ネオマヤン1 時勢の消滅編

@jealoussica16

第1話


その栄華は崩落前の最後の輝きだった。絢爛のエジプト文明において、その没落を早くに予期した人々の一団が、海を渡り、遠く南米の地へと到達する。そこに、精神と宗教、文学に特化させ、発達させた新たなる文明を築こうとした。マヤ文明だ。


 彼らは、十数年かけて基盤をつくり、その間に増えていった人々が住む場所として、近隣の土地に、大都市の建造を計画する。テオティワカンと名づけられたその都市は、古都エジプトに匹敵するほどの人口を擁する巨大都市へと発展する。


 エジプト文明からマヤ文明へと分岐し、そのマヤ文明もまた、本体のマヤの地と併存するテオティワカンの地へと分かれてしまった。

 マヤの地では、次第に「祭り」と「儀式」という二つが、一年の重要な行事となる。それが集合体に、生活のリズムとサイクルを与えていくことになった。ここでもまた、二つの行事へと分岐が起こってしまう。


 一方、エジプトの栄華は、次第に輝きを失っていった。人々は権力を前にして、互いにコントロールするべく、陰謀に加担していくようになる。気づけば、派閥が出来ていた。

 その中において、二つの大きな潮流が、時代を動かしていくことになった。

 一方が時代の覇者となれば、もう一方は影へと流れこみ、沈みこみ、憎悪を募らせ、転覆の機会を伺う。地下で、闇で力をつけることで、復習の刻を狙うことになる。その応酬の繰り返しは、狡猾な政治力を進化させていくこと以外に、何か大切なものを奪い続けていった。


 どのみち、分岐の世界は、止まらなかった。

 行きつくところまで、行くまで、誰も止めないでくれと、そう言わんばかりに、激しさは増していった。

 そうして時代は、いつのまにか、千年、いや、万年の時が、あっという間に過ぎてしまっていた。























ネオマヤン 1




































時勢の消滅編




































第1部第1編   アマゾナイト





















 脚本家のLムワの邸宅に、映像作家の指原シカンが、訪ねてきていた。

「やあ、すまないね。わざわざ来てもらって」

「全然、かまいませんよ。こんなお宅なら、毎回ミーティングで使わせていただきたいくらいです」

 いきなりLムワはプールサイドに案内された。

「どうだい?どんな話が書けたと思う?いや、実はさ、僕もね、時代背景がよくわからなくなってしまってね。困ってるんだよ。ま、座ってくれ」


「はい。失礼します」

「何、飲む?酒だろ?」

「まだやめときますよ。あとでワインをください」

「そうか。じゃあさっそく本題へ」

「時代背景って、エルさん。現代ですよ。現代劇」

「わかってるよ。指原くん。でもさ、何か、背景が違うんだよ。見えた光景はこの街のそれとは違うんだ。僕としては、全然、現代なんだけどね。おそらく誰も、納得いかないだろう」

「それで、どんな話なんですか?」

「今回は、あるブランドからの依頼だったよね」

「ええ。新ブランドですよ。そのイメージ映像を、僕が撮ることになって。それでその脚本をLさんが書くことになって。Lさんとは初めての仕事です。お互いずっと、顔見知りではありましたけど」

「そうだね」

「ちょっとしたストーリーにしてほしいということでしたけど」

「いちおうね、ブランドのコンセプトは頭に入れたよ」Lムワは大げさな身振りで答えた。「何のブランドなの?服?香水?まあ、何でもやるんだろうけど」

「まだ商品は誰も見たことがないです」シカンは言った。「妙な先入観を持たれたくないからって、我々にも、ただコンセプトだけを放り投げて、それで、イメージ映像をつくってくれとっていうことでした」

「創作者の火のつけ方を知ってるようだな」

「そうですね」

「そのおかげで、僕にもさっぱり理解ができない話ができあがってしまった。これを君が映像に起こすとはね・・・ははは。妙な展開になってきたね。いや、まだ、決まったわけじゃないけど」


 そのとき、髪の長い女性が現れた。

「紅茶をどうぞ」

「あ、奥さん。お邪魔してます」

「順調ですか?」

「ええ」

 女性は、Lムワの妻だった。以前は、女優をやっていた裕美夫人だった。結婚して引退していた。もう何年になるだろう。シカンは考えを巡らせた。Lムワが結婚していて、その相手が北川裕美であるということは、何日か前に知ったことだった。

「また変な話を書いたんでしょうね」

 裕美夫人は微笑みながらシカンに訊いた。

「これから聞かせてもらう所です」

 裕美夫人の、落ち着いた雰囲気の中にも、かつての面影が見えたことに、シカンは妙な興奮を覚えた。

「それでは、ごゆっくりなさってください」

「ありがとうございます」

 夫人は去っていった。


「Lさん、あいかわらず美人ですね、奥さん。どきっとしましたよ。今は仕事してないんでしょ?いやあ、ここで、打ち合わせをする特権ですね。今では、誰も、その姿を見てないんでしょうから。以前にも増して、ぐっと魅力が安定してきましたね」

 シカンは一瞬失礼なことを言ってしまったような気がして、すぐに話を逸らしたかった。

 裕美夫人は、かつて北川裕美という名前で活躍する女優だった。二十歳のとき、十代の男女による青春連続ドラマに、ずっと出ていてブレイクしたのだ。当たったのはその一本だけだったが、シリーズとして大成功を収めていて、それだけで五年も続いていた。第五シーズンまで続いた。北川裕美は数人の主演の一人であって、もちろん最後まで出ていた。北川裕美の役どころは、才気に溢れ、性的魅力に溢れたティーンネイジャーの女性であり、学校や地区のマドンナ的存在であり、頭も切れ、生徒会ではリーダーシップを張るエネルギッシュな女の子だった。当然、恋愛も、奔放であった。とにかくモテた。それでいながら性格はまったく有頂天な所はなかった。孤独で影のある男にひかれる傾向があった。彼氏がいるにもかかわらず、寂しさを抱えた男を心配し、いろいろと手を焼くのだった。彼女としては、純粋な気持ちで、ただ力になりたいというだけだったが、当然、優しくされた男のほうは彼女のことを好きになってしまった。それに、そのルックスだ。彼女の周りにはトラブルが絶えなかった。意図せず、男を狂騒に走らせ、堕落させる女の典型だった。そのドラマ以外にも、北川裕美はもちろん映画にも臨んでいた。しかしどれもドラマの影を引きずった彼女に、別の役がうまく嵌るはずもなかった。それに、私生活も乱れ始めていた。スキャンダルを連発してもいた。ドラマの役や筋と、ほとんど似かよっていて、見ている方としては、混同してしまうことが多々あった。ゴシップ誌で報じられた恋愛沙汰が、あるいは先週放送のドラマの筋であったのではないかと、どっちがどっちだかわからなくなってしまった。わからなくなったほうが、彼女としても製作者側としても、都合がよかったのかもしれなかった。そういうわけで、彼女はほとんどこのドラマ一本にしか出演していないかのように見えてしまった。映画は撮影したものの、公開にはならなかったものが、ほとんどだった。のちに、彼女は言っていた。「だいたい、最初にブレイクする役柄っていうのはね、自分の本質とほとんど重なったものなのよ」と。

 シカンは、その北川裕美が今運んできたばかりの紅茶を、飲んだ。


「結婚して、何年ですか?」

 思わず、シカンはLムワに訊いてしまった。

「七年かな」

「そうですか。ずいぶんと、長くなりましたね」

 ということは、北川裕美が芸能界を引退してから、七年ということだった。ずいぶんと落ち着いた静かな生活を手にいれたものだと、シカンは内心思った。

「メキシコ辺りの土地が、舞台の一部になりそうなんだ」

 シカンは、北川裕美のことばかりを考えていたために、Lムワの言葉をあやうく、聞き流しそうになった。

「ちょっと待ってください。東京の話じゃないんですか?」

「東京の話だよ。一部だよ一部。心配するなよ。あとは、エジプトにも、話は飛ぶんだ。ちょっとだけだよ」

「勘弁してくださいよ。海外ロケですか?予算もスケージュルも組み直しですよ」

「もしそうなったときには、俺が話を通すから大丈夫」

「Lさんは、能天気な所がありますから」

 シカンは思った。

 この緩さがある意味、あの北川裕美を手なずけた秘策なのかもしれなかった。

「大昔、エジプトの民衆はね、ユダヤ人を、奴隷に使っていたんだ。聞いたことはあるかな?ないかな?そのときの王の一人、ファラオだね。もちろん、エジプト人だ。彼はその奴隷制度に強烈に反対だった。内心ね。密かに思っていたことだ。ユダヤ人の解放をいろいろと画策していた。だが行動には移せなかった。ユダヤ人はユダヤ人で、エジプト人の長であるファラオを倒し、自由を獲得することを常に考えていた。ユダヤ人は、反旗を翻す機会をずっとうかがっていた。妥協しない強い心を持った民族だった。教えというものがあった。精神的支柱があった。何世代にも渡って、伝承された精神的支柱。そして、実行するときがついに来た。つまりはね、ユダヤ人は、生活に関するあらゆることを引き受けるのを厭わなかった。そして、便利に使いこなされることを積極的に戦略的に進めていった。そのうちに、エジプト人は怠け、堕落しきり、何も生み出すことをしなくなった。すべては奴隷がやってくれたのだから。そうして、支配権は、影でユダヤ人側へと密かに移っていった。骨抜きにした。いざとなったときに、これでエジプト人は何もできなくなる。何世代にも渡った計画が、いよいよ実行に移されるときになった。そのときの王が、皮肉にも、さっき言った奴隷解放を望んだ男だったのだ。彼が殺害されることでエジプト王国は、あっけなく終焉した。ところが、ユダヤ人たちは、そのファラオの実体を、後で知ることになった。自分たちと想いを共有していたということを知ってしまった。その男を誤って殺してしまったのだ。知っていれば、彼と彼に共鳴していた人間だけは、残したはずだった。新しい国をつくるとき、共に働く仲間にしたはずだ。支配権を握った、ユダヤ人たちに、強烈な葛藤が残ることになってしまった。それは数世代のあいだ、伝承してきた教えと同じく、その後も長く残り続けることになってしまった。始まりは、これだ」


 シカンは、この話の出だしに、完全に引き込まれてしまっていて、いつのまにか沈黙がプールサイドを覆っていたことに、逆に驚いてしまった。

「どうだ?」

 Lムワは、シカンに意見を求めた。

「あ、いや、そういうことですか。いいと思いますよ。続きが聞きたいくらいですね。映像は、そうですよね。実際にエジプトで撮らなくてもいいわけですし。あれ、そういえば、さっき、メキシコって言ってませんでした?」

「ああ、言ったよ。言った。でも、今、忘れてくれ。いずれ出てくるかもしれないだけで。可能性としてあるだけで、今の話では、まったく関係がなかった」

 Lムワは、無邪気な笑顔を見せた。

「続きがあるとしたら、長編になったりとかは、しませんよね?ブランドの広告戦略に使う、映像の中だけでは、全然、収まりませんよ」

「そうかもな。今日はとりあえず、こんな所だ」

「ええ」

「あとは、オーディションだな」

「オーディション?何の?」

「主演の女の子のだよ」

「女性ですか?いったいどこで使うんですか?」

「ファッションブランドだろ?指原くん。かっこいい女性がたくさん出てこなくてどうするんだ?」

「いや、しかし、さっきの話だと、その女性の影は、まったく見えませんでしたけど」

「男性社会だったからか?」

「ええ。何も、あの話に無理矢理、女の子を入れなくてもいいでしょう。ファッションブランド的な戦略を、変に当てはめなくても」

「反逆だよ、指原くん」Lムワは大きな声を出した。「実用性のみの世界に、対抗した、アートとか美とかの反逆のことじゃないよ。女性の反逆だよ。女性そのものの。僕がさっき話をした世界が、ひどく男性社会の根源的な空間のように感じたのなら、その内容に君は、女性の抑圧された憤りというものを、映像として変換して乗せるべきなんだよ!わかるか?ビジュアルというのは、本来、そういう役割を担っているんだ」

「考えておきます」

「そうだろう。今日は、こんなところだ」


 シカンは、過去のLムワの作品を思い返していた。ポップなドラマ展開に、斬新なフォルム、えぐい挿入、というのが持ち味だった。最近はSFものを書いていた。レーザーテロが大都市圏で発生し、その光線を受けた人の一部には、男性であっても女性であっても異性と性交渉を持つことなく、妊娠できる体質を獲得したという話の筋であった。

 その試写会で、彼は映像を見終わった客のいる会場に仕掛けを打った。

 天井が開き、血どろみのマネキン人形が床に落ちてきたのだ。

 作品の映像の中に、過激な描写がまったくなくなっていたことに、彼自身が抗議したものだったらしい。美しい映像と、醜悪さは、紙一重だと、彼は考えていたみたいだ。

 息をのむほどの綺麗な映像には、断固反対らしく、その映像監督とはその後、二度と組むことはなかった。代わりに選ばれたのがこの自分だった。Lムワに何を期待されているのかを考えれば考えるほど、その血どろみのマネキンの姿が脳裏に浮かんできた。

 異性を必要としない、男性が妊娠出産できるようになったいう、その胎児の存在を、映像化できなかった憤懣が、物体をつくるという強行に導いてしまったらしい。

 しかも、話に聞いたところでは、そのマネキンを縮小させた置物の人形や、ストラップのグッズも、同時に製作してしまったらしく、当然売れず、在庫の山となった。今もどこかにあるのだろうか。

 Lムワという男は、とても穏やかであり、野性的なぎらぎらとした欲望を発散させてはいなかった。ねじまがった価値観を、もっているわけでもなさそうだった。じゃあ、エネルギッシュではないのかといえば、そうではなく、その静かな物腰の中には性的な魅力は、かなり強くあった。同性から見ていても色気があった。残虐性のほうは、その欠片も見受けられなかった。北川裕美の印象が、かつて芸能界ですべての男を悩殺していた、発散型の性的エネルギーから、穏やかで、周りを鎮静させるような雰囲気へと変わっていたのも、素直に納得がいった。それでも、彼女は色気を失っていなかった。むしろ前よりも女性としての強さが増しているようにも思えた。子供はまだいなかったようだが、母性のきらめきのようなものがあった。と同時に、Lムワの娘のようにも見えた。まだ、自分が何者であるかもわからず、何も成し遂げていない、娘のようにも見えたのだ。


 シカンは一人になるとますます、二人のことが、気になって仕方がなくなっていった。

 危うく、彼らの私生活を暴き出そうとする、芸能記者にでもなってしまいそうだった。







































 神官は、テオティワカンからマヤへと派遣され、そして七年後に帰還した。

 マヤとテオティワカンの交流の一環として、以前から神官が派遣されていた。

 独自の暦を学んでくるという目的もあった。しかし、帰還したテオティワカンは、七年前とは様相が一変していた。夜間に、突然、火が放たれることもあった。人々は、互いに不信の眼で、見あっていた。貴族階級にいたはずの画家や彫刻家は、姿を消していた。新たな創造物が、都につくられた気配はなかった。


 巨大なピラミッドだけが以前と変わらず、荘厳な佇まいで人々の生活を座視している。

 神官の親族も、彼によそよそしくなっている。テオティワカンには、活気がなかった。

 どんよりとした灰色を、さらに濃くしたような巨大な雲が、絶えず空を埋めているようだった。巨大な建築物だけが、その配置のおかげで力を宿している。水の流れは途絶えている。悪臭が鼻をつく。汚水が垂れ流されているのだ。

 都に住む人間の数の減少は、確実だった。そして、残った人間同士もまた、対話をする気配すらない。協力して共同体を支えようという気概は、どこにもない。

 この七年のあいだに、一体、何が起こってしまったのか。

 神に仕えていた芸術家たちは、殺されてしまったのか。

 それとも、自ら都を出ていってしまったのか。追放されてしまったのか。ピラミッドの頂上にあったはずの神殿の姿が、今はどこにも見当たらないのだ。


 神官が帰還したその日の夜のことだった。

 親族と酒を飲んで、マヤの話をしていたときだった。大規模な火災が都を包み込んだ。神官は、急いで住居を飛び出した。なんと、ピラミッドに火が放たれていたのだ。二つの巨大な建造物は燃えていた。その煙はあっというまに、神官自身をも飲み込んでしまった。廃墟になると、神官は呟いた。今日を境に、このテオティワカンは完全に根絶してしまう・・・。そして自分も二度と、この都には戻らない。もうすでに、都市機能は、不全なのだ。支配者、支配階級の人間たちは、いったいどこに行ってしまったのだろう?なぜ、自分のところには何の情報も入ってこなかったのだろう。

 そのときだった。


 松明を手に持った群衆が、突然大きな声をあげて物陰から現れた。神官に向かって火を向けた。神官の服に、火が燃え移った。そして、群衆が松明で殴り掛かってくるのが見えた。神官は体を逸らした。寸でのところで、頭蓋骨への直撃を免れた。神官は追っ手から逃れるように走り出した。あいつらはいったい誰なのだ?酒を共に飲んでいた親族らは、おそらく叩き潰されたに違いない・・。なんて時に帰還したのだろう。


 神官は自らこの都市に火をつけた。そして、すでに廃墟になってしまった一部に、落ちていた鉈で一撃を加えた。このまま、都市に存在する建造物を、すべて破壊してしまいたかった。しかし、神官は我に返った。もうすでに、この光景は、終わってしまった世界なのだ。これ以上、関わり合っていても、無意味なのだ。死人に執りつかれるようなものだった。すでに、過去の幻影だった。相手にしても仕方がないと思い直した。


 神官は、それまでの記憶をすべて無に返すため、何事もなかったかのように、都市から退場していくことを決意した。






























 四日連続で、女は昼の午後一時きっかりに現れた。

 自然に自分の服を脱ぎ、男の服も脱がせる。三時近くには、二人で布団の中にいる。静かな時間が流れてゆく。五時過ぎまで、肌を直に触れ合わせていた。それから、女は布団から出て、服を着始める。これから、二人で外に食事に出ていくことを、男は察知する。

 車での移動中も、店での食事の最中も、女は一言も声を発することがなかった。眼は伏せ気味だったが、時折、カッと見開き、男を射抜いた。午後八時近くになり、男は女を送っていく。毎回、指定される場所が違った。言葉ではない何かを、男の意識に送ってくるのだった。

 男は、指定された、人通りの極端に少ない夜道に、女を降ろして去っていく。

 一瞬、不安になるが、女はまた、次の日には時間通りに、男の部屋へとやってくる。

 そして、五日目の午後一時、女の往来は、急に途絶えてしまう。


 瓦解した、忌まわしいビルの記憶が立ち上ってきたことに、Gは気が付いた。

 それは、女の体温が、自分の体から完全に消え去ったのと、ほぼ同時刻だった。

 男はGと名乗っていた。Gは、魂の抜かれたような空虚な日々を過ごしていた。

 半年前までは、建築現場で働いていたが、そこで大きな事件が起こってしまっていた。建てたそのビルが、数週間後にすべて、崩れ落ちてしまうという大事故だった。Gはただ言われた通りに、他の作業員と共に、資材を運んでいただけだった。組み立てに直接関わってはいなかった。設計には、なおさら、関わってなかった。建築の計画や目的すら、何も知らなかった。


 Gは三か月の契約で、建築の資材を、運搬車から組み立てる場所まで運ぶ、という仕事を請け負った。その瓦解したとき、Gは、偶然近くの通りを歩いていた。最初は何か稲光が走ったように感じた。天から建物に向かって、電流が走ったように感じた。どきっとしたその次の瞬間だった。ビリっという、画用紙を裂く時のような、音が聞こえたのだ。ビリっビリっと。そのうちに、間隔は詰まり、重なりあい、引き裂くその音は、複雑に何かの旋律を奏でるかのように、続いていった。

 気づけば、その巨大な建物は、この現生の空間の中で消えていた。

 まさか、その音が、ビルの瓦解した音だとは思いもしなかった。


 分厚い紙を裂くような音だった。後半は確かに、破壊的な領域にまで達していた。耳の中で鳴り響いたようにも感じた。鼓膜が潰されるような、気色の悪いレベルにまで。しかし、それが、あの巨大なビルを亡きものにしていた音だとは、到底思えなかった。全然理解することができなかった。

 耳が感じた間隔と、目で見えていた状況とが、あまりにかけ離れていた。


 連日、ビルに関する報道は続いた。建築家のFという男が注目された。今回の設計を担当したということだった。しかしどうして、彼一人に、話題が集まるのだろうか。何も彼が一人で計画して、設計して、デザインしたわけでもあるまい。全行程の一端を担っただけだろう。レベルは違うものの、それなら俺だって一緒だと、Gは思った。

 その報道の嵐の最中に、GはGだと自分を自覚した。Fという男の仕事の末端を担った、一人として、その責任を強く感じたのだった。Fの仕事を末端で引き受けていたのだから。

 彼の下請けをしたようなものだった。そこには契約関係があった。

 だが、Gには当然のごとく、警察の捜査が及ぶことはない。

 誰からの連絡も来ない。

 この建築現場の仕事に就く、数日前に、Gは、この土地にやってきたばかりであった。

 それまでの人間関係を、すべて清算していた。連絡先を断ち切り、そのとき付き合っていた女にも別れを告げ、ただひたすら、資材を運ぶ瞬間瞬間に、自らを没入させていた。そこで得たわずかなお金を、どこに投入しようか。ただ、生活費に消えていくのは嫌だった。

 そう思い、考え事をしながら、ひたすら散歩している時に事件は起こったのだった。


 Gはおかしな記憶が頭の中に残っていることにも気づいた。

 今のGの仮住まいの家に、女が連日通ってきている映像だった。

 女?あの女はいったい誰なのだろうか。

 ビルが瓦解した日とどっちが先だったのか。同じ日だったのか。

 毎日のように、女はうちに来ていた。ずいぶんと親密な関係だった。目の前に女がいることも、裸で布団の中で抱き合っていることも、何の違和感もなかった。女は自然に自分の傍にいた。会話はなかった。名前も聞かなかった。情報は何もないはずなのに、初めからずっと、そこに居たような親密さだ。あの女に訊いておくべきだった。瓦解したビルの実体。あの女なら、きっと何かを知っていたはずだ。たとえ、何も答えなくとも。女にその質問をした瞬間、女から発せられた何らかの情報が、感じとれたはずだ。何故かそう思った。

 ただ、心の中で、自分自身に問いかければよかった。きっと、手掛かりは掴めたはずだった。


 崩壊したビルは、その存在を、完全に無にしてしまっていた。

 テレビで報道されたときには、すでに、更地になっていた。

 瓦礫に埋もれてしまった様子など、これっぽっちもなかった。事件の翌日なのに、片付けは終わってしまったのだろうか。死者やけが人なども、出たのだろう。しかし、情報としては、一切上がってこなかった。

 ビルが崩壊したという事実を、メディアは連呼しているだけで、更地になった映像を、これでもかと、流し続けているだけだった。


 そのあとすぐに、Fという建築家が、容疑者として指名手配された。そういう情報へと切り替わってしまった。今後は、おそらく、このFという人間を追跡することに、各報道局は一斉に傾くだろうとGは思った。Fとは、一体誰なのか。そんな人間が本当にいるのだろうか。

 メディアは何故、あの事故を一人の男に押し付けるのだろう。あの巨大なビルは、その男一人によって、作り上げられたのだと、まるでそう言わんばかりのように。


 忘れよう。Gは思った。忌まわしい悪夢は忘れよう。だが、避けようとすればするほど、闇夜に立ち上がってきた。Fに会うべきだと思った。Fに会い、真相を聞き出す必要があると思った。忘れるための手段は、そこにしかないような気がした。だが、どうやって探しだすのか。いや、探すんじゃない。Fの方が来る!あの瓦解したビルの跡地に、Fのほうが必ずやってくるとGは思った。今は自分があの跡地から離れてはいけないのだ。Fと話しをし、真相を聞き出すまでは、あの空地に、警戒の眼を注いでいないといけなかった。注意深く、無目的に、無関心を装いながら。

 そんなとき、瓦解は、再び起こった。


 高層マンションの二棟が、相次いで爆発したのだ。

 さらに、連鎖反応を起こしたかのように、相次いで、別の建物も崩壊してしまった。

 巨大な爆音に、Gは思わず部屋を飛び出してしまった。

 すでに、消防車のサイレンが鳴り響いていた。街中が爆撃を受けたかのように、煙で覆われていた。車は動きを止め、救急車は、ものすごいスピードで疾走している。ビルが瓦解したというその直観を確かめるため、Gは走り出していた。自分が作業に関わったビルの近くに、確か高層の建物があったはずだ。あれに違いないと思った。あの建物も、何かの問題があったのだろうか。古い建物ではなかった。少なくとも、ここ十年のあいだに、建てられたものだった。

 足に激痛がったる。脛の部分に熱気を感じた。ズボンを捲くると、赤く腫上っているのがわかる。火傷をしたかのように膨れ始めている。足にだんだんと力が入らなくなってくる。歩道にへたりこんでしまった。すぐに、冷却が必要なように思えた。人通りはなかった。空を見上げると、三機の飛行機が並んで飛んでいた。戦闘機のように見えた。黒光りをしている。機体の腹には、赤い模様が描かれている。気味の悪いイモムシのようだった。

 Gは手を上げた。しかし、三機は通り過ぎていってしまう。あまりに低い高度だったのでGは驚いた。高層ビルの背丈よりも、遥かに低かった。機体の進路を追った。自分が建設に関わったあのビルの方向だった。今から、行こうとしている場所と、一致していた。

 いつのまにか、焦げ臭い空気が、さらに身体を覆っていた。視界も悪くなっている。サイレンがあらゆる方向から聞こえてくる。Gは息苦しさを感じてくる。喉が閉口していく様子が、生々しく感じられる。脛が、だんだんと痒みを覚えてくる。膿んできていたのだ。爛れていた。血が噴き出した後で、黒く固まりかけていた。触れないようにした。捲くり上がっていたズボンを、元へと戻す。

 防護服を着た人間を、複数目撃する。Gを気にかける様子は、少しもない。

 彼らは、一列に並んで、Gの目の前を駆け抜けていく。

 消防服とは、どこか違うような気がする。顔にはマスクが装着されていたことに、彼らが通り過ぎてから気づく。彼らもまた、飛行機が向かった方向へと走っていた。みな向かう場所は、一緒のようだった。脛の感覚がなくなってきた。痛みから痒みへと、移行していた。そのあとに、無感覚が襲ってくる。

 酸素はさらに少なくなっていった。まるで、街全体が爆撃を受けたかのようだった。瓦礫の山の中を徘徊しているようだった。サイレンの音は遠くなった。Gの気も遠くなっていった。いったい何が起こったのだ?

 数週間前のビルの自壊が、まるで、何かの合図であったかのように、今まで知っていた街の景色が次々と消滅していった。



 二回目の打ち合わせは、桜木町駅の前のビーバーズだった。そこで打ち合わせをするのかと思いきや、ただの待ち合わせ場所だった。

 Lムワは、タクシーを拾った。根岸美術館の方に向かってくださいと、彼は運転手に告げた。「根岸美術館ではないんだ。近くにきたら、またすぐに、指示を出すから」


 二人は黙ったまま乗っていたので、気まずい雰囲気に包まれかけていた。

 シカンは、北川裕美の姿がいつまでも、脳裏から消えないことに、やきもきしていた。

 早く沈黙を脱して、仕事の話を進めたかった。一気に仕上げてしまいたい。早くこの仕事を終えてしまいたいと、思うようになっていった。根岸美術館ですと、運転手は言う。

「その横の道を、まっすぐに行って」とLムワは指示を出す。やがて、屋敷のような古めかしい荘厳な木造の家が現れてくる。大きな門が開き、タクシーは入場を許された。迎えの人間は誰もいない。正面の玄関に横付けされた。料金を払い、二人は屋敷の呼び鈴を、鳴らした。扉はすぐに開く。

「ここは、何ですか。誰かの、お宅なんですかね」

 シカンはずっと、沈黙したままのLムワに訊ねた。

「オーディションだよ、指原くん。この前、言っただろ?ここに集めてもらってるんだ。まあ、今日は、直接会って、話をすることはないから、安心して。別室で、彼女たちの様子を見ているだけだから。彼女たちには、そのことは言っていないよ。面接と演技の審査をするつもりで集まってもらっている。気合が入りまくってるんじゃないのかな。こっちの都合が悪くなってしまって、今日は、急遽、解散という流れになる。審査されていることには、まったく気がつかない。マジックミラーになってるのさ」

 ずいぶんと田舎に来たように、シカンには感じられた。森の奥深い場所に、ひっそりと佇む家に来たみたいだった。ふとここが、ドイツなのではないかという、錯覚まで起きてしまった。かつて、行ったことのあるパリの森の中の光景と、ガイドブックで見たことのあるドイツの家が、頭の中で混在していた。なのに、空気は日本の中世のようで、家屋の匂いからそう感じさせられた。

 廊下を歩き、奥の部屋へと、二人は入っていった。

 すると、薄着の女性がそこにはたくさんいた。下着かと思うくらいに、肌を露出させている女性までいた。みな女優なのだろうか。Lムワに訊いてみる。

「モデルの子も、もちろんいるよ。一般人の子もね」

 よく見ると、彼女たちとは、一枚ガラスを挟んでいた。

「主演の二人を選ぶんだ」とLムワは言った。

「どんな女性がいい?もちろん、出演するのは二人だけじゃないよ。むしろ、出演に関しては、もうすでにここにいる子は、全員決まりなんだ。彼女たちにはまだ言っていないけど。ここからは、二つの席の争いだ。指原君の感性に、すべてがかかっているんだから。彼女たちの命運を握ってるんだ。五分で選べ。何をさせても構わない。このまま見ているだけでもいい。ただし、今日は、直接話をしては、駄目ね。触れても駄目。プロフィールを見るのも禁止。名前も訊いちゃいけない」


 Lムワが何を意図しているのか。シカンには見抜けなかった。こんな山奥のような場所に女優たちが集められているのも信じられなかった。椅子に座って、物思いにふけっている子から、立ち上がってストレッチをしている子から、他の子とぺちゃぺちゃしゃべっている子まで、様々だった。

 そのとき、強烈な印象が一瞬視界をよぎった。一人目は決まりだった。彼女だった。すぐあとで、なぜ彼女に目が留まったのかがわかり、唖然としてしまった。どこか、北川裕美を思わせる女性だったのだ。十年前の、あの不安定で、強烈な才気を迸らせ、周囲にトラブルをもたらしていた狂気の美少女。その面影のある子だったのだ。まだ、十代のようにも見えた。髪を茶色に染め、キャミソールからむきだしになった細い肉付きのいい腕には、エジプトの神官たちの視線を独り占めした刻印が、記されているようだった。

 シカンは即決した。二人目の女の子も、すぐに決めた。その隣にいた子だった。二人はずっとしゃべり続けていた。かつての、北川裕美を思わせる女性から、目が離せなくなっていたシカンは、視界にずっと入り続けていた、もう一人の彼女しか選べなくなっていた。


