ザマスターオブザヘルメス3 多面の浄化

@jealoussica16

第1話


戸川が入院していた病院が、自分のいる病院から一キロも離れている場所だったことを知って、アキラは驚いた。すでに戸川は退院していた。アキラは一ヶ月を超える入院に、だんだんと疑問を感じていたからだ。必要以上に薬を投与することで何かを企んでいるんじゃないかと、病院を疑ったりもした。しかし連絡をとれる知り合いの存在も、今はあやふやで、しかもこんな姿では戸川にも会わせる顔がなかった。

 戸川もまた、命が危ぶまれるほどの重体であったことを知った。ほとんど時を同じくして、俺らは生の領域からはじき出されていたことになる。こんなことがあるのか。戸川は突然発した、原因不明の病気のようであった。詳しいことはわからないと報道ではされていた。週刊誌などにも症状についての記述はなく、代わりに彼の結婚相手に関する記事ばかりが出まくっていた。昏睡状態からは脱し、体も以前と変わらない状態に戻ってしまえば、まわりの人間は、特にそれ以上、原因の追究などしなくなる。

 確かに俺とは違った。俺は病気でも何でもなかった。殺されかけたのだ。すでにほとんど殺されているといっていい。そろそろ病院内で、警察による事情聴取が始まるらしかった。そういう意味での、退院許可が下りない現実もあった。確かに自分自身においても、体力は戻ったものの、心のダメージは相当負っているのかもしれなかった。少し時間が経つにつれて、感じることが多くなってきた。まだ今は、その心を見て見ぬふりをしているため、特に目立った傷があるとは考えにくい。ところが、いったん、その「何か」と向き合えば、・・・そう、やはり、この場にしばらく、居を構える以外に選択肢はないのかもしれなかった。そうか。戸川は結婚したのか。こういう時にこそ、話し相手になってほしい男だった。彼もまた本当の友達は俺しかいないんじゃないかと、自惚れていた。また一番大変な局面で、お互い顔をつき合わすのではないかと、密かに思っていた。だからしばらく距離を置いても、いや置いたほうがいいのではないかと思ったのだ。確かに二人が意識を失っていた時期は、驚くほど重なっている。しかし意識を取り戻した後の状態が、まったく違う。ということは、そもそも死の淵を彷徨い歩いた、そうした状況へと引き込まれていった理由が違うのだ。

 俺らはもう最初から、親密に会って遊んでいるときから何一つ、噛み合ってなかったのだ。何一つ、共有しているものはなく、束の間の時間つぶしを、していたことになる。これほど彼を遠くに感じたことはなかった。一キロ先に十数時間前まではいたのだ。そこで彼は退院の記者会見を開いていた。戸川には今、親友としての異性が側にいた。彼女に何でも心をさらけ出している。そういった女性を手にいれたのだ。

 事情聴取は明日から始まる。殺人未遂事件として、本格的な捜査が始まる。国際的な犯罪組織が絡む、大変な事件に俺は巻き込まれてしまった。俺は台湾への旅行から始まる一連の行動を、正直に話せばいいのだろうか。すべてを包み隠すことなく、脚色することなく、受け取られ方を計算することなく。あとは警察にすべてを任せればいいのだろうか。別に、俺にとっては、殺人未遂が成立しようがしまいが、そんなことはどうでもよかった。嵌められたのは間違いなかったが、彼らが再び、この俺をターゲットに追ってくるとも思えなかった。たまたま、俺はあの場所にいて、たまたま彼らと鉢合わせをしてしまった。突然、その、たまたまを引き起こした要因は、俺の中にあるわけだし、そこを見て見ぬふりをすれば、また同じようなヤツラを引き寄せ、似たような状況を作り出すことになるだろう。それだけは避けたい。そしてそのことは、ヤツらや警察とは何の関係もないことだった。

 そんな時、アキラのもとに一人の見舞い客がやってきた。

 交際している女性の方ですと、看護婦は言った。反射的にアキラは刺客だと思った。

 看護婦にはこう言った。

「僕に付き合ってる女性は、いません」

「いえ、しかし、・・・」

「僕は事件に巻き込まれた、人間です。警察に、その訪問客のことを話してください。今すぐに」

「いえ、ですから、警察の方には、すでに話は通っています。そう言われているもので。訪問客を勝手に通してはならないと。すべて報告するようにと」

「それで許可されたのですか?」

「そうです。あなたと交際している女性で間違いないと。そう判明されたようです」

「警察が?警察がそう言ったの?ほんとに?」

 アキラは信用することができなかった。

 この看護婦の女もグルなのだろうか。この病院自体がグルなんじゃないだろうか。

 警察と証して警察になりすまして。ヤツラの手下なんじゃないだろうか。俺が余計な証言をする前に、口封じをするために。そう思えば思うほど、入院そのものがずいぶんと不可思議に思えてくる。

 本当にここは病院なのだろうか。医療器具が何だか頼りなく見え始める。この器具もまた急いで病院のように見せかけるためだけに、無差別に集めたもののように見えてくる。とりあえず病院らしく見せれば。あいつを信じさせるに足る、そんな状況だけをつくれば。とにかくはやく。はやくと。

 このドラマのセットのようにつくられた、張りぼての空間に、俺は監禁されているんじゃないだろうか。だとしたら、この女看護士は、いったい何者なのだろう?ヤツラの手下の一人なのだろうか?それとも、本物の看護婦をわざわざ雇い、派遣してきたのだろうか。張りぼての粗雑さを、補うに足る、本物の人間を。

「戸川兼って、知ってる?」

 アキラは突然看護婦に問いかけた。

 看護婦はビクッと体を震わせながら、もちろん知っていますと答えた。

「あの男と友達なんだ。幼馴染で。近くの病院に入院してたんだってな。どうして俺も、そっちじゃなかったのだろう」

「たしかに、ここから一番近い病院になりますね」

「このあたりには、他にも病院はあるの?」

「いえ」

「この、二つだけか」

「五キロ、十キロ圏内では」

「そう」

「何か?」

「そっちの病院に、移してはくれないの?」

「あなたを?」

「別に、いいじゃないか」

「お気に召しませんか?」

「戸川と同じところがいいんだ」

「もういませんよ。何日か前に、退院されています」

「知ってるよ」

「では、なぜ?」

「向うのほうがさ豪華そうじゃん。設備もよさそうだから。当然、医師のレベルも高そうだ」

「その点につきましては、ここの医師も優秀です。人間的にも、大変すばらしいと、自負しております」

「とにかく、戸川の方に、行きたいんだよ」

「困りますね」と看護婦は答えた。「警察の方に、直接、言ってもらえますかね」

「また、警察か」

「あなたは、事件の関係者なんですよ」

「被害者だよ!」

「ええ、そうです。関係者です。あなたに、病院を選ぶ権利は、ありません!」

「何だって?」

「あなたに、自由はないのです!おとなしくしていなさい!あなたは、自分に起こったことを、軽くみすぎています。これは、あなたにとっては、実に深刻な出来事で、我々社会にとっては大変、重大な、時代の裂け目となる事件だ。本当に何を考えているんだ、あんたは」

