チャリガス爆発(承)
心臓が鼓動を早めた。もしかしたらあの男が、オリバくんの自転車に爆弾を仕掛けたかもしれないのである。下手に刺激して、暮井が、隠し持っているかもしれない爆弾を起動させたらどうなるだろうか。僕も暮井も、吹き飛ぶだろう。そして威力によっては、全く関係のない人も巻き込んでしまいかねない。僕と暮井だけが死ぬならばまだいいが、無関係の人が爆発で死ぬのは勘弁だ。暮井が生き残ったらよりタチが悪い。
慎重に、僕は暮井に話しかける。首をきょろきょろさせる動きに合わせて、彼の少し長い襟足の毛が揺れた。毛先だけ少し緑に染めているようで、それが何かの昆虫の足や触覚を思わせた。
「えっと、暮井さん、ですか?」
暮井は僕の声に顔を上げるが、すぐに僕が知り合いではないとわかると眉をひそめる。自転車を観察するために前のめりになっていた姿勢を起こして――むしろ少し仰け反って、威圧するように言った。
「あんた、俺のこと知ってんの?」
僕はこくりと頷く。
「ええと、僕はオリバくんの知り合いなんです。少し彼のことで聞きたいことがあって、オリバくんの友人であるあなたを、探していました。彼はたまにあなたのことを僕に聞かせてくれていましたし、SNSのアカウントも、お互いにフォローしているようでしたから」
オリバくんの知り合いだと言えば、少々警戒心を解いてくれるかもと思っていたのだが、反対に、暮井はさらに眉間の皺を深めた。左右の眉毛が近づく。くっついたらゲームオーバー。そんなくだらないことを考える。
「オリバに、あんたみたいな知り合いがいたのか? 聞いたことねぇな」
「出会ったのは、わりと最近ですから」
「何がきっかけだ?」
「僕がうっかり、ここの自転車をすべて倒してしまったときに、起こすのを手伝ってくれたんです」
実際には、帰り道に自転車が爆発する瞬間に遭遇したからなのだけど。もちろん、そんなことは暮井に言わない。彼が爆弾を仕掛けた男である可能性が払拭できない以上、下手なマネはできないのだ。
やや自信がなかったが、僕のでっちあげのエピソードを聞くと、暮井は息を吐いて頭を掻いた。あいつならそういうの手伝うだろうな、と呟くのが聞こえる。
「で、あんたの名前は?」
「
「カワラバ? どういう字だ?」
「河童に、場所の場で、河童場です」
「じゃあ、カッパバって書くわけだ」
彼がにたりと小さく笑ったが、僕はそれに対する苛立ちを堪えて頷いた。
「しばらく、彼と連絡が取れないんです。思い当たる節はないんですけど、何か彼の機嫌を損ねて、縁を切られてしまったのかと思って……。知り合いの方に、彼のことを聞こうと思ったんです」
僕の言い訳を聞いて、暮井は鼻で笑う。いちいち気に障る動作の多い男だが、じっと反応を待つことにする。
「あいつのことなら、俺だって知らねぇよ。あいつの自転車がねぇからさっき連絡したってのに、返信はおろか既読すらつかねぇ」
それは、あなたが彼の自転車を爆破したからじゃないですか?