 決めた二人の女の子をLムワに伝える。

 Lムワは、特に何か意見を言うことはなかった。ただ黙って頷いただけだった。

 ものの一分足らずで、決めてしまったため、残りの四分は、じっと二人の様子を見ていること以外、することがなくなってしまった。

 北川裕美似だと思ったものの、しばらく見ていると、顔の輪郭やパーツは、あまり似ているようには思えなくなっていった。時間が経つにつれて、印象もどんどんと変わっていった。もしかすると、最初に抱いた印象と彼女とは、ひどく違うのかもしれない。シカンは不安になっていった。その代わりに、もう一人の彼女の存在感が、増していった。よく見れば、その彼女の方が、一方的にしゃべっているようだった。北川似のその子は、頷いたり笑ったりしているだけだった。おっとりとした、その笑みには、性格が表れているようだった。狂気が迸る雰囲気など、全然なかったのだ。向かいの彼女のほうが、ものすごい機関銃のようなトークを、炸裂させていた。身振りは大きく、声も威圧感がありそうだった。黒髪で小柄なのだが、目の面積はかなり広く、相手の存在すべてを、食べて飲み込んでしまうほど、攻めかかってくるようでもあった。感受性が強く、頭の回転が異常に速そうだった。向かいの彼女を圧倒していた。しかし、二人はずいぶんと親しそうに話していた。以前からの知り合いのように。話しの内容も、かなり込み入っているように見えた。


 五分が経ち、Lムワは、審査が中止になったことを、彼女たちに告げにいった。

 その場は解散となった。ヒロインに選ばれた二人の女性は、それまでのトークが嘘のように、突然と切り上げられ、手を振り、互いに別々の岐路へとさっさと別れてしまった。やはり、この場で知り合っただけの関係だった。

 Lムワが、シカンのもとへと戻ってきた。

「今度は、自宅で話をしようか。彼女二人もいれて、四人で。はやい方がいいな」

 Lムワは、スケージュル帳を取り出した。

「来週の火曜日で、どうだろう。午後二時。プールサイドで。妻がまた紅茶を入れるよ」

 シカンはそれでいいと、即答した。

「それで、あの話の続きって、どうなったんですか?」

「ああ、あれ、ね。まだ、進んでないよ。あれっきりだよ。必要なの?」

「今回のCFには、必要ありませんけど、なんだか、個人的に気になっちゃったから。きっと、今回の仕事がきっかけで、Lさんの頭の中に、浮かんできたんでしょうけど。もしこれから、大きな世界が構築されてしまったら、どうするんだろうって」

「もしそうなったら、君には連絡するよ。感想が聞きたいからね。でも安心して。たぶん、続きなんて何もできやしないよ」

「どうなんですかね。いつもそうやって言っておきながら、別の仕事に繋がるような話を、平然と生み出すんでしょ?」

「そんなことはないって。それよりも、どんな映像をとるのかを、考えておいてくれよ。俺の仕事はもう終わりなんだから。エジプトとユダヤのあの話をきっかけに、その二人の女の子を融合させてね。あとは、君の仕事。長くても、五分程度の映像だろう。音楽のこともよくわからないから、俺は」

「でも、一応は、短編小説のように、簡単な起承転結は、お願いしますよ。Lさんのは“起”だけですからね」

「いらないよ。そのあとの展開なんて。そういうのは嫌いだよ。展開なんて無視だ。そんなものはぶっ潰してやるよ」

 そう言ったLムワの瞳は、一瞬、赤く燃え上がったようにシカンには見えた。

「最初からストーリーなんてつくっちゃ、空気は、前に流れていかないじゃないか。潰すんだ。殺すんだよ。血を流さなくちゃいかんよ、指原くん!」

 Lムワの口は、いつもの倍以上に拡がっていて、いまにも目の前の獲物を捕らえようとしているかのようだった。



 二回目の、Lムワ宅の訪問の前に、シカンはメールでCFの映像案を送っていた。

 呼び鈴を鳴らすと、あらかじめ資料に目を通しているはずのLムワが出てきた。ひどく不機嫌そうだった。プールサイドへと、二人はすぐに移動した。Lムワはしゃべろうともしなかった。

「どうでしたか」

 シカンが話しかけなければならなかった。北川裕美は、姿を見せなかった。

「何が」

 反応も冷たかった。気に入らなかったのだろうか。

 シカンは、Lムワの様子を伺った。

「見ました?メール」

「何の?」

「今度の映像のですよ」

「ああ、あれね。いいんじゃないの」

「ほんとですか?」

 しかし、Lムワの表情はあいかわらず曇ったままだ。

「言ってください。どこがまずかったのかを」

 Lムワは俯いた。そして、ゆっくりと立ち上がった。

「きみは、僕に喧嘩を売ってるんだろ。はっきりと言わせてもらうよ。あれは駄目だ。僕の神経は苛立った。もういいかげんにしてくれ。たくさんだ。見飽きた、あんなのは。それにテーマが嫌いだ。僕の脚本なんて、まるで意味がないじゃないか。僕の必要性はいったいどこにある?どうして一緒にやることになったと思ってる?そうだよ、きみ。どうして我々は一緒になった?これでは、別々に活動していたって変わらないよ。なあ、あいつは一体、どこにいってしまったんだ?」

 シカンは、話の筋を途中から見失ってしまった。

「あの、メールの話ですよね?」

「メール?何の?」

「送ったんですよ、昨夜。・・・」

「パソコンなんて、開く暇はなかった」とLムワは言った。

「いろいろと、ゴタゴタがあってね。ひどく不機嫌だっただろう。すまん」

「いや、いいんですよ。ああ、よかった。僕の案が、気に入らなかったわけじゃなかったんだ」

「気に入らない?指原君。君は、僕に好かれようとしているのか?そんな考えじゃ、全然、駄目だね。僕を打ち負かさなくちゃ。あの、僕の話があっただろう。あれに乗っかって、作ったような映像じゃ、全然、駄目だよ」

「奥さんは、いないんですか?今日は」

「その話か」

 Lムワの表情は、再び暗くなった。

「なぜ、そんなことを?」

「紅茶、楽しみにしてたんですよ」

「すまないね。いろいろとあったのさ」

「そうですか」

 Lムワは部屋に入り、パソコンを起動させ、メールを読んだ。

 こんなことなら、直接持ってきても変わらなかったなと、シカンは思った。

 Lムワが颯爽とプールサイドに戻ってくる。

「指原くん。いいじゃないか。実にいいよ。これで決まりだよ!僕の影なんて、どこにもなくなってしまったじゃないか。いやあ、実にいい。それでいいんだ。これで、すっかりと僕の存在なんていらなくなった。ここで降りるよ、指原くん。あとは、あの女性たちで、しっかりとした映像を撮ってほしい。僕は降りるよ。よかった。ちょうどよかった。裕美との問題もいろいろとあったから」

「裕美さんと、何かあったんですね」

「あった」

 Lムワは、右手の中でボールペンを遊ばせ始めた。

「相談に乗りますよ。僕に何かできることがあったら言ってください」

「裕美に会ってくれないか?二人きりで」

「今からですか?どこにいるんですか?」

「自分の部屋」

「あ、家には、いるんですね」

「何をしてるのかはわからん。部屋からは出てこない。前にも何度かあった。まったく無反応なんだ。立ち入ることができない。僕の声には反応しない。前は、ちょうど実家から母親が偶然やってきた。その声で彼女は出てきた。そのときも、理由はまったくわからなかった。何をしていたのかも。一週間もだ。今回は、まだ二日だ。ちょうどよかった。君が試してみてくれ。僕は外出しているから。あとはよろしく。映像の件はそれでいいから」

 そう言い終えると、Lムワはさっさと玄関から外へと消えてしまった。

 シカンはプールサイドに取り残されてしまった。仕方なく二階へとあがり、寝室らしき部屋の前で、裕美さんの名前を呼ぶ。すぐに開錠され、北川裕美本人があっけなく現れる。

「どうしたんですか。心配しましたよ。Lさんは出かけました」

「ですので、部屋から出てまいりました」北川裕美は微笑んでいた。

「さあ、紅茶をいれます。下に行きましょう」

 シカンは北川裕美に続いて、螺旋階段を下りていった。彼女は舞踏会に行くかのようなワインレッドのドレスを着ている。

「主人と顔を合わせるのが億劫でしてね。たまにあるんですよ。主人もわかってると思いますけど。私にも主人にも息抜きが必要なのですね。特に私はあまり人と会うこともなくなってしまっているので。以前は、大勢の人に囲まれていることが、ひどく心地がよかった。でも、あの人と知り合ったことで、私はそれまでの自分とは違う自分を、発見してしまった。それはとっても新鮮なことだった。それまでの生活に、そのときは心底うんざりしていたから。それで、それまでとはまるで違う生活に、足を踏み入れた。もう七年も前のことです。懐かしい。でももう戻れない。戻りたくもない。ただ、懐かしい。懐かしいのよ」

 前回会ったときとは、また印象が違っていた。かといって、かつての青春ドラマに出ていたときのような狂気は、息を潜めている。彼女が何を求めているのか。シカンには皆目わからなかった。

「僕が立ち入るような問題ではなさそうです」

「あなたは、もう、ここに来るのはおしまいなの?」

「打ち合わせはすみました」

「わたし、わかるのよ。あの人は、これから一人で部屋にこもって、文章を編んでいく。本をつくるのよ。そういうときってわかる」

 やはり、あの話の続きを書くのだと、シカンは思った。

「そうすると、わたしはまた置いておきぼり。大家族が欲しいの。たくさんの人に囲まれていたいの」

「僕に、どうしろと?」

「あなた、映像の監督さんだって聞いたわ」

「まさか、出演させてくれってことですか?でも、もう決まってるんです。残念ながら。それに、あなたが出るような仕事でもありませんし」

「撮ってよ。私だけを撮ってよ!私のすべてを」

「何ですか、いきなり」

「今、即答してちょうだい。何なら、今から、撮りましょう。二階でも、このプールサイドでも。さあ、はやく。はやく!もう待てないのよ!」

 北川裕美は、ドレスを引きちぎるように脱いでいた。

 もう待てないの。



日々、単純労働を繰り返す十代の若い女性のネットワークは

もう何十年と続いていた。

 映像が始まる。


ついに反撃のときは来た。

 上半身に鎧をつけた女性たちは、立ち上がる。足は剥き出しだった。


私たちは、単純労働の中に

与えられた生活環境の中に

絶対に小さな慰めなど、見い出さない。


DESIGNEST.


 時を同じくして

 鎧を来た女性たちが闇夜の中、集合場所へと走り始める。


境遇に、運命に、喜びを見出さなかった少女たち。

 刀を持ち、腰に鞘を装着する。


自らの存在に、救いなど見つけなかった、少女たち。

安易な救いなど、完全に拒否した少女たち。

心底、嫌になるまで、環境を呪う。

そして、逆に、労働に従事する。没頭した。徹底的に。懸命に。

自らを痛めつけるために。縛りつけるために。懸命に。

心底、うんざりするまで。

でないと自分たちは飼いならされてしまうだろう。

本当の意味で。

教えは何世代にもわたって伝承する。

いつか、連鎖は止まる時が必ずくる。

いつになるのかはわからない。

今始めることで、安易に救いを見い出そうとしない遺伝子が

次々と輪廻していく。

始まりはそうだった。

止めなくては、ならないのだ。

救いを見いだせなかった、少女たちが

複数

集団で

出現する

そのときの、ために。


 少女たちは初めて出会った。

 心はすぐに通じ合う。

 彼女たちは、猛スピードで街を駆け抜けていく。

 体力と身体能力はすさまじかった。

 二人の女性を筆頭に、彼女たちは、全速力で闇夜を駆け抜けていく。

 戦士たちは、王の暮らす宮殿へとやってくる。

 宮殿のその奥には、ピラミッドの輪郭が、うっすらと浮き上がっている。

 彼女たちは、ピラミッドに用はない。

 あっというまに、建物の中へと突き進んでいく。

 門番たちから槍を奪い

 自らの武器へと変えていく。


敵は、あきらめや、無力感だった。

敵を倒すためには、喜びを捨てることから始まる。

心底うんざりすること。

もうたくさんだという、その境地にまで、到達すること。

与えられた単純労働を

徹底的に極めること。

自らの、透明な貶め。

無力の闇に捕らえられてしまう、その前に。


 そして、宮殿の中の大広間へと、到達する。

 そこには、彼女たちとよく似た少女たちが現れる。

 王の部屋を守る女たちだった。

 処女だけを集めた精鋭部隊。


安易な慰めを拒否する女たち。

寂しさはけっして誤魔化さない。

安易な快楽など消え去ってしまえ。


 彼女たちは、向かい合う。

 対決だった。

 殺し合い。

 殺し合うのだろうか。

 攻める少女たちの、初めての戸惑い。

 経験する、初めての迷い。


DESIGNEST.

この地に上陸。


DESIGNEST

a murderous weapon



 フルバージョンのCFは終わる。

 会場に、Lムワの姿はない。

 試写会の後、Lムワ邸で、パーティが行われるということだ。

 北川裕美とも、顔を合わせることになる。いったいどんな顔で姿を見せたらいいのか。

 北川裕美の裸を堪能し、凌辱にも似た行為をしながら、写真に次々とおさめていったシカンは、その日以来、北川邸を避け続けた。

 しかし、この日は避けられなかった。Lムワとも、挨拶くらいは交わさないといけなかった。

「ブランドの方には、すごく、気に入ってもらえたようです。個人的にお話がしたいと、あちらの、井崎様という方が、お呼びになっておられます。廊下で待ってるそうです」

「わかった。すぐに行く」

 シカンは会場を出て、照明の落ちた、薄気味の悪い廊下へと出た。

「指原さん。こっちです。すみません。お呼びたてしてしまって。大変、いい仕事をなさりました。たいしたものです。ところで指原さん。Lムワ先生という方と、共同制作をなされたそうで」

 シカンはぎくりとした。

 表向きには、Lムワのことは、公表してなかった。途中、物別れに終わってしまってい

た。

 今回、二人で二度ほど、打ち合わせをしたことは、誰にも知らせてなかった。

「Lムワさんって方にも、興味が湧きました。その、一つ、紹介していただけないでしょうか。これを、機会に」

「あなたは?」

「僕ですか?ブランドの仕掛け人です」

「なるほど。そういうことですか。それなら、直接申し込めばいいでしょう」

「いろいろと、複雑な事情があるのです、指原さん。あなたを通してもらうと、事はスムーズに運ぶと思うので、お願いしているんです。事情を察してもらえませんか」

 シカンは、このおかしな事態を深く考えたくなかったので、単純に了解してしまった。

 このことを媒介にして、Lムワと顔を突き合わせればいいという、姑息な考えもあった。

 あいだに緩衝材を入れたかった。


 その後、パーティでは、Lムワとは会わず、北川裕美とは顔はあわせたものの、この前の写真の件については、まったく触れなかった。

 お互い、素知らぬ顔だった。二人で激しく抱き合ったことも一切しゃべらなかった。

 パーティには出演した女性たちも参加していた。主演の二人を中心に。

 雲中万理と沙羅舞。カメラに囲まれ、二人はポーズを撮りまくっていた。こうして見ていると、二人は本当に仲のよい、親友のように見えてきた。大学の学園祭の、ミスコンに友達同士で出場して、グランプリと準グランプリを獲得したかのような。二人の個性は対照的だった。

 健康的でセクシーで、どこか冷たく退廃的な雲中の横には、小柄で、気性の激しい、でもどこか、本当は真の優しさがあるような、そんな黒髪の沙羅舞がいた。

 シカンは初めて、二人に会ったときのことを思い出していた。

「二人は親友のようだね」

 シカンは、撮影の内容を伝えたあとで、二人に言った。

「そう言われても、まったく違和感はないです」

 沙羅舞は即答した。

「ねっ?そうよね?まりっさちゃん」

「なによ」雲中万理は、沙羅舞の顔を見つめた。

「いいじゃないの。ウンジュウさん何て呼べないわ。まりっさちゃんでいいでしょ」

「じゃあ、まいちゃんで」

「ほら、ね。つまんない。この子。もっと、何か変化をつけなさいよ。変化を。もうっ」

「じゃあ、サラちゃんで」

「もう、何でも、いいし」

「二人は、本当に、この前のオーディションで初めて会ったんだよね?なぜあんなにも、ずっと二人で話をしてたの?」シカンは訊いた。

「この前って。あの、お屋敷みたいな?なんで、知ってるの?やだ。あれって、見られてたんだ。やらしいー」

 沙羅舞は、大きな身振りで信じられないといった表現をした。

 雲中万理は、ほとんど体を動かすことなしに、やや目じりの下がった大きな目で、沙羅舞とシカンの眼を、交互に覗き込んだ。

「やだ。わたし。わたしだけが、しゃべりまくってた。でも、そう。まりっさちゃんじゃなければ、あんなに話さなかった。他の子たちには、まったく親近感がわかなかったから。それはそうよ。この子には、こう、何か強烈に惹きつけられるものがあったみみしちから。私とは全然違う。大人っぽいじゃない。ね、その、醒めた、目線。すごいわ。男ならね誰でも惚れるわ。それに、話をよく聞いてくれるの。相槌の打ち方が、とってもチャーミング。わかるでしょ?あなた。自分じゃ、わからないか。危険な香りがする。あなた、本当に人を好きになったことないでしょ。そういうの、よくわからない人なんでしょ。そうよ。きっとそう。神経の回路が、人とずいぶんと違う。こういってはあれだけど、けっこう誰でも好きになっちゃうんじゃないの?でも、それでいて、本当に好きなのかどうかわからず、いつも疑ってる。自分が本当に求めているものがわからない。かわいそう。かわいそうよ、まりっさちゃん。ね。そういうところに、私は惹かれるの。この子、放っておけないの。足元が全然定まってない。男の人もかわいそう。惑わせて惑わせて、それで、どこにも行き着かない。あ、ごめんなさい。私って。その、一人でべらべらと」

 シカンは沙羅舞に向かって微笑んだ。

「いや、いいんだ。君らしくて。ほんとに君たちは相性がよさそうだ」

「ええ、そうなの。わたしが男だったらよかったのよ。そうしたら、まりっさちゃんと付き合って、彼女を守ってあげられたから。うまくいかないものね。今回の撮影をきっかけに、友達にはなれたから、それでよしとしようかな。連絡先を交換したの。今度、一緒に遊ぶの」

 雲中万理はこくりと頷いた。

 その頷き方が、シカンにはとてもかわいく映った。

 その後、シカンは雲中万理を個人的に呼び出した。沙羅舞が一緒だと、彼女は一人でしゃべり続ける。雲中万理にも、もっと話してもらいたかった。

「彼女がいると、君はずっと黙ったままだから」シカンは言った。

「あの、その、わたし、・・本当に、私でいいのでしょうか?」

「どういうこと?」

「わたしが主演ということで、本当に、いいのでしょうか」

「ずいぶんと、自分を謙遜するんだな」

「いえ、そんな・・」

「正直に言うと、君しか、眼に入らなかった」

 雲中万理は、大きな目を潤ませ頷いた。

「自信がないのかな」

「ええ。自信というよりは、自分のことがよくわからなくて。舞ちゃんが言ってたこと、ほとんど当たってるんですよ。すごいですよね、あの子。溌剌としてるし、おもしろいし、頭の回転は速いし。すぐに、人と仲良くできる性格だし。わたし、男性関係も、ただ激しいだけで、全然、内容がないんです。自分で言うのもなんだけど。不感症なんです。誰と寝ても、あまり感じない。いえ、もちろん最高に気持ちはいいですけど。でもやっぱり冷めてる。気持ちはいいんだけど、冷めてる。徹底的に醒めている。誰と寝ても同じ。でもやめられない。すぐに人を好きになっちゃうし。わたし。人肌が好きなんです。でもこんなんだから、当然、女性には嫌われるわね。舞ちゃんって不思議ですよね。こんな私でも、全然いいって言うんですから。飛び込んでくるんですから。だから心配なんです。本当にわたしでいいのかなって。女性のブランドなんでしょう?女性に嫌われる私が、先頭に立つなんて、そんなことが許されるのかなと。舞ちゃん一人の方が、いいんじゃないかと思って・・」

「君も、けっこう、しゃべるんだね」とシカンは言った。「安心した」

「これだけは、言っておかなきゃと思って」

「大丈夫、自信を持っていいから。僕がいいといってるんだ。舞ちゃんだって、君が気に入ってるんだ。舞ちゃんがいるのは心強いだろ?ここで君が降りたら、舞ちゃんはがっかりする。舞ちゃんもきっと降りてしまう。一緒に頑張ってくれないか?こっちのことは、気にしなくていいから。君には関係ないんだ。君が思い悩む問題じゃない。万理ちゃんにはそういうところがある。相手のことを考えすぎる傾向が。そのおかげで自分のことがおろそかになってしまう。すぐに相手の側の裏のことが気に。不感症なのは、きっとそういうことなんだと思うよ。撮影もさ、画面の向こう側にいる女性の目線だとか、そういうことばっかりが、気になっているんだろう?プライベートでは、男性の気持ちの、その奥にある、ネガティブな面ばかりを先どって想像してしまう。ずいぶんと先回りして、今は存在しない感情などを、掬い取ってしまう。ある意味、才能かもしれないね。でも不幸だよ。そんな必要など、どこにもないんだから。そういう意味でも、舞ちゃんとは、正反対だ。だから、いいんだ」

「そう言ってもらえると、はい。うれしいです」

 雲中万理は、よろしくお願いしますと一礼した。こうして最初の面会は終わった。



 酸素はさらに少なくなっているようだった。まるで、街全体が爆撃を受けたかのようだった。瓦礫の山の中を徘徊しているような。

 Gの携帯電話が鳴る。

「Gという方ですか、あなた」

「はいっ?」

「Gという方に、仕事の依頼がしたいのです」

 Gという名前を、何故、相手が知っているのか。

「あなたこそ、誰ですか?」

「建築の依頼です」

 自分以外には、誰も知らないはずだった。

 そのGという名前は、勝手に付けた名前だった。

「建築ですか?」

 独り言のようにGは呟く。

「そうです」

「僕は、建築に関する仕事は、していません」

「あなたは、建築家でしょう?違いますか?」

「何かの間違いです」

 電話は切れた。そして、再び着信音が鳴る。

「やっぱり、あなたはGさんです。この番号に何度かけても、あなたが出てしまう。それに、あなたの最初の対応。間違い電話に対する反応では、全然なかった。けれども、やはり、戸惑っているのも事実ですね。つまりは、あなたは、Gという名前ではあるが、建築家ではない」

「なぜ、建築の依頼など、するのです?」

「あなたは、建築家ではない。それで結構。私は、建築家ではない人間に、建築のお願いがしたいのだから。建築家であっては、やはりいけないのです。今度の件は」

「さっぱりわけがわからない。切りますよ」

「あなたはどうして、Gであることを言い当てられたのか。不思議に思ってる。だから、受話器を放そうとしない。たしかに気味が悪いでしょうね。このまま途切れてしまったら、余計に。あなたは、自分からは切りません。最初に要件を言ってしまいましょう。三千万円です」

「はい?」

「報酬は、三千万円です」

「三千万ですか?」

「驚きませんね」

「額だけを聞いて、驚く人なんて、いますか?」

「みんな、驚きますよ。でも、あなたの対応は、実にそっけない」

「現実味がないんです。目の前に、札束を見せられたわけでもないから。それに、建築家でない人間に、建築の依頼だなんて。・・・馬鹿馬鹿しい」

「話の内容は、むちゃくちゃでしょう。でも、我々は、あなたがGだということを知っている。あなた以外は、誰も知らない事実です」

 Gは答えなかった。無言の時間が過ぎていった。

「ねえ、Gさん。我々が、何者なのか。会って話はできませんか?そのほうが、すっきりとする。あなたがいる場所は、GPSでわかりますから。すぐに向かいます。今あなたは、動けないはずです。足の方は大丈夫ですか?ひどい火傷をしているようです。どうしてそこまで知っているのか。すぐ傍にいるんじゃないか。よく見まわしてください。こんな煙の中では、正確な情報なんて、わかるわけがありません。あなたと話をしている、その話し方から、我々は、あなたの現状を、推測してるだけなんです。ただ、それだけです。通常よりも息が荒い。空気が相当悪い。酸素が少ないはずです。足音は聞こえない。あなたの声以外に。周りの音はまるで変化しない。つまり、あなたは煙にまかれているということだ。身動きがとれなくなってしまった。足を負傷している可能性がある。煙、負傷、とくれば、当然、火事だ。おそらく、出火元からは、遠く離れたところにいる。そんなところです。今すぐに行きます。救助もします。話しましょう。Gさん」

「内容は明かさずに、値段だけの提示ですか」

「犯罪ではありません」

「体の酷使とか、命を張るとか、そういうことか」

「そういう結論に、なりますね」

「御免だよ」

「そうでしょうか」

「当たり前だ」

「そのまま放っておくと、あなたは、どうなってしまうでしょう。実にもったいない。そんな死に方をするなんて・・。別に、我々の心は何も痛みません。あるとすれば、ほんの少しの後悔。実に、もったいない!ただのそれだけ。しかし、それも別に、あなた以外の人間を探せば、それで事足ります。それでも、この特殊な能力に関しては・・・そうは・・」

「えっ?なに?」

「おおっとうっかり、・・口が滑り・・」

「わざと、だな」

「まだ、君が、聞くような段階では」

「僕に、その能力が?それとも、特殊な能力を発揮する、僕以外のものを、僕に持たせるとか、埋め込むとか。そういうことなの?それだけは、今、知っておく必要があるぞ。わかりました。それを訊けば、あなたと直接会うことにしましょう」

「まず、あなたには身寄りがない」

「はっ?」

「把握しています。重要なことです。それと今は、恋人がいない。もしいれば、彼女がひどく悲しむことにもなる。そういう女性の姿を、我々も見たくはない。万が一ってことがある。それと、三千万円の報酬。交渉の余地はない。あらかじめ、決まっていることです。厳密な計算のもと、はじき出されている。なので、今、この電話で、了承していただく以外に、方法はありません。それと」

 ここで、電話の声のトーンが一気に変化する。

「耐震構造です」と男は言った。「建物の耐震構造。それが今、一気に、臨界点を超えてしまった。原因はまだわからない。別に、大地が揺れたわけではない。地震が発生したわけでもない。原因は別にある。目に見えない粒子が、震え始めたのかもしれない。電磁波の影響なのかもしれない。とにかく、検知することができない。しかし、現実に、建物はこうやって、次々と倒壊していっている。噴煙を上げて、火災を引き起こしている。瓦礫は散乱し、人々はみな避難を開始した。君は逃げ遅れた。いや、君だけじゃない。逃げる場所なんて、どこにもないのだから」

「どこに、いる?おたくは、無傷なの?ずいぶんと、安全な所にいるようだ。背後は、実に静かですよ。白い壁のみに囲まれた研究所のようだ。あらかじめ避難しているんだろう。何もかもが、把握ずみってことか。くそっ。この状況と、おたくらとは、何か、因果関係があるんじゃないのか?あるいは、おたくらが、引き起こしたんじゃないのか?」

「それは、違う。断じて違います。人為的な事故ではありません。かなり強度な建物ばかりだ。耐震基準は、ここ十年で、いっそう厳しくなっている。たとえ、我々が、爆弾を仕掛けたとしても、倒すなんてことは、ほとんど不可能だ。それが、いとも簡単に。なあ、我々の本心は焦っているのだよ。確かに、今は、安全な場所にはいるかもしれない。君たちよりは、何かが見えていたこと。それもまったく否定はしない。けれど、これをあらかじめ世間に公表していたとしても、まったく相手にはされなかったはずだ。科学的な根拠は何も示せない。説得力なんて、まるでない。逆に、公安当局に目をつけられただけだ。それに回避できる手段を、まったく持ちあわせてはいない。それなら、我々だけでいい。一時的に逃げる準備を、ずっとしていた。そして、予測は当たった。我々だって、いずれは、君たちと同じような状態になってしまう。時間の問題だ。それまでに、何らかの手を打たなければならない。それで、白羽の矢がたった、一人。それが君だ。我々はこうして手分けをして交渉している。この時代、この時間、この土地の上に、我々は建物を建てた。今日、この瞬間までに、建てられたもののことを言っている。その環境的条件は、今この瞬間までは、確かに非常に有効ではあった。それがあっけなく、無効になってしまった。状況は急変したのだ。環境は急変したのだ。地面の状態だけが変化したわけじゃない。地面から上の空間。気圧や風圧のことじゃない。それ以外の、何らかの作用だ。空間の中の何かが、大きく変わってしまった。建物は、同じ静止した状態を保つことが、困難となった」

 電話の男の声は、ここで一度、途切れてしまう。


「あなたがたは、科学の専門家なのでしょうか」

 Gは訊いた。

「研究所の人間に違いない」

 Gは強く主張した。

「協力して、いただけませんかね?」

「人体実験ですよね?」

「そうです」

「しかし、我々が、何か、プログラムを持っているとか、そういうことではありません」

「埋め込むわけじゃないんだな」

「DNAに働きかける」

「働きかけるその手段は、持ってるわけだ」

「いや、それも、怪しい」

「というと?」

「あなたです。あなたがなさる仕事は、あなた自らがデザインなさるのです。あなたのDNAにおける未知なる領域に、自らがアクセスするわけです。我々は何もできない。本当のところは。応援することしか」

「どういった、応援なのでしょうか。まさか、金だなんて言うんじゃないでしょうね」

 Gは笑った。冗談を言ったつもりだった。

 しかし、返ってきた答えは、まさにそのとおりだった。

「それと引き換えに、あなたが差し出すものはといえば、あなたという存在そのものです。おわかりですか?あなたの存在を、あなた自身が買うんです。その金額が三千万円」

「ちょっと、よくわからないな。命をたったの三千万円で?」

「まさか、そんなことはない。命そのものじゃなくて、あなたそのものをです」

「同じこと、でしょ」

「全然、違いますよ」

 Gはため息をつく。

「命はそのままあり続けます。ただし、縮めるんです。それも極端に。圧縮するという言い方で、たぶん間違いない。そのプレスする機械を、我々は持っている。機械という言い方もよくない。実体としての現物を、ハイってお見せすることは、できないですからね」

「何の話を、してるんだか」

「圧縮することと交換に、あなたには三千万が入ることになる。ただし、これは、こっちの計算における支払いであって、あなたにとっては、まるで意味のない数字だ。本当は金など手にしてなくても、あなたはいいのですよ。ただし、これも今現状における文明に、照らし合わせてるだけのことだ。お金の支払いという、結果を提示したほうが、話が滞りなく進むと思って。それよりも肝心なことは、残りの命を圧縮するということです」

「そこの意味が、まるでわからない」

 Gは頭を抱える。

「意味なんて、ないですよ」

「それは、残りの人生が、例えば五十年あるとすれば、それを、一年に圧縮するという感じですか?」

「時間は、関係ないんですよ」

「なんなんだ、一体!怒らせたいのか?えっ?さっきから聞いてれば、べらべらべらべらと、アホみたいな話を。ふざけるのもいい加減にしろよ!」

「残念ながら、ふざけてないんです」あまりに冷静な声が響き渡る。

「あなたは建築家です。その事実は変わらない。そして、その工法は、我々が伝授するわけではない。押し付けるわけにもいかない。あなた自身が、掴んでいるということです。そのすでに掴んでいることを、実際に、この空間で発揮してくれと、そう言ってるだけなんですよ。そのためには、命を圧縮しなければならない。その絶対的な条件について、あなたに伝えているだけです。あなたが三千万を受け取り、命を圧縮したときに自然とわかるものなのです。ただ見つけるものなのです。あなたは認識することすらないのかもしれない。あなたの知らないところで、あなたを媒介にして、あなたの工法は、現実化するのかもしれない」

「それで、僕は、今、どこに行けばいいの?ここで待っていれば、救助してくれるんですか?」

「さっきまではね」と男は意味深なことを言う。

「なんだかんだいっても、まだ時間に縛られている世界ですからね、我々は。今はとても、不安定な状況です。その狭間に立たされている。しかし世界中が、あなたの置かれている状況ではないんです。地震と同じで。規模はさておき、実に局地的な現象なんです。時間と時間のプレートが、押し合いへし合い、反発しあったり、ズレるのだから。そのズレた裂け目にいた人間。それがあなたのような現実を、目にしてしまう。体感してしまう。時間のジに震えるで、『時震』という漢字で表していいと思います。しかし長いこと話をしているその間にも、あなたの置かれた状況は、どんどんとひどいものへと変わっていってる。さっきまでのあなたの所になら、救援隊を送ることができたのに。残念だ。しかしもう無理だ。あなたが自力でこちらに来てもらわなくてはならなくなった。あなたとの会話に、だいぶん時間を使ってしまいましたからね。クククク」

 足の脛の火傷は、さらにひどいものになっていった。

 どこで、どんなふうに焼かれたのか。まるでわからない中、感覚はいっこうに取り戻すことができなくなっている。

「足の怪我」とGは言った。

「これは、いったい、どういうことなんだ?最後の質問だ。これ以上、時間を無駄にすることはできない。脱出方法も見つけなくてはならない。答えてくれ!」

 しばらくの沈黙のあとだった。

 電話の向こう側の背後で、落雷のような巨大な音がした。通信は途絶えてしまった。

「くそっ」

 Gは握りしめたこぶしで、左の太ももをおもいきり殴った。痛みが走った。

 まさかとは思ったが、Gはすかさず右の太ももにも、一撃を加えた。痛みは走る。爛れ始めた膝から、下にも触れてみる。触覚は生きていた。立ち上がる。ほんのわずかだったが、足首にも感覚は戻っている。焼けるような痛みが、体の内側から、脛の表面を攻撃し始めている。足はなんとか使えた。Gは再び空を仰ぎ見た。白い煙は黒い雲へと立ち上っている。その隙間から見えるわずかな空は、紫色に染まっている。着信履歴はすでに消えている。

 Gは脱出方法を自ら見つけ出さなければならなかった。



 結局、脱出することに際しては、どこかに出口があるとか、そういうことではなさそうだ。

 けれど、閉じ込められていることには、変わりがない。地盤のプレートがぶつかりあってズレているのならば、崩壊した瓦礫が散在するその場所から、抜け出る必要がある。

 しかし、この瓦解は違った。あの電話の男が言うように、これは地面の話ではないのだ。

 地面はむしろ正常だ。ということは、地震による災害とはまるで異なる。その考え方は、まったく通用しない。空間そのものがズレているのだ。どこに移動しても、それは変わらない。いや、でも、あの男は言っていた。世界中でズレたわけではないと。あくまで局地的だったと。

 その裂け目が、たまたまココだった。ここがその一つだった。

 局地的というのは、どれほどの範囲のことなのか。闇雲に移動するには、足元がまだ定まっていない。実に心許ない。不安定だった。脛の火傷の跡は、消えていない。感覚は戻ってきているが、激しい動きには、到底耐えられそうにない。

 よく考えろ、とGは自分に言い聞かせる。

 さっきの電話の会話の中に、何かヒントはなかっただろうか。そうだ。

 地震は大きな揺れのあとで、しばらくのあいだ余震が続く。

 Gの認識する時間の感覚が、最初に大きく揺さぶられた瞬間、それはあの最初のビルの崩壊だ。その周辺は、次々と時間の差をもって、崩壊してしまった。あれがつまりは、余震なのか?