 最後のほうは、中年の太った看護婦のような口調に、なっていた。

「女性には、帰ってもらいましょう。こんなあなたに、会わせることのできる、人はいません。女の人が、可哀相です」

 張りぼてのはずだった病院が、だんだんと何十年も責務を果たしている現実の病院に見えてくる・・・。

 看護婦は引き戸を勢いよく閉め、「反省しなさい」と叫んでいってしまった。



 あとどれだけほうのうすれば・・・すれば・・・あと、どれだけ・・・津永は、日を経つごとに、増して木霊してくるその声に、昼夜悩まされるようになる。

 何が原因で起こっているのか。明らかにそうだった。ミシヌマエージェントをつくり、カイラーサナータと名付けた新しい建物に、施術院を移動したその夜から始まっていた。

 どうしたら声は鳴り止むのだろう。こういう時こそ見士沼祭祀だ。彼の施術がこうした障害を、綺麗に取り去ってくれる。そのための施術院であり、彼という存在だった。

 津永学は見士沼祭祀が宿泊する一戸建ての家に、出向いていった。

 彼はホテルに宿泊することを嫌い、電話やパソコンなどの通信機器を使うことを、嫌った。

「お疲れのところ、すみません」津永はインターホン越しに言った。

「疲れるようなことは何もしてないよ」

「いいですか?中にいれてください」

「どうしたんだ。少し顔色が悪いね」

 通されたリビングルームは何日か前にやって来たとは思えないほど、生活感に溢れていた。

「そうなんです。寝不足なんです。全然、眠れなくて。困りました。声がですね。聞こえてくるんです。幻聴です。初めてです。まだその一言ですが、それもわかりません。どんどんと増えていって・・・そうなったら・・・、ほんとに煩くて、ねえ、・・・そうでしょ。今のうちに処置しておいたほうが。そうですよね。あなたなら数分でなんとかできる。お願いします。本当に余計な仕事をさせてしまって、申し訳ないです。私としたことが。あなたに合わせる顔もない。本来。

 あ、そこのソファーに、横になればいいですか?そこで、いいんですよね?服は脱がなくて、いいんでしたっけ?いや、初めてなもので。まさか自分がミシヌマさんのお世話になるなんて、思ってもみなかった。でも考えようによっては、よかった。こんな身近に先生がいらっしゃるんです。幸運です。今という時期も、また、よかった。開業前で、本当によかった。大丈夫でしょ?私一人、だけですから。三十分もあれば、終わりますか?一回の施術で、終わりでしょ?早めに来て、よかったですよね?お願いします」

 津永は、自らソファーに横になり、仰向けになるのか、うつ伏せになるのかわからず、中途半端な横向きになって、見士沼の施術を待った。

「こんなところじゃできねぇよ」

「えっ?」

 これまで聞いたことのない声だと、津永は思った。

「できねぇんだよ。俺の自宅だぞ。嫁も、三歳の娘もいるんだぞ」

「娘?誰のですか?いたんですか?いや、そんなはずは」

「お前になんか、軽々しくできるか?ちっ、その必要すらないのに。いいか、津永。・・・俺のエネルギーを余計なことには、使いたくはない。こんな、ちまちまとしたことに。いいか、よくきけ、津永。お前みたいな、擦り傷程度のヤツを、今度の場所に、絶対に連れてくるなよ。連れてきた瞬間、お前との縁は切るからな。二度と顔など見られなくしてやる。いいか。たとえ、どんな症状の人間に対してであっても、俺の施術は等しく巨大なパワーを費やしてしまう。どういうわけかはわからないが。とにかくそれは、これまでの実験で証明済みだ。わかったか、津永。お前の症状など、吹けばすっとんでしってしまう程度の、塵にすぎない。そんなもの、自分でどうにかしろ!だいたい、言葉だって、そんなにもはっきりと、聞こえてくるんだろ?簡単な話じゃないか。・・・意味を汲み取り、自分が今できることを自分にやる。それで終わりだ。

 まったくやさしい話だ!お前は馬鹿なんじゃないのか?一番、辛い症状ってのはな、何も症状が出ていない、そんな状態のことだ!わかるか?何よりもそれは辛い。俺はそんなヤツラの力になりたい。症状はないのに負荷だけはかかってる。全然、つらくはないんだぞ!自覚症状がないんだぞ。わかるか?それでも、なぜか、足はここに向いてしまった。そういう人たちだ。一番大変な、そいつらのために俺はいるようなものだ」

 津永はいわれていることを理解するのに、時間がかかった。

「わかりません」と正直に答えた。「でもたしかに、僕ごときのために力を使うことはないのは分かりました。すみません。そこは謝ります。たしかに声は鮮明に聞こえてきます。あと、どれだけほうのうすれば、あなたは、こたえてくれるのだろう。その言葉が、繰り替えされます。何を、どこに、ほうのうするのでしょう。何のために。誰が。あなたとは一体。こたえてくれるというのは、祈りが通じるということですか?これまでも祈ってきたのでしょうか。祈りを表現するために何かをほうのうする、つまりは捧げたのでしょうか。あなたとは?そうすると。あなたとは神のことなのですか?自身を超えた存在に対する。そうですよね。地上に生きる僕に対する。天にいる存在のことですよね。その存在に向かって、僕は一体、何を捧げていたのですか?今も。いったいいつまで?叶えられるんですか?何を望んだのですか?僕は何を望んだのか」

「君にも・・・、か。やはりそうか。そうなんだな。君にもとりついてるんだな」

 見士沼はそう言って、笑った。

「俺にも、そう。俺に関わる人間は、皆そうなのか?ふふふふ。奉納ね。そうだよ。奉納だよ!死体だよ!津永くん!死体を天に捧げているんだよ!これまでも、今も。君もまた!君は誰かを殺したのか?あるいは死体を見つけて、拾ったのか?してないだろう。してなければ、どこから集めてくる?勝手に集まってくるわけがない。そうさ。君だ。君なんだよ!君が、君自身の一部を殺して、そして差し出しているんだ。小刻みに。そう。小刻みにね。君自身が差し出している。奉納している。こたえてくれないだって?あたりまえじゃないか!そんなもので応える天であるだろうか!

