音が聞こえてくる。
レリッサは廊下の端へ避けて、頭を下げて彼らが通り過ぎるのを待った。
軍人は、軍服の色で大体の階級が分かるようになっている。
エメリアが着る黒味のある深緑は下級士官のもの。濃茶の制服は官位を持たない軍人のもので、尉官は臙脂。佐官は濃紺。将官以上は、平時は白の軍服を着ている。
レリッサの下げた視線の先、通り過ぎる人物たちのズボンの裾が軒並み佐官以上の濃紺と白で、どうしてこんなに官位が上の方ばかりと、レリッサは下げた頭をさらに深く下げた。
相当な人数が通り過ぎるのを待ち、レリッサは顔を上げる。
そのまま振り返らずに、父が軍本部で執務室としている、二階の部屋へ向かおうと階段の方へ向かう。
階段の向かい側に、宿舎へ通じる回廊がある。
またちらりと、彼はどうしているだろうと思った。
別れてから間もなく、結局彼は、西の国境軍に異動になったとエメリアが教えてくれた。
父が手を回した訳ではない。だが、それは出世コースから外れたのと同義だとエメリアは言った。
彼は、今頃どう思っているだろう。レリッサが自分の頼みも虚しく、本当のことを告げたのだと恨んでいるだろうか。…恨まれる筋合いなど、こちらにはないけれど。
そういえば、彼の相手の、あの令嬢はどうなっただろう。あのお腹の大きさから考えると、そろそろ臨月ではないだろうか。彼について行ったのだろうか。だが、西の国境付近は山岳に覆われた不毛の地だ。あまり妊婦が行くには向かない土地ではないだろうか。だとすれば、彼女だけ王都に残っているのだろうか。
そんな、考えてもしようのない事をつらつらと考えていたからだろうか。
足音には気づかなかった。
「ラローザ伯爵令嬢」
「はいっ?」
後ろから突然声をかけられて、レリッサは階段にかけようとしていた足を慌てておろして振り向いた。
そこには見知らぬ人が立っていた。
目に入ったのは、黒だ。
濃紺とは明らかに違う、真っ黒な軍服。そして、黒い髪。透き通った瞳は美しい琥珀の輝き。
まだ年若い青年だった。すらりとした長身に、すっと通った鼻梁。思わず見入ってしまうほどの美丈夫だった。
彼の後ろには、白と濃紺の軍人たちが待っていた。先ほど、一度通り過ぎた軍人たちだと気づく。戻ってきたのだ。
「失礼しました!」
レリッサは慌てて、端に避けた。
けれど、首を振りながら彼は笑って、すっと回廊の先を指差した。
「ラローザ将軍なら、今は作戦室にいる。お一人だから、行っても構わないよ」
「あ…ご親切に。ありがとうございます」
彼は、では、と言って元の道を戻って行った。
その後ろを、ぞろぞろと白と濃紺の軍人たちが付き従っていく。見れば、その中には父を介して知った顔も何人かいて、それぞれにレリッサに微笑みかけたり、手を挙げたりして戻って行った。
レリッサは回廊の先で彼らが曲がるまでその背を見送った。圧倒されて身動きできなかったのと、彼らに背を向けるのは不敬に当たる気がして、思わず見送ってしまった。
さて、とレリッサは最後の背中が角を曲がると、体の向きを変えた。
いつもは二階の父の執務室に行く。父がいればお茶を入れて帰り、いなければ頼まれ物だけ置いて帰るのが常だった。そう、こういうことはよくある。
けれど、ここから一階の回廊の先は本部の中央部に続く道で、部外者であるレリッサは入ったことがなかった。
緊張のあまりばくばくと心臓が高鳴るのを、胸に手を当てて抑えつける。
しばらく同じ扉の続く長い回廊を行き、作戦室と控えめに掲げられた部屋を見つけて、レリッサは小さく息を吐いた。心持ち控えめにノックする。
「どうぞ」
分厚い扉越しに、聞き慣れた父の声がくぐもって返ってきて、レリッサは、今度は安堵のため息をもらして扉を押し開いた。
「レリッサ?」
父は、作戦室に入ってきた娘に驚いたようだった。わずかに目を見開いている。
父の着るのは白の軍服。だが先ほどいた将官たちと違うのは、襟や肩章、袖口の折り返し、ポケットのフラップには金で縁取りした黒が使われていること。父は軍で唯一、この軍を統括する将軍職にあるのだ。
「あの、途中で、お父様はこちらだと教えていただいて。入っても構わないと言われたのですけれど、構いませんでしたか?」
「ああ…。構わんよ」
そう言うと、父はレリッサの持つバスケットに目を向ける。レリッサはそばにあった机にバスケットを置いて、一番上に入れていた書類の束を手に取った。
「頼まれていた書類です。あっていますか?」
父は、机の上に置きっぱなしになっていた老眼鏡をかけると、書類の中身を検分していく。
眼鏡の奥にあるのはエメラルド色の瞳だった。だが歴戦の軍人の
ふと、父がかすかに息を吐いて、顔を上げた。
「大丈夫だ。すまんな」
「いえ。あと、お着替えをお持ちしました。こちらはあとでお父様の宿舎のお部屋に置いておきますね」
「いや、良い。どうせこの後、一度部屋に戻る予定だった。このまま預かろう」
バスケットごと渡すと、父はため息とともに眼鏡を外した。それから、その眼鏡のツルで父の隣の椅子を指した。
「少し話そう。茶でも飲むか」
「あ、なら私が…」
動きかけたレリッサを、父は目線で制して、部屋の隅の小さな机に置かれたお茶のセットを手に取った。
「私だって、宿舎にいるときは自分で茶くらい淹れる。まぁ、お前が淹れてくれる茶には敵わんが」
そう言って、父は口元で笑んだ。