言葉を飲み込む。そうと決まったわけではない。彼の言葉の真偽を確かめる必要がある。彼が本当にオリバくんの自転車に爆弾を仕掛けたのなら、彼がここにいる理由は「自転車がないことを確かめる」ためだ。もちろん、ないことの証明は難しい。本当に仕留められただろうかと不安になる気持ちも相まって、ないことがわかっても探し続けてしまうことはありえる。
しかし彼自身は、あいつの自転車がない、と言った。あいつとは、オリバくんのことだろう。そうなると、彼は今「オリバくんの自転車がないこと」に対して苛立っているのであって、爆弾を仕掛けたと仮定した場合に推測される行動および反応と正反対である。爆弾犯であれば、自転車がないことに安心するはずなのだ。もちろんこの反応がフェイクであることも考えられるが、どうにも僕には、この暮井という男はポーカーフェイスなどができるような性格の持ち主ではないように思えた。そこまで器用ではないだろう。知性のようなものを感じられない。それこそ、オリバくんのような人に比べれば。
もしそうだとすれば、彼は「オリバくんの自転車を探していて、自転車がないために困っている」ということになる。もしかすると、推理を改める必要があるのかもしれない。
「ええと、オリバくんの自転車を探してるんですよね?」
あまり丁寧すぎる言葉を使いたくはないが、変に機嫌を損ねるとそこで調査が終了してしまうので、僕は嫌々ながら気弱そうに質問する。
「ああ、そうだ」
僕の取り繕った態度とは反対に、暮井はぶっきらぼうに答えた。再び、自転車を探し始める。
「もしかして、どこかで見つけたのか?」
暮井に聞かれて、僕は首を振った。小さく舌打ちが聞こえる。お返しに僕も舌打ちしてやろうかとも考えたが、思い留まった。
「どうしてあなたが、オリバくんの自転車を探してるんですか?」
暮井が嫌そうに顔を上げる。
「なんであんたに教えなきゃいけないんだ?」
疑問文に対して、疑問文で返ってきた。
「だって、おかしいじゃないですか。あなたが彼のお母さんや恋人だというのならまだわからないこともないですが、ただの友人であるあなたが、そこまで彼の自転車を気にかけるのは変だ。あなたはどう見ても、あの子ったら、ちゃんと自転車のチェーンはかけたのかしらと心配する、小学生の息子を持つ母親には見えない」
僕がだらだらと嫌味を言ったので、暮井はこれまでよりもわざとらしくため息をついてから頭を掻く。
「俺とあいつは、自転車を共有してるんだよ。大学のこの駐輪場に、いつも停めてるんだ。お互いの通勤のためにな。
自転車の後輪の部分のカギは壊してある。ってのも、あれが機能してると、俺たちはわざわざカギを貸したり返したりを繰り返さなきゃならねぇ。1年の頃はまだ授業の時間も被っていたが、今となってはもう、俺たちはキャンパス内で必ずこの時間に会う、ということがない。相手のために待ったり待たせたりってのは面倒なんだ。それなら、カギのやりとりがいらなくなっちまえばいいってことで、元々のカギは破壊してたんだ。
もちろん、そのままじゃ自転車が俺ら以外のやつらにパクられちまうから、あいつが自転車のチェーンを買ったんだ。ナンバー式のやつだ。これなら、お互いに番号を共有するだけで、お互いのタイミングで、自由に使えるってわけだ。
俺たちは同じ塾でバイトをしているものの、出勤する曜日が違うんだよ。俺は火曜と水曜、そして土曜日の昼。あいつは木曜と金曜、そして土曜の夜だ。
俺たちの家は大学から近いが、塾は隣の駅の近くにある。コマ給がいい分、交通費が支給されない。わざわざ出勤する度に300円近くを使うのももったいない。そんなわけで、1年の頃に互いに金を出し合って、出勤用の自転車を買ったんだ。
ちなみに、俺の家は大学の北門からすぐのところ。あいつの家は――知ってるかもしれないが、正門の近くにある。わざわざ相手の家の近くに停めてある自転車を回収するのも面倒だからと、お互いキャンパス内に駐輪しておこうって決めたわけだ。
昨日あいつが自転車を使ったはずだから、このあたりにあるはずなんだよ。大学内には駐輪場がいくつかあるから、停める場所を決めておかないと色々探し回ることになっちまう。ここに停めるって決まりなのに、どういうわけかあいつの自転車がない。それでさっきからここを探してるってわけだ。これで満足か? もし満足したなら、俺の自転車探しを手伝ってくれ」