 Gは辺りを見る。高い建物はあらかた姿を消している。揺れは微量になっているのだろう。異なる時間の層がぶつかりあったことで、あらたに出現した、時間の層の中に、今はきっと取り残されているのだ。その時間も、いずれは消滅する。異なる時間の層は、それぞれ、最初にあった場所へと必ず戻る。潮が引くように。そうか。そのときか。そのとき、脱出するチャンスが生まれるのか。

 Gは神経を研ぎ澄ませた。これを逃せばいったいどうなるのだろう。

 そういえば、人の姿をまったく見てなかった。

 自分だけが、異次元の世界に紛れ込んでしまったかのようだ。気味が悪い。

 とにかくわずかな変調をとらえることが大事だ。噴煙は次第におさまってきている。視界は開け始めている。サイレンは何も聞こえない。防護服を着た人間の姿もない。ヘリコプターの姿もない。あまりに静寂すぎる・・。

 とりあえず、跡地に戻ろう。跡地を目指そうとGは思った。

 自分が建築に関わった、あの建物があった場所に、まずは居ることから始まる。一般オープンを前にして、あのビルは早々と瓦解してしまった。一度も中に入ったことがなかった。

 視界を取り戻していくうちに、Gはその街の姿に驚きを隠せなかった。それは、瓦解が起こる前の、自分が知っている光景に、限りなく近かったからだ。

 何事もなかったかのように、ほとんど同じ世界がそこにはあった。

 Gは目を疑った。本当に悪い夢を見ていたのかもしれない。

 だとしたら、一体いつからだろう。どこから、ズレてしまったのだろう。これなら、迷うはずもなかった。

 自分がいた、仮りの住まいも、三か月の間に、建築に関わったそのビルの跡地も、簡単に見つけられることだろう。



 何の苦もなく、Gは元の仮住まいの家屋に戻った。

 街はいつもの風景だった。がしかし、車が一台も走っていない。

 一度だけ踏切を渡ったが、遮断機が下りてくる気配はない。電車も止まっている。人はまばらにはいる。部屋の中は特に変わった様子はない。ものが倒れている様子もない。何かがなくなっていることもない。テレビをつける。災害情報を伝えている様子もない。緊急の情報が、テロップに出る様子もない。

 脛を見る。しかし、火傷のような跡は綺麗に消えている。時刻を確認しようとした。部屋の目覚まし時計は止まっている。携帯の時刻表示はリセットされていた。設定前の10時40分を示している。テレビ番組の内容からは、時間を推測することはできない。表示もない。外の様子からすると、もうすぐ夕刻のときだというのがわかる。

 Gは厚手のダウンを着こんで、散歩に出る。

 更地になっているはずの土地を目指した。

 しかし、高層ビルは、そこに何事もなかったかのように建っている。

 別の高層ビル群の方が、跡形もなく消えていた。本当に消えていたのだ。瓦礫など、どこにもなかった。その一帯が、火災を起こした様子もない。最初に瓦解したはずのビルだけが、そこにはある。わけがわからなかった。その一つだけが、不気味に聳え立っている。

 陽が急速に落ち始める。街には明かり一つ灯らない。そのビルは、この世の中心に聳え立っているかのような風貌で、街全体を睥睨している。

 辺りが暗くなればなるほど、ビルは光輝き始める。すでに、充電していた電気機器しか、手元にはない。何故、あのビルにだけ、電気が通っているのだろう。自家発電装置が内臓されているのだろう。しかし、内部で照明がつけられているような光ではない。外壁そのものが光っているような、もっというと、どこかからやってくる光を、反射させているだけのような感じがする。そうだ。月光にそっくりだと、Gは思った。あの淡くて、穏やかな輝き。そっくりだった。近づいていくにつれて、その思いを強くしていった。そう思えば思うほど、さっき見た防護服の人間たちもまた、月面に降り立った宇宙飛行士のように見えてくる。

 月のビルの入り口を探しているのだ。

 もうすでに、何周したことだろう。その円柱の建物に問いかけるように、Gは見上げている。すると、その答えが返ってきたかのように、ビルが円柱ではないことに、Gは気づく。

 一瞬、目を疑う。表面は平らではない。

 模様か何かが描かれているような。光り輝きだしたソフトアイスクリームのように。

 斜めにぐるぐるとトグロを巻いたような螺旋型の光の束。建物を幾重にも取り囲んでいる。よく見ると、土星の輪っかのような細粒子が集まっていて、半透明感がある。

 Gの眼には黄色く映る。その螺旋が多方向へと、走って重なりあい、また別の螺旋形を描く線へと移行している。鉄筋の素材感は、まるで感じられない、不思議な立体物だ。

 そう思ったとき、この立体物の地面と接触している最も低い地点。どこでもよかったが、とにかく、中に進めばいいのだと、Gは悟った。全部が、入り口なのだとGは感じとった。

 黄色い光の粒子の束の中に、この身を放りなげればよいのだと、思った。


 自分の肉体が、光の束と接触するその瞬間が訪れる。目の前は、暗闇に包まれる。

 皮膚は気圧が変わったことをすぐに察知する。体感温度がほんの少しだけ下がったことがわかる。だが、すぐに上昇する。暗闇は消えたが、視界はまだぼやけたままだ。慣れるまでには、たいぶん時間がかかる。視界は、その焦点を最後に合わせるはずだった。Gは自分の肉体が、この粒子と同じ振動数になるまで、いつまでも待つつもりだった。何が見えるのか。Gには予感があった。同じ街がそこにあるというのは、一度で終わりだ。それだって同じ光景に見えただけで、実態はまったく違っていたはずなのだ。無意識には気づいていたことだ。だが今度は視界の方にも、その変更は及んでくることだろう。その新しい視界が、立ち上がってくるまでのあいだ、静かに心を落ち着けることにする。

 霧の中にいるようだった。白い靄のかかった広大な空間だった。横にただただ広がっていた。意外にも天井知らずではなかった。Gは佇んでいた。

 だがそのずっと遥か先に、真っ白なソファーのようなものが、一つだけ置かれていることに気づく。白っぽいスーツを着た男が座っているのが見えた。Gは近づいた。男は鏡のレンズでできた眼鏡をかけていた。髪は白髪だった。細見だったが、がっしりとした肩幅を持った中年の男だった。足を組んでいて煙草を吸っている。

 男の向かいには椅子はなかった。Gは、男を見下ろす恰好になった。

「まあ、座れ、と言いたいところだが、すまない。ここには何もなくて」

 電話の男の声と同じだった。

「あなたですか」

「本当にすまない。何も、もてなすことができなくて。それも、君の前の建築家が、いけないんだ。こんなにも、何もない空間にしてしまったのだからな。ククク。前任の男の失敗がね」

「Fという男ですか?」

「よく、知ってるね」

「ニュースで見ました」

「へぇぇ、そうなんだ。報道されてたんだ」

「すぐに、消えてしまいましたが」

「だろうな」

「Fのことを、知ってるんですか?」

「知ってるも何も・・・」

 男は、煙草を吸いながら話を続けた。「よく、知ってるさ」

「あなたが依頼したんでしょ?またもや、その非合法で。違法建築なんでしょ?それで、Fという人は今どこに?」

「いなくなったよ。当然だ。失敗を犯したんだから。もうこの街では、生きていくことはできない」

「死んだんですか?」

「俺が殺したとでも?」

「それに、近いことは」

「おいおい。ずいぶんと、聞きが悪いな。それはあんまりだよ、Gくん。後任者の、Gくん。クククク」

 男はここで初めて、煙草の吸殻を地面に投げ捨てた。吸殻は床には落ちなかった。足元で消えてしまった。

「場所と本人が、適合しなかったという不運はあった。Fのことだ。彼はどうもエジプトの方の人間だったようだ。それに、時期が少しだけ尚早だった。まあ、俺には、わかっていたことだが。失敗するとわかっていて、それでやらせた。ひどい話だろ。必要性があったんだ。俺にとってね。いいサンプルが欲しかった。実験台だ、あの男は。その実験台としては十分すぎた。あらゆる苦難に耐えることのできる男だった。大物だった。強いハートを持っていた。そう、むかむかとした表情をするなよ、G。何も君まで実験台にするつもりはない。こういっては失礼かもしれないが、君は、実験台にできるような、それに値するような器では全然ない!失敗が前提で、自分以外のものに、つまりは、天にその全存在を預け渡すなんていう、芸当。とてもじゃないが、君にはできない。Fという男と、君をもちろん比較したりはしないさ。ただ事実は事実として、伝えてもかまわないだろう。とにかく君を、失敗のイケニエにするつもりはない。わかったな」

「Fは、どうした?」

「ずいぶんと、Fのことが気になるようだな。ククク」

「その笑いは、やめろ」Gは男を見下ろし続けていた。

「あんたが、その、Fっていうことはないのか?」

 そんな言葉が、突然、Gの口をついて出てきおた。

「残念だな。それはない。僕に、Fほどの器量があるのなら、こんなところにはいない。ククク。やはり、君と僕とは、同じムジナの人間だね。凡人なんだ。しかしその凡人が、今は必要だ。いや、正確にいうと、凡人にちょっとした、特別な機能を肉付けした、そんな人間がね。Fとは違う種類の人間。心から欲しいね」

「それも、りっぱな、実験台じゃないか」

「そうじゃない。これは失敗を前提とした試みではない。何度言ったらわかるんだ?成功するのだから。どっちに転ぶかわからない、そんな実験ではない」

「俺を、成功者にさせたいのか?」

「そうだよ」

「なるほどね」

「納得したか?」

「するわけがない」Gは怒気を放った。

「しかし、その最後の言葉は、気にいった」

「だと思ったよ。君は凡人だからね。ククク」

「名前は?そろそろ、名乗ったらどうだ?」

「そうだな。もったいぶっていても、仕方がない。井崎だ。よろしく。いずれ、君の商売を影で支える男になるはずだ。君が成功者として、この世に存在するときにまた会う。お互いを必要とするときがくる。そのとき、組もう。組むしかない状況がくるから。もうこれは、決められたことなんだ。僕が望もうとも、君が拒絶しようとも。とりあえずは、君の口座に、三千万を振り込んでおいた。それは約束だ。あの仮住まいの家に帰ってから、確認してくれ。もう引っ越すことになるだろうが。じゃあ、俺は、これで。これ以上は、今、お互いを必要としていないから。僕のほうは、いつだって準備は万全だがね。君のほうに・・、クククク。わかるだろ?」

 井崎は、Gの非力さを挑発しているようだったが、特に悪意は感じられなく、不思議と不快な気持ちにもならなかった。

「こんな場所に、何故、連れてきた?」Gは呟いた。

「えっ、なに?なんだって?連れてきた?違う。違うさ。君が自分の意思で来たのさ。僕と会うべきタイミングだった。それを察知した僕が、場所をセッティングした。急ごしらえだった。でもちょうどよかったよ。あの男が失敗したその場所が、空白の地帯になったままだったからね。それも、そう、遠くはないところにあった。用意は実に簡単だった。なんという因果だ。なあ、覚えてるか?あの凝縮の話」

「何か、言ってたな」

「時間を縮めるって話だ。極めて、高濃度で圧縮した瞬間には、一体何が起こると思う?縮めて縮めて、縮めて縮めて、それでその先には、そう、崩壊だよ!Gくん!」

「崩壊?」

「そうやって、あのFは崩壊したんだよ。死んだとはいわない。おそらく、生き延びたはずだ。そう簡単にくたばるような男じゃない。いずれは現れる。必ず。僕らの前にも現れる。僕の知ってる姿じゃないだろう。名前も違うだろう。でも、僕にはすぐにわかる。そして君にもわかる。圧倒的な存在感を放って、僕らの前に登場する。誰の助けも借りずに、ただ己の力だけで。あいつは、のし上がってくる。そういう意味もある。あいつを奈落の底に叩き落とした意味。嵌めたんだ。あいつには、落ちてもらわないといけない。そのあいだに、僕と君とは、この地上で、意味のある仕事を成し遂げなくちゃいけない。そして、彼にあい対するときまでに、あいつとは違う力で、対抗できるような状況を作り上げておかないといけない。さあ、もういいだろ。このくらいにしよう。僕は行くよ。あとは君次第だ。好きに使ってくれていい。仮につくった空間だ。ときが経てば、風化する。あとはあのボロボロの家にでも帰ってくれ。もっとも、あそこでは、何か特別な力を得ることはできないだろうがね。クククク。得るチャンスがあるとしたら、もちろん、ここ。この場所しかない。せいぜい、頑張ってくれ。じゃあ、元気で。そのときが来たら、また」

 薄ぼんやりとした部屋の輪郭の一部に、男はすっと吸い込まれるように進んでいった。

 そして、すり抜けるようにしていなくなった。



 翌日、太陽が東の空から登ってきたとき、その光と共にビルは消滅した。

 建物の輪郭はなくなっていた。Gは空地に一人で立っていた。

 世界は再び変わっていた。電車も車も動いていた。日常生活は戻っていた。駅へと向かうたくさんの人の姿があった。

 自宅へ帰る前に、Gは銀行のAТМに寄って残高を確認してみた。三千万は、確かに入金されていた。振り込んだ人間の名が記されていた。井崎産業と書かれていた。

 Gは、この三千万が、自分の借金の残高のように思えてきた。これから新しい仕事を生み出すことで、この三千万をとりあえずは、ゼロに戻す必要があるように思えてきた。

 自宅の留守番電話が、点滅していることに気づく。

 四十件もの大量のメッセージが入っていた。そのテープを、Gは次々と再生させた。どれもこれも、仕事の依頼だった。建築のオファーが多数舞い込んでいた。井崎に違いないと思った。井崎が、誰か別の人間に働きかけているのだ。井崎に近い人間たちなのだろう。

 だが、そこには、誰もが知っている大手の名前もまた、ちらほらとではあったが、混じっていた。

 大学の研究所からの問い合わせもあった。

 映画制作の依頼もあれば、ドキュメンタリー番組の密着取材の依頼などもあった。

 クリスタルシティーという、ファッションブランドのデザイナーとしての仕事の依頼もあった。

 この脈絡のないメッセージを、Gは最初悪戯だと思った。無視しようかと思った。

 そのとき、玄関のインターホンが鳴った。

 ドアを開けるとそこには一人の女性が立っていた。

 女は、常盤静香ですと言ったきり、他には何もしゃべらなかった。

 玄関でずっと立っていたので、Gは中に入るように言ったが、すぐに外に出ようと言い直した。

 カフェでお茶をすることになった。何か要件があるのだろう。なるべく一目に付きにくい席をGは選んだ。

「常盤さんは、僕に何の用なのですか?誰かに言われて来たんですよね?」

 常盤静香はずっと黙っていた。

 そして、本当に何も話すことなく、一時間が過ぎてしまった。

「あの、何か、おっしゃっていただかないと、本当に困ります。どういうことなのでしょう」

 カフェの窓からは、偶然あのビルの跡地がよく見えた。

 常盤静香はずっと、その跡地を眺めていた。

 Gのほうを少しも見ようとしなかった。

「あの場所に、あなたは何か、関係があるようですね。そうなんですね。本当に何もないんですか?もう、帰りますよ。要件があるのなら、伝えてください」

 常盤静香は首を横に振った。場は仕方なく解散となった。

「送りましょうか」とGは言った。まだ昼の二時であった。

 常盤は首を再び横に振り、丁寧にお辞儀をすると、そのままGの家の方向とは逆に、歩きだしてしまった。

 何なんだと、Gは心の中で毒つきながらも、彼女とは以前どこかで会ったような気がしてならなかった。

 Gは跡地の周りの道路を、ぐるぐると周っていた。ふと、ビルが丸ごとなくなった街を体で感じていると、妙な記憶が蘇ってくるのがわかった。ピラミッドだった。ビルの代わりに、そこにはピラミッドが建っているのだ。街は廃墟になっていて、ピラミッドだけが生き残っていた。この街とは、まるで逆じゃないかと思った。ここでは、高層ビルだけが忽然と姿を消した。街そのものは無償だった。あの都市は違った。荒れ果てた世界に、ピラミッドだけが残された。破壊されることを免れていた。

「置いていかないで」常盤静香は言った。

 Gは振り返ったが、彼女の姿はなかった。気のせいだった。

「あなたは私を見捨てたのよ。あなたがマヤに行ったとき。あのとき、あなたは私を捨てたの。マヤに暦を学ぶために、あなたは派遣されたと思いこんでいた。けれど、私は、知っていた。あなたは排除されたのだということを。テオティワカンから、排除されたのだということを。文明の方向性と、あなたの考え方は、まるで異なっていたから。そう。あなたは、より、原始的な世界の方を望んでいた。高度なテクノロジーを、より原始的な人間のあり方に、生かしていくべきだと考えていた。けれども、テオティワカンはそうではなかった。テクノロジーはテクノロジーだった。それは、生活を裕福にすること、便利にすること、快楽を追及することのみに、特化していった。あなたは邪魔者だった。権力構造から、あなたを外したかった。あなたがマヤに興味を持っていたことをいいことに、あなたをテオティワカンの中枢から遠ざけた。私は知っていた。でも、ずっと、監視されていた。あなたに、何とか伝えたかった。でもそれは不可能だった。私は後悔している。でも、あなたは、あまりに無神経だった。何も気づかなかった。私を見捨てた。あなたがいなくなってから、テオティワカンはさらに荒れ始めた。欲望が暴力となって、街に吹き荒れ始めた。結局、テクノロジーに対して、人間の精神世界はうまく育たなかった。時間が経つにつれて、どんどんと、アンバランスになっていってしまった。豊かさや便利さや快楽を享受することで、人間の心の中は、まるで救われなかった。余計に苦しくなっていった。心の奥底では、むなしさでいっぱいになっていった。そうなればなるほど、快楽を狂ったように、貪るようにもなっていった。みんな、もう、おかしくなっていった。私だってそう。でもなんとか、冷静さは保っていた。私は逃げる手段、隠れる場所を、密かにつくっておいたから。逃げることはできなかったけど。隠れる場所は、創造できた。

 あなたがいなくなってから、私は、ただ、その場所をつくることだけに、日々の神経を集中させていた。だから狂騒の中でも、一人まともに存在していることができた。そして、わたしは通常では考えられない方法で、その空間を創出できるまでになっていた。都市に火が放たれ、人間が人間を殺しあうようになり、破壊と破滅が、いよいよ連鎖していったときにも、わたしはその空間で、その悲劇を見ていた。あなたが帰ってくる日を待った。けれど、私はね、その空間から、今度は抜け出ることができなくなってしまったの。あなたが来たのはわかった。何度も声をかけた。でも、届かなかった。そしてあなたは、結局、都市からの退場を決めてしまった。もうすでに、誰も残っていないと、判断してしまった。ここで生きていくことはできないと決断したの。私のことも、おそらく死んだのだろうと考えた。私はあなたが去っていく様子まで、この眼ではっきりと見てしまっていた」

 常盤静香は、いつのまにか、本当にGの横にいた。

「その、誰もいなくなったテオティワカンに、わたしを迎えにきたのが、あの人だった。私が出られなくなってしまった空間に、何の迷いもなく、まっすぐにやってきた。まるで私がそこにいることを、最初から知っていたかのように。私の手を引いて、焼け焦げた匂いのまだ残る街の中を歩いていった。街を出た後、わたしは、彼と共に生活をするようになった。彼の秘書として働くようになった。料理を作るのも、私の仕事だった。掃除や、洗濯も、すべてやるようになった。彼の一日のスケージュルを、組み立てることも、手伝うようになった。彼が外に出るとき、交通の手配をするのも、私の仕事だった。宿泊所の手配も、私がした。彼は、普段、私にあまり話しかけないんだけど、私にはその優しさが、ちゃんと伝わってくる。それでいいの。夜は、彼の温もりを、肌で感じられるわけだし、だから昼間は、ただの秘書として、彼を仕事に専念させることが、私の役割。それでいいの。私がこうやって生きていけるのも、彼のおかげなの」

 彼女がこんなにもしゃべることに、Gは驚いていた。いったい、何をしに戻って来たのだろう。本当は何の用なのだろう。

「あの人って、誰なんですかね?」

 Gは、沈黙を嫌がっている自分を発見してしまう。

「あの人って、井崎のことなんでしょ?そうか、やっぱり、そうなんだな。その秘書さんなんだ、あなたは。いったい何の用なのですか?井崎さんが直接来ないで、女性を遣わすなんて。忙しいんですね。あなたは、何を託されたんです?僕に伝言?受けいれますよ。さあどうぞ」

「わたしを、どうしてくれるのですか?」

「えっ」

「わたしを受け取ってくれるのですか、くれないのですか?あなたに、その覚悟があるのですか、ないのですか。私は、平穏で退屈な人間です。本来は。けれどあの人はそうじゃない。でも、私を選んだ。きっと、私といるときだけは、普通でいたいんだと思います。私と二人、普通の生活を送りたいんだと思います。普通なんて言葉、変に思われるでしょうね。普通なんて、変よね、普通だなんて。笑っちゃう。馬鹿みたいね、わたし。でも、あの人と、私は、全然違う。私が秘書として、管理してる仕事は、彼の中ではほんのわずかなことで、表面的なこと。本当の中身のことまでは、わからない。知ることができたとしても、きっと私には理解することができない。だから、首を突っ込むことは、ないんです。その必要はない。あの人だって望んではいないでしょう。あの人がふと心を落ちつけたいときに、私という存在がそこにあればいいのです。私もそれで満足します。あのテオティワカンで震えていた私を、あの人は救い上げてくれたのですから」

「それで、要件は、何なのですか?伝言を頼まれているんでしょ?」

 Gは、彼女の発言はまるで無視して、先を急いだ。

「違うの!」

「違うって。じゃあ、どうして、僕のところに?」

「あなたは、最近、彼と会いましたよね?わかっています。首を突っ込んでは駄目だって、言い聞かせてはいるんだけど。抑えがきかなくなってきている。ごめんなさい。すぐに帰ります」

「いや、ちょっと、待って。あなたはどうなさりたいんですか?それだけでも、教えて。僕にできることが何かあれば」

「そんな・・そんなことは、できない。ただ、あなたが、どんな仕事を請け負ったのか。それだけが知りたくて。あの人がどんな依頼を、あなたにしたのか。あの人のやってることの、ほんの一部でも知りたくなった。いけない。いけないことよ!私は何もかもを、壊そうとしている。いけないことなの!」

 女は何度も何度も繰り返した。

 それでも、Gから離れようとはしなかった。Gの手を借りたいようだった。

「わかりました。しかし、僕にも、よくはわからないんです。何を依頼されたのかが。どう対処していけばいいのか。僕は何を作り上げていくのか。確かに、きっかけとして、井崎さんとの出会いはありました。けれども、結局のところ、自分の問題なんです。自分で築きあげないといけないことなんです。あなたの力になれなくて、申し訳ありません。でも、何か、心が苦しくなったら、いつでも僕のところに来てください。話の相手くらいには、なれます。聞き役くらいには、いつだって」

「ほんとに?」

「それだけでいいのなら、喜んで。僕もあなたと知り合えて、うれしい。あなたからは、何か大事なことを教えてもらえるかもしれないから」

「勘違いはしないでください」

 彼女の表情が一変した。

「わたしは、あの人との生活のことを、あなたにお話しすることはありませんから。それだけは言っておきます」

「わかってます」

「ほんとに?」

「なんとなく、僕にもわかるんです。あなたの気持ちが。おそらく僕のこれからの仕事に関して、あなたと共有することがあると感じたからです。プライベートなことは、お互い、知る必要はないです。仕事を通じて、あなたとは関わりがあると思った。それはもちろん、井崎の知らない領域でのことです。あなたとは、秘密を共有することになる。そのバランスが、すべての状況を円滑にすると思うんです。うまくは言えないけど。その、何か、感じるものがあるんです。あなたとは。友達にはならない。恋人にもならない。ただの仕事相手でもない。もっと別の繋がりが、あるんじゃないかと。さっきのあなたの話も、本当に興味深かった。いささか、気のふれた内容では、ありましたが、それは、何か、大事なことが、別の言葉で表現されたことなのかもしれない。別の形をとって、僕の目の前に現れたことなのかもしれない。簡単に聞き流すことのできる話ではなかった」



 Gは、常盤静香の部屋にいた。彼女はテレビをつけた。

 Gの部屋にはテレビがなかったので、ビルの連続倒壊のあとでは、初めて、ニュースを見たことになる。報道では、まったく無傷に見える街の様子が映し出されていた。ここが、被害の出ている場所の一つだと、レポーターらしき報道局の人間は、説明していた。手には感知器のようなものを持っている。数値が出てくるのを待っている。そしてカメラに向かって、その数値を連呼し始めたのだ。時間がめちゃめちゃに破壊されています、と彼女は言う。それはアナログの時計だった。ぐるぐると方位磁針のように針が回り始め、そのあとで、三時十分を示した。何度試してみても、三時十分を示した。テレビ画面の左上には、十時十六分と表示されていた。次に、報道の人間はデジタルの時計を取り出した。その表示も、ランダムに数字が切り替わり始め、現された表示は六時十分だった。この場所は、今、六時十分を示していますと彼女は言った。今度はあちらへ行ってみましょう。彼女は全力で駆け出していった。カメラも追った。時計の実験を繰り返した。二回とも七時六分を示した。ここは、今、七時六分のようです。ご覧のように、場所を少し変えるだけで、まったく違う時間を示してしまうんです。大変、混乱しています。人々の混乱のレベルは、まさにピークに達しようとしています。

 常盤静香は、テレビのスイッチを切った。

「何だ、これは!」Gは彼女に訊ねた。

「リアルタイムのニュースよ」

「そういえば、さっきの映像」

 Gはレポーターが移動して、二度目の時間を測ったときに、画面が薄暗くなっていたことを思い出した。

 いる場所を変えただけで、その時刻に合わせて、光の量も大きく変わってしまっているのだろうか。

「ここは、井崎と、住んでいる所なんだろ?」

「違う。でも、あの人と会う場所ではある。わたしたちは別々に住んでいるの。ここは私が一人で住んでいる。あの人が通ってくるの」

「危ないね」

「しばらくは来ないわ。パターンがあるの」

「こんな所で、あの人には会いたくないからな」

 Gは再びテレビをつけようとしたが、彼女に制止された。

「なあ、時間と空間が、そんなにめちゃめちゃになっているのなら、その境目にいるときは、一体どうなるんだ?例えばこう、手首のあたりに、その境目があったときにはさ、指先だけが老化してしまって、腕は若いままってこともあるのか?」

「さあ、どうでしょうね。一瞬、なるんじゃないの?あまりに短くて、気が付かないだろうけど」

「なるほど。なんだか時間の断面に、体が切り刻まれているようだな」

 Gはそう言って笑ったが、常盤静香は表情一つ変えなかった。

「わたしね、働こうと思ってるの。あの人と会ってない時に、一人でいるのは、嫌だから。あの人が、普段仕事をしてるときに、それと釣り合うような事を、私もしていないといけないと思うの。男のひとたちと一緒に働いて、その男たちに負けないような仕事をしていかないといけないと思うの。争って、そして勝ち取っていかないといけないと思うの。そうしないと、あの人とは釣り合わない。二人でいないときの話。二人でいるときはいいの」

「それも、井崎には、内緒でするの?」

「わからない。あとで言うかもしれない。でも、あの人はたぶん無関心だと思う。あの人が気になるのは、私といる時間と空間だけだから。その安らぎにしか、興味はないの。私とは違う。共有したい。すべてを共有したいの。生活のすべてを。人生のすべてを。一緒に歩んでいきたいの。でも、それは、不可能なの。そもそも、私が理解することができないから。それも承知している。なら、そんな人とは、別れてしまえばいい。でもそうはいかない。そうはいかないのよ!こんなこと、誰にも話せないわ。話せたとしても、解決策なんて、何も浮かびやしない!私が働くことでしか、解消はできないの。男と争う仕事を、徹底的にやっていく以外に、方法はないの。この体を酷使しつくしたいの。じゃないと、私は救われない。じゃないと、私は駄目になる。このままじゃいけない。このままじゃいけないのよ!」