 津永・・・、何を奉納すればいいのか。よく考えてみろ。いや、考えなくとも、結論は初めから出ている。津永。しかしはやまるんじゃないぞ。必ず来るから。必ず来るから。それを実行に移すときは。必ず来るから。その刻を待て。いいか、津永。そうすれば無駄死にはしなくなる。避けられる。生まれ変わった津永になれる。そんなお前を現実に、体感することができるようになる。必ず」

 結局、津永は施術をされずに家を追い出されてしまった。

 しかしその夜、悩まされていたはずの声は見事に消えていた。 

 翌朝になっても再生されることはなかった。



「警視庁の田所です」

 男は警察手帳をアキラに見せた。

「お一人ですか?」

「そうです」と田所は答えた。

 もっと大勢の捜査員がやってきて、大掛かりな聴取がされるものだと思っていたアキラは、拍子抜けしてしまった。

「ええと、台北の、ウエストミンスターホテルで、監禁されていたそうで」

「そうです」

「詳しい状況を報告してください」

「報告?」

「手短にお願いします」

「手短?なんで?」

「なるべく簡潔に」

「きいていた事情聴取と、全く違う」

 アキラは大きな声を出した。

「僕は被害者ですよ。殺されかけたんですよ」

「きいております」

 他人事のように、まるで関心がそれほどないような対応に、アキラは怒りすら湧いてきた。

「大きな事件につながる、重要な案件なんですよね?」

「何も、申し上げられません」

「わかっています」

「どういう状況にあったのか。教えてください。あなたは、個人で旅行をされていた。仕事でしたか?」

「半々です。旅行という名目でしたが、向こうでも昼間はほとんど、ネットに繋いで仕事をしてました」

「なるほど。経費として落としていたんだ」

 アキラはしぶしぶ頷いた。

「それで、夜は遊びに出て」

「そこで、騙されてしまったんですね」

「占い横丁に行ったことで、まさに運命がおかしな方へと、動いてしまった」

「そのようですね」

「ギャンブルに首を突っ込んでしまいました。結局、勝てないシステムだったのでしょう。短い間に、多額の借金をしてしまって。その返済のために、彼らの仕事の片棒を、かつぐ羽目になってしまった。そこからは言われるがままです。どうしてあんな、軽率な行動をとってしまったのか。今だに、自分が信じられません。これまで、そのようなことは、一度もないのですから。ギャンブルに目覚めたこともないし。女で失敗したこともない。ビジネスも大成功とまではいかないけれど、軌道に乗らなかったことはない」

「だからです」田所は言った。

「一見、うまくやっていたようですが、実情はそうじゃなかった。その反動です。でも、よかったじゃないですか。致命傷にならなくて。たいした損失もなく、いつでも再生できる」

「どうでしょう」

「監禁されていたそうですけど」

「監禁はされていません」

「えっ?そうなんですか?そのように聞いてますけど・・・」

「台北で、そういう事態に巻き込まれて、それで彼らにはそのギャンブルの攻略法を叩き込まれたんです。そうしてそれを武器にあらゆる別のギャンブルにも適応させて、勝ち抜く技術を身につけたんです。その技術をもって、世界中のカジノに僕は送りこまれました。そこでシステムをダウンさせるテロリストのような行動を、要求されました。その僕が担当する最後の仕事が、日本だった。しかし僕の正体は初めから、カジノ側にはバレていたんです。アンダーグラウンドの社会の争いに、まさに一つの駒として僕は使われ、さらには敵対していた別の組織にも、囚われてしまったわけです。その抗争に警察が今回、介入したんでしょ?そして僕は被害者の一人として協力する。知っていることは何でも話しますよ。体験したことはすべて」

「あなたが発見されたのは、台北ですよ。ウエストミンスターホテルの605号室です。あなたが宿泊していた部屋ですよね?」

「たしかにそうですけど」

「そこに、二ヶ月のあいだ、閉じ込められていたはずです」

「違います」

「今さら虚偽の証言をされては困りますよ。正直に心を開いて、さあ、監禁されていた間、あなたは何をされていたんですか?電気ショックのようなこともされていたんでしょ?刃物を突きつけられて・・・、しかし何のためにそんなことをされたのか。動機がわかりません。ホテルのオーナーがグルとなって、宿泊した外国人を、閉じ込めた。わからないんです。何故そのようなことを」

 話がまったく噛み合わないことに、アキラはまったく疲れてきた。すべてをありのままに話してしまおうと決意していた自分が、情けなくなってきた。

「再び、僕は狙われるかもしれません。警察が守ってくれるんですよね?」

「また狙われるのですか?」

 田所は驚いた表情で、アキラを見た。

「こういった証言をしてしまった人間を、彼らは嫌がるはずです」

「といっても、我々に参考になる話は何も・・・」

「あなたの話の論点が、ズレてるからだよ!」

「とにかく安静にしていてください」

「俺はイカれてなんていない」

「そういう意味ではなく・・・」

「病院。別の場所に移りたいんですけど、いいですか。そうしてもらえませんか?この近くにもう一つあったでしょ。そっちにしてもらえませんか?知り合いの知り合いがいるんです。もっと良くしてもらえるはずです。お願いします。ここじゃあ監禁されているみたいだ。あなたたちに」

「昨日、女性が訪ねてきたでしょ?」

「断りました」

「どうして。最愛の彼女でしょう?」

「僕に恋人がいないことを知ってて、そういうことを言うんですか?」

「別れようとしているのは、わかります」田所は全て知っているかのように言った。

「しかし、縁はまだだいぶん途切れる気配は、ありません。彼女、病気を、もっていますよ。性的な接触はあまりしないほうがいい。あなたも、おわかりになっているでしょ?新しく彼女になる女性。その方ともうすぐ出会いますしね。もう、出会ってましたか?その女性と急速に親しくなっていくんですから。前の彼女とは少しずつ疎遠にしていくのが、賢明です。いきなり断ち切るような行為は、危険です。逆に、糸を切れなくさせてしまう。向こうの想いに、再び点火してしまうことになる。あくまでも、じょじょに、じょじょにです。いきなり冷たくするのも、いきなり性交渉を拒絶するのも、好ましくありませんから。例えば、性交渉する時でも、中身を少しずつ淡白にしていくべきでしょうね。気づくか、気づかれないか程度から。時間も短く、そのうちに頻度も減らして。そうしているうちに、新しい子と親密になってくるはずですよ。あなたの中で完全に、あなたにとっての、女性が入れ替わる「刻」というのが、訪れますから。どうかその瞬間、その局面を見過ごすことのないようにね。それでは、事情聴取は終わります」