暮井は一気に話すと、疲れ切ったかのように、あるいはもう話すことはないとでもいうように、黙りこくって自転車の間を歩き始めた。
今日は水曜、昨日は火曜。本来であれば昨日は暮井の出勤日だったが、何かしらの事情でオリバくんにシフトを代わってもらった。そして、共有の自転車が爆発。しかし見たところ、この男はその事実を知らない。演技である可能性も低い。しかし、僕はひとつの可能性――暮井が自転車の爆発を知っていて、急遽シフトを入れ替えたという可能性のことを思い出す。
「昨日は暮井さんではなく、オリバくんが出勤したんですよね?」
暮井はこちらを見ず、気だるそうに答える。
「ああ、そうだ」
「どうして、シフトの交代を?」
暮井の動きが止まり、目線だけ――不機嫌な視線だけが向けられた。どうしてそんなことまで、教えなければならないのかと。
しばらく、視線をぶつけ合う。引くわけにはいかない。嘘だとしても、何かしらの情報を引き出しておきたいのだ。別の情報源との照らし合わせで嘘だとわかれば、暮井が不都合な事実を隠そうとしていたということもわかり、色々と疑っていくことができる。
「……合コンだよ」
先程までよりも弱く――まるで恥ずかしがっているかのように、暮井は頭を掻きながらそう言った。
「合コンだ。2週間前くらいに決まった。1週間前に暮井と相談して、今週だけシフトを入れ替えたんだ」
合コン、か。随分としょうもない理由だ。そしてそんなことのためにオリバくんはこの男の代わりに出勤し、怪我をしてしまった。連絡がないということは、未だ意識が戻っていないか、十分に回復していないかのどちらかだろう。最悪の場合のことは、考えたくない。
「最近、オリバくんとケンカしたりは?」
僕の追撃に、暮井は少しピクリとした。
何か、あるのかもしれない。
「僕はその――何か気に入らない態度を取ってしまって、オリバくんの機嫌を損ね、返信をしてくれないんだと思っている。けどそれはもしかしたら、あなたにも言えるんじゃないかって思ったんです。オリバくんは、あなたとケンカをしたから、自転車を元に戻さず、自分の家の前に停めている、とか」
暮井は、顎に手をやって黙りこくってしまった。このままつつけば、何か本性のようなものが引き出せるかもしれない。
「その反応は、何かあったんですね?」
暮井はキッと僕を睨む。
「大したことじゃねぇよ」
何かが、あったのだ。
そしてそれが、おそらく暮井の犯行の動機なのだろう。何かしらのトラブルでふたりの関係は悪化し、暮井は自転車に爆弾を仕掛けて彼を殺そうとした……。
「けど……」
暮井の言葉に、僕は推理を中断させる。暮井の表情は、今日見たものの中で一番真剣だった。
「そんなことで、あいつが自転車をすっぽかすとは思えねぇよ。俺が自転車に乗れず、万が一塾に遅れたら、困るのは俺だけじゃなくて塾長や生徒もだからな。俺への嫌がらせのために、他のやつを巻き込むとは思えねぇ」
暮井にしては、なかなか的確な発言ではないか。オリバくんは誠実な人間だ。少ししか話をしていない僕もそう感じている。
けれどともかく、オリバくんと暮井の間に何かあったということは判明した。あとは少しずつ、周囲から情報を引き出していけばいい。暮井を追いつめるには、まだ材料が不足していた。
「暮井くん、いったい何をしているの?」
僕が顔をあげる。暮井も顔をあげた。声のする方向には、ひとりの男とひとりの女。暮井の名前を呼んだのは、男性の方らしい。女性の方はというと、やや男性の陰に隠れるような動きをした。スマートフォンを操作していて、まるで暮井に興味などないようである。
しかしまた、ずいぶんな美男子だな。こうも続けて美男子を見ると、自身の容姿の平凡さに嫌気が差してくる。かといって、この気分を暮井と共有する気にはなれない。
背が高く、白いシャツが爽やかさを演出している。地毛だと言われても信じてしまいそうな薄い金髪が、まるで彼の登場に合わせたように勢いを強めた風になびく。しゃらりと音が聞こえてきそうで――髪の毛が楽器のようだと思ったのは、はじめてかもしれない。