 ひどく興奮状態にある彼女を、Gは、ただ横で見ていることしかできなかった。

 彼女はしばらく、頭をうなだれたあとで、突然、洗面所の方に駆け出していき、嗚咽を漏らしながら吐き続けた。



 常盤静香の体の異変が治まるのを待って、Gは彼女に声をかけた。

 彼女は再び、テレビのスイッチをつけてほしいと、Gに頼んだ。

 そのとき、Gの携帯電話が鳴った。

 Gは、常盤静香の顔をちらっと見てから部屋を出て、電話を取った。

「おお、俺だ。井崎だよ。何してた?どこにいる?外か。じゃあ、至急、家に戻ってくれ。テレビをつけるんだ。大事なニュースだ」

「井崎さん。あなたこそ、今はどこに?ニュースを見て、僕はどうすればいいんですか?」

「とにかく、見ればいいんだ」

 Gは電話を切り、常盤のいる居間へと戻った。

「井崎さんからだ。びっくりした」

 居間では交通警察の報道が続いていた。生中継だった。

 緊急出動した彼らが、いったい何をするのか。防護服のようなものを着こんでいた。

 全身が銀色で、ガスマスクのようなものもしている。

 その姿を見たとき、自分が足を痛めて街の中で倒れているときに、Gの側を通っていった、あの特殊部隊の人間たちのことが思い出された。あの情景とそっくりだった。あのときは消防団に見えた。すると、道路の端で倒れている人間が、画面には映った。隊員たちが近づいていく。抱き起そうとする。足の火傷に、彼らはすぐに気がついた。ズボンを剥ぎ取り、消毒の作業へと素早く入った。その迅速な作業に、Gは思わず見入ってしまった。

 交通警察と呼ばれる人間たちの本来の目標物は、別のところにあった。その途中、負傷している若者を見つけ、応急処置をした。その処置をされた男の顔が、画面に映し出された。そのとき、Gは驚きのあまりに膝が崩れそうになった。

 自分だったのだ。

 ほんの一瞬だが、画面に大きく映し出された。常盤の方をちらりと見た。彼女も気づいたはずだ。井崎も気づいたはずだ。まるで映ってはいけない人間が、今、公にさらされてしまったかのような、致命的な証拠として、今後も残り続けていくかのような気味の悪さを、Gは感じてしまった。

 しかしこれは、生中継ではなかった。VТRなのだと、Gは思った。そうだったのか。怪我が、いつのまにか治っていたのは、彼らが処置を施してくれたからだったのだ。記憶は飛んでしまっていたが、今、それをまざまざと見せつけられたかのようだった。

 交通警察が仕事の核心へと向かっていく中、画面はいつのまにかCМになっていた。

「交通警察って、何だろう」

 Gは常盤静香に訊ねた。常盤の反応はなかった。彼女はいまだに、画面にくぎ付けになっていた。

 やはり気づいていたのだ。生中継という画面の表示が、間違っていたのか。それとも、ここに、Gという人間がいるその事実が、間違っているのか。

 常盤の頭の中は、混乱しているようにGには思えた。

「井崎さんからの、電話」とGは言った。

「本当に、ここには、来ないんだよね?なんだか、心配になってきた」

 すると、常盤は急に我に返ったかのように、Gのほうを振り返った。

「そうよ!今日よ。今日じゃないの!何やってるんだろ、わたし。来る。来るわよ!彼は来てしまう。帰って、あなた!はやく!」

 Gは言われるがままに、窓から外に追い出された。鍵もすぐに締められてしまう。マンションの入り口には、すでに黒塗りの車が止まっていた。そこから現れた男は、確かに白いスーツを身にまとった井崎であった。今まさにエレベータに乗ろうとしていた。間一髪だった。ぎりぎり間に合った。彼がエントランスに入ると同時に、Gは意を決して、地面に向かって飛び降りた。着地の仕方がまずかった。衝撃を足首に直接受けてしまった。しばらくは歩けないだろう。道路の縁石に座り、衝撃が治まるのを待った。

 二階の常盤の部屋の電気が消えた。

 Gは、マンションの屋上を見上げていた。

 空はいつのまにか、黒い闇に覆われていた。時刻の感覚が本当に狂っていた。昼だったのが急に夜になっていたり・・・。黒い雲が、横に広がっているように見えた。それは巨大な羽のように左右に広がっていた。その真ん中には体があるような、あまりに大きな鳥のようにGには見えてきた。その羽が、空気を掻き始めているように見えた。

 マンションの屋上から夜空に向かって、今にも飛び出しそうだったのだ。ほんの束の間ではあった。すぐに鳥はマンションの屋上を蹴った。本当に闇の中へと舞い上がっていったのだ。そんな巨大な鳥を見たのは初めてのことだった。



 ガラス張りのホテルの一室で、井崎は街を見下ろしていた。灯りは、ほとんど消えている。電力も燃料も足りなくなっているようだ。

 交通警察は、復旧活動に専念しているはずだった。

 建物の連続崩壊劇は、井崎が辞表を提出してから、わずか数日後のことだった。なんというタイミングだろうと、井崎は思う。まるで俺が、その崩壊劇に、何か手を加えたみたいじゃないかと。長官はどう思っているのだろう。

 交通警察は、ライフラインの復旧までしかできない。物理的に崩壊してしまった瓦礫を取り除いたり、ガスや電気のラインの修復をすることしかできない。

 寸断された道路を、開通させることしかできない。混在してしまった時間の治療まではできない。それは誰にもできない。どう収束していくのかの考えは、井崎にもなかった。我々が手を加えることではなかった。加える必要もないのだと思った。

 一週間、遅くても、十日のあいだ。いや、三週間だ。三週間で、崩壊前の状態とは、別の形態が現れるはずだと思った。断片的な時間のカオスによる混乱は、そこで解消する。

 とりあえずのところは。それによって、より安定した世界が現れるとは限らない。


 ただ、何の脈略もない、文字通り崩壊した世界からは、脱出する。新しい波長、法則が、空間を形成してくる。その片鱗が見えれば、次なる世界の展望が描けてくる。それを発見することができれば、道は築いていくことができる。

 崩壊前と同じ論理で、再び、崩壊したものやシステムを構築していこうとしても、おそらくは通用しない。短いあいだの運用は、もちろん可能だろう。だがそれも息詰まっていく。道は閉塞していく。それでも、いいのだと、強引に構築していこうとすればするほど、また無慈悲な世界の組み換えの波に、あっというまに襲われる。

 自分が、今、世界の変わり目に立ち会っているという実感が、どんどんと増していった。

 俺は何故、高級ホテルの一室で、街を見下ろしているのだろう。

 俺がここに、存在している本当の意味とは、いったい何なのだろう。

 世界に対する使命感があるのだとしたら、それは何なのだろう。

 俺はあらゆる手をつくして、新しい世界に立ち向かおうとしている。

 けれども、それだって、本当のところはわからない。自分が何をしようとしているのか。

 自分で完全に理解できているとは到底思えない。しかし、まったく的外れなことをやってるとも思えない。

 Gは何をやっているのかな?

 Gのことが急になつかしくなってきた。

 Gという人間を、自分は、使おうとしているのではなかった。Gを駒の一つにするつもりはなかった。Gとは対等に付き合う人間同士の一人だった。今のところは、俺が主導権を握った格好ではあったが、それは単に、俺の方が、時代の先を敏感に捉えているだけのことであった。ほんのわずかだけ、先を走っているだけのことだった。

 Gが、本領を発揮する頃までには、俺は、Gとはまったく違う能力で、生き抜いていないといけなかった。俺の方こそが、あいつに打ち負かされるようになる。

 Gは、時代の先なんていう、姑息な世界には生きていないのだ。

 必ずや、時間と空間を超越した力を、自分のものとしていることだろう。



「こないだは、本当に、ごめんなさい」

 翌日、Gは、常盤静香の部屋を再び訪れていた。

「あのあと、井崎は、すぐに帰ってしまった。泊まらなかったの」

「いいんだ。君が悪いわけじゃないから。こんなときだ。日付や時間帯なんて、あったものじゃない。そうだろ?僕も、注意深くなる必要があった。だから、今だって、決して安全なわけじゃない。状況はあっというまに変わってしまう」

「そうね」

「今日は、何の用?」

「わたし、就職が決まったの」

「へええ、そうなんだ。ずいぶんと早いんだな」

「その気になれば、すぐよ」

「面接?試験とかは受けたの?」

「試験も、面接も受けた」

「何の会社?」

「総合商社みたい。食品からエネルギーから、とにかく、ありとあらゆる商品を扱う会社みたい。わりと大きな企業ね」

「優秀なんだな。思ったらすぐに、実現してしまうんだから」

「さあ、どうかしら」

「いつから?」

「九日後ね」

「決まってるんだ」

「入社式みたいなものよ」

「でも、本当に、井崎には知らせないの?君が忙しくなってきたら、バレるのも時間の問題だろう。どう、説明するんだ?」

「あなた、何にもわかっていないのね。それくらい、私たちは会っていないのよ。何か月ぶりに会ったとしても、丸々一日、いることだってないくらい」

「それで、婚約してるっていうんだからな」

「そうよ」

「会社には、そのことは?」

「ああ、そうね。言ってないわ」

「特に、言う必要もないか。籍だって入れてないんだから。いつ、入れるんだ?」

「入れるのは、あの人次第だから。私に、あれこれ言う権利はない」

「ひどいな。何という扱いだ」

「そんなことよりも、今は、仕事よ」

「そうだな。でも、そうなると、僕と会ってる暇も、なくなりそうだな」

「そうかしら?そうは思わないけど」

「それに関しては、すべて君に任せるよ」

 Gは深く長い息を吐いて、束の間、静かに目を閉じた。




第1部 第2遍 ブラッドストーン





















 派遣されたマヤで見たその祭りは、最初で最後であった。この祭りは周期的に続くものだと神官は思いこんでいた。それが終焉の儀式であるとは、途中までは思いもしなかった。ピラミッドの頂上には、王が君臨している。上半身が裸である王は、色彩の鮮やかな羽を背負っていた。頭には鶏冠が乗っていて、豪々しい肉体とは対照的に、優美で攻撃的な装いが施されていた。

 陽の落ちた森の中には、火が灯されている。

 ピラミッドの周りには、いくつもの松明が置かれていた。

 ピラミッドを下から炙り照らしているかのようだった。ピラミッドは燃えているように見えた。

 太鼓の音が、神官の横隔膜を容赦なく、揺らせ始める。王は雄たけびを上げる。大きな円を描くように頭をゆっくりと回しはじめる。そして、ピラミッドに頭を打ち付けるかのように、今度は縦へと振り始める。体を反らせ、雄たけびを上げている。太鼓の音は激しさを増していく。

 大勢の住民たちが、ピラミッドをとり囲んでいた。


 顔には仮面をかぶった女性たちが、集まった人たちに飲み物をふるまっていた。彼らはその飲み物を飲むと、突然、王と同じような雄たけびあ上げながら、体をくねらし始め、激しく頭を振り乱すようになった。王の動きと連動するかのように、そっくりと同じ動きをし始める。神官も勧められたのだが、最初は断った。しばらく、この光景を自分の眼で確かめたかったら。それから、自分も、陶酔と狂乱の宴に入っていきたかった。

 だが、そのうちに、上半身裸の女性は、何度も神官の前を通った。そして執拗に飲むように薦めてきた。

 この場にいる全員が飲まないと、儀式は先に進まないのだと彼女は言う。

 神官は、葉っぱの上に付着した透明のジェル状のものを、口に含んで喉に伝わらせる。

 苦味を感じた。喉の中をすべるように伝っていった。神官の意識は、それから朦朧としてくる。自分の肉体が、何かに操られるように動き始める。景色は歪み始め、気分が悪くなってくる。仮面の女性が再びやってくる。葉っぱの上には、赤い幼虫のようなものがいた。これも飲めという。神官は言われたとおりにする。すると景色は一変する。ピラミッドは赤く染まっていた。さっきまで茶褐色だったピラミッドが、見事に赤い血の色に染まっていた。宴の中から何人かの男が選ばれ、ピラミッドに登らされていく。彼らは勝ち誇ったように、拳を天に突き上げ、王以上に雄たけびを上げていた。頂上まで登ったそのときだ。王が振り上げた鎌のようなもので、男たちの首は一瞬で、撥ね飛ばされてしまう。

 神官の意識は、半分だけ正常に戻ってしまった。次は自分なんじゃないかという戦慄が、背中に走った。だが、体の方はまるで言うことがきかない。王と同じ動きをしてしまう。頭をゆっくりと回し、ときおり思いついたように、縦に激しく振りかざす。首がもげてしまうのかと思うほど、過激に。まるで首をさんざん酷使することで、そのあと、刃が通りやすくしているかのようだった。痛みは伴わないのだろうか。麻酔のような麻薬が飲まされたのだろうか。今日で暦は消えるのだと、仮面の女の一人が言う。よって祭りは、これが最期なのだと。本来なら、男たちは皆殺しにされるところだ。しかし、その前に、宴の最後を別の儀式で、締めくくらなければいけない。女性はそう言った。


 そういえば、この儀式を支える女たち以外に、集まった住民の中に、女性の姿はない。何故だろう。ピラミッドに引き寄せられたのは、すべて男たちであった。決め事があるのだろうか。すると、頂上に君臨していた王に変化が出始める。彼の鶏冠や、羽のほとんどが、いつのまにか黒く染まっているのだ。あれほど色彩豊かだった装いが、すべて消滅してしまっている。そして、王は、その黒い羽を羽ばたかせ、自ら天空へと飛んでいってしまったのだ。

 月明かりが、彼のシルエットをとらえていた。羽を、ばたばたと揺らせていた。水滴が落ちてきた。水滴は次第に、豪雨のような勢いを獲得していった。あっというまに、ピラミッドを黒く染めていた。森の木々を黒く染めていた。住人の体も黒く染めていたのだ。

 火はいつのまにか消えている。月の明かりだけが、唯一、最期の祭りを支えている。太鼓の音も止んでいる。水滴も止んだ。ピラミッドが崩れ始めたのだと、神官は思った。積んだ石のブロックが、外側から崩落しているのが見えた。しかし、それは石ではなかった。人体だった。首をもぎ取られた男たちの首から下が、ついに力尽きたのだった。ピラミッドの周りには、屍が次々と積みあがっていった。再び、水滴が落ちてきた。今度は、本物の雨だったのだろうか。それでも、この闇の中では、黒い雨がさらに降ってきたように神官には感じられた。

 ピラミッドの上には、再び人のシルエットが浮かびあがる。王が戻ってきたのだろうか。飛び立った王が、元の場所に還ってきたのだろうか。

 月光の濃度が強くなっていた。ピラミッドの頂上を照らすかのような角度で、空から光が注がれ始めている。王ではなかった。鶏冠も、羽も、そこには何もなかった。人間ではなかった。藍色をした彫刻のようだった。銅像のようだった。少しも動こうとしなかった。儀式が始まって以来、はじめての静寂が、広場を包んでいる。銅像はあっというまに崩壊した。崩れ落ちた破片が、ピラミッドの階段のとがった部分に、ぶつかり、そして、屍の上へと落ちていった。

 仮面をつけた半裸の女たちを探したが、もう広場には、誰もいなかった。

 あれほどいた住民たちの姿もなくなっている。祭りの終わりを、一人だけ、知らされてなかった。そんな人間のように、自分が思えてきた。取り残された唯一の人間のように思えてきた。生き残ってしまった、唯一の部外者のように、感じられたのだ。



 シカンの知らないところで、LムワはCFを酷評していた。

 だいぶ後になってから、シカンは知ることになる。

 だが今や、仕事上においては、彼とは何の関係もなかった。唯一、間接的にではあったが、北川裕美との問題があった。あれ以来、まだ話はしてなかった。夫婦生活はうまくいってるように見えたが、北川裕美の本能は、今でもまだ燻り続けているのかもしれなかった。Lムワとの穏やかな生活には、吸収されることのない狂気。処理することのできないその狂気が、あのとき一瞬炸裂した。北川裕美の体は弾力がありながら、それでいて引き締まっていた。シカンは魅了されていた。でも同時に恐怖も感じていた。あの波に取り込まれてしまったら終わりだ。健気で激しいセックスを、Lムワとは昼夜し続けているのだろうか。途中まではよかった。けれど後半に入って、彼女は刃物で自分の乳房に傷をつけた。その血をシカンの顔にべったりとくっつけてきた。そのときシカンは目醒めた。性的なエネルギーは、一気に下降していった。それ以降は、ただカメラのシャッターを押し続けることだけに専念した。北川裕美もシカンに体を求めてくることはなくなった。その裸体を、今、写真で見ただけでもぞっとする。射精することなく、途中で性行為は断絶されてしまっていた。

 北川裕美は、かつては乱れた生活を送っていたようだが、それはそれで、健全な部類だったのかもしれないなと、シカンは思った。穏やかで愛のある生活の代償が、この惨状だったとは。おそらくこれは初めてのことではない。たまたま今度のタイミングで、自分がそこにいただけのことだった。その後、呼び出される気配はない。彼女はもう満足だったのだろう。しばらくは必要のない行為なのだろう。もう忘れているのかもしれない。この前、パーティですれ違ったときには、まるで顔見知りでもないといった、そんな表情をしていた。

 シカンは思わず、Lムワに電話をしてしまった。

「おお、君か。久しぶりだ」

 Lムワは電話に出た。衝動的にかけてしまったために、そのあとの言葉に、詰まった。

「そうか。君は文句を言うために、電話をかけてきたんだな。僕が君のCFをすっかりこき下ろしているものだから。その抗議だろ。しかしね、全体的に君への評価に関しては、世間では非常に高い。くやしいけれど。今度の仕事で君の才能は開花され始めた。僕が酷評することで、君への注目度はもっと上がっていく。僕はね、君の力を信じてるんだ。こういっては、嘘のように聞こえるかもれないけど。でも本当だよ。うちの妻も、君のことが、気になって仕方がないようだ。とても珍しいことだ」

「奥さんが?裕美さんが?何て言ってるんですか?」

 シカンは、興奮を抑えきれず、前のめりになって訊ねた。

「妻がね、酷評してるんだよ。それを、僕が発言してるように、メディアには流れてるんだ。僕は人の作品には対しては、常に中立な立場でいたいんだよ。でも、妻の神経は、逆なでされたんだね。何に反応したのかはわからないけど。とにかく君をこき下ろしていた。あんなのは腹のすわってないやつの作るゴミだって。今に、きっと、途中で逃げだすにちがいないって。最後までやりとげられない男なんだとさ」

「最後まで・・・」

「僕にも、その意味は、よくわからない」

「そんなことを言ってましたか」

 やはり、あのベッドのことは覚えているのだ。

「君とは、また、近いうちに話してみたいって言ってたよ」

「ほんとですか?」

「僕はもう勘弁してくれ。自分の仕事に専念したいから。ようやく、ペースが掴めてきたんだ。長いこと噛み合ってなくてね。今は妻にかまってる暇もないくらいだ。たまに遊びに来て、妻の相手になってくれよ。なっ。頼む」

「そうですか。そういう感じなんですか」シカンは妙に安堵感を覚えた。

「僕のほうも、全然、構いませんよ」とシカンは答えていた。



 翌日の午前中に、雲中万理から電話がかかってくる。万理はすでにドラマの撮影に入っているようだ。

 沙羅舞には、同じドラマからのオファーはなかった。クイズ番組に呼ばれているようだ。それと、講義にもまじめに出ているらしかった。万理によると、全然電話が繋がらなくなったらしく、シカンから声をかけてくれないかということだった。

「あと、もう一つ、お願いしてもいいですかね?この前、舞ちゃん。彼氏と、一緒にいたんですけど、同じ大学の彼のようなんですけどね。その男の人のことを、ちょっと知りたくて」

「狙ってるの?」

 シカンは冗談のつもりで言ったが、雲中万理は生真面目な声で、「いえ、違います」と答えた。

「舞ちゃんって、普段は、どんな生活をしてるのかなって思って。きっと大事にされているんだろうなって。彼にも、家族にも。そんな雰囲気じゃないですか」

「そこも、君とは、対照的なの?」

「それに、近いですよ。私の恋愛遍歴は、このまえ少し話したでしょ?」

「家庭の話は、まだ」

「お母さんがね、次々と、彼氏を変えるんですよ」

「お父さんは?」

「いません。亡くなりました」

「ごめん」

「わたしが小学生のときに。それまでの母は、誰かと関係を持つことなんてなかったと、思うんですけど」

「そうなんだ。うん、じゃあ、それとなく、訊いてみるよ」

「ごめんなさい。なんだか、迷惑よね。探偵のようなことをさせちゃって」

「いや、いいんだ。俺も気になってたから。万理ちゃんのことは。まりっさちゃん、だっけ?」

「まりっさ・・・」

「君は、とても魅力的だよ」

 冷めた目をした彼女の中には、北川裕美と同じ血が流れているのかもしれなかった。

 シカンはその根源にある何かが、ひどく気になってしまった。


 翌日、Lムワ邸をシカンは訪れた。

 北川裕美にムチを打たれているLムワの夢で、目が醒めた。

 予定通りに、Lムワは姿をみせなかった。

 北川裕美が玄関に現れる。そしてすぐに、二階へと案内される。

「あなたは、画家になるべきです」

 シカンは、北川裕美に会うなりそう言った。

「画家になるべきです」

 服を脱ごうとしていた北川裕美は、その手を止めた。

「あなたは、こんなことで、誤魔化すべきじゃない。絵をかくべきです。今日は、それだけを伝えに」

「どうして、そんなことを、言うの?写真は、持ってきてくれたの?」

「持ってきました。あなたに返そうと思って」

「やめて」

「処分したほうがいいですね」

「もう、帰って!」

「Lさんと約束したんです。あなたの話相手になるって」

「じゃあ、脱ぎなさい!」

「裕美さん、駄目ですって」

「知ってるでしょ?私のこと。こういう女なのよ」

「あなたは、昔とは変わりました」とシカンは言った。「あなたはLムワさんのことを、愛してますね。二人の生活に満足している。Lさんもわかってます。彼が仕事に没頭する時、あなたをもてあましてしまうことが、あなたを暴走させてしまうことに。でも、それは昔のあなたではない。あなたは、Lさんとの本当の愛を、知ってしまったのですから。最高の快感を知ってしまった。だから、そうでない時との落差に、絶望してしまうんです。飢えて飢えて、それでこんなことになってしまう・・・。昔のあなたは本当の昇天などは、知らなかった。あなたは絵をかくべきです。僕の言いたいこと、わかるでしょう?」

 北川裕美は服を脱ぐのをやめた。そして突然泣き出してしまった。シカンの手から写真の束をひったくると、破き、ゴミ箱に放り投げてしまう。

「Lさんが、僕に何をさせたいのかはわかりません。けれど、僕はあなたに一つの提案をすることはできる。あなたは自分で解決しないといけない。仕事が終われば、Lさんは、再びあなたの元へと帰ってくるでしょう。あなたは、あなたで、一人でいるときにしかできないことを見つけるべきです。それを極めるべきです。あなたは昔のあなたじゃなくなった。また違う自分を発見することができるんです。出過ぎた真似をしてすみません。でもこれだけは言っておきたくて。あなたたちが羨ましい。あなたたち二人は、本当にお似合いだ。あなたはいい人と出会った。僕はそんなあなたたちがうらやましい。本当です。だから、僕が破壊者として、そこに存在すること、それだけはしたくない。嫉妬で確かにめちゃくちゃにしたいという願望はあったようです。この前はそうでした。あなたたちを引き裂きたい。Lさんを潰してしまいたい。あなたを駄目にしてしまいたい。そんな欲望が、心の奥に潜んでいることを知って、僕はぞっとしました。でも、それは、あなたたちへの憧れの裏返しだったんです」

 シカンはそう言って部屋を出ていった。外に出るとすぐに、雲中万理に電話をかけた。

「すぐに会いたい」と彼は言った。「マリッサちゃんに会いたい」

 二人は会うとすぐにホテルへと向かった。シカンは万理の衣服を乱暴に剥ぎ取り、それでいて優しく肌を愛撫した。万理は確かに情熱的だった。熱にうかされたように、肉体行為そのものに没頭していた。シカンは万理の中に射精していた。

「妊娠しないから大丈夫だと思う」

 万理はベッドの中でシカンの頭を抱え込み、そして髪をなでることを繰り返した。

「ごめん、突然。まだ、舞ちゃんには連絡はとってないんだ。今日の夜にでも電話してみるよ」

 万理は仰向けになり、天井をぼおっと見ていた。何も答えなかった。

「ねえ、シカンさん。わたし、賞がとりたいわ。映画でね」

 万理はシカンではない誰かに、話しかけているようだった。

「賞をとって、再び繋げたいのよ」

「繋げるって?」

「途切れてしまった家族の糸とか。本当はわかりあえるのに、わかりあえなかった人たちとの絆とか。私が女優として賞をとることで、取り戻せると思った。あなたの作品に出たことで、そういう想いが湧いたの。初めてよ。今まではどうでもいいと思っていた。何にも真剣になれなかった。初めて心の底から変わりたいと思った、わたし。もうこんな自分にはうんざりなの。もうたくさんだって、本当にそう思った。あなたのCFでも、そんなことを言ってたじゃない。感化されたのかしら。心底、自分にうんざりしたの。こんなことの繰り返しは嫌だって。変わりたいのよ。別の自分に生まれ変わりたい。そのきっかけを、自分で勝ち取りたいの。ほんとうよ」

 シカンは黙って聞いていた。

「付き合ってほしいの、わたしと。お願い。あなたと付き合いたいの。どこにも行かないで。最初は本気になれなくてもいいから。とにかく私と居て。もう嫌なの。あんな奴や、こんな奴に抱かれるために、ふふらふらとしてる自分は。あなたと一緒なら、きっと変われると思う。お願い。私のこと嫌い?嫌いじゃないでしょ?いいでしょ?いつもしてあげるから。私の体、いいでしょ?」

「舞ちゃんのことなんだけど」シカンは万理の話を遮った。

「えっ?何?なんで、舞の話がでてくるの?まさか、あなた。舞のことが?そう。そうなのね。ひどい!ひどいわ。舞の代わりだったの?」

「いや、違う。そ、そうじゃないよ。まさか、君が、そんなことを言うなんて。・・動揺したんだ」

「そうなの?」

「嫌いなわけがないじゃないか!」

「そうね。そうよね?」

「好きだよ、万理」

「うれしい」

 万理は半分体を起こし、シカンの胸に全身を乗っけた。

 シカンの下半身はすぐに硬くなって万理の体を押し返した。そのまま万理の体の中に、するりと入ってしまった。万理は腰をすでに動かしていた。万理は茶色の長い髪をかき上

げ耳にかけ、顔をよく見せてきた。そしてシカンの唇にキスをした。さまざまな腰の動かし方を知っているようで、シカンはその動きに完全に身をまかせ、万理の中に勢いよく、発射した。



「・・あら、出た。出たわよ、万理。どうして、出てくれなかったの?監督にも頼んだのよ。あなたに伝えておいてくれって。でも、あなたからはこなかった。ずっと連絡を取りたかった。今、撮影の合間で休憩中なの。少し話しましょう。どう?元気?大学は楽しい?」

「何の用?」

 沙羅舞は冷たい声で答えた。

「用だなんて、そんなふうには言わないで」

「要件を言って!どういうつもりなの、あなた?わたしと、どうしたいの?どういう目的があるの?」

「どうしたのよ。何があったのよ、舞。わたし、何か悪いことした?」

「どうして、あなただけなのよ」

 沙羅舞は本音をぶちまけ始めていた。

「どうしてあなただけが目立つのよ。どうしてあなたは何もしなくても、そうやって、周りから持ち上げてもらって、前へ進んでいけるのよ。どこからそんなにエロい雰囲気が漂ってくるのよ。この最低野郎!。この、淫乱女!監督と寝たわね。そうやっていっつも、男をいいようにしてるんだ。そして、駄目にしていくんだ。いつかあなたも同じ目に合うわ。みてなさい!全部、あなたにそっくりと返ってくるから。いいかげんにしなさいよ、万理。少しは勉強したらどうなの?大学に通ったらどうなの。一緒にくる?ほんと、あったまくる!」

「嫉妬してるのね、わたしに。でも、わたしはあなたのこと、絶対に嫌いにはならないから。あなたのことが大好きなのよ。誰よりも好きなのよ、舞。また、一緒に仕事がしたい」

「ほんとに?ほんとにほんとに?」

 沙羅舞の声は上ずった。

「ええ、ほんとう」

「じゃあ、そうしましょう。すぐに、そうしましょう。わたしたち、いいコンビじゃないの。この二人だからこそ、あれだけ、いい作品に仕上がったの。そうでしょ?」

「そう思うわ」万理の声は落ち着いていた。

「監督に頼んで。私を使ってくれって。あなたと一緒に出演させてくれって」沙羅舞は興奮していた。「あのCFの続きでもいい。それにしましょう。それがいい。まずはあの続きから。もっといい作品が作れると思う。ああ、楽しみね!早く言ってちょうだい!今からでも、彼に電話かけてちょうだい!」

「寝ろって、言ってるのね」

 万理の声は再び冷めきっていた。

「あなたにとっては、何ともないことでしょ。他の男ともさ、寝たときにわたしの話を混ぜて話してみてよ」

「それで、あなたが戻ってくるのなら。・・構わないけど。あなたと少しでも多くを過ごしたい。共有したい」

「じゃあ、仕事に関係なく、これから会う?お茶でもする?飲みにいく?」

「やめとくわ」と万理は言った。「幻滅するだけだから。普段の私を見られたくはない」

「いつも熱に浮かされていたいのね」

「そうよ。最後までそう居させて」

「わかってるわ。あなたのことはわかってるのよ。ごめんね、いろいろと怒鳴ったりして。あなたが心配だから。私がいないとあなたは消えてなくなってしまいそうだから。疲れ切って自滅していってしまいそうだから。自虐的に。自分を痛めつけるのは得意でしょ。私が男だったら、すべてはうまくいったのに」



 Lムワは、井崎と名乗る出版関係の仕事をする男から、連絡を受けていた。

 普段なら集中して仕事をしているこの時期に電話を受けることはなかったのだが、たまたまその時は裕美も自宅にはいなくて、電話機の前をちょうど通った瞬間だったので、反射的に手が伸びてしまった。

 用件は新作の小説のことだった。連載に関する依頼であり、その連載の仕方が独特なアイデアを孕んでいるということだった。まだどこにも新作の話をしてなかったので、このタイミングには驚いた。自分が誰かに監視されているんじゃないかと、気味が悪くもなった。

「井崎と申します。会ってお話がしたいのですが。今って大変お忙しい時期ですよね。お宅に伺ってもよろしいでしょうか?その、先生の空いた時間でかまいませんから。気分転換にでも息抜きにでも、僕を使ってくれて、全然構いませんから。少し連載の仕方に関しての提案があるんです。今、創作なさってる話。とっても、大きいんじゃないですか?柄の大きな世界でしょう。だから、僕にある考えがあるんです。聞いていただけたらと思いまして、今日はお伺いしました」

