第370話 婿養子の意味
side 真由美
部屋を出ていく一成くん逹を笑顔で見送り、これで室内に残っているのは私達…お互いの両親だけ。
そして今から始まるのは今日の本題。一成くんを養子として迎えさせて頂く経緯についての説明と、それに対する同意を改めてお願いするという、極めて重要な二つのお話。
取り敢えず後者については、電話口とはいえ既に同意を得ていることや、先程も「本人の意思を尊重する」という発言があったばかりなので、取り立てて問題ないとは思う。寧ろ問題なのは、経緯の説明の方。
なんせ私達は薩川家…これを自分で言うのも何だけど、あの世界的な巨大企業「佐波エレクトロニクス」の創業家にして、経営者一族であるというこの事実は、果たして一成くんのご両親にどれ程の衝撃をもたらすことになるのか…
でも沙羅ちゃんが私達の娘である以上、この話を避けて通ることは出来ない。それに私達としても、やはり一成くんに後を継いで欲しいという気持ちが強いから尚更。
でもそれは、単に経営者一族としての希望というだけでなく、大切な娘のことを思う親として…
だって…
沙羅ちゃんを幸せに出来る男性は、世界で只一人、一成くんだけなんだもの…
親にとって、子供の幸せは何よりも最優先。でも一成くんという存在は、私に…ううん、私達"薩川家"にとっても…
「…敢えて口を挟みませんでしたが、一成とお嬢さんを途中退席させたことにも、何か理由がありそうですね?」
私達と同じように、二人を黙って見送った宏成さんが、不意にポツリとそう漏らす。
でもその雰囲気はどこか…ここまでの陽気さは影を潜め、声のトーンといい、明らかに何か変わったような?
これは一体…
「お察しの通り、今からお話しする内容については、まだ一成くん本人に伝えていないこと…私達の心積もりが含まれております。ですがそれは、本人がもう少し大人になってから、改めて伝えさせて頂ければと考えておりますので…」
「なるほど。そういう事情であれば、こちらも今からの話はオフレコとしておいた方が良さそうですね」
「出来れば、そうして頂けると…」
「承知しました。まぁ決して悪い話ではないと確信しておりますし、その辺りの判断についてはお任せしますよ」
「ありがとうございます。それでは改めて、お話の方を始めさせて頂きたいと思います」
「はい。宜しくお願い…って、何だよ母さん、その顔は?」
突然そんなことを言い出し、自分の真横を見る宏成さんに釣られ、私も視線を横にずらすと…そこにはやれやれとを言った様子で苦笑を浮かる冬美さんの姿が。
「別にぃ…最初からそうしてれば、一成も困らなかっただろうにって思っだだけよ」
「…悪かったな。俺もあいつとどんな顔して会えばいいのか分からなかったんだよ」
「はぁ、そういうところは本当に不器用なんだから…別に普通にしてればいいじゃない。この前の電話だって普通に話せてたんでしょ?」
「そ、そりゃ、まぁ…」
「ったく、ちょっと困ると直ぐテンション任せで取り繕おうとするのは、アンタの悪い癖よ、ホント」
「ぐっ…」
えーと、今の会話は一体どういう意味なのかしらね。
正直、かなり気になる内容だったけど…まさか、ここまで見てきた宏成さんのアレは…
「ほらほら、今はそんなことどうでもいいから、さっさと話を続けなさい。但し、今度こそ真面目にね?」
「わーってるよ。ったく…」
「はは、どうやらそちらも、何やら事情がお有りのようで」
「はは、申し訳ありませんね。話の腰を折ってしまって…そんなことより」
「はい。それでは早速…」
「…と、その前にこちらからも少し宜しいでしょうか?」
「は…はい」
政臣さんの話を遮り、どこか意味深な様子でこちらを見た宏成さんが席を立ち…
「宏成さん?」
その動きを不思議そうに見守る私達を尻目に、宏成さんはさっきまで一成くん達が座っていた場所の横…ちょうどお誕生日席に近い位置へ移動すると、そのままゆっくりと腰を降ろし…
「皆さんには息子のことで大変お世話になり、感謝の言葉もございません。先ずはこの場をお借りて、深く御礼を…」
そう言いながら、何故か正座で姿勢を正すと、前方に突っ伏すように上半身を…って、ちょっと待って!?
「こ、宏成さん!?」
「お止め下さい!! 何もそのようなことまで…」
あまりにも不意討ちすぎる「土下座」というまさかの行動に、私も、そして政臣さんも、慌てたように声を上げる。でも当の宏成さんはそれを止めず、遂には深々と体を畳に押し付け、もう誰がどう見ても完璧な土下座の体勢に…と言うか、何でいきなりこんなことを!?
「いえ、これは単にお礼を申し上げたいというだけではないのです。そちらの大切なお嬢さんに…年頃のお嬢さんに、息子の日常生活を全て任せきりにしてしまうという体たらくもそうですが、あいつが昔の明るさを取り戻してくれたことも…ああして立ち直ってくれたことも、私は、本当に…」
「え…?」
「一成くんが?」
一成くんが明るさを取り戻した…?