「はい?」

 そうだったと、アキラは本来の状況について我にかえった。

 こいつは本当に、警察の人間なのだろうか。一人で来るという自体が、信用できなかった。

 男が部屋から出ていったあと、アキラはすぐに警察に電話をかけるため、アイフォーンを探した。



 誰に何を捧げるのか。津永は自分以外には考えられなかった。これまでの自分のすべてだ。生きてきた自分のすべてを捨てる。殺せばいいのか。それですべては消えてなくなってくれるのか。

「かいせんが宣言される」

「えっ?」

 低い男の声だった。

「もう、まもなく」

 かいせん、かいせん、・・・文字の変換がうまくいかない。

「ふたりのさいしが」

 さいしという言葉。またもや字がわからない。

 しかし、アキラは慌てなかった。わからない単語がいくつかそろった瞬間、すべての単語のイメージが一つにつながり、意味をもたらし、最後に文字が理解を署名するように浮き出してくるはずだった。

「ふたりのさいしが、ひとつのばしょをとりあうとき。ふたりのさいしが、ひとつのばしょをとりあうとき、とりあうとき・・・とりあうとき・・・。かいせんをつげるかねのねがなりひびく。ふたりのさいしが・・・ふたりのさいしが・・・。

 二人の見士沼?見士沼が二人?高貴と祭祀?

 親と子の対決?二人の祭祀。宗教ごとを司る・・・祭祀。世の中の重要ごとを司り、儀式に変換し、その変わり目に力を刻印する・・・祭祀。二人。二人の祭祀。二人の候補者。一つのポジション。一つの役割。祭祀。共存しない共存が許されない祭祀の場所。開戦を告げる・・・。

 争いごとか・・・。その地位を争うのか・・・。開戦をつげるかね・・・。

 きっかけにすぎないのか。その儀式が、鐘の音となって、一体、なにが起こるのか。開戦。たたかい。あらそい。対立するもの同士の潰しあい。勝利が訪れるまで続くのか。勝利はあるのか?誰が。勝者の地位に君臨するのだ?

 そもそも二人は、対立的な特徴をもった者なのだろうか。

 単に、君臨できる場所が、一つだからじゃないのか。だから、その場所を争うために・・・。

 ということは、つくられた対立ではないか。

 つくられた対立同士が、あらそい、攻撃しあう闘いが、始まるのだろうか。

 その口火が、切っておとされてしまうのだろうか。

 これか。この未来の記憶こそが、今、カイラーサナータに葬り、手放し、天上に昇天させておかなければならないことなのか。

 津永は、その日から、二人の祭祀が争う光景を、カイラーサナータに引き渡す作業を続けた。そこから始まり急拡大していく混乱を、天上に引き渡す状態を思い描いた。

 それにしてもと、津永は二人の祭祀の、もう一人の方が気になった。



 携帯はなかった。私物は何もなくなっていた。病室にはいつのまにか鍵がかかっている。窓が防弾仕様のように硬くなっている。あの警察手帳は本物だったのか。警察ではない別の組織が、また俺を監禁しているんじゃないのか。しかし田所という男は、本物の刑事の匂いを放っていた。けれどどの道、警察であろうがなかろうが、こうして身柄は確保されている。一体何が起きているのか。

 この自分の身が何かの対立、交渉、取引に使われているとしか思えなかった。

 警察に匿われているのなら、この身はとりあえず、安全だということになる。時間の猶予はあった。アキラはドアに体当たりをし無理やり突破する。ごみ一つ落ちていない廊下は人気がなく、入院患者などは誰もいないことが明白だ。別の部屋をノックしてみる。反応はない。ここは警察病院なのか。精神病棟なのか。みな、身体を拘束されているのか。

 戸川!と叫んでみた。戸川、助けてくれ。俺はここにいるぞ!帰ってきたんだ!戸川、一人だけ退院するなんて、ズルいぞ!俺は近くにいたんだ!どうして声をかけなかった?悪かった、戸川。一人で内緒に台湾にいって。戸川、あのときも、お前を誘っておけばよかった。あの時期はどうかしてたよ!どうしてか、お前の側にいては駄目な気がした。

 頻繁に会いすぎてると思った。



「止みましたよ、声」

 津永学は見士沼祭祀の家を再訪した。

「二人の祭祀がどうだとか。祭祀って、見士沼さんのことですか?祭祀って名前の人が二人も?」

「それはたぶん俺のことだよ。お前には関係ないよ。本来はこっちに来るやつだ。というか来ているやつだ。お前は人に来た情報も掴んでしまうようになったんだな。はははは。お前には関係ないよ。それに、祭祀ってそれ、人の名前のことじゃないよ。役職のことだ。儀式を司る神の代理人。その祭祀が、祭祀候補者が、二人現れるっていう、そういう予言だ」

「誰なんですか?それは」

「知らないよ」

「というか、見士沼さん。神の代理人になるんですか?」

「その気は、ないね」

「気はなくとも」

「先のことはわからないよ」

「でも、・・・知ってたんだ」

「たぶん、俺のところに、先に声は来ている」

「二人の祭祀。ええと、確か二人の祭祀が、一つのなんだっけな、地位だったか。それをとりあうとき。そうだ。とりあうって。あらそうんですか?見士沼さん。あなた、そのポジションを、欲しがっているんですか?奪い合うんでしょ?ええと、それで、何だっけな」

「開戦を告げる鐘の音が、鳴り響くだ」

「そうだ。それだ!やっぱり同じだ。僕のところに来た声と。開戦って、何ですか?二人の争いでは済まないってことですか?」

「おいおい、そう、早まるなよ」

 一呼吸おいてから、言葉通りにとるんじゃないと、見士沼は言った。

「開戦って何ですか、見士沼さん!」

「そうだな。争いはおそらく避けられないな。争いというよりは闘いだ。お互いを潰しあうね。そして勝利者はいない。勝利者のいない闘いだ」

「どういうことなんですか?一つのポジションを、争いあうんでしょ?」

「祭祀はな。しかしその争いが始まりとなった大きな混乱は、目的のない混乱だ。つまりは、混乱そのものが目的だ。そしてその後、閉廷した世界を誰かが王として君臨し、支配するわけじゃない。王になりたいやつらの勢力が、互いの存在を消滅させ合う。そういう争いが起こる。奇しくもその笛を吹く役目を、担ってしまうのかもな」