「わかった。普段なら、お断りするところだけど、今回だけは了解です」

「ありがとうございます」

「今から、いいかな」

「もちろんです」

 Lムワは何か引かれるものがあった。連載の仕方、という所にまず興味を持った。

 井崎は、Lムワ邸に予定よりも五分早く現れた。あらかじめ仕事を切り上げていたLムワは井崎を待たせることなく、家の中に招き入れた。今回もプールサイドだった。

「ずいぶんと、ご立派な家で」

「全財産です。僕と妻の。おかげで、たくさんの人が来てくれます」

「それは、結構なことです。僕も、何度もおじゃましたいところですが、今回、一度きりということにしておきます。僕みたいなのが、うろついているのは実によくない」

 そう言った井崎は、上下白いスーツを着ていた。その下には黒地に白い水玉模様の入ったシャツを着ていた。髪は銀色に染めていて、整髪料でばっちりと固めていた。

 その異様な風体にも、Lムワはまったく表情を変えず、彼と向き合っていた。表情には、いかにも頭の切れる人物に特有の皺が刻み込まれていた。

「さっそく、本題に入りましょう」

「ええ」

「結論から言います。複数の出版社と交渉して同時に連載を持つことにするんです。章やブロックごとで全部わけてしまえるはずですから。章ごとに世界観が異なるはずです。そうでしょう?だから、分けてしまっても、まったく問題はない。別の雑誌に連載したもの同士を、もし同時に読んでしまっても、あるところまでは別の物語だと読者は思うはずです。連載は続いていきます。あなたは別に書き分ける必要はない。自然に一つの大きな世界に、その身を同化させていれば、それで構いません。途中、僕と打ち合わせをする必要もまったくない。あなたは一人で築き上げられる。おそらく半年から一年のあいだで、その作業は終わるはずです。予言者の才覚は僕にはありませんけど、まあ、だいたいのところはわかります。でも誤差はけっこうあります。申し訳ない。いずれは、そっちの方面の才覚のある人間を引き入れます。細かい時間の設定が必要となるときに、組むつもりです。あれ、なんの話でしたっけ?ああ、連載だ。連載が終了したときですよ。ポイントは。書籍化するときです。まさか、ばらばらで本にしてしまうわけにもいかない。一冊にまとめますよね。まとめるって言い方は違うけれど。もともと一つだったんだから。あなたの手元で完成している原稿、そのままの形ですけどね。争奪戦です。出版権を争わせるんです。勝ち取る人間は、ただの一人。もちろん争奪戦といっても、話に中身が伴わないのならば、みんな手も上げないでしょう。あなたの今までの作品を、ざっと見ました。失礼ですけどまったく売れてませんね。ククク。しかし、どこかで勝負には勝たなくてはなりませんよ、Lムワさん。僕は勝つ戦いしかしないんです。できないんです。僕があなたの前にこのタイミングで現れたという意味。そういうことです。僕を信用してくれてかまわない。過去の作品はすべて拝読いたしました。あなたの作品を僕はパズルだと思いましてね。すべてが暗合の集積なのだと解釈しました。基本的に暗合では売れないんです。しかし、唯一、成功することがある。暗合はあまりに少ない断片では、うまく存在しえない。機能しえない。そしてある程度、その暗合の中身が解明されたとか、される兆候が見えるということが重要です。そして極めつけは、全体を隈なく網羅した、つまりは網羅した一つの大きな書が、中心に座るという時期がやってくる必要がある。まあ、それも、すべてのピースが揃っているということが、大前提なんですけどね。あなたの場合は、その中心にあるもの以外はすべてそろっていた。足りないその大きなピースに、あなたはついにとりかかった。そう解釈しています。僕は自分で言うのも何ですけど、目ざといです。あなたを取り逃がすことなんて、この僕には全くできない話だ」

 Lムワは黙っていた。頷くことなく聞いていた。

「交渉の方は、僕が代理人という形で引き受けます。あなたに面倒をかけることはありません。今年は、その書の制作に専念なさってくれればいい。奥さんには今まで以上に、寂しい思いをさせることでしょう。けれど、あなたにとっては、踏ん張り所です。理解してもらえるはずです」

「要点は、わかりました」とLムワは言った。「おそらく、僕が余計なことを訊く必要は、何もないのでしょう」

「正式にお訊きします。その話は、進めてもかまいませんか?」

「構いません。願ってもない」

「了解しました。それでですね、これは、今の話とはまったく相容れないのですけど・・」

 井崎の話し方のキレが突然悪くなった。

「なんでしょう」

「その・、誰か、映像のプロの方を紹介してもらえないかなと思いまして。一人、モデルとしてデビューをさせたい男がいるんです。ファッションショーのプロデュースなんかも、していただきたいんです。もちろん、彼のためにということではなく、彼を一人のモデルとして表舞台に上げたいだけなんです。なので、ブランドに関しても、どんなショーを展開していくのかに関しても、何も口出しをするつもりは、ありません。ただ、その様子を映像として残しておきたいんです。どうですか?誰か心当たりはありませんか?」

「そういうことなら、最近、一緒に仕事をしかけた男がいましてね。打ち合わせもここでしました。しかし、一緒に組むことはなかった。でも交流はあります。それからは、個人的な話も、するようになった。指原という男なのですが」

「連絡をとってもらっていいですか?あいだを取りもってもらっても」

「もちろんですよ」Lムワは快く引き受けた。

「あ、そうだ。ファッションショーではないのですが・・・」

「なんでしょう?」

「CFなのですが、どうでしょうか。この前の続編なんです。どうかな。評判がよかったんです。あのときの出演者の中に、その男性を混ぜるって、そういう形はどうでしょう?今、ふと、思いました」

「いいかもしれませんね」井崎は右手で顎を触りながら、瞳を一瞬きらりと光らせた。「決まりですかね。その、うまくいくかどうかは、正直わかりません。誰も続編の話はしてないですから。しかし、そのCFの台本は、もともと僕が書く予定だったんです。脚本は書かなかったけれど、最初の原案のようなものは、指原に渡しました。指原がそれに発想を得て、違う世界にはなりましたが、そのことがきっかけとなって、映像を起こしたんです。そうですね、それがいいと思います。ちょうど映像監督だし、その映像は、あなたが望むように残ることにもなる」

「来てよかったです」井崎の右手は鼻の頭に移動していた。

「こちらこそ、お役に立ててよかった。僕ばかりが、あなたに頼ってしまうのは、いささか気が引けてしまうから」

「では、あとは、よろしくお願いします。すみません。あなたの仕事を邪魔してしまったようで。あとは僕がウロつかないように、首尾よくGには伝えておきますから。あ、そうです。Gという男なんです。オーディションをしてもらって、それで決めてください。合否は厳しく判断していただいて結構ですから。Gという男の連絡先はこれです。どうぞ」

 二人はしばらく、会うことはないだろうなとLムワは思った。

 Gという男にも直接会うことはないかもしれない。Lムワは井崎が帰るとすぐに、シカンへと電話した。



 シカンはLムワからCFの続編の話を聞いた。すぐに、ブランドの広報担当に連絡し、そのあとで沙羅舞に電話をかけた。

「CFが決まりそうなんだ。また出てくれるよね」

「えっ、まじ?わたし?」

「まだ、万理には伝えてないけど」

「信じられない!一緒に仕事ができるのね!」

 シカンは、万理の事務所に連絡した。

 万理の担当マネージャーの反応はいまいちだった。「ドラマ撮影の最中ですからね・・。その合間に、映画も撮ってるんですよ・・・。他に仕事を入れることは、不可能ですよ・・・そうだな。でも、CFですもんね。数日で終わりますもんね。あの申し訳ないけど、できる限り、万理のスケージュルに合わせていただくという、そういう条件のもとでならなんとか。ええ、もちろん出演させてもらいます。万理も喜びます。あれは万理を一躍、全国区にした大事な仕事でしたから。これからも、できることなら続けさせたい。でも、ブランドさんからのオファーはこないし、企画も打ち出されていないようで・・・。ブランドさんからの評価の声が聞こえてこないんで。少し心配してたんです・・・」

 あのデザイネストという新しいブランドが、今回乗り気なのかどうかはまだわからなかった。そのことは伝えなかった。まだ返事をもらっていないことは伏せた。



 万理から連絡があった。そのあと二人で会うことになった。激しく抱き合ったあとで布団の中で寝ていた。

「舞の話だけど」とシカンは言った。「結果的に、また仕事ができるね」

「電話も繋がったの。でもなんだか、情緒不安定だった。意外よね。私がこんなことを言うのって。あの子、普段は、どんな子なのかしら。普通の大学生でしょ?彼はどんな人だった?」

「聞いた話では、科学者を志してるんだって。真面目な男なんじゃないのか」

「舞も頭がいいからね。なんで、彼女は私に執着するのかしら。私に対抗心を剥き出しにするのかしら。でも仕事で一緒のシーンをやるときは、そうでもないわよね。わからない。あの子。謎だわ」

「君の方が、謎だよ」

 シカンは、天井から万理の方へと視線を移動させた。

「映画のほうは、順調なの?」

「ええ。心はいつも、それ。集中できてるわ。でも、それだけじゃない。確かに、日常生活も、その映画のことでほとんど埋め尽くされているけど、他のことも、ちゃんとこなせている。他の仕事もそうだし。遊ぶことだって」

 シカンに向かって万理は笑顔を見せた。

「こっちのほうも、順調ってわけか」

「妬いてるの?」

「そんなんじゃない」

「落ち着くわ。あなたとこういう時間を過ごすのは」

 俺以外にも、そう言ってるんだろうなと思いながらも、シカンはうれしさが込み上げてくるのを抑えることができなかった。他の男を話題に出すのはやめた。

「舞ね、自分が男だったらよかったのにって、言ってた」

「男?」

「そう。そしたら、私と付き合えるのにって。守れるって。危なっかしいんだって。何かが私には足りないみたいよ。それを埋め合わせることができるって」

「舞ちゃんが男で、君と付き合うのなら・・、か」

「そう」

「なるほどね」

「わかるの?」

「わからなくもないな」

「あなたは男じゃないの。あなたが舞だったら、もうこの時点で、思惑く通りなのにね。私のことを守ってよ」

「守られたいの?」

「そりゃあ、女だから。危なっかしく、見える?」

「そうだな。前は、そう思ってたけど。今はそうでもないな。特に、こうしているときの君は、本当にリラックスしていて、かわいかったよ」

「かわいい・・・、か。そうね。かわいい子なのよ、ほんとうは。でも、豹変するときがあるの。いつも、満足なんてしないの。あなたの作品もいけなかった」

 そう言って、彼女は悪戯な表情を浮かべた。

「でも、好きな世界だった。もう十分、もういいかげんにしてくれって、そこまで追い込まれて、突き詰めたときに、次のステージに突き抜けることができる。私もそう思う。安易な慰めを得るんじゃ、深層ではずっと、欺瞞の満足が続いていく。ほんとにその通り。不満っていうのは、大事なことよ。誤魔化さないことが大切なことなのよ。その小さな不満を、私の全部のように受け止めることが、私にとっては、とても大事なことなの」

「君は、俺らが思ってるよりも、ずっと、賢いのかもしれないね」

「その言葉は、意外ね」彼女は言った。

「君は、イメージよりも、ずっと本質を追及しているのかもしれない」

「確かに、そういうところはある」

「本当は、一番、不安定ではないのかもしれない」

「それは、どうかしら」

「謎だな」

「抑えがきかない時のほうが、圧倒的に多いわよ。自分をコントロールできているとも、思わない。もちろん、穏やかな人間でもない。刺激が欲しい。いつも不満だらけ。表向きは、舞ちゃんのほうが安定してる。結局ね、幸せになれるのはあの子なのよ。私にいろいろと嫉妬してるのも、一時的なことよ。そういうときって、あるじゃないの。でも大丈夫。あの子はあの子の世界をちゃんと持つことができるようになるから。人生は開けてくる。大学も卒業して、社会に出て、その科学者の彼氏と一緒になって、家族をつくって、子供もできて。そういう生活を、ちゃんとイメージすることができる。私は違う。危なっかしいって、彼女が思うのは当然なのことなの。けれど、私には私の道がある」

「誰が何と思おうと、君自身がずっと賢くあればそれでいい。見るひとが見れば、それはわかるから。君はクレイジーなんかじゃないさ。いかれてもいない。最近、それがよくわかったよ。寝てみてよくわかった」

「変な男」

 万理は、体を半分起こして、シカンの方に寄せていった。

「わたしの何がわかるのよ」

 そう言って、彼女はシカンの体に自分の体を重ねていった。右手で自分の髪を耳にかけて、シカンの顔に近づき、キスを繰り返した。

「今度、舞が、三人で会いたいって」

「いつ?」

「この後でもいい?」

「何をするんだ?」

「なに、考えてるのよ、変態!そうじゃないわよ。ただのおしゃべりよ。おしゃべり。意外にあの子は固いんだから。一応、打ち合わせってことでいいんじゃないかしら」

「いいよ。でも、もうちょっと抱き合っていたいね」

 そのあと、二人はセックスすることなく、お互いの肌と肌とを、ベッドの中で合わせたり離したりを繰りかえした。



 三人は、地下にある薄暗い照明のカフェで会った。テーブルを照らし出した光だけが強烈であって、他の客からも人の姿はよく見えた。陰影のはっきりとした店だった。木がふんだんに使われていて、その匂いがひどく心地いい。沙羅舞と万理は会うなり大胆に抱き合い始め、シカンとも軽くハグをした。舞はメニューを広げ、万理と二人ではしゃぎながら飲み物を選び始める。大学の同級生のようにも見えた。幼馴染の女の子同士にも見えた。シカンは少しのあいだだけ除け者になった。沙羅舞は本当にうれしそうだった。シカンはしばらく黙っていることにした。二人はキャッっキャッとしていて、最近の芸能人のゴシップだの、どんな服を買っただの、どんなダイエットをしてるだの、あるいはこのストレッチが効果的だっただの、そんな話を、延々としていた。

 万理はシカンの方をちらりと見た。合図を送るように。

 そこに、舞は素早く反応した。

 舞はシカンを睨むように見た。すぐに彼女は微笑んだ。

「監督も、何か頼んだら?」

 舞は会話を邪魔されたことに抗議するかのように、挑発的にシカンに言った。

「あ、そうだ。監督。今度のCFのこと。簡単にあらすじを教えてくれませんか?気になって気になって」

 突然、沙羅舞は、万理との会話を終了させてしまった。

「今日?ここで?」

 シカンはまだプランを練ってなかった。

「そうだよな」と彼は言った。どうして今まで、そのことで頭を悩ませることをしなかったのか。もう立ち上がっていなくては、本来遅いのだ。

 万理といるときには、少しも頭をよぎらなかった。

「あっ、来たわ」沙羅舞は席を立って、こっちこっちと手を振り始めた。

 一人の男が手を上げ、三人の席に近づいてきた。

「紹介します」と沙羅舞は言った。「私の彼氏で、未来の科学者の、滝革さん。こちらは友達で女優のマリッサちゃん。監督の指原さん」

 男は大柄で、髭も髪もぼさぼさで熊のようだった。それでいながら不潔な感じはまったくしなかった。眼は澄んでいて、物腰も柔らかかった。その場の誰もが、いい奴だと感じた。三人は一斉に立ち上がり、その熊男に向かって、手を差し出した。

 CFの内容を、聞かせてくれと言った沙羅舞だったが、この熊男が来てからというもの、彼女はこの彼にべったりとくっついてしまい、シカンと万理の前で、いちゃつき始めたのだった。それでも、この熊男は、沙羅舞を何度もたしなめるだけのマナーは、持ち合わせていた。

「タキガワさんでしたっけ?科学者になる予定の」

「ええ。そうです。エネルギーの開発研究を、主に目指しています。未来のエネルギー産業に、ぜひ、この自分の理系の脳を用いて、貢献がしたくて」

「そうなのよー」沙羅舞がまたもや、会話を遮ってきた。

 その間、万理は店のインテリアをずっと見ていて、沙羅舞の方には目も向けなかった。

 シカンは万理に声をかけた。「まさか、男を連れてくるとはな」

「どういうつもりなの」万理は小声で訊いてきた。

「知るかよ。でも、君が三人で会いたいって、言ったんだぜ」

「四人目は、呼んでないわ」

「あ、そうだ!」

 熊男の胸に頭を乗っけていた沙羅舞が、突然叫んだ。

「CFの内容よ。それを、さっき訊いていたのよ。それを聞くために、私はここにいるんじゃないの。あなたじゃないわよ」

 沙羅舞は、熊男から一瞬で離れた。万理の視線も、ここで舞へと戻った。

「僕はお邪魔なようで」と熊男は言った。

「いえ、構いません」シカンは言った。

「仕事の話になったのに、僕が居るのでは駄目ですよね。今日は、みなさんに会えて、よかった。今後も舞をよろしく」

「あなたも、化学の勉強を、頑張って」万理が声をかけた。

「それじゃあ、また」

 舞は、熊男に別れのキスも挨拶もしなかった。大きな瞳をさらに見開き、シカンを見ていた。シカンは急遽、CFの中身をつくらなくてはならなくなった。この状況で、まだ出来ていないとは言えなかった。即興で作るしかなかった。

「この前はちょうど、女性同士が闘う運命になったというところで、終わったよね。そこでロゴがバーンと入って・・・」

 目の前の女性二人は頷きもしなかった。そんなことは今、誰も訊いてないわよという、そんな表情だった。ますます下手な言い訳など通用しなくなった。

「守りの側の女性たちは、すべて、切り殺される」とシカンは言った。

「その血の飛沫が、地面にまた、アルファベットを描くというわけだ。返り血を浴びた女性たちは、腕でその血を拭う。そして、王の部屋へと歩いて進んでいく」

 沙羅舞は、身を乗り出していた。万理はその一歩後ろから見守っている。

 どうも、今のところは、失敗ではないらしかった。

「ついに、ファラオが登場する。男性だ。ここは男性のモデルを起用する。まだ誰にも知られていない、デビューもしていない新人だ。余計なイメージをつけられたくないから。ここで、映像は、内視鏡手術のときのような絵へと一変する。要は内臓だね。そりゃあ、人をね、しかも同性を切り殺したんだ。それまでの映像美を続けていては通用しない。そこに女性の性器をアップで撮った映像を、紛れ込ませる。もちろんそれが何かは、特定されないくらいに、接近した映像を。それを一瞬だけ紛れ込ませる。タイミングよく画像を一時停止させても、確認できないくらいの、長さのね。内臓の絵へと戻る。そして、その内臓は、表と裏の皮膚を一瞬でひっくり返してしまう。裏っかえす。すると、そこには、巨大な棒が聳え立ち、女性の戦士の前へと屹立する。ファラオが巨大化したかのように。で、そこで、DESIGHNEST」

 沙羅舞は、魂を抜かれた人形のように、身動き一つしなかった。万理も一緒だった。あまりに馬鹿馬鹿しすぎて、唖然としてしまったのだろう。所詮、自分は、こんなことしか思い浮かばない。彼女たちは一瞬で幻滅した。崩壊はあっというまだったなと、シカンは思った。Lムワに相談すればよかった。いくら忙しいとはいえ、最初のイメージくらいは出してくれただろう。それをきっかけにすればよかった。出演は取りやめてくださいと、どっちの女から、切り出されるのだろう。シカンは、二人の顔を見比べた。最初に口を開いたのは万理の方だった。

「その、さっきの挿入される映像のことですけど・・・。その、私では、駄目でしょうか」

「それ!今、わたしも同じこと、思った」

 沙羅舞も口を開いた。見開いた眼は、まったく瞬きすることなく、シカンの眼球を貫いている。

「争うわけ?」

 沙羅舞は、万理の方を見ることなく言った。

「争いはしないわ。じゃあ、二人とも撮ってもらえばいい。両方使ってもらいましょ」

 二人の女性は、何故か乗り気になっていた。シカンは戸惑った。

 そんなことまでさせて、そんな映像を、本当にCFで使うのだろうか。話は前へ前へと転がってしまっていた。

「今度の作品は、私たちの顔や体が、メインではないような気がする」と万理は言った。

「一緒!」と沙羅舞も同調した。「私たち二人の姿が、こう、バンって、大画面にまた映し出されたってしょうがない。何回、同じことをやってるのって、感じよね。馬鹿よ、馬鹿!そんなのは。だから、今回は、誰が出演してるのかわからないくらいで、ちょうどいい。その男性モデルの顔と体とが、全面に現れるわけだからね。だったら、性器くらいは、見せるわ。ねっ。万理。いくら、私たちが控えめな露出だろうとも、やっぱり、存在感だけは残したいじゃないの」

「わたしも、そう思うわ」

「どうして、こう、万理とは気が合うんだろっ。ねっ、マリッサちゃん!」

 二人は微笑み合っていた。さっきまでお互いを露骨に挑発し合っていた彼女たちの姿はそこにはなく、会ってすぐに抱き合っていた彼女たちの姿へと戻っていた。繋がったり、反発し合ったりと、いそがしい二人だった。ちょうど生理明けがいい。二人はこそこそと話し合っていた。またもや、シカンは除け者になっていた。

 広告のクライアントの方を、彼は考えることにした。

 依頼されたからプランを考えたのではなく、先にCFの映像があるというのも、奇妙なものだった。これなら別に、前回のブランドにこだわる必要もまったくなかった。

 どんなブランドであろうと、全然構わなかった。血の色で描くアルファベットさえ変えれば、すむ話だった。それにしても、シリーズ化するCF作品なのに、ブランドの方が次々と入れ替わっていくなんて、変な話だ。誰が意図したわけでもないのに、次々と話は先へと転がっていくし。きっとこの調子だと、適当なクライアントが現れてくれるのかもなと、シカンは思い始めていた。



 二人だけで極秘撮影をするために、万理は、舞の家を訪れていた。

「ずいぶんと、すっごい、家に住んでるのね」

「実は、Lムワさんっていう作家の家と、ご近所なの」

「高級住宅地ね」

「まあ、こっちには、プールはないけどね。私の部屋に行きましょう。あ、玄関に鍵をかけて」

「シャワーを浴びてきてもいいかな」

 万理は、浴室の場所を訊いてきた。

「なんだか、恋人同士みたい」

「そういうことをするんだから、当然」

 万理は、バスタオルに自らの裸体を包んで、数分後にやってきた。

「私も入らなくちゃ、駄目のようね」

「当然!」

「わたしのここが臭うと、思ってるのね」

 舞は万理の体を抱きしめた。「思ってるわよ」と万理は言った。

 舞は万理の体をポンと叩いた。「初めてなのよ」と万理は言った。

「私だって」舞は浴室へと移動した。

 二人で撮った映像は、舞が持ってくることになった。CFの撮影はまだ先であった。

 そのあいだ、舞は大学の講義に出た。万理は映画の撮影を首尾よくこなしていた。シカンはスポンサーの交渉に奔走していた。前回のクライアントであるデザイネストは、今度の広告には難色を示した。もともとコマーシャルをずっと続ける気はなかったらしい。今度のプランがどうだとか、そういうことにはあまり関心がなかった。シカンは別のブランドに電話をした。しかし、どこも乗り気ではなかった。今どき、テレビコマーシャルに大金などかけられませんと、彼らは口ぐちに繰り返す。シカンは、Lムワに電話をかけた。

 もともと彼が、この続編の話をもってきたのだ。

「僕に、探せと言うんだな」

 Lムワの声は不機嫌だった。

「外界との連絡を、すべて絶つつもりだったんだが、いや、僕のところに、最後に誰かが、連絡してくるなと密かに待っていた・・・。君だったとは。その話なんだけど、僕のところに一つ依頼がある。依頼してきてるんだよ、指原くん。君がそれだけスポンサー選びに奔走してるというのにね。なぜ、君には見つかららないのだろう。僕の元に、なぜ、存在しているのだろう。ちょっとした知り合いの男がいて、その彼がもし必要だったらと、僕の元にメモを置いていった。ぜひ連絡をしてみたらいい。いや、僕が進めてしまったほうが早いかも。クリスタルシティーというブランドだ。今回も、また、実体や詳細は不明なのだが。あ、今、いかがわしいと思っただろ。わかるよ、指原くん」

「そんなこと思いませんよ、Lさん。あなたの知り合いの方でしたら、たとえ怪しい人だったとしても、何か意味のある人でしょうから。影響力がすべてですからね。僕の仕事は。短い映像作品を作ることですから、作品がスルーされるというのが、最も最低な仕事なわけです。たとえ、一過性でもいいから、大きなインパクトを持つということが、最も大事なことですから」

「僕の仕事とは、対照的なんだな。長い時間の中で生き残る存在というものに、僕は賭けている所がある。まあ、どっちにしても、僕らがどんな人間に惹かれるのかいうことには、共通点があるのかもしれないな」

「それで、そのクリスタルシティさんには、僕が連絡をして、いいんですかね?」

「こっちに、任せてもらっていい」

「執筆中なんでしょ?」

「そんなこと、たいした用じゃないだろ。日時も決めてしまっていいかな」

「ええ。ああ、一つだけ。その、雲中万理のスケージュルをお伝えしなくては。こっちは、彼女を中心に、日程を組まなくてはならないので。それだけはお願いしますね」

「了解。それじゃあ」

 ユビハラと呼ぶのは、彼くらいのものだなとシカンはこのとき思った。



 撮影は進む。沙羅舞は撮影の合間、大学に行くふりをして万理を追った。映画の撮影現場に入ったのを確認すると、それ以上、深く追うことをやめ、彼女の傍から離れる。数時間をおいて、再び撮影現場の辺りに帰ってくる。どういうわけか、沙羅舞には万理のスケージュルがわからないにもかかわらず、彼女が次の場所へと移動する時間が、感覚として手にとるようにわかった。そろそろだろうと予測をつけることもなく、ただおかしな確信のもとに、何も考えることなく、自らの体を移動させていった。

 万理の仕事は終わった。彼女はタクシーに乗って帰っていった。沙羅舞もその後を追う。暗く人の気配のない道で、彼女は突然降りてしまう。タクシーはそのまま彼女を待つことなく行ってしまう。沙羅舞を乗せたタクシーも、その場に止まる。しかしこれでは、いかにも後をつけてきたという感じが丸出しだったので、沙羅舞はそのまままっすぐに行ってくれと、運転手に伝える。道のすぐ脇には、廃墟のような倉庫のような建物が、闇夜に浮かんでいる。おそらく万理はそこに用があるのだろう。沙羅舞はだいぶ先で降りると、その倉庫の場所へと足早に戻っていった。他に車の姿はない。こんなところでいったい何をしているのか。沙羅舞は倉庫の扉らしきものを探した。街灯がわずかについていて、建物の外壁の様子くらいはわかった。けれども、ぐるぐると壁伝いに歩いていっても、扉のようなものはまるでない。何周したのかわからないが、万理の姿も見当たらなかった。人の気配はない。声も聞こえない。物音ひとつしない。勘違いしているのか。沙羅舞は、万理がこの場所に降りたことを疑い始めた。いくらなんでも、こんな場所で誰かと待ち合わせをするはずもない。見間違いだったのかもしれない。沙羅舞はこのあとどうしたらいいのか。とりあえず歩き始める以外になかった。集落が、視界の彼方にあるのがわかる。それを目指すしかなかった。沙羅舞はその夜、一晩中歩き続け、そのわずかな明かりの灯った集落へとつくころには、すっかりと夜は明けてしまっていた。なんと無駄な行動だったのだろう。

 万理を衝動的に追跡してしまったことを後悔した。


 だが、沙羅舞は、その翌日も撮影現場に姿を現した。万理がいるのを確認すると、すぐにその場を離れた。撮影が終わる頃に再びかえってくる。万理が出てきた。タクシーがやってくる気配はなかった。彼女は駅へと一人で歩き始めた。沙羅舞も後を追った。どうも今日は地下鉄で移動のようである。万理は地下鉄を乗り継ぎ、唐突に電車を降りた。帽子を深くかぶっていたので、ぱっと見ただけでは彼女であるとはわからない。眼をそらした隙に、他の乗客と区別がつかなくなってしまう。その可能性はあった。沙羅舞は視線を完全に逸らすことなく、彼女を見つめていた。

 電車を降り、ホームの階段を素早く登っていき、地上に出ると、いきなり万理は男と抱擁を交わした。待ち合わせをしていたようだ。男は大きなサングラスをしていたが、有名な俳優であることは、一目瞭然だった。今日はデートなのかと、沙羅舞はため息をついた。その日はそれ以上の追跡はやめた。

 結局、舞は、CFの撮影が始まる二週間のあいだ、ずっと万理を追っていた。大学にはまったく行ってなかった。彼氏のことは放ったらかしにしていた。万理は二週間のあいだ、自宅にはまったく帰らなかった。常に男の家に泊まっているらしかった。毎回、違う男だった。芸能人ではないことの方が多かった。万理は仕事をしているか、男のところにいるか、またはパーティーで羽目を外しているか、そのどれかだった。しかし妙にあの倉庫での一件が、舞の中にはずっと影を落とし続けていた。まるで、そのあとの無軌道な遊びの数々が、あの一件を誤魔化すために行われているかのような、そんな不可思議さを、舞は拭い去ることができなかった。

 撮影の初日に、万理と顔を合わせたが、自分が跡をつけていることに彼女は気づいているのではないかと、ビクついていた。あの倉庫でいったい何が行われていたのか。入り口はどこにあったのか。巧妙に隠されていたのだ。舞は撮影中も、そのことが気になって仕方がなくなった。

 CFの現場での度重なるリハーサル終えた万理は、そのまま共演の女性たちと飲みにいくことがほとんどだった。泥酔し、他の客に絡み、特に客の男に対しては、いつものように醜態をさらしていた。かと思えばすぐに立ち上がり、タクシーを呼び、あっというまにその場を去ってしまった。舞もすぐに後を追った。たいていは、追いつくことができなかった。一度だけ、彼女が最寄りの地下鉄に入っていく様子を、とらえることができた。地下鉄を乗り継ぎ、向かった先はやはり男の部屋だった。駅を出たところに男が運転する車が横付けされていた。さんざん、乱ちき騒ぎを起こしたあとで、そのあとの始末に関してはまったくの無頓着で、男との親密な夜の営みへと消えていってしまった。

 翌日のCFには、さぞ腫れぼったい眼と、かさかさで干上がった皮膚を、晒してくるのだと思いきや、万理の顔には、あまりにすべすべとした血色のいい肌が乗っていて、沙羅舞はショックというよりは激しい怒りが湧いた。許せないとまで思った。不公平だとも思った。乱れれば乱れるほど、生活が荒れ果て、荒みきればきるほど、逆に彼女は輝きが増しているのだ。

 ふとこのとき、沙羅舞には思うことがあった。

 乱交騒ぎ、男との密会。それで本当に、その後で、健全な朝を迎えているのだろうか。違う。ここにもう一つ、別の出来事が挿入されているはずだと思った。あの倉庫だった。あの倉庫が、深夜、もっとも、静寂に包まれた時刻に、挟みこまれているのだ。

 あそこに寄って、それから朝を迎える。仕事の現場へと直行してくる。一日だけ、確認してみよう。男の部屋に入るのを目撃したその場所で、朝を迎えてみよう。男の部屋から出てくる彼女の姿を、いつ目撃することになるのか。深夜、想像通りに、一人で出てくるのか。それとも、朝になって出てくるのか。