クリーム色の肌にニキビなどは一切見当たらず、彼自身が名画から飛び出てきたような印象を受ける。
そう、人間味がないというか――現実味がないのだ。片目で現実世界を見ながらVRやARを楽しんでいるかのような、妙な違和感。まるで彼自身はゲームのキャラクターの等身大パネルで、ファンの女性が記念写真をネットに投稿しているようにも見える。
白い指は細長く、それでいて決して骨張っているようなことはない。薄い水色のズボンは嫌らしさがなく、そのまま彼のイメージカラーのようであった。
などと、だらだらと記述しているほど、僕は彼に対して強い憧れを抱いてしまっている。おそらくは、自分に恋人のような存在ができたからこそ、魅力的な男性像を無意識のうちで思い描いていたのだろう。僕自身がこうであったらなぁというイメージの、生き写しのような存在。それが彼だった。
「オリバの自転車を探してんだよ」
どうやら彼の知り合いらしい暮井が、今日既に僕が何度か聞いたセリフを、美男子に向かって吐きつける。
美男子はふうんと小さく声を漏らしてから、少し考えるような間を空けて、別の話題を振った。
「そうだ、昨日のバイトはどうだったの?」
「いや、昨日はオリバに代わってもらったんだ。そんで、自転車を回収しようと思ったんだけどよ。見当たらねぇんだ。……ああ、そうだ、南。お前、オリバと連絡つくか?」
南というらしい美男子は、暮井の言葉を受けてスマホを操作する。しばらくして、首を小さく傾げる。
「電話してみたけど、出ないみたいだね。寝てるってことはないと思うけど……。どうかしたの?」
「自転車がないから問い詰めようと思ったんだが、連絡がつかねぇんだよ。SNSも昨日の夕方くらいで止まってる。……ああ、こっちのカワラバってやつも、オリバの知り合いらしくてな。同じく連絡が取れないってんで、俺なら知ってるんじゃないか聞きに来たんだよ」
南くんはそばにいた女の子に何かひとこと言うと、女の子は拗ねたような表情を見せて彼を小突いて、手を振りながら正門の方へ歩いて行った。
「ええと、じゃあ暮井くんは自転車がなくて困ってるんだ?」
「ああ、そういうことになるな」
「今日はもう、これからバイト?」
「いや、5限が終わったあとだから、全然余裕はある」
南くんが、黒い腕時計を見る。細い手首に絡みついたそれは、時計としての機能よりもアクセサリーとしての役目を果たしているようだった。
「なら、僕のでよければ貸そうか? 少し時間はかかってしまうけど、家に取りに戻って、5限終わりにカギも渡すよ」
暮井が、驚きと喜びの混じった表情を浮かべる。
「ありがてぇな、それは。じゃあ、頼むぜ。……ああ。もし、オリバに会ったら教えてくれよ。南も、あんたもな」
などと言ってから、へらへらと調子のよさそうな顔でひらひらと手を振り、暮井は先ほどの女性とは正反対の方向――彼の家があるらしい、北門方向へと歩いて行った。もう2度と会いたくないものだ。彼が犯人だった場合は問い詰める必要があるので、彼が爆弾犯でないことを祈り始めている。
とはいえ、疑わしき人物は、今のところ彼しかいないのだけれど。詳細はわからなかったが、オリバくんと何かしらのトラブルがあったようだし。
「ええと、カワラバくんだっけ?」
暮井がいなくなるのを見送ると、南くんから声をかけられた。
はい、と返事をして彼の顔を見てから、僕はつい数秒ほど見惚れてしまう。改めて、ひどく整った顔だなと思う。整形をしたところでここまで整理整頓されることはないだろうし。
「何か、僕の顔についてる?」
じろじろと顔をみるという無礼を働いていたことに気づき、僕は急いで手を左右に振って否定のポーズを取る。
「いや、随分な美男子だなと思って」
こういう場合は、素直に自分の感情を吐露しておくのがいいだろう。南くんはしばらく僕の言葉に固まっていたが、やがて吹き出すように笑い出した。
「ありがとう。興味を持ってもらえて嬉しいよ」
「何か、モデルとかをやっていたりするんですか?」
「そういう話をもらったこともあったけど、断らせてもらったよ。1年の頃ミスコンに出場したとき、だったかな。もう2年前だ」
みすこん。