「そんな、あとに起こることなんてどうでもいいですよ。その前に起こる、見士沼さんの・・・、それは、僕も、おもいっきり当事者になる。どうなってしまうんですか?何故、あなたが、そんな行事に?まさか。これから行う仕事が、要因に?まさか。いやそうだ。そうにちがいない。おそらく、あなたの存在は、この現代社会に、すぐに知られてしまうことになる。そのくらいのインパクトがあることを、あなたは執り行なうのだから。なるほど。あなたが立候補するわけではない。あなたを、担ぎ上げる人たちが、相当な数、現れるんだ。きっとそうだ。あなたが相応しいと、そう信じる人々が、あなたを祭祀に選んでしまう。そして、別の理由で、また別の勢力が、もう一人の候補をのし上げてくる。あなたたちは、運命に導かれるように、対決が余儀なくされる。そんな土壌が出来上がってしまう。逃げも隠れもできない状況が、自然に揃ってしまう。そうなんだ。で、本当に、対決が?何をする気なんですか?いや、武力じゃないな。選挙か?政治的なことなのか?そもそも何の儀式なんですか?それって公式の行事なんですか?誰が主催するんですか?主催者は、一体」

「はやまるなって、言ってるだろ」と見士沼祭祀は言った。

「まだ、俺の仕事すら、始まっていない」

「そうですけど。このタイミングで、啓示があるんです。何か、準備は必要なはずです」

「まあな。心のな」

「僕は、あなたの手足です!」と津永は言った。「心だなんて言わないでください。何かできることがあれば、今からでも。僕には何もわかりません。見えません。なのであなたからの指示を待つだけです」



『来た』

 アキラは突然感じるものがあった。十数分、部屋の中に変化はなかった。

 ところがドアがノックされる音が次第に大きくなっていった。「アキラ」

 男の声だった。直観の通りなら、そこには戸川がいるはずだった。

「アキラちゃん」

 やはりそうだった。

「アキラちゃん、無事だったんだ。よかった。ニュースで知ったんだ。オレも入院中だったんだ。まだ昏睡状態だったんだが。そのね。本当のところ、意識はずっとあったんだよ。体の外に出てしまって、それで戻ることができなかった。そのとき部屋に見舞いにきていた誰かがつけていたテレビで、アキラちゃん、きみを見たんだよ!だいぶん回復したじゃないか。映像で見たときは、やつれちゃって・・・。どうしたの。監禁されてたんだって?どうして何も言ってくれなかったの?一人で海外行っちゃって。どうして、オレも誘ってくれなかったの。休みの都合は、いくらでもつけられたのに」

「兼ちゃん、うれしいよ」

 アキラは目に涙を浮かべながら、戸川の右手を握った。

「おいおい、気持ち悪いよ」

「兼ちゃん。俺こそ、君が大変な時に力になれなくて悪かった。側にいてやれなくて悪かった」

「いいんだよ。それよりもよかった。また会えて」

「きいたよ。結婚したんだってね」

 アキラはそういいながら、少し胸が締め付けられる感覚が走った。

「事務所の社長だってね。ずっと交際してたの?何も知らなかったよ。気がつかなかったよ」

「なあ、アキラちゃん。知らなくて当然なんだ」と戸川は言った。

「そのときはまだ、付き合ってなかったんだから。女性として、恋愛の対象として、意識したことすらなかったんだから。入院中さ。体を離れていたときさ。突然自分にとって、大事な人が見えたんだ。アキラちゃん。あらためて君もだよ。君のことは前からわかってたけど」

「一緒に暮らしてるの?」

「そうだよ」

「式は?」

「まだ。その予定はないよ」

「他の子たちは?」

「ああ。全然興味をなくしたよ。もちろん、御飯くらいはこれからも行くだろうけど。でもそれ以上は飽きた。家庭をもったんだ。そこをもっと発展させていくよ」

「そうなんだ」

「ああ。生活のすべてを見直して、一変させようとしてる。もし、そうしないと、生死を彷徨った意味が、まるでなくなるから。アキラちゃんは?アキラちゃんも、結婚とか、考えてるんじゃないの?」

「どうして、そう思う?」

「だって、俺らは、いつだって状況が似てるから」

「そうだな。確かにな」

「じゃあ」

「けれど、ないよ。そればっかりは連動してないよ。逆に、そう。少し混乱した事態になってきてるし。すでに二人の女が見舞いに来たんだ。俺、彼女いないだろ?それなのに、その一人は、俺と付き合ってると言い出した。どっちがおかしい?俺か?それとも。その女とは、長い付き合いらしいんだ。もう一人の女は、俺が台湾に行く一週間前に知り合ったらしい。ナンパしたのかな。もうわけがわからないよ。まさか、もう、増えてなんていかないよね。兼ちゃん、君が捨てたその性質を、俺に転化なんてしてないだろ?」

 アキラは笑って誤魔化したが、戸川はまるで聞いてないかのように、遠くの方を見ていた。病室の壁など、軽がると貫通させて。

「アキラちゃん。二人の女が来たんだってな」

 深刻そうな物言いに自分で気づいたのか。

 戸川は表情を意識的に変えた。そんなふうにアキラには見えた。

「そう、二人だよ。それが何か?」

「いや、別に」

「おい!隠すなよ、兼ちゃん。今、何か、閃いたんじゃないのか?」

「そうか、二人か・・・.そうなんだよ。二人から始まるんだよ。必ず」

「だから、何が」

「二人から、始まる」

「増えるのか。そうなんだな。兼ちゃんもそうだったんだな。それで?増えた先には、何が?倒れてしまうのかな?そうか。受け止めきれなくなるんだな。それで、一人に絞る。結婚か。戸川。いや、兼ちゃん。いいじゃないか!最終的に、結果オーライになるんだから。はやく言ってくれよ。全然、暗い顔になることはない。幸せなんだろ?兼ちゃん。それでよかったんだろう?」

「アキラちゃん。そのどちらかに、時が来たときに、決めるんだよ。いいね。親友の忠告を聞いてくれと。どちらかに決めるんだ」

「いつ?」

「今、じゃない。わかるはずだ。ココだという時が。けれどそんなに先ではない。いいな。それを絶対に逃すなよ、アキラちゃん。後悔してるんだ。俺にも同じことがあったんだ。そこで選べなかった。あえて、選ばなかったのかもしれない。そして、その代償は、すぐにやってきた。三人目、四人目の女が、俺と関係を持ちにやってきた。それからだ。仕事の量も、急増していったのは。仕事の仕方を変えたんだ。来る仕事、すべてを拒まずに、受け入れた。するとその噂は噂を呼び、いろんな広告の仕事が俺のところに舞い込んできた。多忙なんて言葉じゃ、片付けられないくらいに。アキラちゃんも、知っての通り」