それは全くもって寝耳に水と言うか、宏成さんが何を言っているのか、私は本気で心当たりがないんだけど…
それに、立ち直ったという言葉の意味も…
「当時のあいつが何かトラブルを抱え、それでも何事も無かったかのように振る舞っていたことには気付いていました。ですがその理由ついては何度聞いても答えてくれず、結局あいつが求めてきたのは県外校への受験と、それに伴う生活の援助だけでして…あまりにも突然の話で不安はありましたが、それでもあいつが求めるならばと思い、後押しすることに決めたのですが…」
「な、なるほど…確かに私達も、まだ高校生の一成くんが独り暮らしをしていた経緯については、気になっていたことではありますが…」
実はこの件については、以前、政臣さんとの話し合いで俎上に載ったことがある。でも家庭的な事情である可能性が高い上に、本人が触れたくないのであれば、こちらとしても無理に聞かない方がいいだろうという結論になったんだけど…
「ですがこうして、あいつは昔の明るさを無事に取り戻してくれました。また軽口を叩いてくれるようになりましたし、気兼ねなく接してくれるようになったんです。私はそれが本当に嬉しくて、今日は思わず必要以上に絡んでしまいましたが…」
「あー…」
やっぱり、さっきまでのあれはそういうことだったのね。通りで以前、政臣さんから聞いていた電話口での印象と違いすぎると思ったけど…つまり、冬美さんが言っていた「不器用」という言葉がピッタリくる性格をしている訳ね。 納得だわ、これは。
「ですから私は、皆さんに心から感謝を申し上げたい。あいつが立ち直る為に何一つしてやれなかった情けない父ではありますが、せめてこうして、お世話になった方々に頭を下げることだけでも…」
「宏成さん…」
宏成さんが如何に今回のことで喜んでいるのか、私達に感謝をしたいと思っているのか、その気持ちが痛い程伝わってくる。
でも私は…
私も政臣さんも、きっと沙羅ちゃんも…
「お気持ちはよく分かりました。ですが私達は、やはりそこまでお礼を言われる程のことをした覚えがありませんので、どうかそのくらいに…」
「妻の言う通りです。そもそも私共は、一成くんがそこまでの事情を抱えていたことすら知らなかった訳ですし、お礼と言われましても正直何のことやら…」
「…そうでしたか、やはりあいつは何も…ですがそれでも、こちらが大変お世話になっていることは事実ですから、やはりお礼を伝えさせて頂きたく…」
「…分かりました。そういうことであれば、こちらも…」
「え?」
そう言って、今度は政臣さんが席を立ち…やはり宏成さんの直ぐ側、同じくお誕生日に近い移動へ移動すると、その場へ腰を降ろす。勿論、正座で…
「一成くんには、娘も私達も大変お世話になっております。特に娘のことについては、その心まで救って頂き、将来への希望となってくれたことに感謝の言葉もございません。ですからご両親にも、改めてお礼を…」
そして同じく、土下座の体勢を取り、お礼の言葉を口にする政臣さん。
何となくそうなるような気がしたけど…やっぱりね。
「ちょ、ちょっとお待ちを!! それこそ、私達がお礼を言われるようなことは何も…」
「そ、そうですよ!! 私達は沙羅ちゃんにもご両親にも本当に感謝しているんです。だからお礼を言うのはこちらの方で…」
「それはこちらも同じですよ。ですからここは、お互い様ということに致しませんか? お互い身に覚えがないとはいえ、それでも深い感謝の気持ちがあるということで、今この場では素直にそれを受け入れるということに」
「そ、それは…」
政臣さんの折衷案に、若干の戸惑いを見せながら、お互い顔を見合わせる宏成さんと冬美さん。
これはなかなか上手い言い回しだと私も思うけど…さて。
「もしそれでもお礼を仰りたいと言うのであれば、それはどうぞ、娘に直接伝えてあげて下さい。私共も改めて、一成くんに伝えさせて頂きますので」
「…そうですね。承知しました。そういうことであれば…」
これで何とか納得して貰えたのか、やっと姿勢と表情を崩す宏成さんと冬美さん…あと政臣さん。
良かったわ…これで何とか話が纏まってくれそうね。
でもそれはそれとして、まさか宏成さんがこういうタイプの人だとは…いくらなんでも二面性が強すぎるんじゃないかしら?
「はは…それにしても、まさかいきなりこんな展開になるとは思いもしませんでしたよ」
「いや、申し訳ない。私もどうすればいいのかずっと考えていたんですがね…やはり深い感謝の意を表すのであれば、こうするしかないと思いまして」
「あんたねぇ…気持ちは分かるけど、いきなり土下座なんかしたら向こうが困るに決まってるでしょ?」
「そ、そりゃそうだけどさ、でもな…」
「んふふ…でもそのお陰で、私達も宏成さんの人となりが分かったような気がしますから…安心してお話が出来そうで、ホッとしておりますよ?」
「そ、そうでございますか? いやぁ奥様にそう言って頂けるのは嬉しいですな」
「あらあら…」
どうやらこっちの方に関しては素みたいね。まぁイヤらしさは感じないし、社交辞令的に捉えておけばいいんでしょうけど。
でも…肝心な部分で真摯な対応が取れる人だと分かったのは収穫だったと言えるのかもしれないわね。取り敢えず「別件」の第一印象としては問題なさそう…ってところかしら?