 一度、はっきりさせなくてはと舞は思った。



 舞は寝不足だった。万理の後をつけていなくても、不眠症に陥っていた。

「ちょっと大丈夫かな。それじゃあ、画面に映ったときに、まずいよ。メイクを濃くして。とにかく濃く。隠して」

 そんなにアップのシーンなんてないだろと、沙羅舞は思いながらも、メイク担当の男にすべてを任せていた。

「今日も、本番では、ないのですか?」舞は不満をぶちまけた。

「いったい、何回、リハーサルをやるんですか。いいかげんにしてください」

「いいかげんにしてください!」スタッフの誰かが、大きな声で繰り返した。

「ははは。いいね、そのセリフ。決まってるね!」

「すっかりと、定着してるね」

「でも、今回は、どこにもそんな言葉は出てこないからね」

「いったい、いつまで、やるんですか」沙羅舞はうんざりした表情を浮かべた。

 しかし、万理はまったく不満をもらさなかった。普段なら態度を硬化させ、思い通りにいかないと怒り狂っていたのだが、今回の仕事では、映画やドラマの仕事が忙しいにもかかわらず、律儀にリハーサルにも参加していた。CFの仕事以外には、ほとんど何もなかった舞の方が、疲労の色を濃くしていた。今晩すべてを暴いてやるんだと、舞は気合が漲っていた。

「シカン監督は、どうしたんですか。なぜいないんですか?」

「本番までは、このわたくしが。・・本庄と申します」

 助監督だという男が舞を説得した。このときはまだスポンサーが決まっていないことと、出演を予定していたGとの連絡が、うまくついていないことは、出演者には伏せられたままだった。その影響で撮影が始められないことを、彼らは隠していた。


 舞は、万理が男の部屋に入った午前一時を確認する。午前一時四十五分を過ぎたときだ。万理が現れる。万理はたった一時間にも満たない滞在で、男のマンションから出てきてしまった。そして、大通りでタクシーを拾い、さっさと移動してしまった。あまりに早い展開に、舞の追跡は遅れた。タクシーは他には見当たらなかった。舞は走ってタクシーを追いかけた。幸い、最初の信号で止まっていた。逆方向へと向かう空車のタクシーを見つけた。道を渡り、タクシーへと近づいた。あの逆側のタクシーを追ってくださいと言った。運転手はハンドルを切り、他の車などまるで無視をして急転換した。なんとか見失わずにすんだ。

 舞は街の看板をじっと見ていた。どこをどんなふうに通り過ぎていくのかを、頭の中にしっかりと叩き込もうとしていた。そしてまた、闇夜の中で突然停車する。万理は倉庫のような建物の中へと消えていく。舞の予想は当たった。ここで朝を迎えるのだ。いや、しかし、早とちりしてはいけなかった。ここが最後だとは限らなかった。

「わたしは、どうしたらいいのでしょう」

 タクシーの運転手は、舞がまた戻ってくるまでの間のことを言った。

「いちおう、三十分、ここに居てください。必要がなかったら、戻ってきませんから。とりあえず、先にお金を」

 舞は未来の乗車賃として、乗務員に一万円を渡した。

 万理の姿はなかった。また、建物の周りをうろつくだけなのだろうか。今日こそは、入り口を見つけなくては。しかし本当にこの建物に入っていったのだろうか。ふと違うのではないかと思った。万理はきっと誰かに付けられることを前提として、何か細工をしているのではないかと思った。追ってくるのが私であるということは考えもしなかっただろうが、付き合ってる男の中の誰かが、あるいは芸能記者が、常に尾行している可能性の中で生活をしている。とすると、ここは、ただの乗り換え地点だったのだろうか。倉庫の逆側が、ほんのわずかだが光った。舞はピンときた。車だ。彼女はあそこに車を置いているのだ。タクシーに戻る。すぐに行ってください。あの車。あの光を追ってください。彼女はきっとあの車に乗り換えたんです。一人で車を運転しているはずです。ついに、本命の場所へと誘われるのだ。舞は眠気などすっかり吹き飛んでしまっていることに気づいた。



「それでは、本番、行きます」

ついに、彼女たちは闘い合う。

狂気の赤へと、染まっていく。

 画面は、赤と黒の二色で、表現された。


 そこに、一瞬、臓器のような映像が差し込まれ、万理と舞が撮ったであろう、性器の映像が挿入される。

「ちょっと、待った!誰だ、お前は。止めて止めて。撮影を一回すべて止めて!ちょっと、困るよ。誰なんだよ、あんた。勝手に入ってきて」

「おい、万理。出てこいよ!こんなところに、逃げ込んでいたのか。倉庫みたいな所じゃないか。おい。言いたいことがあるのなら、俺に直接言え。あんなやり方は汚い。おい。万理。ここにいることは、わかってるんだぞ!俺を利用してたのか。ただの遊びだったんだろ」

 乱入してきた男は、セットの中へとどんどんと入ってきた。

「俺は、もう、お前に夢中なんだよ。わかってくれ。どうして一時間足らずしか一緒に過ごしてくれないんだ?なあ。それなら、どうして、来る?俺のことが好きなんじゃないのか?何故、深夜に来て、深夜に出ていってしまうんだ?どういうことなんだ、万理!それでいて、どうして、裸にはなるんだ?答えてくれ!」

 舞は、万理の隣にいた。

 迷彩模様のミニスカートと、胸の広く開いた半袖のシャツを着ていた。

 二人は、闘いに挑んでいる最中なのだった。

 王の間への突破口が開く、その瞬間だった。

「ちょっと、万理。どういうことなのよ!」

 舞は、万理の肩を叩いた。

「知らないわ」

「付き合ってる男なんでしょ」

「・・どの男かわからない」

「覚えてないの?」

「なんとなくはわかる。失礼ね」

「ねえ、どうするの?」

「警備員に捕まえられるわ。ほっとけばいいのよ。警察に行くわ。何の問題もない」

「あなたって・・・」

「勝手に、熱を上げて。あがりすぎてしまったのよ、あれは。欲張りな男よ。最低。ちゃんと楽しんでるのに。たまにいるのよ。馬鹿が。こんなところにまで来て。もうこれで絶交。二度と会わない。馬鹿でしょ。こんなことをしなければ、またいずれ、私を抱くことができるのに」

「万理、あなた、おかしいわ。気づいてる?」

「あなたこそ、気づいてる?」

「わたし?何を」

「わたしのことがおかしいって、ほんとにそう思ってる?」

「あたり前じゃないの!」

 万理は馬鹿にしたようにふふっと笑った。長い髪をかき上げた。

「わたしね」と万理は深刻な表情を一瞬見せたあと、また笑みを浮かべた。

「そんなに馬鹿な女ではないわよ。あなたよりもずっとまともな女よ。ふふっ。あなたこそ異常よ。その狂気はいったいどこから?私のあとを、ずっとつけてきてるでしょ。全部、ばれてるわよ。あなた、そのせいで、ひどく疲れてるんじゃないかしら?ご苦労様。私はあなたに付きあってなんていられないから。それだけはよろしく。あなたじゃ何もわからないわ。私のことなんて何もね。やめなさい。私に構うのは。あの科学者の子と、真面目に大学に通っていればいいの。楽しみなさい。こんな世界で無理して生きようとしちゃ駄目。あなたではなくなってしまう。今度の撮影で、足を洗いなさい。私に関わるのも、もうやめなさい。あなたが思ってるような、そんな危険な頭のおかしい女では、ないのよ。期待に応えられなくてごめんなさい」

「期待って・・・」

「そうよ、期待よ。あなたは私に期待してるのよ。こんな女であってほしい。あんな女になってほしいって。私に押し付けようとしている。なぜそれがわからないの?あなたが自分で、そんな女を演じればいいじゃないの。何故わたしを使おうとするの。卑しい。あなたは卑しいわ。今回のこの仕事もほんとうに卑しい。でも、私は今度で、あなたとはきっぱりと縁を切ろうと思って、それで引き受けたの。今、はっきりと言ってしまうわ。もう二度と関わらないために、こうしてもう一度、あなたと一緒に仕事をすることにしたのよ。後を付け回されることも厭わず。今回だけは。今回だけは許そうって、でもね、あなたは、肝心なところまでは、掴むことができない。あのあと、私の行き先を掴んだかしら?無理よ、あなたじゃ、絶対に無理。それじゃあ、仕事に戻りましょうか。ほら、あの男も捕まったようだし。気を取り直して。あ、そうだ。これでいいじゃないの。今、撮ってた?男の乱入もカメラで押さえてたわよね?これでいいんじゃない?このハプニングを、そのまま使ってしまいましょうよ。終わり!撮影は終わり!みなさん、お疲れさまでした。チェックしましょう。さあ、映像をください。流してください」



 シカンはLムワ邸を訪れていた。

「君は、また、僕の仕事の集中力を途切れさせようとしているね。ずいぶんとトラブルが続くね、指原くん。まだ僕を解放してもらえないのかな。あの映像を見せて、クリスタルシティもおりてしまったよ。まさかあんな作品になってるとはね。思ってもみなかった。それに、Gという男を出演させるという約束も、果たしていない。誰なんだ、あの男は」

 ただの乱入者だったとは言えなかった。

 万理のプライベートの問題で現れた男なのだとはとても言えなかった。

「まあね、Gのことは、こっちの都合もつかなかった。だから、どのみち、出演が叶うことはなかった」

「誰なんですか、Gって?」

「いろいろと都合があるんだ。ある人に頼まれていた。裏の事情のことまでは、僕にはわからないけど。それでだ。ブラッドストーンという新しいブランドが、名乗りを上げてきたんだが・・・、その映像で、全然、構わないらしい。むしろ、賞賛してたよ。変わった人間もいるものだな。続編とはいかなかったようだが、それはそれで、別のブランドの広告として、居場所を得たということだ。それでいいだろうか」

「いいも、なにも、ボツにならなくてよかったです」

「どうしてあんな映像を撮ったのかなぁ。事情がいろいろとありそうだけど。個人的にはね、指原くん、僕は全然悪くなかったと思うんだよ。むしろ、前作よりも躍動感があってよかった。臨場感があった」

「それにしても、ずいぶんと、新しいブランドが誕生しようとしてるんですね」

「まだ世には出てないブランドばかりだよ、指原くん。ここに来て、急速に名乗りを上げ始めている。どういうことなのかはわからない。でも最初からこんなに広告費をかけるなんて、ただ事じゃないよ。資金力もそうだし、それだけの自信があるということだね。それも複数、名乗りをあげている。どうも様子が変わってきた」

「初めのデザイネストでしたっけ?商品はまだ、何も出してないですよね」

「いまだに、実体が掴めない」

「あれ、一度きりでしたか?」

「そう。どういうつもりなんだろな」

「陰謀なんですかね」

「戦略と言ってくれよ」Lムワは笑った。

「誰かが画策している。バックに誰かがいる」

「そう思う?」

「むしろ、ブランドは、複数あったとしても、大元は一つかもしれないですよ」

 Lムワの顔色が、一瞬で変わった。目を細め、右斜め上を鋭い目つきで見た。

「どうされましたか?何か思い当る節でも?もし、大元が一緒なら、次々と名前を変えて登場させようとしていたって、おかしくはない。もともといくつもの構想があったのかもしれないし、とってつけたように、その都度考えだしたのかもしれない。実験でもしてるんですかね。実体を見せてこないのも、策略からですかね?」

「そうだ、指原くん」

 Lムワは椅子から立ち上がった。

「そういうことなのかな」

「どういうことですか?」

「そこに気づかせたかったのかな。関わる人に。見ている人に。それが、今度の、一連の広告の本当の意味だったんじゃ・・・。商品など何もないんじゃないか。いくら待っても、そんなものは現れない」

「影にある存在を、わざわざ匂わせるためだけに?」

「そう」

「いったい、何のために?」

「わかるわけないだろう、指原くん。でも、広告イコール商品なんていう、単純な思考回路に、我々は反射的に慣らされてしまってるようだよ。物であると誰が言った?人かもしれない」

「人って言えば」

「そう、指原くん。今度の撮影に紛れこもうとしていた、男性のモデルがいたじゃないか」

「でも、結局は、その出演は果たされなかった。流れた」

「謎だよな」

「ところで、Lさん。今度の完成披露試写会には、来てくれませんよね?忙しいんですよね。それに、いろいろとゴタゴタ続きだったし」

「行ってもいいよ。もう、こうなっては、完全に巻き込まれているようだし。自ら、その中心へと突っ込んでいっても、問題はあるまい」

「裕美さんは?」

「連れていくよ。久しぶりに二人で行動するのもいいものだ。最近、まったくといって、会ってない。同じ家に居ても、顔さえ合わす機会がない。あっちも、何か始めたみたいだし。表現する手段を、欲しがっている。おそらく、すぐに、駄目になると思うけどね。絵なんて描き始めているんだからな。でも、おかげで、僕は書くことに集中できていい。それでも、ほったらかしにしている裕美のことが、気になり始めてるんだ」

「そのうち、大きな展覧会に、応募するかもしれませんよ」

 シカンは、わざと脅かすようにLムワに言った。

「裕美さんの名前を見たら、きっと話題になるだろうし。どんな絵なんですかね。裕美さんが描いたものを、何か見たことはあるんですか?」

「ないね。描いている姿も見たことがない。どうせ才能なんてないさ」

「否定的なんですね」

「いいんだ。気晴らしだろ。他に男を作るよりは、よっぽどいい」

「意外に、閉じ込めようとするんですね」

「口を慎めよ。見て見ぬふりをしてるじゃないか。自由に描かせてやってるじゃないか。しかし、あいつが、何かを自発的にやるなんて。驚きだよ。そんなこともあるんだな」

「影響を受けたんでしょ」とシカンは言った。

 心の中ではあなたじゃないですよと、シカンは付け加えた。



 ついに、沙羅舞は、万理の行先を突き止めた。

 CFの撮影が、当初の予定とはまったく異なる結末を迎えた、その夜。万理は、暗闇の倉庫の向こう側に止めてある車に乗り込み、すごいスピードで走り去ってしまった。沙羅舞はすでに自分の車で、その倉庫の裏手がよく見える場所へと、先回りしていた。息を潜めて、万理がやってくるのを待ち伏せしていた。今夜が最後になると舞は思った。何か重大なことが起こりそうな予感がしていた。今日はすべてを見ることができると確信した。それからの出来事に関しては、ずっとあとになってからも、舞はうまく道筋をつけられないでいた。思い出せないわけではなかった。鮮明すぎるほどに覚えていた。鮮明すぎるのだと舞は思った。景色に色が付きすぎていているわけでもないのに、濃度が半端のない領域まで、飛躍してしまっている。気分が悪くなるほどに眼に迫ってきていた。例えようのない不快さを、感じ続けていた。万理の車は、いつのまにか地下道へと疾走していた。舞は何度も下降しては、また平らな道へと戻る過程を繰り返した。ようやく駐車場らしき場所へと出る。万理はどこかにすでに止めたらしかった。その姿は見当たらない。駐車場は満杯だった。人の姿はすでにない。ショッピングモールと見間違えるほどの規模の広さだ。そしてやはり、ショッピングモールのような簡素な建物に電燈が照らされ、闇の中で軽薄に浮き出ていた。

 舞はその建物に向かった。自動ドアは機能していた。舞は買い物をするときのように、店の中へと入っていく。しかしどこか頭の中では、ここがショッピングモールではないと感じ始めていた。用途はまったく違う。潰れたモールを買い取ったのかもしれない。何か別の目的のために。予想通り、店内に商品の類いは置かれてはいない。ライトがなかったので、目が慣れるまで手探りで進むしかない。しかしどうも障害物は何もないようだった。体育館のようなガランとした茫漠な空間があるだけのように思えた。

 そのとき、バタバタという音と共に、舞の頭上を何かが通過した。鳥だと思った。そう思うとすぐに、集団となって舞の方へと飛び立ってきた。舞は反射的にしゃがみこんだ。やめてっと大きな声をあげていた。粉のようなものが頭に振りかかっていた。舞は髪の毛を触って払落そうとした。そのとき、空間に、青い光が下から照らされた。天井を見上げると、そこには大きな黒い鳥が浮かんでいた。一瞬、影かなと思った。しかしそれは平面的ではなかった。立体物だった。巨大な鳥は身動き一つとらなかった。青いライトは、消えた。舞は状況がまったくつかめなかった。私はどうすればいいのだ?進むの?それとも戻るの?ここに立っていれば、いいの?大きな鳥が、その場で動かずにいたことが、その答えだと舞は感じた。

 その数十秒のあいだ、万理を追っていたことを忘れていた。ふと、万理はどこに行ったのだろうと思ったそのときだった。答えはまたライトに照らしだされた。下から天井を映し出したその赤いライトの先には、仰向けになり、体をクの字に逸らせた万理の姿が浮かんでいた。万理っと声を出そうとしたそのとき、あの巨大な黒い鳥が、現れた。そして浮いた万理の背中に向かって、下から勢いよく、鳥は上昇したのだ。飛行機にも似たその立体物が、万理の体に突き刺さった。鳥は何度も何度も突き上げていた。万理の体は、そのつど激しく揺れた。万理はそれでも地上には落ちてこなかった。それ以上、うえに飛ばされることなく、ただ、痛みに耐えるかのように、鋭角の口ばしを持ているその巨大な鳥の前に、無抵抗だった。無言で我慢をしているのだろうか。絶叫を別の形で表現しているのか。真相は何もわからなかった。あなたには絶対にわかりっこない。万理の声が木霊していた。わたしはね、あなたが思っているほど、危険な女でもなければ、頭のいかれた女でもない。

 舞はしばらく呆然として、鳥と万理との残虐な合体を見せつけられていた。もうわかった。わかったから。もういいと、舞は思った。関わろうとしたこと自体、間違っていた。もう万理に嫉妬をすることもやめるから、と心の中で叫んだ。喉の渇きは、半端ではなくなっていた。声が出なくなっているのもわかっていた。その静寂の中では、万理の絶叫ではなく、複数のメロディが同時に鳴っていることを舞は知った。それは、どこか悲しげな旋律であったのに、その複合した音には、哀しみが消えているようにも感じた。



 井崎からの連絡を、Gは自宅の電話で受けた。一か月以上ものあいだが開いていた。

「意外に早かったですね」とGは言った。「もうしばらくは、かかってこないと思ってました」

「要件は何もないんだ」

「そうですか。世間話ですか?あなたの一番嫌いそうな」

「たまには、いいだろっ。話し相手になる人間が、他には誰もいない」

「たしか、結婚したのでは?」

「誰がそんなことを?」

 Gは常盤静香のことを考えた。彼女からの連絡も、なかった。彼女のマンションに行くことも、なくなっていた。

「いやね、君が心配になってさ。その、打ちのめされているんじゃないかと思って。自分がしていることに対して。自分がこれからやろうとしていることに対して。または、生み出したものに対して。どうだ?ずいぶんと大変な状況なんだろ?まさかそんなことになるとは、思ってもみなかったんじゃないのか?」

「何の話を、してるんですかね」

 Gは、間の抜けた声を出した。

「いずれ、君は、モデルとしてCFに出ることになる」

 いきなりの断定的な物言いにGは面食らった。

「いつもながら、唐突にものを言いますね、井崎さん」

「ククク」

「どうして、そう、有無も言わさない言い方なんですか?」

「もったいぶっていても仕方がないだろう。もう決められていることなんだから。わかるだろ?君のやることというのは、もうあらかじめ決められていることなんだ。僕が決めてるんじゃない。君の運命だ。だから、僕がそれを先に読み取ってしまって、ハイって君にわかりやすいように報告したって、何の不可思議さもない。僕が先取りして読み取ってしまっても、何の問題もない。そう。問題はないんだ、Gくん。あとは、君の反応次第だ。だが、どう反応しようが、運命は最初から決まっているところがあってね。僕はこう見えて、熱烈な運命論者なんだ。君が望んで入った道であろうが、偶発的に置かれてしまった状況であろうが、どっちにしたって、それは、通過しなければならない過程として、そこに存在している。君ができること、君がやらなくてはいけないことは、その段階を心ゆくまで体験するという、ただの一点だよ。わかるかい?つまりは、どれほど君がその状態に真剣に身をかけていけるかってことだ。好きであろうが嫌いであろうが。そしてもう心の底からうんざりしたという、その境地にまで、君が本当に到達できるのかどうかということ。必要なのは、激しさだけだ。一種の破滅願望があったっていい。すべてを終わらせたい。壊したい。殺したい。それでいい。生きるというのは、時に、そういった逆説的な行為でもある」

「どこかで、聞いた言葉だな」

「CFじゃないのかい?Gくん。君は最近、テレビを見る機会があったんだろう。そのCFに、そのような内容のものが紛れ込んでいた」

「覚えてないですね」

「覚えてなくたって、覚えてるのさ。その、CFの続編。第二弾に、本当は、君が出演するはずだった。しかし、急遽内容は変更された。君の出演は流れた。まだそのタイミングではなかったようだ。それで心配になって、電話をした。まだ、君の準備は整っていない。そう僕は告げられているような気がした。その第二弾のCFの出来は、実にひどいものだったよ。あまりにひどすぎて、スポンサーはみな降りてしまった。だが、捨てる神あれば、拾う神ありだ。それを、絶賛する人たちが、出てくるんだからな」

「それも、すべて運命だったっていうんですか」

「まあ、そうだよ。ただ、一つだけ、君に忠告しておきたいと思ってね」

「さっきの話ですか?」

「そう」

「人生論なんて、うんざりですよ」

「そう、それだよ。もう、うんざり。もう結構。誰よりもその感覚が高まったときに、変化は確実に訪れる。それは外から。必ず外から。現実は崩れ落ちる。厚くなったその皮を剥ぐように。空間はガラスの面として亀裂が入り、ばらばらに崩れ落ちる。まるで、君がガラスの街に閉じ込められていたかのように。そんなことを想像してみる必要はない。安易に楽な世界を思い描いて、そこにわずかな希望や慰めなんかを、見い出すべきではない。君は、心底、今の現実を恨む。憎むんだ。そして、自滅しろ。今まで君と、さんざん話をしてきたが、そのことだけは、言い忘れていたようだ。電話で悪いが、とにかく緊急を擁する重要なことだ。邪魔して悪かった。その君の打ちのめされた状況、その現実を激しく受け止めろ。いいな。激しくな。安易な希望なんて持つなよ。慰めに逃げ込むなんて、やめてくれよ。心底、嫌になれよ。怒り狂えよ。発狂した君を、僕は見てみたいんだ。見せてくれ」

 電話は、強烈な爆発音と共に途切れた。受話器が爆発したのかと思った。

 だが、耳から離した受話器は。まったくの無傷だった。回線は途切れてしまっていた。

 どこで、爆発が起こったのか。Gにはわからなかった。井崎の身に、何かが起こってしまったのか。井崎の近くで、何かが暴発したのか。それともまた、別のどこかで?

 何もわからなかった。



 Lムワ邸から帰ったその日の夜ことだ。シカンの携帯電話は緊急時震速報を受信していた。テレビをつけると、やはり同じ速報が流れていた。警戒が必要だという文字が表示される。だが、シカンはこのとき、ジシンの文字が違うことを見逃さなかった。地面が揺れるわけではなかったのだ。どんな対策をとったらいいのかわからなかったが、言われたとおりに、警戒はすることにした。万理と舞は行方がわからなくなっていた。あの日の撮影以来、万理は他の映画やドラマの撮影現場には現れなかった。何度かマネージャーからそちらに行っていないだろうかと、シカンのもとに電話が入った。行き先に何か思いあたる場所はないかとも訊かれたが、何も答えられなかった。

 シカンは反射的に、沙羅舞に何度も電話をした。留守電も入れた。しかし音信はまったくの不通だった。沙羅舞の事務所に電話しても、本人はどこにいるかわからないと言われた。沙羅舞の方は、CFのあとは、まったく仕事は入ってなかったらしく、事務所の方も、特に沙羅舞がいなくなったことでの不都合は、何もないらしかった。大学にも連絡したが、講義にも、あの日以来、出てなかったようだ。万理と行動を共にしているに違いないと思った。誰にも知らせずに、二人でいなくなってしまったのだと思った。第二波がやってきます。引き続き警戒を。画面はCFへと変わる。いきなり画面全域に、BLOOD STONEの赤い文字が現れた。そして、暗闇の中、わずかな青い光が照らされる。シカンは、ブラッドストーンという言葉に、自分の撮った映像が流れることを確信したが、現実は違った。暗闇で青いライトなど使った覚えはなかった。無音のCFなのかと思いきや、そこで、ヴァイオリンとチェンバロだろうか。複数の旋律が混ざり合ったメロディが聞こえてきた。それに伴い、明確に認識のできない暗い画面の中、闇が波のように揺れ始めているのがわかった。波?シカンは、緊急時震速報と混同し始めた。すると、闇の中では、コウモリのようなカラスのような黒い鳥が何匹も行き来しているのがわかった。音楽はしばらく続き、そして数秒後だった。下から天井を映し出した、赤いライトの先には、仰向けになり、体をクの字に逸らせた、髪の長い女性の姿があった。浮かんでいた。そして今度は、巨大な黒い鳥が、下から急激に上昇し始め、浮いていた女性の背中に向かって、下から勢いよく鳥は突き刺さっていった。飛行機にも似たその立体物は、女性の体に突っ込んでいった。鳥は何度も何度も突き上げていた。万理?シカンは、ふと、その女性が万理に見えた。顔ははっきりとはわからなかったが、嫌な胸騒ぎがした。万理の体は、そのつど激しく揺れた。女性はそれでも地上には落ちてこなかった。それ以上、上に飛ばされることなく、ただ痛みに耐えるかのように。その巨大な鳥の前に無抵抗だった。

 BLOODSTONE。

 画面は、緊急ニュース番組へと変わっている。

 女性アナウンサーが現れ、ただいま、日本全国の支局で情報を集めているところですと言った。しばらくお待ちください。確かに地面が揺れた様子はない。被害状況はと言われても、全然、ピンとこなかった。すぐにLムワに電話する。繋がった。

「また、君かい?さっき会ったばかりじゃないか!」

「テレビ、見ました?」

「見るわけないだろう。仕事に集中させてくれよ」

「今、つけてください。災害の速報をやってますから」

「つけたよ。ああ、やってるね」

「あの、Lさん。さっき言わなかったことがあって。そのCFに出演していたメインの女性二人が、あの撮影のあとで、行方不明になっているらしいんです」

「おいおい、話がめちゃくちゃだぞ」

「その二人が」シカンは構わずに続けた。「いや、そのうちの一人が、今、画面に現れたんです。ブラッドストーンって、僕のCFのスポンサーになったブランドですよね。なのに、今、流れた映像は全然違った。僕の作品じゃない!でも万理は出ていた。万理は大きな鳥に体を貫かれていた。まるでその血で、ブラッドストーンの文字が、書かれたかのように」

「おいおい、落ちつけよ。君が撮った映像が、今日から流れるわけがないだろ。まだまだ、先の話だよ。君が撮るずっと前に、今、君が見た映像は撮られたんだろ。そこに、君の知り合いのタレントが出ていた。それだけの話だろう」

「でも、ブラッドストーンですよ」

「なあ、それが、どうしたんだ?確かにまだその時点では世には出てない、ブランドではあった。しかし、彼らが別のCFを作成していたって、全然おかしくないじゃないか。そのあとで、君の作品にも名乗りを上げた。もともと君の映像が気に入ったというよりは、キャスティングで決定したのかもしれない。そのタレントがたまたま君の撮った映像でも主役を張っていた。だからちょうど都合がいいと思ったのかもしれない。第二弾として使えると思ったのかもしれない。第一弾は、君が今見たCFなんだろう。どうしたんだよ、ほんとうに」

「ねえ、Lさん。この速報って、いったい何なのですか?時間が揺れてるんですか?どういうことなんですか?どう警戒をすればいいんですか?」

 そうシカンが言ったときに、部屋がぐらぐらと強く揺れた。

「あっ」とシカンは声を出した。次第に揺れは大きくなり、携帯電話を放してしまった。

 家具が倒れてきた。コンピュータを激しく叩きのめしてしまった。テレビも消えた。

「おい!指原くん、おい!」

 シカンは、携帯電話を拾い上げた。「Lさん、Lさん!」

「おい、しっかりしろ」

「そっちは、大丈夫ですか?」

 揺れは治まる気配がなかった。それどころか、ますます強まっていく。

「Lさん!」

「速報通りじゃないか。これは、地震だ!」

「Lさん!」

 そこで、音信はぷつっと途絶えてしまった。

 シカンは部屋のドアを開け、外に逃げ出す準備をした。


 揺れで自宅が崩れ落ちる寸前のように感じたLムワは、自室を出て、裕美を探した。プールサイドの水は、半分以上が外にこぼれ出てしまった。水浸しの廊下を歩き、二階へと続く螺旋階段のところまで来た。裕美!と叫んだ。だが返事はまったくなかった。Lムワはまだ揺れの続くなか、階段をのぼっていった。その途中で天井が部分的に落ちてきた。

 Lムワは、裕美の部屋へとなんとか辿りついた。ドアは開いていた。

「裕美!大丈夫か?いるんだろ!返事をしろ。一緒に逃げるぞ。おい。いるんだろ?」

 裕美の部屋には、絵が額に入って立てかけられていた。ほとんど白い画面であったが、よく見れば、さまざまな白が使われていて、折り重なるようにたくさんの模様が描かれていた。重ねあわせてもいて、見る角度によっては、別の絵にも見えた。こんな絵を描いていたのかと感心するのもつかの間、家具が倒れてきた。床も不安定になってきた。次に大きな揺れが来たら、一気に底が抜けてしまうだろう。半壊は免れないと思った。裕美はいなかった。Lムワは絵をほったらかしにして、一階の自室へと戻った。ここまで書いたものが入ったUSBだけは、持ち出さなくてはと咄嗟に思った。これだけは守らなくては。電話もテレビも繋がらなかった。電気の供給も、おそらくは途切れたはずだ。

 簡素な自家発電装置が設置された家だったので、数時間は電気が消えることはない。破壊されたコンピューターに差し込まれたUSBが、無事であったことを確認して、安心する。

 揺れは治まっていた。家の外に出た。街灯はすべて消えていて、街は静まりかえっていた。振り返ると、家が燃え始めていた。Lムワ邸から煙が出ていたのだ。すぐに消防を呼ばないといけない。Lムワは少し離れた隣の家まで走った。しかし何かが変なことにすぐに気づく。隣の家を間違えるはずがなかった。そこにあったはずの家の向きが違うように感じるのだ。しかも、こんなに小さかっただろうか。外壁の印象も違う。しかし、この違和感は、そんな程度では終わらなかった。歩けば歩くほど、知らない家ばかりが連なっている。どの家も傾いている様子はなかった。人が慌てて外に出てくる様子もない。

 Lムワはどの家でもいいと、適当に玄関に入って、ドアを叩いた。

「みなさん、大丈夫ですか。すぐに避難しましょう。うちは燃えているんです。もし、電話が繋がれば、消防を。聞こえますか。聞こえますか?」

 Lムワは、身に覚えのない隣家の前で叫んでいた。幸い財布の持ち合わせはあった。

 どうも、人は家の中にはいないようだった。すでに避難した後だったのか。最初から誰もいなかったのか。Lムワは自分の書いた物語の中に、迷い込んでしまったかのように感じられた。

 すでに、ここはいつもの街ではない。自宅だけが自分のよく知る唯一の建物であり、周りの土地は、まったく異なってしまっている。そこは高級住宅街ではなくなっていた。家々が密集した新興住宅地になっている。プールのある家などどこにもない。庭もない。高台でもなくなっている。そこを通り過ぎると、車線の四つある広い通りへと出た。車の往来はなかった。煌々と明かりの灯すラブホテルが、闇夜に浮かんでいるだけだ。

 とりあえず、その光にLムワは導かれた。駐車場へと進んでいく。建物の入り口をすぐに見つける。中に入ると、空室を示す部屋が点灯する掲示板が現れる。201だけが点灯していた。Lムワはボタンを押す。フロントはなかった。正面にはエレベーターがある。二階につく。エレベータを降りる。201が点灯している。Lムワはドアノブを回し、中へ入る。ラブホテルは無傷だった。まるで要塞の城を譲り受けたかのように。そして、201を選んだことで、ホテルは満室となる。