「俺には、全然、悪いことのようには聞こえないよ」

「いいとか悪いとか、そういう問題じゃないんだよ。俺はその分岐点で、『増殖』を選んだんだ。無意識に。その結果は知っている。そこに至るプロセスを、体験している。だから。だから、アキラちゃんには、そうではなかった、それとは違う現実を、経験してほしいんだよ。俺のわがままかもしれない。俺のようには、なってほしくない。違った結果を、アキラちゃんには、受け取ってほしい。いいとか悪いとかじゃなくて。いや、ごめん。出すぎた真似を。そうだよな。どうして人の選択に、俺が口を出することができるだろう。すまん。でも、アキラちゃんには、こうなってもらいたくなくて。確かに、今は幸せだよ。これからのために、これまでの生活もあったんだって、今は、そう捉えられるよ。でも、それは、俺の話だよ。アキラちゃん、なっ?アキラちゃんは、アキラちゃんの道を歩んでいってほしいんだよ。お願いだよ。約束してほしいんだ。俺は見ちゃいられない。もう追体験はいいんだ。もうたくさんなんだ!それが、よりによって、最も大事な友人だなんて」

「大丈夫か?どうしたんだ?そんなに息を切らして。らしくもない」

「ごめん」

「話題を変えようか」とアキラはいった。

「ここはさ、本当に病院なのかな?心待ちにしてたんだ、兼ちゃん。真実を打ち明けてくれる人間が来るのをさ。でないとどいつもこいつも、出まかせを言ってるだけだ。何かを隠し続けている。兼ちゃん、君なら、どんな質問にも答えてくれるよな?」

「もちろんだよ!」

「ここは病院なのか?兼ちゃんがいた病院は、ここから数キロのところにあるよね?」

「そうだよ。そしてここは、病院じゃないよ」

「どうやって入ってきたんだい?」

「警察の人間が来たんだろ?」

「ああ」

「あいつは本物だよ。ここは警察が運営する、たしかに病院を装ってはいるが、だが、違うんだ。正確に言うと、事件を未然に防ぐための場所。まだ逮捕していない犯人に狙われた人間の、身の安全を確保する場所。相当な警備システムだよ。警官もずらりと、警護にあたっているし、出入り口には、レーザー光線が、幾重にも張り巡らされている。廊下は迷路のように、入り組んでいる。ここには、医師も看護婦も、存在していない。みんな、警察の人間だ。看護婦もまた、警官だ」

「そういう気はしてた。じゃあ、あの二人の女も?」

「それはどうかな」

「どうかなって。部外者が、どうやって中に入ってこられる?」

「俺も部外者だぞ」

「どうやって、お前は、入ってきたんだ?言えよ、兼ちゃん。なぜ、隠す?俺たちの間に隠し事は・・・、兼ちゃん、まさか、君・・・君も・・・。何をしに?誰なんだ!いったい。戸川じゃないな。誰なんだ?復帰した戸川。それも、俺が知ってる戸川じゃないのか?入れ替わったんだな。成りすましてるんだな。あの病気を利用したな、くそっ、お前!病院に入院しているその『刻』を狙って、入れ替わったな。ということは本物の戸川はまだ、病院だ!意識もまだ戻ってないんじゃないのか!?おいっ」

 気づけばアキラは、戸川の胸倉を激しくつかみ、壁に強く押し付けていた。



「だいぶん、出来てきたな」

 鳳凰口は、王宮から眼下、地上を見ながら一人呟いた。

 鳳凰口には、地の上に立つ街の連なりが、複数のイメージによって重ねられている様子が感慨深げに見てとれた。豪華絢爛な富と、才能のすべてを投入して、その世界の創出を支える、クリエイターたちの百花繚乱。異なるテクノロジーが、張り巡らされた社会の人工密度は、究極に膨れ上がっていった。

 文明に宿る進化した完成と技術は、ここに極まり、一つの世界へと、結実、融合を果たしていった。一方で植物や鉱物と共存をするべく、積極的に同じ世界をつくるべく、協力関係ができていった。その信頼は、工事のスピードを急速に上げていき、人工物そのものに、命が宿っているかのごとく躍動感が漲っていた。

 巨大な建造物やモニュメントは、早い段階から着工が開始され、その様子は上空から見ると際立っていた。空港の整備も、早くから開始され、さまざまな形態の飛行機が開発され、完成したばかりの滑走路で、試乗が繰り返されているのが、目撃できた。

 誰の強制力も発揮することなく、こうして着々と創造の領域に入っている姿を、鳳凰口は不思議に思っていた。時の流れが、すべての事柄を、前へと進めているように感じられた。すべての技術、表現されたいものたちが、あるべき本来の位置を目指して、こうして素早く、ある時はゆっくりと事を進めているようだった。そしてそのあるべき世界の上に、ちょこんと、この自分自身もまた、乗っかっているかのような、そんな絵を想像した。

 創造とは奇しくも、このようなものだったのか。破壊は、俺が陣頭指揮をとり、あらゆる人間、組織をたきつけて、行動を起こさせたのに。あまりに静かな進行に慣れるのに、最初は戸惑った。しかし今は一人ではなかった。友紀を見ていると、彼女のゆったりとした物腰と話し方が、都市の創造そのものと連動していて、力強く、確実な未来永劫存続していくような、そんな信頼を、強く寄せることができた。もし俺一人ならきっと、この、ある種の退屈さに耐え切れずに、またよからぬ企みを考えたり、湧き出てくる激しい情感に耐えられずに、何かに攻撃を仕掛けたり、過剰な演出や装飾に、夢中になったり、せわしなく指示を出していたことであろう。焦燥感は、焦燥感を呼び、乱れていく心は、誰にも止められなくなっていったであろう。

 今もまだ、その傾向が完全に治まったわけではなかった。気づけばそうなっている可能性もあった。一度暴走してしまえば、行き着くところまで行かねば収まりはつかず、外界や他者に対する、破壊行為、自身に矛先を向けた破滅行為へと、発展していくことであろう。

 友紀がその決定的な防波堤になっていた。自分と彼女との関係が、自分と自分の中にある静寂さ。または穏やかな王国との関係と、ほぼ同じような気がしていた。

 自分と、その王国とが、良好な関係であるのなら、自分と友紀との関係もまた、良好だった。自分と友紀との関係に、乱れが生じてきているのなら、王国との関係もまた、不穏になっている印であった。まるで、自身の分身のような存在だった。