そういえば、そんなイベントもあったな。僕にはあまりにも縁がなかったので、男子学生はおろか女子学生の出場者の顔すら認識していなかったというのに。
「覚えてないんですけど、やはり優勝を……?」
南くんは嬉しそうに笑う。
「いいや、ああいうのはコネとかコミュ力とかも大事だからね。名前も覚えていないけど、誰か他の人が優勝したよ」
そういうものなのか。
しかし、聞いたところによれば僕と南くんは同い年で、もし僕がミスコンに少しでも興味を持っていれば彼のことを知っていたはずだったわけだ。その頃に彼と出会っていれば、もしかしたら僕は彼に憧れて、色々と自分磨きをしていたかもしれない。そうすれば、もっと早くにかわいい恋人を……。
というところまで考えて、僕は今の恋人――だと思っているのは僕だけかもしれない、悲劇の女性を思い出した。もし僕が彼女以外の女性をパートナーとしていたなら、彼女とは出会っていなかったのかもしれない。そう考えると、南くんと今日まで出会わなかったのは、それはそれで正解だということなのだろうか。
「というか、大丈夫ですか? さっき、彼女? 女の子と一緒にいましたけど、帰らせてしまって……」
「ああ、彼女は別に僕の恋人じゃないよ」
「恋人は、別にいると」
「いいや、いないのさ」
「へぇ、意外ですね」
「実のところ、興味がないんだ」
などと、しばらく談笑する。
興味がないというのは、恋愛に興味がないということだろうか。たしかに、彼ほどの美男子になれば、恋を巡る不必要なトラブルに何度も見舞われる、ということもあるのかもしれない。嫌気が差してきた、というような感じだろうか。
「さて、カワラバくん」
僕は、南くんが少し真面目な声を出しているのに気づいた。
「どうやら君は、僕に何か聞きたいことがあるようだけれど、合っているかな?」
聞きたいことは、たしかにある。
見透かされていたのか。
南くんは、オリバくんとも暮井とも知り合いのようだ。自転車のやりとりをするくらいだから、そこそこに親密な関係であると考えてもいい。つまり、ふたりの情報を引き出すのに、これほどうってつけの相手はいない。
彼に合わせるように真面目な顔をして、僕はこくりと頷いた。
「それはよかった。僕も君に聞きたいことがあってね。どうだろう、僕はこれから自分の家に一度帰るんだけど、その前に少し、話をしようよ。うちの近くに、あまり人のいない珈琲店があるんだ。内緒話をするには、都合がいいと思うよ」
大学から少し離れたところに、女子高がある。僕はこのあたりが地元ではあるが、もちろんこの女子高に来たことは一度もない。
女子高を過ぎてさらに進むと、大きなホームセンターが見える。サークルによっては非常にお世話になるそうだが、何かしらのサークルにさえ所属していない僕には縁がなかった。家具なども近い実家から親に手伝ってもらって持ち込んでいたし、自分で何かをつくってみようという気にはなれない。
モノレールの駅がある大きな交差点に差しかかると、大きなホームセンターが建物の山からひょっこりと顔を出しているのだが、その手前に珈琲店はあった。なるほどたしかに人はそこまでおらず、近所のマダムたちが談笑する際に利用されているような場所であった。店の景観が悪いというわけではなく、むしろ小奇麗で僕は好印象を受けているのだが、大きな駅のエキナカにある、写真映えのするカフェの方が女子高生や大学生には人気なのだろう。
ギリギリランチタイムといえないこともない時間だが、既に店内はピークを超えたようであった。席はまばらに空いており、おそらく昼前からいたのであろう何組かのマダムたちがまだおしゃべりを継続している。長居のためにテーブルの上は片づけられており、かろうじていくらかコーヒーの残っているカップがおいてあるのみだ。それがいつまで経っても飲み切られず、かといって何か注文されるわけではないので、店の人も実質休憩時間のようにぼうっとしていた。そこに僕たちがやってきたので、ドアを開けたときに鳴る鈴の音を聞いた店員さんは休憩を妨げる音にハッとしつつも、マダムの荒波の中、漂うイカダの上でようやく島を見つけたかのように僕らの元へ駆け寄ってくる。席に案内され、荒波の音に掻き消されつつあるBGMを頭上に感じながら着席した。