 地にまったく足のついていないLムワは、ベッドの上に座り、高ぶった気持ちを落ち着けようとする。テレビをつけた。ニュース番組はやっていない。アダルトビデオに繋がってしまった。冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取り出す。インターホンが鳴った。Lムワは無視した。誰かが間違えて押したのだろう。テレビを消す。掛布団の上に仰向けになり、横たわる。天井に大きな画面があるのに気づく。何故かスクリーンが取り付けられている。ベッドと、ちょうど同じサイズのスクリーンが。なんだろうと、ずっとLムワは眺めていた。

 インターホンが鳴ったのは、その一度だけだった。眠気が少し襲ってきた。こんなところでも寝れるんだなと、Lムワは思いながらも、翌朝、光が戻ってきた世界のことを考えていた。そこですべてははっきりするのだろう。家は燃えてしまった。何故うちだけが燃えてしまったのだろう。その前に半壊はしていた。まあ全焼してしまったほうが、都合がいいのかもしれないな。でも、火なんて使ってはいなかった。どこから出火したのだろう。急に、裕美のことが心配になってきた。裕美は本当にいなかったのだろうか。怪我を負ったか、意識を失っていたんじゃないだろうか。家と共に彼女も・・・。いや、そんなことは。きっと絵が描き終わって、どこか遊びに出ていたのだろう。Lムワはそう思いきかせた。

 Lムワの手には、複数の出版社で連載を同時スタートさせる、予定の、原稿の入ったUSBだけが残された。


 Lムワは、そのまま眠ってしまっていた。眼が覚めたとき、そこが自分の部屋ではないことを知って、ひどく狼狽してしまった。仰向けになったLムワの体の上には、女性の体があったのだ。髪の長い女は、Lムワに馬乗りになっていた。服は着ていた。白いワンピースのようなものを着ていた。Lムワは体を起こそうとしたが、体がいうことをきかなかった。女の両手がLムワの両肘を抑え込んでいた。ものすごい圧迫感を感じた。

 そして、女の手はそのまま、Lムワの顔の方へと移動し、Lムワの頬を包み込んだ。すぐに首へと移動して軽く締め始めた。そのとき、Lムワは女に体を抑え込まれていたのではないことを知った。女の手の感触が、Lムワにはよく伝わってこなかった。感覚が麻痺しているようだった。体全体が非常に重くベッドに沈みこんでいた。Lムワの体に座りこんだ女は、体を離す。Lムワは、手に握っていたはずのUSBがなくなっていることに気づいた。顔は動かせなかったが、眼球は動かせた。しかし、ベッドの上には見当たらない。床に落としてしまったのだろうか。Lムワは、もしやこの女が奪ったのではないかと思い、ぎくりとして顔をひきつらせた。この女は誰なのだ?本当にUSBを狙ってきたのだろうか。まだ書いたものは全体の四分の一ほども進んでなかった。だが四部作だとしたら、その最初の章は昨日書き終えていた。まだ自分で読み直してはいないので、どんな物語なのかは正確にはわからない。

「返してくれ」呟いただけのつもりが、怒鳴り声となって部屋に響いた。声は出た。

「誰に頼まれたんだ!」

「知らないわ」と女は答えた。女のほうも、問題なく言葉を発することができた。

「あなたこそ、誰なのよ?ここは私が泊まる部屋よ。あなたが真夜中に勝手に入ってきたんじゃないの。追い出されないだけ、感謝しなさい。あまりにひどく、憔悴しているみたいだったから、そっとしておいたの。ねえ、舞っちゃん!」

 女は、部屋にいる誰か他の人間の名前を、唐突に呼んだ。

「わたしたち、二人が泊まるはずだった部屋に、なぜかあなたが入ってきた。ベッドの上で気を失ってしまった。声をかける暇もなかった。あなたは一瞬で意識を失ってしまったから。何かに追われてたの?すごく焦ってたみたいだけど。それに、こんなホテルに一人で駆け込んでくるなんで・・・何か事情がありそう。話しなら聞くわ。わたしたちだって、わけありなんだから。お互いさま。そうでしょ。女二人でラブホテルにいるなんて、おかしいでしょう?」

「隠れているのか?誰かから逃れたいのか?」

「死んだことになってるのよ」と女は答えた。「わたしだけ、だけど。そこの舞は違う。しばらくのあいだ、私はこの世界に存在させないことにしたの。この女、何を考えているんだって言われそうね。だから、先に言ってやるわ。私にだってよくわかんないんだから。でも、私って、周りが思うほどにイカレテいるわけじゃないの。そのことを証明したいの。是が非でも、証明したいのよ。そのためには、一芝居打つ必要があった。舞に付き合ってもらうことにした。私の後をずっと追ってきてるのよ、この子。変な子でしょ?きっと、私のことが、大好きなのね。来なさい、舞」

 そう呼ばれたもう一人の女が、Lムワの前に現れる。

「どこかで見たことがあるな」

 二人が並んだその様子に、ふと何かの記憶が、引っ掛かりをみせた。

「どこかで会ったことがあるな」

「どうかしら」

「直接、会ったことはないかもね」

 舞と呼ばれた女の第一声だった。

「失踪届が、もうすぐ出される」

「君の名前は?」Lムワは最初からいた女のほうに訊いた。

「万理よ。雲中万理。聞いたことあるでしょ?一応、少しは有名だから」

「どうも、世間のことには疎くてね、僕は」とLムワは答えた。「それで俺を追い出さないで、いったいどうするつもりなんだ?それに追い出される理由も、こっちには見当たらない。僕はこのホテルに駆け込んで、それで、空いていた唯一の部屋のボタンを、押したんだ。僕が最後の客だった」

「手違いのようね。私たちの方が早かった。消えてなかったのね、ランプが」

「何を企んでいる?」

 彼女たちに不気味な影を感じ取ったLムワは、少しだけ怯えた。

 だが、二人の美貌は、かなり際立っていた。好奇心を揺さぶるには、十分だった。

「なあ、今夜、地震が起こったよな?」

「今日?」

「かなり、大きな」

「それ、一か月前でしょ」

「今夜は?」

「まったく。微動だにしていない。頭でも打った?」

「今日、僕が家を出て、ここまで避難してきた理由だ」とLムワは言った。「揺れの影響かどうかはわからないが、家に火災が起きた。それで・・・」

「なんだ、火事にあったのね」

「うちだけが、燃えていた」

「まあ、ついてない」

「USBはどうした?」

「なんなのよ。また違う話?ほんと、どうなってるのよ・・。どこを打ったのよ?見せてみなさい」

「後頭部よ、きっと」と舞は言った。

「冷やす?」

「足を高くしたほうがいいんじゃない?」

「やめろ!」Lムワは今度は怒鳴ったつもりだったが、声はわずかに、呟いただけの音量しか出なかった。

「どういうことなんだよ。朝は、いったい、いつ来るんだ?」

「時間はまだ二時四十分。夜はこれからよ。ねえ、舞ちゃん。舞ちゃんは、この男はどう?いけるかしら?」

「うん、私は大丈夫。全然、合格っしょ」

「私も合格!じゃあ始めよっか」

「おい。始めるって何をだよ。変なことをするんじゃないだろうな。まさか俺を、殺す気か?誰かの身代わりに。ずっと狙ってたのか?」

「不思議よね」と万理は言った。「血眼になって探してもいないのに、協力してくれって懇願したわけでもないのに。こんなにも思い通りの人が、自ら、この巣に飛び込んでくれるなんて。その、あなたが怯えているようなことには、ならないから、安心して。命を奪うとか命を危険にさらすとか、そういう言葉は、口にしないでくれる?物騒よ。そんなことばかり言ってると、本当にそういう目に合うわよ。とにかく、三人で抱き合いましょう。ここのところ、ずっと、舞と二人きりでいるだけだったから。飢えちゃって飢えちゃって。もう仕方がないのよ。勿論、二人でも試したんだけどね。笑っちゃって、全然、駄目。確かに、肌は気持ちいいんだけど、燃えない。舞じゃなくても、きっと燃えない。どんな綺麗な女の子とでも、私は駄目。それだったら、どんなにダサくても、男の方がいい。あなたはダサくないし」

「おい、話を逸らすな。USBはどこだ?知らないわけがない。この手に握ったまま寝てしまったんだ」

「答えたら、私たちの要求を呑む?」

「肝心な方じゃなければ。そうなんだろ?今からすることは前戯みたいなもんなんだろ?その前戯のほうだけなら、呑むよ。一つの要求に対しては、一つの行動でしか応えられないから。それで、いいよな?」

「わかった。それでいいわ。オーケーよ。USBは、ここ。下着の中よ。あとは自分の手で取りなさい」



 北川裕美は、高校でかつて同じクラスにいた常盤静香を呼び出していた。久しぶりに部屋から出ていた。十年来の友達だった。ここ数年は、まったく連絡を取り合ってなかった。北川裕美が日本の芸能界で女優として大ブレイクしていた頃、常盤は海外の大学へと進学していた。南米の大学だった。北川はそのあと、作家のLムワと結婚して芸能界を退いた。常盤も大学を卒業して日本に帰国した。ここ数年、二人は非常に近い場所で生活をしていながら、その距離とは逆に、お互いに対しては、関心を抱くことがなくなっていた。常盤が海外にいて、北川が芸能界にいた、最も忙しい時期には、電話やメールで、頻繁に連絡をとっていたのに。年末年始も、会っていた。他の友人たちも集まり、年越しを盛大に行っていたりもしていた。お互いの家族と過ごしたこともあった。半年に一度は、二人で会って食事もしていた。

「どうしたの。いきなり、会いたいだなんて」

 常盤静香は、待ち合わせに指定された、もつ鍋の店に、予定より三十分遅れてやってきた。

「忙しそうね」と北川裕美は微笑んだ。

「働いているのよ」

「どうも、そうみたいね」

「意外だわ。あなたが、日本にいるのって。ずっと帰ってこないのかと思った」

「いろいろとあったから」常盤静香は口を濁した。「それよりも、結婚したんだって?」

「そうなのよ」

「私さ、ほら、もともと、日本の事情には疎いから、裕美がどれだけ有名人だったのか、実感もないのよ」

「今じゃ、どのみち、同じよ。もうほとんど忘れられている」

「子供は?」

「まだ」

「普段、何してるの?」

「絵を描いているわ」

「絵?」

「そう。キャンバスに描く絵のことよ」

「さらに、意外ね」

 常盤静香は、次第に身を乗りだしてきた。

「なんだか、別人みたい。でも、綺麗よ。いまだに、女優みたい。でも何だか、すっかりと落ち着いたみたい。雰囲気が。じゃあ、もう、夜遊びなんかもしてないんでしょ?大人っぽくなった」

「夜は、絵を描いてるの」

「そうなんだ。旦那さんは?」

「夜は早く寝るみたい。陽があるときしか、仕事をしない人だから。天気が悪くなると、仕事を放棄するような人だから。太陽が書かせるんだってさ」

「あまり、一緒に過ごしてないのね」

「私が絵を描くようになってからは、特にね」

「それで、何か話があるの?裕美が私を呼び出すなんて、今まで一度もなかったよ。いつだって、私の方からだった。それに、ここのところ、全然連絡してなかったし」

「静香はさ、向こうの大学で、何の勉強をしてたの?」

「えっ。どうしたのよ、いきなり」

「いや、私ってさ、どうも中身が空っぽなのよ。このルックスとさ、ちょっとした才気みたいなもので、ずっと生きてきたじゃない?それに見合う、中の構築を、ずっとおこたってきたわけ。それが今になって身に染みてわかるの。夫はたいして才能のない物書きだったんだけど、すいぶんと長い時間、努力し続けたことで、今になって自分の本当に書きたいことが書けるようになってきている。私と結婚したあと、ずっと傍にいたんだけど、その精神的な進化の仕方って、ほんとにすごいのよ。先に、技術のあるタイプじゃなかったから、余計にそう。彼の稚拙な技術は、長いあいだずっと、本人にとっては厄介な傷であり続けた。不自由さの象徴みたいなものだった。それがいつのころか、精神的な世界を、そのままダイレクトに再現することに成功した。何か、目に見えない別の世界と、その手は完全に連動し始めた。私の言ってる中身っていうのは、そういうこと」

「なんだか、難しい話ね。裕美、変わったわね。そんな子じゃなかったよ。ほんとにずいぶんと変わった。旦那さんの影響なのね」

「影響はされてるのかも。そういえば、あなたは?あなたは、まだよね?結婚。彼氏はいるんでしょ?そうだ、そういう話も、最近はまったくしていない」

「彼はいるわよ。もうすぐ結婚するかもしれない」

「私の知ってる人?」

「全然、知らない」

「いつ?」

「わからない。まだ、言われてもいないから。でも感じるの」

「わかる!感じるのよね」

「もうかなり迫ってきてる気がする」

「一緒に住んでる?」

「いや、全然。そもそもあまり会ってないし。だいたい、二、三か月に一回。いつも私の部屋で。時間が合わない。私も仕事が忙しいし」

「向こうも忙しい。だから、感じるのね。一緒に過ごせるようにするために。心の準備はしてるのね。結婚式やるんだったら、私も呼んでね」

「当然。そのときは、スピーチもお願いするわ。親友で、女優の、北川裕美さんですって、ちゃんと紹介する。きっと、どよめくわ」

「そんな影響力はもうないわ。今の私には。でも、そういう力を、また持ちたい」

「え、そうなの?まさか、復帰するの?」

「そうじゃない」

「絵?」

 北川裕美は、少し間をおいてから、頭を何度か小さく、縦に振った。

「そっか。大きな展覧会に出品するのね。そういう道筋がすでにあるのね」

「現実的に、算段がついているわけじゃないの。もちろん、あの北川裕美ってことで出すこともないだろうし。新しい無名の北川裕美でいきたいだけ。とても難しいことだとは思う。だから、たとえ日の目を見なくても構わないの。だけど・・・」

「だけど?」

「夫だけは、打ち負かしてやりたい!」

 北川裕美の目つきが変わったのが静香にもわかった。その眼は許せないと訴えるかのように燃えていた。常盤静香はそのただならぬ様子に、食事の箸を止めた。夫婦生活のことはあえて訊かなかったが、何かが起こっているのは確かだった。

「刺激を、受けているのね」

 常盤静香は、あいまいな表現で相槌を打った。

「あの人は、きっと、私を傷つけるときが来ると思う。初めからわかっていたことよ」

「傷つけるって、裕美を?」

「ずっと、その機会を伺っていることも、薄々わかってる」

 裕美の眼はますます大きく見開き、狂い始める一歩手前のように見える。

「わたしをうまく包み込んだと、そう思ってるんだわ。彼は。確かに私は昔とは変わった。意味もなく、燃え上がってくる苛立ちを、周りやいろんなもので発散することでしか、心の平穏を獲得できなかった昔とは違う。荒れ狂った当時の私の中に、あの人は別の私を見い出した。それはずっと忘れていた幼い時の私だったのかもしれない。みんなにかわいがられてね。おとなしかったし。笑顔も素敵だった。好かれていたの。大人にも子供にも。男性にも女性にも。でも彼と出会ったときの私は違った。同性には激しく嫌われていて、男性は私を、ただのセックスシンボルとしてしか見てなかった。頭のおかしい、薄い女だとも思われていた。でもそれが私にとっても快感だった。何に復讐してたのかしらね。よくわからない。とにかく快感だった。でも、私の心の奥では、そのときにしか通用しない限定的な力であることにも気づいていた。だからこそ、さらにその今という瞬間に、そのとき、突出していた想いや力を強く信じきって、陶酔することにもなった。彼と会ったのは、その末期のとき。会うべくして会った。すぐに結婚するだろうと思った。そして、そのとき居た世界を去ることも、瞬時にわかってしまった。大きく変化するだろうってことがね。私の人生って、すべてが激変って形で、状況が、根本的に突然変わってしまうのよ。これは、一種の法則ね。それからの、彼との生活。とっても穏やかで楽しいものになった」

 すでに、過去形で話すんだなと、常盤静香は内心思った。

「私は復讐するって気持ちが、どうしていつも、湧き起こってくるのかがわからない。それは、それまでの自分をひどく憎むっていう行為なんだけど、どういうことなんだろう。嫌いにはなっていない。もちろん、感謝もしている。いい思い出もたくさんある。でも憎み始めている。怖いくらいに。私の中の魔物が目覚め始めている。もうすぐ、乗っ取られるのがわかる」

「ちょっと、ちょっと、・・目が変よ、裕美。どこを見てるの?ここよ。私に焦点を合わせて。お願いだから。ここよ」

 裕美の眼は、本当に赤い火の玉が浮かんでいて、黒目を占拠していた。

「誰にとか、どこにとか、そういう憎みかたじゃない」

 裕美はその眼とは裏腹に、いたって平常なしゃべり方を続けた。

「誰にしゃべっても、この感覚はきっと理解されないと思う。だから絵にしようと思った。伝えようって気はないの。伝えるんじゃなくて、そこに存在させようって。それに魔物のこともある。魔物の行き場として、白い場所を提供したかった。場所というものがいかに必要か。わかる?静香。私は、場所を作る仕事がしたくなったのよ」

 常盤静香は何度も頷いた。彼女の言ってることは、頭ではよくわからなかったが、感覚としては、最もなことを言ってると共感する自分がいた。

「応援する。何もできないけど。ただ心の中で。あなたは間違っていない。たとえ何が起きてしまっても。どんな状況になってしまっても。あなたの旦那さんのこともそう。私のように、あなたを応援することはないかもしれないけど。それでも、きっと」

「そう思う?」

 一瞬、裕美の瞳の中の赤い魔物は、影を潜めた。

「一緒にいることはできなくなっても、別の形で繋がっていると思う。なんとなく、そう思う」

「会えてよかった」

「わたしでよかったら、いつでも力になるわ」

「なんだか、こういう話をしたのは初めてよね」

「もっとエスカレートしてしまってもいいのよ」

「望むところだけど、今日は、もう食事に専念したいわね」

 だが、常盤静香の方は、そう言われる前から、話を聞きながら、すでに大きな口を開けて料理を頬張っていた。

「今度は、あなたの話を聞くわ。一つ訊きたいことがあったし」



「まずは、あなたから」と万理はLムワにシャワーを浴びるように言った。

 Lムワが戻ってくると、次に万理が行った。ベッドに座っていた舞と、二人きりになった。

「裕美と結婚してから・・・」とLムワは話し始めた。

「えっ?裕美さん?奥さんのこと?」

「結婚してからは、まだ、一度も、他の女性と寝たことがない」

「そうなの?結婚して何年なの?」

「七年」

「すごいわね。いい人なのね、奥さん。何をやってる人なの?」

「前は女優をしていてね。北川裕美って名前で」

 沙羅舞の表情が一変した。「えっ、嘘っ!北川裕美って、あの、あの北川裕美?わたし、憧れていたの。あの人が好きで好きで。あの人がきっかけでこの世界に興味が湧いた・・。でも、まさか、ほんとに?ほんとに、あの人と結婚したの?よく七年も続いてるわね」

「失礼なことを言うなよ」Lムワの表情は怒気を放った。「いったい彼女の何を知っている?」

「ごめんなさい。私は何も知らない。でも憧れていたの」

「わかってる。君にとっては、あの、北川裕美が大事だったんだよ。力を与えていたんだ。わかってるさ。僕だけが彼女の違う面を見ていた。彼女の皮膚の下に隠れてしまっていた本質を、僕だけが見ていた。そして、そこに猛烈に引き寄せられた。魅せられた。北川裕美に近づいていった理由は、他の人とは、だいぶん違っていた。彼女も、そんな僕の態度がひどく珍しかったんだろうな。そんな僕に興味を持った。僕らの結婚生活は、君が想像しているような派手なものじゃない。君の期待を裏切るようで悪いが。だから七年も続いた。たいして驚くようなことじゃない。お互い、他の異性と関係を持つこともなかった。ごく自然なんだ。僕は、今から、その七年の生活をぶち壊そうとしている。君たちは、俺を破滅させに来たのか?目的は何なんだ?」

 万理がバスタオルに裸身を包んで、戻ってきた。

 沙羅舞はベッドから立ち上がり、浴室へと向かった。万理はLムワの横に座った。

 そして腕をLムワの首にまわし、顔を近づけてきた。二人は唇を合わせた。彼女の背後には、沙羅舞が浴室へと消える姿があった。

 二人はすでに、肌をさらしてゆっくりと抱き合っていた。十歳も年下の女性を抱くのは初めてだった。このまま万理と二人きりで最後まで行くのが、自然だったが、このあと舞という女も加わることを考えると、Lムワは妙な気分になった。そのせいで、自分の性器は萎えてしまうのではないかと心配になった。二人はお互いの肌を長い時間をかけ、確かめあった。局部への刺激を、なるべく避けるかのように。時間をかけて触り、口づけを繰り返した。そして、Lムワは、万理を横にして足を広げていった。口で指で万理の局部をやさしく刺激したあと、万理を起き上がらせ、自分の性器を無防備にして、彼女の顔を近づけさせていった。Lムワはベッドに横になった。しばらく、万理はLムワの下半部分に集中していた。そのとき、舞が浴室から戻ってきた。バスローブは身につけてなかった。彼女が体を拭いている様子が、うっすらと見えていた。すると、自分の下半部分の状態が変わっていることに気づく。万理は、上半身をLムワの顔の方へと倒してきた。すでに挿入していたのだ。まだほとんど動いていない状態だったが、Lムワはすでに万理の中にいた。万理は浴室のほうに、顔だけを振り向かせた。舞はすぐに、ベッドへとやってくる。バスローブの存在はない。万理は、挿入されていたLムワを一度抜き、今度は、自分の体を後ろに向かせて、そしてまたLムワを体内へと入れていった。逆向きになっていた。舞のほうは、Lムワのお腹のあたりを跨いで顔を近づけてきた。Lムワは舞とキスをした。Lムワは舞の胸を激しく揉み、そして舞は、体を全部Lムワの上半身へと預けてきた。Lムワは一瞬、舞と二人きりでいるような錯覚を覚えた。このとき、Lムワからは万理の姿が見えなかった。しかし万理の動きはだんだんと激しくなっていった。そして喘ぐ声もわずかながら遠くから聞こえて始めた。Lムワはその下半部分の快感に耐え切れず、舞の胸を激しく舐め、そして吸った。舞も声を出し始めたため、二人の息遣いが重なりあい、ズレ合った。舞はLムワから体を離した。万理の姿が見えた。そして万理も性器の結合を外した。Lムワは彼女たちの動きをずっと見ていた。すると、舞は、Lムワとは体の向きを逆にして跨ぎ始めた。舞の性器がLムワの頭上にきた。それと同時に、万理はまた正面を向いて挿入し始めた。Lムワは舞の性器を夢中になって愛撫した。今度も、下半身の刺激に耐えられなくなり、舌で舞を激しく攻めた。するとキスをする音が何故か聞こえてきた。隣のベッドに、誰かカップルがいるのではないかと思うほど、大きな音で。けれども、キスは万理と舞がしていた。二人は向き合い、激しくお互いの顔を包み込んで、口づけを交わしていた。Lムワは舞のお尻を強く掴み、抱きしめ、そして激しく目の前の舞の性器を舐め、気づけば万理の中へと射精していた。


 万理はすでにいなかった。

 舞は射精したばかりのLムワの性器を触り、口に含んだ。Lムワは起き上がり、再び力強く屹立する性器と共に舞をベッドへと押し倒して、舞の中へと静かに入っていった。浴室の方を見た。電気が灯されている。シャワーを浴びているのだろう。二人きりになったことに安堵した気持ちが湧いていた。Lムワは自由に緩急をつけて、舞の反応を伺った。体位を変えようかと思ったが、さっきの三人での不思議な絡み方を思い出してしまって、うまくいかなかった。そのまま、舞の表情と一体となりながら、さっきとは違った長いセックスを続けて、体内から精液を絞りとるように果てた。

 Lムワが性器を外に抜いてからも、舞はベッドの中で足を広げて、悶えていた。そのとき、ふと浴室の電気が消えていることに気づいた。万理が戻ってくると思ったが、彼女はいつになっても現れなかった。Lムワはベッドから降りて、浴室へと向かった。しかし万理は脱衣所にもいなかった。中をのぞいてみたが、やはり誰もいなかった。Lムワはそのままシャワーを浴び、それから服を着て、寝室へと戻った。これまで避妊をしないセックスなどしたことがなかった。子供ができるということに対して、異常な警戒心があった。それは子供ができたら生活はどうするのだとか、その女との結婚は、どうするのかといった、実際的な問題からではなかった。新たな生命体をつくってしまうということに対する、恐怖や、後悔、絶望そのものだった。自分というこの生ですら、その呪いから解き放たれていない状態なのに、そんな段階で、あらたな火種の分身を生んでしまうなんて、非現実の極みだった。それなのに、今、自分は二人の見知らぬ女の中に、無警戒にも、生命の火種を放ってしまっていたのだ。ありえない話だった。どうかしてるどころの話ではない。狂ってる。俺は狂い始めているのだとLムワは思った。そんなことを考えながら、浴室から寝室へと向かうことは、初めてだった。あまりの馬鹿さ加減に、笑いが込み上げてきた。自分が二人の子供の父親であることを想像した。母親はそれぞれ違う。それも同時に、ほぼ、同じ時刻に。そうだ。でも、二回目の発射の時には、精子はたいして存在しないんじゃないのか。Lムワは、その馬鹿な考えが再び湧き起こってきたことに、心底落ち込んだ。しかし、そんな俺を馬鹿だと思うのなら、あの二人の女は、いったい何なのだ。彼女たちこそ、一人の男の種を、別々にもらうなんていう、常軌を逸した行為を、平然とやってのけたのだ。そうだ。俺は同意なんてしていない。彼女たちが勝手にやったことだ。彼女たち二人に、無理やり押さえつけられて強姦されたと、そう主張することができる。ひどく憔悴していたので、抵抗する力をそのときは失っていた。通用するとLムワは思った。いや、何て、薄情な男なのだろう。責任は俺にもあるじゃないか。二人とも認知するべきだ。

 あまりに長いあいだ考えこんでいたようだったが、実際には、ほんの数メートルの距離を移動していただけだった。寝室のベッドを眺めた。舞もいなかった。しかしこの性器の脱力具合は、明らかに性行為をした後のものだった。Lムワはふと、USBの存在が気になった。すると、机の上に、それは乗っていた。誰も盗んではいなかった。なくして行方不明にもなってなかった。データが消えていないか確認したかったが、パソコンはどこにもない。それでも助かったとLムワは安堵した。複雑な気持ちが入り交じり続けていた。ふと、Lムワは、連載の話を思い出した。井崎と打ち合わせたあの戦略のことが、頭をよぎった。

「あなたは通常どおりに、書いていて構いませんから。きっと巨大な話になるのでしょう。章ごとに世界観が異なり、それだけを読んでも、十分に独立した話として受け取ってもらえるはずです。しかし、それはあくまでも、全体を構成する一部にすぎない。そのことを知ってるのは、あなたとこの私だけだ。二人だけが全体像を把握している。もっとも、僕は作者ではないので、あなたが完成させて、そのあと、拝読させてもらった時点で、共有することができる。その各章をばらばらの雑誌に、同時に連載させることで、すべての連載が終了したとき、単行本化する段階になったときに、各出版社に、その版権の争奪戦を突きつけるんです。金額を吊り上げていくんです」

 井崎はそう言って、自分に近づいてきた。あやしげな風貌だったが、頭が切れることはすぐにわかった。実現させるという能力が、誰よりもあるということに、Lムワはすぐに反応した。たとえ、あの男が何かよからぬ策略を巡らせていたとしても、自分に不利になるようなことは、何もないように感じた。あなたには、ブレイクスルーが必要だと、井崎は言っていた。今までの売り上げはとても芳しくない。それをこの機会で、一気に解消するべきだ。井崎は井崎で、そういった可能性のある人間を探していたのだ。直観で組むべきだとLムワは感じた。だが今考えると、それもずいぶんと危険な行為だった。すべてをあの男に任せきってしまっている。預けきってしまっている。確かに書くのは自分だし、書くことができなければ何も始まらない。Lムワの頭の中には、別の構想が浮かんできていた。井崎は出版社を手玉に取ろうしている。別に詐欺でも何でもなくて、相手よりも一段階大きな世界を、あらかじめ持つということで、最終的な局面における、圧倒的な有利さを、自分の中に保持しようということなのだ。ごく当たり前の発想だった。ならばこの自分もまた、それよりも一つ大きな世界を持っていないといけないんじゃないか。自然の成り行きだった。

 例えば、全部で六章の話ができたとして、その六章を、各六雑誌に連載するのではなく、その一つだけを出すことにする。残りの五つは、自分が保持したまま、外にはまったく出さないことにする。その一つの章に、今度は手をいれる。同じストーリーの話なのだが、色の違うシャツを作るように、名前や文体を変えてしまう。見え方をまったく変えてしまう。時代を変えてしまう。職種も変えてしまう。社会背景そのものも変えてしまう。ただし、時間の進み方だけは変えない。ページの進行もまったく変えない。雑誌掲載の交渉は、井崎に完全に任せる。その決まった連載に対して、自分は井崎の考える方法とは、まるで異なるやり方で進めていく。井崎はすぐに気がつくだろう。しかし話はあまりまともに取り合わないようにする。これは本当に別の章の話であって、あなたが考えたとおりに、僕は打ち出しています。まったく譲らない。井崎の疑念を払拭するべく、仕事に最大限打ち込んでいる姿を見せつける。あなたが選んだ作家が、見込み違いなはずがないじゃないかと。切実に、訴えかけるかのように。単行本の争奪戦をさせても、結局のところ、相当の額の仲介料を彼は取るに違いなかった。それに争奪戦などさせたら、今後の出版社との関係の悪化が、決定的に避けられなくなる。

 ここは、井崎の戦略に完全に乗るふりをして、その機会を生かし、最後にはその流れに沿わないという方向が正しいのだと、Lムワは思うようになった。



「大学では、何の勉強をしてた?」

 そのことをずっと、北川裕美は訊きたがっているのが、常盤静香にも伝わっていた。

「ずいぶんと、あの頃は連絡を取り合っていたけど、肝心のそういう話は、まったくしなかったから。今になって気になるの。あんなめちゃくちゃな遊び方をしていた時に、静香はちゃんと大学に通っていたんだなって。今になって、その差が歴然としてきたんじゃないかって」

「その話は、しなきゃいけないのかしら」

 常盤は決まりの悪そうな小さな声になった。

「いいのよ。したくなかったら」

「今の仕事とは、まるで関係がないの」彼女は悲しそうに言った。

「大丈夫よ。珍しいことじゃない。言ってみて」

「いや、あのね、その・・・確かに、大学には通っていたわ。でも学部とはまったく関係ないサークルというか、ゼミ?そういう団体に、所属していて、それで・・」

 常盤静香のしゃべり方は、急にぎこちなくなっていった。

「ほとんど、学部の勉強なんて、していないの。わざわざ海外まで行って、何をやってたんだか。でも、それは、私にとっては、とても重要なことだった。学部の試験はちゃんとパスしたし、進級もした。サークルにはね、その活動に専念できるように、ちゃんと裏では試験対策が確立してるのよ。要するに、教授たちとも繋がっていてね、情報を回してくれる。だから勉強なんてしなくても、簡単にパスすることができる。私は日本の大学に行きたくなかったから、日本の社会に無条件で取り込まれたくなかったから、外に出ていった。そして、今度は、大学というコミュニティに属したものの、やっぱりそこにも自分の居場所なんてないことがわかった。そのサークルに出会ってなかったら、おそらく途中で退学して、日本に帰っていたでしょうね。でも、そういう事にはならなかった。現実に私は、大学生という肩書の裏で、そのサークルの活動をずっとしていた。四年間。