 自分と友紀は、元は同じ人間であって、今はたまたま、別の姿かたちで、同じ次元に分岐して、存在している。そんな女性であったのかもしれなかった。彼女がときに子供に見えたり、自分の幼き時の姿に見えたりすることも、それで納得ができた。時に威厳のある、大柄な男性のように見えたり、知恵に満ち溢れた女性に見えることも、それと同じ理由な気がした。

 都市が静かに建設されていくのと連動して、友紀との関係がますます、密になっていくことが想像できた。二人がこの都をつくっていると、いえるのかもしれなかった。



 戸川なんじゃないか。もう一人の祭祀は。そうだ。このタイミングで、戸川は復帰した。

 そしてもし、見士沼の施術が評判を呼び、世間をあっと賑わせるのなら、同じように、すでに広告の世界でのヒーローである彼に、スポットライトが再び浴びせられるのは、当然のことだった。

 見士沼をおもしろく思わない、見士沼を潰そうと考える勢力は、直接手をくだすよりも、見士沼への対抗馬を仕向けてくる。儀式の祭祀を選ぶ機会があるというのなら、そこで合法的に、見士沼を叩こうとするのは、自然な流れだった。

 見士沼を打ち負かすほどの、社会的影響力のあるアイコン。それは、今のところ、戸川以外には考えられなかった。女性のモデルは、今や乱立状態で、図抜けた存在がいない。長谷川セレーネがいればまだしも、彼女はすでに、引退を発表している。連れ戻すわけにもいかない。戸川も戸川で、この前の倒れたことによる痛手を、挽回するチャンスを窺っているはずだ。それに長谷川セレーネの時もそうだったが、この人気がずっと続いていくのは至難の業だ。長谷川セレーネは、その波の下降線上で、表舞台から去る決断をした。そのあとの下火は、目に見えていた。それまでと、同じことをしていては、挽回のチャンスはなかった。戸川が、その地位を奪いとった形となった。戸川のような後継者が、近い将来必ず出てくる。戸川は変転していかないといけなかった。予兆はあった。今回が、その最初で最大のサインだった。生き残ったところを見ると、これは、『変えろ』というメッセージだ。戸川は結婚を決めた。それも一つの手段だ。しかし、決定的な一打にはなりえない。そのあとの布石だ。戸川が次の一手をどこに持ってくるのか。もしその儀式の話が本当なら、そこに間違いなく、彼の人生は照準を合わせてくる。そしてその流れに乗っかってくる奴らは、無数に出てくる。見士沼に勝ち目など、ないように見える。すでに皇帝のような存在感を見せている、戸川を、負かすだけの波を、見士沼が起こせるものだろうか?

 けれども・・・、見士沼は、自分から名乗りでて、仕掛けていくわけではない。

 彼はあくまで、担ぎ上げられるのだ。彼が望もうが望むまいが、運命は彼を指名して時代の変わり目の象徴に、嵌めこむ。嵌めこもうとする。逆に、これまでの勢いと、人生をバックに、力強く仕掛けて、狙いを定めてくるのが、戸川の方だ。

 状況的には、戸川のほうがずっと不自然なんじゃないだろうか。天は見士沼を応援するのだろうか。応援していくのだろうか。俺がするべきことは、あるのだろうか。見士沼に関わるすべてに、俺は全力を注ぐ決意をすでにしている。見士沼が望むことすべてが、自分の望みでもあった。見士沼の気持ちが優先された。彼と一度話してみようかと思った。がしかし、これもまた、先を急ぎすぎている。まだ開業すらしていないのだ。しかし事は急速に進み、気がつけば巻き込まれている、なんてことにもなりかねない。俺はミシヌマエージェンシーだ。彼に事態が降りかかるとき、そのだいぶん前に予期して準備をはかり、「その刻」が来たら、万全の材料を、彼に差し出さないといけないのだ。じゃないと、居る意味がまったくない。彼が「こうしてくれ」と言うか言わぬか、その境目で、すでに差し出していないと駄目だ。けっして早まってなんかいない。むしろ今がその時だと、津永は思った。すでに見士沼は、何かに勘付いている。それで俺に今、そのような儀式のことを仄めかしているのだろう。やはり、見士沼の勘は、俺よりも遥かに先を行っている。彼は暗に俺に言っているのだ。あらゆる加速的に進む事態にも、備えておくようにと。開戦を告げる鐘の音、という言葉が蘇ってくる。祭祀を争う闘いに、彼の意識は、重きを置いていないようにも見えた。むしろ、その闘いはすでに、決着がついているように感じられた。そんなものは争いのうちには入らない。単に争いに見せているだけだ。出来レースなのだろうか?戸川もわかっているのだろうか?敗れる役として、わざわざ登場してくるのだろうか?戸川も、見士沼も、すべてを知っているのだろうか。誰かが、その役目を果たすべく、時代の分岐点において、その役目が自分に向いていて、迫り来ていることを、お互いに知っているのだろうか。津永にはそれ以上わかりようがなかった。

 その対立構想が口火となって、それまでに溜まっていた、隠れていた、おかしくしていた、抗争の種が一気に開眼する。そんな事態に、発展してしまうのではないだろうか。そんな大混乱の中、見士沼は、何をするのだろう。どんな立場で、どのような役目を果たすのだろう。

 見士沼が施術をしている絵が浮かんでくる。戦乱の中、火に包まれながらも、何故か焼かれることなく、淡々と仕事をしている、彼の姿が浮かんでくる。それを最大限、サポートしている自分の姿も、見えないものの、強く感じる。むしろそんな混乱の中だからこそ、より輝かしい神秘性をも、醸しだしている。

 彼の施術院。彼に関わりのある、彼を取り巻くその空間は、何ものにも影響されず、まったくの異空間として浮き上がって見える。

 まったく溶け合わない、別のフイルムを重ねているようでさえあった。

 その準備をしろ、ということなのだろうか。見士沼が、儀式の祭祀として祭り上げられることは、全く大事なことではないのだと、言われているようだった。惑わされるな、津永。そこじゃないんだぞ、と。それは、もう、なるのだ。誰にも、避けるための行動は、とれないんだ。敗者も勝者も決まっている。誰がどんな役目を果すのかも、決まっている。やれることの余地は、もうほとんど残っていない。そして、特にお前はな。そこじゃないんだと、見士沼は何度も繰り返しているようだった。