「さて、カワラバくん。先に僕からいくつか聞きたいのだけど」
黒い革のメニュー表を開いて、僕の前に差し出しながら彼は尋ねる。
「君は、オリバくんがどこにいるか知ってるんじゃないかな」
僕はバカ正直に、この問いに対して目を見開いてしまった。
そしてそこから何かを察したのか、南くんはくすりと笑って質問を続ける。
「彼は今、どこに?」
ここまで来ると、「どこにいるか知っている」という部分を隠すことは困難だった。しかし肝心な部分――自転車が爆発したということを伏せさえすればいいのである。僕は自身でつけたしていくであろう設定を忘れないようにしなければと注意しながら、彼の問いに答えた。
「病院に、います」
「病院? 何の理由で?」
「揚げ物をしていたら、油が爆発したので」
「どこで?」
「オリバくんの、おうちで」
ここで、一度質問が止まる。南くんが考え込むように、目を閉じたのだ。その隙に、バレないように小さく息を長く吐く。
妙に、緊張する。彼が美男子であるからというのもあろうが、いつだか殺された探偵と話をしたときと同じような、少しでもボロが出るとそこからズタズタにされてしまいかねない論理的な冷たさ――知性の刃を喉元につきつけられているような気分になっていたからだ。きっと冷たい紅茶がおいしく感じられるだろう。落ち着いてきたのでメニューに目を落とす。
「オリバくんとは、どのように知り合ったの?」
「スマホゲームの、オフ会的なやつです。お互い学生なんだって話してたら、だんだん同じ大学じゃないのってことで、実際に会ってみたんです。だから実は、オリバが本名なのかも知らないんですけど……。何度か会って、仲良くなって、おうちにお邪魔したら、ボコンと爆発」
お察しの通り、ほとんど嘘である。
見抜かれたかどうかはわからないが、南くんはしばらく僕の瞳をじっと見つめて、ほんの少しだけ納得したように頷くと、テーブルに備え付けられてある呼び鈴を押して店員を呼んだ。
珈琲店に来てアイスティーを注文する愚か者の僕とは対照的に、南くんはカフェ・ロワイヤルという聞いたことのないものを注文した。店員は丁寧に頭を下げると、勢いを落とすことのないマダム会議の海を渡って厨房へ戻っていく。
少しあたりを窺ってから、南くんはいくつかのことを教えてくれた。
「オリバは、本名だよ。
彼のご両親が新婚旅行に行ったのがヴェネツィアらしくて、それが由来なんじゃないかって推測してたよ。本人は、俺はヴェネツィアでの子作りの賜物だぞって宣言してるようなもんじゃないかって、あまり好んでいないようだけど。
そのせいか、彼は自分のことをオリバーって呼ぶことがある。少しだけイギリスの血が混ざってる僕の方がよほどオリバーって感じなんだけど、ゴリゴリの日本人である彼はまあ、そんな風に名乗ってるんだ。ゲームでもSNSでもオリバーをユーザー名やアカウント名にしてるくらいだからね。たぶん彼は自分が本当にオリバーだと思ってる。
それは彼がただ単に織羽だからってわけじゃなくて、どうも彼はチャールズ・ディケンズの『オリバー・ツイスト』って作品が好きみたいなんだよね。そもそも彼はディケンズ全般が好きなんだ。僕は『クリスマス・キャロル』ぐらいしか読んだことないんだけどさ。彼は頭がよく用心深いから、メッセージアプリやSNSではほとんど個人情報を載せないんだ。その代わり、彼は自身のアイデンティティでもある『オリバー・ツイスト』を原書で読んでいるから、気に入っているセリフをプロフィールに英語のまま書いてるんだよ。こういった事情を知らない人からすると、ただオシャレな英文を書いてるポエマーのように見えるんだけど、実際のところ彼は、自分のことを知ってほしいポエマーなんかじゃなくて、ただのディケンズ愛好家なんだ。
そんなわけで彼はいかにもな文学部生で、法学部の僕は1年の頃に英語の授業で彼と知り合った。上級英語って授業だね。
さっき駐輪場にいた暮井くんは、織羽くんと同じ文学部だけど、文学部の中でも特に何をしているのかわからない――まあ、よく遊んでる学科の人間さ。一番大学生らしいといってもいい」