「ただ現実問題、そちらのお嬢さんに一成の生活を丸投げしてしまっている状況なのも気掛かりでして」
「んふふ…そのことでしたら、それこそお礼を言われるようなことではありませんよ? あれは沙羅ちゃん自身が望んでやっていることですから」
「これも妻の言う通りですよ。あれは私共の娘が自ら進んでやっていることですから、どうぞお気になさらないで下さい。まぁ…年頃の娘が、独り暮らしをしている男性の家に押し掛けていたと知ったときには、流石に私も面食らいましたが…」
「いや、それは当然の話ではないかと…」
倫理的な話はともかく、一成くんのお世話は沙羅ちゃんにとってのライフワークみたいなものだから…寧ろそれを咎めでもしたら、逆にこちらが怒られてしまうでしょうし。
「すみません、沙羅ちゃんがあまりにも良い子で、私も何となくその状況に甘えてしまいましたけど…本当に、お二人には何と言えば…」
「冬美さん。それはもう止めましょう?」
「そ、そうね。ごめん」
まぁだからと言って、簡単に「はい、そうですか」なんて言える訳がないでしょうけど…流石にこれは、仕方ないでしょうね。
「ところで…先程の一成くんのお話ですが」
「一成の?」
「ええ。その…立ち直ったという…」
「あぁ、そのことですか。申し訳ありません、状況を把握していらっしゃらないのに、一方的に話をしてしまって」
「いえ、それは問題ありませんが…」
「一成があそこまで心を開いているのであれば、皆さんにはある程度の話がされているかと思ったのですが…やはりあいつは、何も言いませんでしたか」
「ええ、特には何も。或いは娘であれば、何か話を聞いているのかもしれませんが」
確かに沙羅ちゃんであれば、何か話を聞いていたとしても不思議は…いえ、寧ろ絶対に聞いていそうな気がする。その上で、一成くんのことを考えて黙っているという可能性が非常に高いわね。
「この件と関係があるのかどうか定かではありませんが…実はつい先日、知人がいきなり謝罪に訪れて来まして。"娘が一成くんに大変な迷惑を掛けた"…と」
「迷惑?」
「はい。私もそれを聞いたときに、一体どういう意味なのか説明を求めたのですが…本人がそれを話していないのであれば、私から詳細を説明することは出来ないと言われてしまいまして…そう約束したから…と」
「…なんとも、状況が読みにくい話ですね。それで、その方は他に何と?」
「いえ、あくまでも、娘が大変な迷惑をお掛けしたと…そしてせめてものお詫びとして、これを受け取って欲しいと言われ…」
「その、有り体に言えば、慰謝料という名目で纏まった金額を…」
「い、慰謝料?」
「それはまた…」
いまいち要領を得ない話だとは思うけど、慰謝料という言葉から推測するのであれば…つまりその人…というよりは娘さん(?)が、一成くんに対してそれ相応の迷惑を掛けたということになる。
しかも普通に考えてみれば、子供同士のトラブルで慰謝料などという大袈裟な話が出ること自体、余程の内容でなければ有り得ないことなので…となれば、一成くんの抱えていたというトラブルは、思ったよりも深刻だった可能性が。
「取り敢えず、先方がどうしても受け取って欲しいとのことだったので、一応"預かる"という形でお金は受け取ったのですが…」
「ただ…これはつい最近気付いたことなんですけど、あちらに連絡が全くつかない状況なんです。それも電話だけじゃなくて、いつの間にか家まで売りに出されてて」
「…それは」
「以前、一成と電話で話をしたときに、何も知らないふりをして冗談っぽくその話を出してみたことがあるんです。そのときは、何かし思い当たる節がありそうな感じだったんですけど…」
「…そうでしたか。ですがこちらも、やはりそれに関する話を本人から聞いたことがありませんので…ただ」
「…何か思い当たることがありますか?」
「いえ…そうですね。この話をする前に、先に本題の方を進めさせて頂いても宜しいでしょうか? 多少、それに関わる部分があるかもしれません」
「…了解です。それでは改めて」
「はい。改めて、宜しくお願いします」
さて…思わぬ展開になってきた話し合いだけど、取り敢えず宏成さんの評価が変わったことは幸いだったと言えるのかもしれないわね。なんせ今日の目的の一つには、その辺りの見極めも含まれているのだから。
あとは、一成くんのことが…
もし「あの件」が、それに纏わることの一部であるとすれば…
これは思ったより、大事な話なのかもしれないわね。
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