そうして淹れられた、無骨なマグカップに注がれた湯気が立ち上るお茶を、レリッサはふぅと何度か呼気を送って冷ましてから口に運んだ。家で飲むお茶に比べれば香りのないものだったが、それは淹れ手の問題というよりは茶葉そのものの問題だろう。国の機関とは言え、軍に備え付けのお茶は安価な物を仕入れているらしかった。
「変わらんな。お前は昔から猫舌だ」
父はそう言うと、自分もマグカップに口をつけた。
しばらく、お互いにただゆっくりとお茶を口に含むだけの時間がのんびりと過ぎた。
思えば、こうして父とこんな静かな時間を過ごしたのはいつぶりだろうか。レリッサが生まれてから、この国は戦時とは言わないまでも、国境付近での近隣国との小競り合いや、領地同士の侵攻侵略などで常に争いの絶えない状況下に晒されてきた。その都度、かつてレリッサが産まれた頃には少将だった父は戦地に赴き、将軍に上り詰めた今も、こうして生活のほとんどを軍の本部で過ごしている。
母が亡くなった時も。父は、ここにいた。
双子を産んでしばらくして、母は産後の肥立ちが悪く、衰弱していくように亡くなった。あのときは、時間を見つけては家に帰ってきて母を見舞って、あっという間に家を出ていく父の背中を心細く思いながら見送ったものだ。玄関先で、見送りに出た子供達の頭を、申し訳なさそうに一撫でして出ていく父の、見上げた顔を今でも覚えている。
そして、母の亡骸の横で人目も
普段、あまり表情を変えない父だから、意外でよく覚えている。
母の葬儀が終わってから二日だけ、生まれて初めて、父が休みを取って側にいてくれた。大抵、休みの日でも、呼ばれて半日で出て行ってしまうことがほとんどだったのに。思えば、きっと同僚の配慮が多分にあったことだろうけれど、ラローザ家の
今こうして面と向かって静かにお茶を飲むのは、まさにあの時以来かもしれなかった。
「そろそろシーズンだな」
不意に父がこぼすように呟いた。
視線はお茶に注がれていて、どういう表情なのかは分からない。
「ちょうど今朝、王宮から招待状が来ていました。お父様の分は書斎に置いてあります。二週間後だそうですわ」
将軍とは王宮の警護も担当する軍の責任者だ。もちろん知っているだろうと思いながらレリッサは言った。
「その舞踏会だが」
「はい」
父が顔を上げる。どこか言いにくそうに口ごもったあと、父は口を開いた。
「パートナーは大丈夫か? いや、年頃の娘に聞くのも野暮かとは思ったが…」
父の目には、気遣いの色が浮かんでいた。
ああ、とレリッサは思う。
婚約を解消したのはたった二ヶ月前のことだ。その間に新しい恋人ができるほど、娘が器用なタイプでないことを、父もよくわかっているのだ。もしかしたら、父は婚約解消の理由もとうに知っているのかもしれない。
「ご心配をおかけしてすみません。実は当てがなくて…。なのでお父様にお願いできればと思っていたのですが…」
いかがですか、と聞く前に父の表情が曇り、どうやら都合が悪いらしいと気付く。
「すまない。今シーズン、私は全面的に警護側に回ることになっている。よってエスコートはできない。ライアンとサマンサのデビュタントの挨拶だけはなんとか同席できそうなんだが…」
「そうでしたか…。王太子殿下も婚約者をお決めになると言うことですし、お父様もお忙しいんですのね」
「…どこでそれを?」
父が驚愕の表情を浮かべる。
「えっと、ホーリィが…」
そう言えば、極秘情報と言っていたのだったか。
てっきり大げさに言っただけだと思っていたのだが、父の反応を見れば、正真正銘、本当に極秘事項であったらしい。
父は苦々しい表情で、「ホーリィか…」と呟いた。
「あいつめ。毎回、どこで情報を仕入れてくるのだ。政府側でも高官しか共有しとらん内容だと言うのに」
「まぁ、ホーリィはお友達も多いですし…」
なんとなくホーリィを庇わなければいけない気がして、レリッサはそう口を挟んだ。
確かに、ホーリィはいろんな噂話を仕入れては、
「みなさんお話が好きな方がほとんどですし、女性同士の噂話も馬鹿にできないものですわ」
「まぁ、そうだな。機密と言っても、政府側の情報管理などあてにはならん」
ふん、と吐き捨てるように父が言うのに、レリッサは小さく肩をすくめる。
この国の軍と政府は仲が悪い。子供の喧嘩のような表現だが、国の中枢部の話だから事態は深刻だ。すっかり二極化していて、軍と政府の連携がほとんどと言っていいほど取れていない。ことに政府側の機能が弱体化しているのは、ここ最近官僚絡みの問題が続出していることからも明白だった。
「話を戻すが…、パートナーの件だが」
父の申し訳なさそうな顔に、レリッサは笑顔で首を振った。
「大丈夫です。知人に声をかけてみます。エメリアお姉様も、部下の方に声をかけてみても良いとおっしゃってくださっていましたから」
「そうか」
父は少しほっとしたような表情になって頷いた。
レリッサは、残り少なくなっていた、すっかり冷めてしまったお茶を静かに飲み干した。それから、背もたれにかけていた外套を手に取る。
「それでは、そろそろ。お仕事、ご無理なさらないでくださいね」
「お前もな。なかなか帰れずにすまない」
父の言葉にレリッサは首を静かに横に振って。
そして、表まで見送るという父の申し出を断って、再び回廊に戻った。
来た時と同じ道を戻っていく。
気持ちは、変わらずに憂鬱だった。
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