ここでいったん南くんは言葉を切った。注文の品が届いたのである。カップの上に置かれたスプーン。その上で角砂糖が青い炎に包まれていた。砂糖単体が炎を帯びるはずはないので、おそらくはスプーンの底の液体が燃えているのだろう。いい香りではあるが、鼻を通って喉が焼かれたような感覚に陥る。アルコールだ。何かのお酒が、角砂糖を香りづけながら溶かしているのだろう。
声のトーンを少し落として、南くんが言った。
「たぶん君は、僕から暮井くんのことを聞き出したいんじゃないかなって思ってるんだけど、合ってる?」
長い指のせいで、頬杖がひどく色っぽい。
何もかもを、見透かされているような気がする。沈黙は肯定と見なされるだろうが、無言で彼の言葉を待つのも無礼なので、少し姿勢を正してからゆっくりと頷いた。それに合わせて、彼も微笑んでくれる。
「ちなみに、理由を聞いてもいいかな?」
理由、か。
さて、どう言ったものだろう。彼が織羽くんを殺そうとしたから。いや、あの反応を見るとそうとは思えない。彼は本当に自転車を探していたのかもしれなかった。そうなると、彼は爆弾のことを全く知らない。織羽くんが入院していることも全く知らないのだ。
彼がどこかで恨みを買って、自転車に爆弾を仕掛けられた。しかしたまたまバイトのシフトを交代したので、犠牲になったのは暮井ではなく織羽くん。
……いや、逆かもしれない。昨日塾のシフトが変わったことを知っている誰かが、織羽くんを殺そうとしたのだ。もしそうであるならば、僕が今推理したように、自転車に細工をしたのは暮井に殺意を抱いている人物――つまり、近頃暮井とトラブルがあった人物に限られると推測されてしまう。犯人は、自らに対する懐疑の目を背けることができるのだ。
爆弾を仕掛けたのは、暮井かそうでないか。そして狙われたのは、織羽くんか暮井か、そのどちらでもないのか……。
とはいえ、自転車のことだけは伏せなければならない。
「最近ふたりは、ケンカか何かをしたようで。関係があまり良くないみたいな。仲直りのための、仲裁に入ろうかと思って」
「ふたりの知り合いである、僕をおいて?」
にこり。
まずい。嘘のつき方を間違えた。たしかに、暮井とは今日が初対面の僕が、出会ったばかりの織羽くんのために駐輪場で待ち合わせるというのは変な話だ。それに暮井は僕のことを、こいつも織羽と連絡がつかないらしいというように南くんに紹介した。そう、「仲裁のため」ではないのだ。つまり、嘘をついて近づいたということがバレてしまった。
内心焦る僕の気持ちに気づいたのかどうかはわからないが、南くんは無言の笑みではなく、気持ちよく高い声を出して笑う。
「いいよ。カワラバくんがどういうつもりなのかは知らないけど、彼のことを教えてあげよう。何が知りたい?」
燃えるのを止めた角砂糖と酒を、スプーンで混ぜていく。
「ええと、まず……。彼が、どこかで恨みを買うような人間かどうか。そしてできるなら、その詳細。あとは、彼は昨日合コンのために織羽くんにバイトを代わってもらったと言っていたので、そのことについて何か知っていることがあれば」
「後者の問いから答えた方がスムーズかもしれないね。彼はその――俗っぽい言い方をすれば、女好きなんだ。
かといって、あまり女性の方から言い寄られることもないから、自分の手で掴みに行くしかない。つまり、合コンだよ。彼は頻繁に、様々な男友達や知り合いを連れて、合コンをセッティングしてるんだ。女の子を呼んでくれる女友達もいるらしいから、その娘と付き合えばいいんじゃないのって話をしたことがあるんだけど、それは違うみたい。ビジネスパートナーというか、あくまでも暮井くん好みの女の子を紹介してくれるだけの人みたいだね。相手の娘にとっても、もしかしたらそうなのかも。
実際、暮井がセッティングする合コンには、よく織羽が呼ばれるんだ。彼はモテるから、彼と話をしてみたい女の子は結構多いんだよね。いうなればこう……レアキャラかな。暮井くんの関わってる合コンには、いくらかの確率で織羽くんが現れる。もちろん暮井くんは、それを伏せておくんだよ。当たり前というとなんだけど、織羽くんがいないとわかった途端に来なくなる女の子も少なくないからね。