 いいか。そこは、通過するだけなのだ。目をあけていても瞑っていても、事はただ起きていくだけなのだ。お前は、破壊ではない創造に携わるんだ。俺たちは、そっちの側なんだ。もうだいぶん前から、始めておかなければ、けっして間に合うことはない。津永はそれ以上、二人の争いを考えるのはやめた。



「式は、どうする?年末あたりかな。来年?」

 ウンディーネは、戸川の住むマンションと同じ、しかし別の階へと引っ越してきていた。

 お互い、行ったり来たりをする生活を送ろうと、二人は決めていた。

 今日は、戸川が、ウンディーネの部屋に泊まることになった。

「ねえ」

 不安に満ちた表情で性行為の後のまどみの中にいた戸川に、ウンディーネは言う。

「その話なんだけど。悪いけど、ナシにしましょう。まだ、そこまで考えられない。そんな余裕、私たちにはないと思うの。無事に、その式があげられるのかどうか。今の時点ではまだわからない。いろいろなことがあると思うから。あなたを巡って。そんな気がする。そういえば、友達のアキラくんの所には、行ってきたんでしょ?」

「昨日な」

「どうだった?」

「身体的には元気そうだったよ。ただこっちがな」

 戸川はこめかみをツンツンと叩いた。

「だいぶんショックを受けているみたいだ。少し変だった。投与治療を受けているのか、心療を受けているのかはわからなかったが、まだ全快には時間がかかりそうだ」

「そう」

「俺と遊ぶのも、まだまだ先だな」

「アキラくん。何か言ってなかった?」

「なにかって?」

「いや、わからないけど」

「ちゃんと、聞いてなかったな。だって、変なんだもん。警察がどうしたとか。ここは本当の病院ではないとか。移転させてくれだとか」

「彼のことじゃないわよ。あなたのことよ。あなたのことを何か言ってなかった?」

「いや、何も」

「そう・・・」

「どうしたんだよ」

「いや、そのさ、あなたと関わる、あなたの雰囲気を、感じとった誰かが、正確にあらわしてくれるんじゃないかと思って」

「だから、何を、だよ」

「その、うまくは、言えないのよ。だから、困ってるんじゃない。うまくは言えないんだけれど、わかるのよ。わかるから、言ってるのよ。式なんて挙げてる場合じゃないって」

「仕事はどうする?来るオファーをすべて受けるってスタイルは、やめるんだよな。調整してくれよな。君が精査して、そのあとで俺のところに持ってこいよ。それで、最終的には俺が決めるから」

「そうなの?」

「だめか?」

「いいけど、ずいぶんと気難しくなるなって」

「ピンと来たものだけを、無理せずやっていくんだ」

「ねえ、そんなんじゃ、これまでのように、たくさんの仕事がこなくなるわよ」

「今までが異常だったんだよ。過剰だったんだよ」

「けれど逆に今度は、その反動で、ぴたりと何も来なくなることも考えられる」

「そんなに極端に?」

「そういう世界よ」

「なら、そうなってもいいさ」

「何も知らないのね。どうやって生活していくのよ。結婚までしてるのよ。子供だっていずれは。それなのに、どうやって、お金を稼いでいくのよ。あなた、タレントなのよ。オファーが来なくなってしまって、それで・・・。あなた、誰かに入れ知恵なんてされてないわよね?あなたこそ何かへンよ。アキラさんじゃなくて、ほんとは、あなたの方だったんじゃないの?あなたこそ、生死を彷徨ったことで、人格が変わってしまったんじゃないの?そのあいだに、誰かに言われたんだわ。仕事の仕方がよくない。変えるべきだって。結婚もしたほうがいい。それは、あなたのためなんかじゃなくて、その、入れ替えを企んだ人間たちの、利益のためよ。その人たちが儲かるように。あなたを、操作、コントロールしてるんじゃないの?そうに違いないわ。まんまと嵌められたのよ、私たち。わたしも、また。その気になってしまった。結婚なんて、持ち出されたものだから、舞い上がってしまって・・・。私としたことが、そう、私も、変なのよ!あの日から。あなたが倒れたときから。私たち、二人とも、おかしくなってしまったのよ!仕事は激減していくわ。標的はあなただけじゃない。私の事務所もそう。潰そうとしてるんだ。でも、どうして。どうして、そんなことをするの・・・」

 戸川はウンディーネの高揚していく姿を、アキラに重ねてみていた。何かがおかしい。

 周りの人間が狂っていく、そんな予兆を見せ付けられているようだった。

 それとも、俺のほうが、俺だけがおかしいのだろうか。どっちにしても、同じことなのかもしれなかった。

「あなたを、そして、私たちを追い込み、それでそこに、救いの手を差し伸べてくる、それがワナよ!その人たちは、その瞬間に、本物の姿を私たちの前に晒す。しかし、私たちには、そのとき、天使に見えてしまうの。ねえ、戸川くん。気をつけなきゃ、私たち。その救いの手、戸川くんに未来を約束する、その大きな一つの仕事を、もたらそうとする、そんな仮面を装って、やってくる。戸川くん、前もって、構えておくのよ。私たち。それが、やってくるのを、二人で堂々と受けて立つのよ。それこそが私たちが結婚した意味なのかもしれないから。一緒に生活して、それで、幸せになりましょって、そういう話じゃないのよ、きっと。逆手にとるのよ、運命を。私たちなら、できる!いいわね、戸川くん!あなたのいうとおり、仕事の受け方は、変えましょう。それがもたらす状況もまた、変わってくる。うん。それでいい。でも、そのあとに来る、本当の訪問者には、万全を期して備えましょう。それを天使だと、錯覚しないように。曇りのない目で見るの。逃げては駄目。受けるの。盲目じゃなくて醒めた目で。そう。醒めた耳で。醒めた皮膚で」











この世とあの世が、最も接近するその日


姿を消し、別の世界へとスライドしていった、E連隊が


再び、その姿を現す。




準備されていなかった、もう一つの連隊の幻も

また


その実体を明らかにする。
























第二の太陽は、第三の太陽と入れ替わり


配偶の女は、二人の影へと 分岐する・・・。


二つのE連隊を指揮する、祭祀同士は対面し、

始まる、D DЭY。































世界を 闘いの連鎖する空間と


対消滅を繰り返す空間とに 切り離し


その裂け目が、広がりを見せていく中

































奥から現れる 少年は


二人の祭祀の結合から 産み落とされた ザマスター・オブ・ザ・ヘルメス。

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ザマスターオブザヘルメス3 多面の浄化 @jealoussica16

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