僕も一度彼らに混ざってみたことがあったんだけど、あの回は特に、暮井くんにとっては屈辱的だったんじゃないかな。僕と織羽くんがひたすらに女の子から質問責めにされて、暮井くんは司会者みたいになってた。彼の呼んできた男の子たちは、女の子たちから興味を持ってもらえないことに気づいて、諦めたかのように普通に飲み会をしてたよ。男子会と記者会見が相席したみたいな光景だったね。それ以来僕は、暮井くんの企画する合コンには、誘われても行かないことにしてるんだ。織羽くんは恋愛に興味がないけれど、かわいそうだからってたまに付き合ってあげてる。もちろん、その回の女の子たちは織羽くんに夢中だから、暮井くんからすれば、金を払って知り合いがチヤホヤされるのを見るだけの時間になってしまうんだけどね。
昨日彼が合コンしたというのなら、織羽くんのいない――いわゆる『ハズレ』が開かれてたってことだと思うよ。
ええと、恨まれるようなことをしてるかって話の方だけど、残念ながら答えはイエスかな。あまり大きな声では言えないけどね。
合コンには基本的に織羽くん目当ての娘が来るから、ハズレのときは女の子のテンションがダダ下がりってわけ。暮井くんはどうにかして彼女たちをものにしたいんだけど、努力の成果は現れない。そうなるとひたすらに酒を飲ませるしかないってわけ。そして酔った女の子を休ませるという名目で自分の家に連れ込むか、あるいは送り狼になるか。そのあとはご想像にお任せするよ。合意は得ているらしいけど、まあ褒められたことではないよね。途中で逃げたから未遂、って娘も何人かいるから、僕のところに相談しに来ることもあったかな。
まあ、そういうのもあって、実のところ僕も織羽くんも、彼とは距離を取るようにしてるんだ。けど織羽くんは無情になり切れないから、色々なことに付き合ったり、自転車の共有を続けたりしてるみたいだけど。
そういうわけで、暮井くんに恨みを持っていそうな人は――女の子を中心にわんさかいるよ。彼氏持ちに何度か手を出したこともあったみたいだから、男にも彼を恨むものはいるだろうね。キャンパス内で掴み合いになることも多くて、その度に織羽くんが仲裁してるけど。織羽くんのいいところで、悪いところだね。例え相手が悪いことをしていても、強く出れないし距離も取れない」
そのような話を聞いて、少し雑談をしてから、僕たちは別れた。南くんは暮井に自転車を貸すべく家に戻ったのだが、暮井に冷たくできないのは彼も同じではないか、と思う。織羽くんも南くんも、暮井と縁を切れずに苦労をしている。
そして僕は、暮井が想像以上に『クソ野郎』だったので、助かったような困ったようなという状況にあった。彼が様々な方面から恨みを買っているのはわかったが、数が多すぎて対処しきれない。共有の自転車に爆弾を仕掛けて暮井を殺そうとするなら、その中の誰かなのだが……。
織羽くんと暮井の間にあったトラブルというのはわからなかったが、おそらくは『ハズレ』絡みのことだろう。お前がいるとモテねぇんだよとか、そういう僻みが酒の力を借りて最悪の形で現れたに違いない。織羽くんもさぞ困ったろうに。
そうなると、暮井と合コンをしたことのある女性ほぼ全員に疑いの目が向けられる。さすがに全員に対して調査をするのは――それどころか、まず全員をリストにする段階で骨が折れてしまう。
そういえば、今日南くんと一緒にいた女の子は、どうなのだろうか。南くんの陰に隠れたようにも見えたし、無関心にも見えた。彼女も合コンの参加者で、暮井の被害者なのではなかろうか。しかし、いかんせんデリケートな話題なので、いきなり調べるのは気が引ける。彼女の知り合い――それこそ、南くんなどから聞くしかないのではないか。
そんなことを考えながら僕は、蛍光色のペンをコンビニで探したが、結局何の成果も得られないまま帰宅した。愛する彼女への手紙は、今まで通り普通の便箋に記せばいいのである。
明日また、暮井のことを色々調べよう。本人の話によれば、明日の木曜は暮井の出勤日じゃないらしい。キャンパス内で捕まえれば、色々なことを聞き出せるかもしれない。
などと、考えていたのだが。それは叶わなくなってしまった。
水曜の晩、暮井が死んだのだ。塾からの帰り道、乗っていた自転車が爆発したらしい。
(転に続く)
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