 そして、卒業を期に、その活動ともきっぱりと縁を切って、帰国した。そのとき付き合っていた人との交際を続けながら、就職活動をして、働き始めた。表向きの履歴は、そんな感じよ。裕美の知ってるとおり」

「彼は日本人なの?」

「ええ。向こうで知り合った日本人。ちょうど私よりも何年か早く、留学していた人でね、そのサークルで知り合った。先輩だったのね。私を拾ってくれた人なの。変な言い方をすれば」

「じゃあ、向こうにいるときは、結構、頻繁に会ってたのね」

「ほぼ、毎日。同棲してたこともある」

「なるほど。だから、今は、少し離れ離れになっていても、問題はないんだ」

「問題はある。問題というのは、その、彼のほうに。彼の仕事の方にね。私の卒業と同時に彼も帰国して、その、サークルのほうも、そこで脱退したはずだった。もともと、サークルは大学生であることが条件だったから、卒業してしまえば、それでおしまいなはずなの。通常はそうなんだけど、例外があって、卒業しても、極秘に活動に関係し続ける人たちがいる。メンバーには知らされないんだけど、引き抜きがあるみたいなの。毎年、脱会する人たちの中から、ほんの数人だけが選ばれる。その数人は断ることができない。無条件でサークルに関わっていかなければいけない。そういう噂は、ずっと耳にしていた。でも当然のように、私に、その手は伸びてこなかった。誰が引き抜かれたのか、まったくわからない。自分以外はね。引き抜かれた人同士以外は。最初は、私も気がつかなかった。普通に二人で帰国して、お互いの家族とも会ったし。彼もどこか企業に就職するつもりでいた。私のほうは半年くらい何もしないで、次の道を探ろうかなって、緩い気持ちでいた。ところがそのうちに、彼は急に忙しくなってしまった。会う機会はめっきりと減ってしまった。私には突然、企業に採用されて働くことになったと言った。私もそれをほとんど信じていた。けれど、そのうちに、何かが引っ掛かり始めた。どうも普通のサラリーマンのような働き方とは違うんじゃないかと思い始めてきた。何かが違うのよ。表向きはまるっきりのサラリーマンなんだけど、何か、演じているみたいなの。全然、周りの人には、疑われていないと思う。けれど、私はずっと彼と居たわけでしょ。匂いが変わったことくらいはわかる。それから私が就職活動を始める半年のあいだ、彼の行動を探ろうと、いろいろと動いてはみた。でも、まったく尻尾は見せなかった。そのうちに、会う機会は激減していって、しまいには、何か月かに一度にまで落ち込んだ。私は自分の仕事を選ぶ基準を、忙しさっていう、たったのそれだけに、絞り始めていた。そういう話よ。何をしゃべってるのかしら、私。裕美ちゃんは、何が知りたかったんだっけ?あ、そうか。私が、大学で何を学んでいたのかって話だ。ずいぶんと、おかしな方向へと行ってしまった。ねえ、裕美ちゃん。どうして、そんなことを唐突に訊くの?あなた、変よ。変わったわ。そんなことを訊くなんて、失礼じゃないの。私たちって、真相心理を探りあうっていう、そんな惨めな友達ではないはずよ。かっこよく生きて、それで、そのかっこよさがお互いを刺激して、それでさらに飛躍していくっていう、そういう友達だったじゃないの。あなたしか、いなかったわ。そういう考え方に、見合う女の人って!あなたは輝いていた」

「そういうふうに、考えていたの?」裕美は驚きのあまりに、絶句してしまいそうになった。

「ほんとに、そんなふうに思っていたの?じゃあ、ここ最近、あなたから、連絡がこなかったのも・・。それと関係してるの?私が芸能界を去ったからなの?だからもう、私には用がなくなった。興味がなくなった。外見的に華やかだった私にしか、近づく理由はなかった・・。そんなのって、ひどいわ」

「あなたは、高校の時から魅力的だった。デビューする前から圧倒的に力強かった。私はあなたが友達になってくれて、鼻が高かった。わたしまで、魅力が増したように感じたから。周りからの目もそうだった。私の気分は最高だった。あなたとは卒業してからも、ずっと関係していようって、そのとき思った。わたしはね、失望したのよ。あなたが普通の女になりたがったことに。連絡を絶ったのは、そんな私の怒りよ。まったく世間から姿を消してしまったあなたを呪うために、今日は、あなたの誘いに応じたの。決着をつけるためにね。そしたら、今度は、絵ですって?絵で人に影響力を与えたいですって?冗談じゃない!あなたは表に出ないで、絵のほうを出すですって?身代わりに?自分の分身として?冗談じゃない!あなたが出なくてどうするの。あなたの輝きに、私は刺激されるのよ。こんなところで、食事なんてしたくはない。遊ぶなら、派手に海外のリゾートに行って、いろんな男と遊ばなきゃ。あなたらしくない。あなたは一体どこに行ってしまったのよ。許さない。許さないわ。でも、一つだけは許す。絵を描くことだけは許す。それを世に問うっていう、その行動も許す。ただし、それはきっかけよ。結果的に、あなたはあなたの居るべき場所に戻る。強い光が差すその高い舞台にね。そこに立つべき人。太陽は沈んだままではいけない。世界にとっては許されない。ほんとうはね、今日、ここで会えてうれしいのよ。もう、ずっとあなたは、日陰に入ったまま、出てこないんじゃないかと思ってたから。世界は、暗闇に包まれたまま。でも、その、また出ようっていう気持ちに、あなたはなってるみたいで、内心、ほっとした・・・。応援したいって気持ちも嘘じゃない。その手段だけが、以前とは変わるだけなのよね。そうなのよね。あなた自身は変わってしまっても、あなたのルックスは、あのときとはまったく変わってはいない。あなたのいるべき場所だって、これからもずっと、変わることはない。そのことに気づいてちょうだい!あとは、何をしても構わないから」

 最後は、涙の混じりあった目で、懇願するように静香は声を枯らしていた。



 Gは地震のあった夜、外出していた。三か月前に、自分が建築現場で働いていたときに関わった建物が瓦解してしまった、あの忌まわしい記憶のある街からは、出ようとしてい

た。向かうべき場所はどこなのか。Gはこの街に、うんざりし始めていた。結局、この次元において、刺激のあるものは何もなくなっていた。井崎という男に直接会った、あの奇妙な夜を体験してからは、特にそうだった。Gは図書館である本を読んでいた。何気なく手にした文書に、ずっと引き込まれていた。著者はLムワというおかしな名前だった。題名はなく、Lムワとだけ刻印された表紙をめくると、「破壊へと目覚めるマヤ人」と、書かれた第一章が現れた。マヤ文明のことだろうとGは多少の知識があったので、おそらく自分の知ってることが羅列されているのだろうと見下していた。だが読み進めると、どうも自分の知っているマヤ文明ではない。一般に知られているマヤ文明とは、著しく違っている。著者のプロフィールを見てみる。彼は考古学者ではなかった。専門のジャーナリストでもなかった。彼はただの小説家だった。なんだとGは思う。でたらめな話だった。フィクションだったのだ。Gはすぐに棚へと戻そうとした。だが一章くらいは、ざっと読み流してみようと思いなおした。「マヤ人は、KNA王国を築いた。KNA王国のあらゆる建物の作りや、装飾、配置には、KNA王国の世界観が埋め込まれている。それは、KNA王国が滅亡するその日までが、刻印されていた。自ら滅び去る時を、マヤは知っていたのだ。そこには、誰に殺されるのか。滅ぼされるのかまで、暗合として組み込まれていた。刺客が送られることも知っていた。そもそも人というのは、自然に老衰して、死ぬものでは、本来ないのだ。それは別の人間、あるいは別の生命体に、殺される運命にあるのだ。それは人間全体においてもそうだし、あるいは個人においてもそうだ。破壊へと目覚めるマヤ人というのは、その刺客の存在を知ってしまった人間なのだ。人種なのだ。彼らはその前に、自らを破壊してしまおうと考える。当然のことだ。恐怖に対しては、先手を取るのが常に有効だ。殺し屋がやってくる前に自ら死ぬ。そもそもこのマヤ人こそが、KNA王国を築いたときに先住民を虐殺し、街を破壊して、同じ土地に別の世界観を持つ文明を建てたのだ。世界観のまるで違う文化を持ったマヤ人が、先住民の文明と同化していくことなんて、まるで考えられない。高度な考えを持つマヤ人にとっては、先住民の文化など古くて、もうとっくに終わった世界に見えたのも当然のことだった。しかし、本当は、マヤ人も先住民を殺すことだけは避けたかったのだ。それはKNA王国が完成したときに初めて気づいたことだった。何も殺すことはなかったのだと。それは、自分たちも同じ運命を辿ることがわかってしまったからだ。繰り返すのだ。文明の盛衰は繰り返す。そして、自分たちがやったことと同じことをされる。奪い取ったのなら、最後は奪われる。マヤ人はその初めの時に、はっきりと、ものの道理を理解した。しかし、彼らはその初期からすでに破滅の時期を断定していたものの、強烈な抵抗をも見せていた。自分たちが滅ぼされるというのは、すでに旧態になってしまったからなのだ。ならば、自分たちよりも高度な世界観を持つ生命体が、自分たちを殺しにやってくる。だとしたら、さらに高度な世界へと、自分たちがなってしまっていたらどうなのだろう。やってくる刺客たちは、それ以上、近づくことができないのではないか。都に入場することをあきらめるのではないか。圧倒させてしまえばいいとマヤは考え始めた。それこそが、文明を不滅にする、唯一の方法だと思った。もしあのとき、自分たちが先住民の世界を自分たちよりも遥かに進んでいると理解したならば、破壊しようとは考えなかったはずだ。破壊できるとも思わなかったはずだ。いさぎよく、退散したはずだった。崇め奉ったかもしれない。祈りを唱え、引き返したかもしれない。マヤ人は、滅亡の日を断定し、都市のあらゆるものに、その情報を埋め込むと同時に、破滅の日を消し去ってしまうための、高度な文明を築く決意もした。そして、もし間に合わなかったときには、刺客が入場してくるまえに、破壊の刃を自らに向けることを天に約束していた」

 第一章というよりは序文だった。

 Gはあっという間に読んでいた。小説とは少し違うような気がした。だが、小説の棚にあった。Lムワと印刷されていたが、日本人の作家の棚にあった。プロフィールはまったく記載されてなかった。ネットでLムワを検索した。過去に何冊かの本が出版されていた。どれも絶版だった。そもそも五十年も前に亡くなっていた。ウィキペディアには生年月日と亡くなった日。それと、数冊の著作物しか、情報としては存在してなかった。

 そして、この図書館には一冊しかなかった。

 Gは第一章をめくる。

 【マヤ人の生き残り】というタイトルだった。2009年にそのマヤ人は他界したのだという。そういう記述だった。音楽家として、いくつかのまとまりのある楽曲を制作し、残した。その残し方には諸説が考えられるが、それは楽曲以上に謎として、今後も存在し続けるだろう。このマヤ人と私は、ある時期、といってもほんの数か月であったが、面識があったのである。会って直接話をしたこともある。インタビューという形で、彼と会話をしたのだ。雰囲気はとても個性的で、物腰はいたって静かだった。だが秘めたる情熱を感じたということだけは、言っておこう。話しの内容としては、彼の音楽に関するものが中心であった。そこには、彼が自分の生をどう考えているのかということが、見え隠れもしていた。そのとき、彼には他に仲間がいた。彼らはマヤ人ではなかったが、音楽という一つの軸を共有した、唯一の人間たちだった。マヤ人の彼が人間と深く関わった、おそらく最初で最後のときだった。最初と最後というのは、彼にとっては同じ概念の中にあった。始まりは同時に終わりでもあった。出会いと別れ。生と死。出会いは死ということだ。彼は殺される自分の運命を、直視したのだ。誰に殺されるのか。はっきりと自覚した瞬間だったのだ。それからの短い活動は、死へと向かう激烈な期間だった。本当の意味で、楽曲はそこで生み出された。ほぼすべてがその時期であった。その前にも制作はしていたようだが、記録としては残さなかったようだ。自ら破棄したようだ。そのときのメンバーが、今、正確に特定できるのならば、私としてもすぐに会いにいくことだろう。だがそのメンバーのうちの何人かも、すでに他界している。さらに他のメンバーにいたっては、音楽とは無縁の生活を送っている。そのときの記憶も完全に消し去ってしまっているような気がする。マヤ人は、自分が関わった人間の中の記憶を、消すという技術を持っていたといわれている。

 この最後のマヤ人はこの世界に確かに存在し、短いあいだではあったが、人間とも深くつきあったという事実に関しては、あまり好ましく思ってなかったのだろうか。どうも、残したくはなかったようだ。楽曲に関しても、おそらく同じ気持ちを抱いていたのだろう。しかし何か暗合のような形で、人間活動を超えた、別の世界のことを埋め込んだのだ。これは残してもいいと思ったのだろう。自分の個人的な記録ではないのだ。これは私の想像の域を超えないが、この最後のマヤ人は、この地球での人間同士の世界と、人間を超えた別の世界との間に存在する、「場所」というか「空間」というものに、ひどく興味を持っていたのかもしれなかった。興味をもったというよりは、感覚として悩まされていたのかもしれない。あるいはマヤ人がまだたくさんいた頃の、あのKNA王国の世界と、現代世界との間にある「領域」のようなところを、その身で体験したかったのかもしれない。その体感と、音楽とを、直接結びつけることで、永遠にその瞬間を繋ぎとめておこうとしたのかもしれなかった。何のためにだろう?後世のためにだろうか。自分の後に続く、人間社会のためにだろうか。

 第二章は、「パズルの街」と題されていた。

 都市構造について、Lムワという著者は、唐突に語り始めていたのだ。

 ここで、KNA王国へと話しはまた引き戻されてしまう。

 都市の構造において、その集落というものを、やはり前提として仮定しておかなくてはならない。その集落は時に距離を置き、時に隣り合い、時にまったく異なる世界の中に存在するものだという意識の共有が、まずは必要だ。まるで乗り物の話をしているようだが、そもそも人間というものは、常に何かに乗っているものである。この大陸からしてそうである。この不安定な大陸同士は、常にお互いを圧迫しあい、そのズレにおいて強烈な揺れをも引き起こすこともある。大陸が大きく移動し、地形がまるで変ってしまうこともある。都市だって同じことだ。都市同士が、柔軟に移動できなくて、どうするのだ?土地だけが固定されているという幻想は、ここでは通用しない。むしろ、その不安定な土地の上に建物を立てようというのは、必ずくるであろう大陸の激変に、まったくの無抵抗な状態を晒すようなものである。確かに土地が極端に隆起し、天地がひっくり返ってしまうことに対しては、為す術

はないのかもしれない。だが、そんな状態になる時というのは、そもそも、人間のほとんどが死んでしまうだろうから、そのときは、天の定めに従うのみである。

 話しがだいぶ逸れてしまったようである。つまりは、都市それぞれの集落が、そっくりとそのまま移動することのできる構造であるべきだと、マヤ人は考えたのだ。それは集落の中でも同じことだった。今でいうスタジアムは、その用途に合わせて、座席の位置やフィールドの形を、コンピュータ制御で簡単に組み替えることができる。都市も、そうあるべきだと考えた。一つの家に関しても同じことだった。KNA王国というのは、そういった変形を、いうならば、当然の試みとして内臓されている都市構想、建築技術とほぼ同義であった。その構想の礎になっていたものは、意外にも設計図ではなかった。時間の流れに関する彼らの考え方そのものだった。彼らは異なるいくつもの時間の読み方を持っていた。それも、統一された時間として。すべての人に共有された客観的な時間として。その複数の暦の世界を、都市構造に正確に反映させ、そしてそれに合わせて、自らの構造体を変形させていくというものだった。

 まさに、マヤ人たちの意識は、建造物の配置や、形、模様を通じて、時のサイクルを直接感じとれるようにしたのだ。

 おそらく、初期のマヤ人のほとんどが、複数の暦の感じ方を、自らの中に持っていた。それは彼らがこの地球にやってきたばかりであったからだ。何者にも影響を受けることなく、自らの本質を、再現できているときの話だった。時間が経てば失われていく。この地球における時間に、自然と肉体は歩調を合わせていく。失われることがわかっていたからこそ、残すことに執着する。懸命になる。埋め込むことに集中する。どうもそういった発想が、マヤ人の根底には太古から組み込まれているようだった。だがそのようなことは、勝手に私が空想しているだけだと、おそらく読者の方は思われるだろう。確かに資料が残されているわけでもないし、信じてくれる人は誰もいないことも重々承知している。だが個人的に言いたいことがあるとしたら、あの最後のマヤ人との会話の最中に、この都市のことが情報として私に伝わってきたのだということは、事実なのだ。そう言うと、今度は、その最後のマヤ人という人間の存在を証明してみろと、そんなふうに話は展開していくことになるだろう。だが最後のマヤ人に関しては、ここではこれ以上、追及するのはやめようと思う。また別の本の中で、彼に関してはまとめて言及してみたいのだ。今回のテーマは、あくまでKNA王国なのである。

 ここまでの記述を、Gは飛ばすことなく読みこんでいた。

 図書館の閉館までは、あと三十分はあった。最後まで読み通してしまおうと、彼は思った。

 最期の審判の日、という章が始まる。マヤ人が最期の日と断定した日は、二つあった。

 自らの民族が滅亡する日。そして、世界が終わる日だった。この地球が終わるずっと前に、自分たちの種族は消える運命にあることを知っていた。その一つ目の最期のときに、KNAはどう立ち向かえばいいのか。そのことが、彼らの考える生そのものであった。運命づけられた終わりの日に対して、抵抗しようとでもいうのだろうか。だが、終わりをどう迎えるのかが、始まりそのものなのである。彼らの世界観だった。KNAの変形するその構造は、最期のときに合わせて逆算されているのだった。最期の時を迎えるその瞬間までは、時間を前に進める、複数の暦の役割を果たしている。マヤ人の集合意識に働きかける時計の役割を果たしている。もちろん、それが、一番重要な役目であることには違いなかった。

 だが、それだけではなかった。

 最期のその瞬間、マヤ人たちの誇りが、世界にどう表現されるのか。

 それも重要なことだったのだ。



 二人の女がいなくなったホテルの部屋で、Lムワは朝を迎える。

 フロントで料金を払い、すぐに外に出た。服を着たままソファーで寝てしまっていたのだ。近くの古びたコーヒーショップに入り、朝食をとる。皿にロールパンが二つと、スクランブルエッグ、丸まったベーコンが乗った、貧相な食事だった。苦すぎるコーヒーには、大量のミルクを入れる。太った不健康そうな顔色をした、中年の女性が、一人で経営しているようだった。新聞があったので、Lムワは手に取る。すると、火事のニュースの中で、Lムワ邸が載っていた。やはり燃えてしまったらしい。しかし全焼は免れていた。中から遺体が発見されたという。死体は三十代から四十代と思われる男性の遺体。男性なのかと、Lムワは思った。裕美ではなかった。男性?他に誰かいたのか?詳しい身元の確認は、できていないらしかった。だが、ここに住んでいる男と見て間違いないと、その記事は断定していた。冗談じゃない。自分はここにいる。逃げ出したのだ。地震のニュースの方は、どこにも載ってなかった。裕美は、昨夜、家には戻らなかったのだろうか。彼女に関する情報はまったくなかった。少しほっとした。どういった理由であれ、彼女は煙に巻きこまれてはいなかった。けれど、彼女の部屋には、何点もの絵があった。絵はすべて燃えてしまったのだろうか。Lムワはそのことを考えたとき、ふと込みあがってきた、ある想いに気づいてしまったのだ。不謹慎にも高笑いが込み上げてきたのだ。あんな絵など、燃えてなくなってしまえばいい!ずっと自分はそう思っていたことを知った。絵なんていう馬鹿げたことを、始めやがって。おとなしくしていればいいものを!何をまた、自己主張などを始めるのだ?馬鹿馬鹿しい!何が不満なのだ?何に耐えられないのだ?Lムワは自分がものを書く人間だったからこそ、裕美の外に吐き出したいという衝動のようなものに、ひどく狼狽した。嫌悪感さえ持った。いったい何が気にくわないのだ?裕美が創作をするなんて、一緒になったときには思いもしなかったことだ。彼女は自分から離れたがっているのだろうか。許さない、とLムワは思った。離れたがっている。一人になりたがっている。だからそれには何かが必要だ。きっかけも必要だ。だがそれよりもまず、今この瞬間に込み上げてくる怒りを、憤りを、外へと放出しなくてはならない。放出には二段階あり、彼女はその最初の過程を、まずはキャンバスへと向けた。キャンバスが彩られれば、あとは家から外に出すだけだ。家の外に出すということは、彼女自身も外に出ていくということだ。離婚だとLムワは思った。離婚は簡単に成立してしまう。裕美に戻る気はまったくないのだから。ずっと別居のままなのだから。Lムワはいずれ、現実を受け入れざるをえなくなる。離婚は成立だ。全財産をはたいて買った、プール付きの二人の家は、意味をなくした。そもそも、すでに半焼していた。

 そのあとも、Lムワは新聞を捲っていった。が、ほとんど放心状態だった。

 店の中年の女の主人に電話をかけたいと申し出た。警察に連絡しなくてはいけないのだと言った。

「あんた、犯罪者なの?」

 彼女は表情一つ変えず、さも、そんな人間が、うちの店にくるのは自然なことなのだと言わんばかりに、返事をかえしてきた。

「あんた、そこのホテルから出てきたでしょ。みんな、そうなのよ。あそこに泊まって、それで、朝起きて、頭が冷えたのか何なのかは知らないけど、ここに来て、朝食を食べて、新聞を読んで、それで電話を貸してくれないかという。もう決まってるのよ。みーんな、おなじ。定番。そういう客しかこないんだから。みーんな、刑務所行きなのよ。いい男と知り合っても、全員、ブタ箱行き。ひどい話じゃない?こんなところで店を開いていて、いいことなんて、何一つないんだから。何を犯したの?あんたは。さっき、火事の記事をじっと見てたみたいだから。放火犯なんだろ?」

「これは、僕の家ですよ」とLムワは答えた。

「あんたの家?まじで?豪邸じゃないの。ほんとに?ほんとに、あんたの家?すごいじゃないの。成功者なのね。初めて!あんたみたいな客は、初めてよ!わたしにも、ツキが回ってきたんじゃない?ついてる。ついてるわよ!」

「ほんとに、僕の家ですよ」とLムワは答えた。

「ええ、わかってる、わかってるわよ。あんたは嘘を言う男じゃない」

「あなたに、僕の何がわかるんですか」

「わかるわ。わかるのよ」中年の女は一人で興奮していた。

「教えてくださいよ。あなたにわかっていることを、ぜひ、僕に教えてくださいよ!何故こんなところで僕は朝を迎えなければならないのか。教えてくださいよ!」

 女は身を乗り出してきて、Lムワの両肩をがっしりと掴んだ。

「あんた。気をしっかりと持つのよ。いいかしら。あんたは逃げてきたの。わかるわね。燃やしたその気持ちもわかる。あれが、あんたの家だというのなら、あんたはね、自分で自分の家に火を放ったの。冷静になって考えてみなさい。でも、あんたは錯乱していた。罪には問われない。でも、人は一人死んでしまった。仕方がない」

 そう言って女は新聞を手にとった。

「主人のようだってさ。完全にあんただと思われてる。今のままだと、あんたは死んだことになってしまう。あんたが出頭すれば、死体は別の人間だということになって捜査が始まってしまう。あんた、気をしっかりと持つのよ。昨夜あったことから、今、私と話しをしたことまでちゃんと思い出してしゃべるのよ。何なら、私で試してみる?私に話してみなさい。頭を整理してみなさい」

 Lムワは俯き、項垂れるような恰好で口を開いた。

「いったい、ここは、どこなんですか?」



「もう、閉館の時間なのですが、よろしいでしょうか」

 読むことに没頭していたGは、図書館の女性に声をかけられるまで、陽が暮れていたことにも気がつかなかった。

「借りますか?」

「いや、カードを持ってなくて」

「そうですか。それではまた、後日に。そのときにカードも作ってください。今日はもうコンピュータを閉じてしまっているので」

「ここで働いている人ですか?」

 女性は長谷川という名札を付けていた。

 目鼻立ちの整った顔をしていて、眉毛は少し濃い感じで、背の高い二十代の女性だった。

「夏休みの間だけ。バイトで。あの、もう閉館ですので、ごめんなさい。後片付けもしないと」

「あの、この本なんですけど・・・」

「あ、Lムワさんですか・・。珍しいですね。その方の本を、手にしているなんて。この図書館に、あったんですね。実は私も探していたんです。もう目録にはなくて。だから、この図書館のデータの中にも、『ない』ということになっていて・・。よく見つけましたね。あなたも、まさか、ご興味が?」

「たまたまなんだ。名前も聞いたことないし。題名もついてないですよ」

「変わった人なんですよ。あなたも借りたいんですね。でも、あなたは今日借りていくことができないですよね。続き、読みたいでしょう?なら、又貸ししてあげましょうか。ちょっと、近くで待ってたらどうかしら?向かいのカフェで待ち合わせしましょう」

 向かいのカフェとはどこなのだろう。図書館を出たあとで、Gは探してみた。道を挟んだその向かいには、モーテルしかなかった。その一階が喫茶店にでもなってるのかと冗談に思いながら覗いてみると、そこには確かに古びた喫茶店があった。中年の太った女がカウンターにはいた。客は誰もいなかった。ここで待っていれば、本当に彼女は来るのだろうか。コーヒーを注文した後、置いてあった漫画を読むこともなく、GはKNA王国について考えていた。マスターに声をかけられているのにも、気づかなかった。

「ねえ、あんた。あんただよ!他に客なんていないじゃないか。変な人だね。上の空だよ。なあ、兄さん。兄さんってば。今日はずいぶんと若い子が来るのね。朝にも、あんたくらいの歳の男がやってきたよ。ろくでもない男たちが来る店なんだ。逃亡してきた男だとか、これから犯罪をおかそうとしている男だとか。すぐにわかる。そういうのばっかりを見てきたから。朝に来た男もずいぶんと変だった。新聞をじっと見ていて、火事になったその豪邸を見ていて、それで、自分の家だって主張するんだ。家に火がつけられたのを知って、外に逃げたって。その勢いでここまで来てしまったって。ほんとなのかね?燃やした方だろ?その男も、もうここにはいない。戻ってくることもない。警察にちゃんと行ったんだろうかね。それとも、トンズラしてしまったのか。とにかく、おかしいのばっかりが来る。あんたは何をしでかしたの?」

 Gは初めずっと無視をしていた。

 はやく図書館員の女性が来てくれることを祈った。彼女が来る前に、すでに出てしまおうかとも思った。別に図書館の前で待っていたって、構わなかった。いや、でも、彼女に迷惑がかかるかもしれない。それから三十分が過ぎて、ようやく彼女は店に入ってきた。

「おばちゃん、いつもの」

 彼女は、マスターの女に気軽に話かけていた。知り合いのようだった。

「あ、セレちゃん」

 彼女は、カウンターへと歩いてきた。

 Gの横に座り、おまたせと笑顔で言ってきた。

「あれっ、この子、セレちゃんの連れだったの?全然、しゃべらないのよ。まったくの無視よ」

「やだ、おばさん。私の知り合いよ。ここで待ち合わせをしてたの」

 Gはそのやってきた女性に対して、目を疑ってしまった。

 確かに、濃くはっきりとした美しい顔はしていたが、エプロンをつけていたさっきまでの恰好とは、あまりに一変していたために、同じ人だとは思えなかった。

 黒と白の水玉模様の、丈の短いワンピースの上に、深い緑色の短いジャケットを羽織っていて、髪はほどかれていた。大きめのピアスをしていた。黒のブーツを履いていた。

「おばさんのところのコーヒー、あいかわらず、まずいわね」

「知ってて、頼むんだから」

「さてと。あ、まだ、名前を訊いてなかった」

「まだ、そういう仲なんだ」

「だって、さっき会ったばっかりよ。閉館間際に。この人が立ち読みしてた本がね、とても興味深くって。前々からずっと探していた本だったの。図書館にあるのは確実だったんだけど、データの中では、とっくに消えてしまっているの。ずっと行方不明になっていたんだけど。ずいぶんと、私も気をつけて探していたんだけど。そしたら、それを、この人はいとも簡単に見つけてね。平然と読んでいるんだから。ものすごく熱心に読んでいたから声をかけて。又貸しする約束をしたの。それで待ち合わせ」

「そうなんだ。まさか、セレちゃんの連れだったとは」

「どうしようかな」

 図書館の女性は、どういう貸し方をすればいいのかを考え始めていた。

 Gはそんな彼女に名前を訊いていた。

「えっ、なに」

「長谷川、何て言うの?」

「セレちゃんよ」とマスターの方が答えた。

「セレーネよ。長谷川セレーネ」

「ちょっと、自分の名前くらい。何でおばさんが」

「長谷川セレーネ。かっこいいな」

 Gは、彼女が長い髪をかきあげる姿に見惚れていた。

 髪の匂いも、Gの気持ちをぞくぞくとさせた。

「私も、今すぐにでも、読みたいわ。あなた、どこまで読んだ?」

「三章」

「KNA王国の・・・」

「そうそう」

「いいところね」

「コピーする?」

「駄目。コピーは、駄目」

「どうして?」

「いいから!こういうものは、安易に増やすべきではないのよ」

 彼女の言ってることが、あまり理解できなかったが、逆らうべきではないなと思った。

「一章ごとに読むの。今日。今からね。どう?又貸しする必要もない。何回も会う必要もない」

「いいね」

 Gは、彼女に手を引かれ、さびれた喫茶店を後にする。



第2部 第3編 オレンジ・ヘマタイト





















 彼女が序章と第一章を読み終え、そのあとGが第四章を読む。彼女が第二章を読んでGが第五章を読む。彼女が読んでいるあいだ、Gは頭の中で読んだ内容を反芻する。本を渡たしあうときに、彼女と目が合う。

 第五章は、複数の時間のサイクルについて書かれていた。

 サイクルといわれるくらいだから、当然円を描き、循環するものだった。サイクルと放物線にわかれていて、サイクルの方は、大きい四つの渦の存在があった。3、5と、4、5の波。それに、10というサイクルがあり、4というサイクルがあった。数字は太陽暦に当てはめたものへと改良されていた。マヤ人はおそらく、太陰暦を中心とした別の暦を実際は使っていたのだろうが、何故か記録としては、太陽暦へと変換されていた。おそらく、いずれ世界に普及するであろう基準を先取りして、変換していたものと思われる。私のような人間に気づかせることを前提とした変換だと、Lムワは語っていた。365日を一年と考えたときの、3、5年。4、5年。4年。10年。ということだった。10年ごとに、世界は更新され、4年に一度、DNAにショックを与える出来事が必ず起こるのだという。

 4、5というのは、そもそも9年の周期のことであって、その半分が、昼。半分が夜ということだった。

 前半を暗闇で過ごしたものは、後半は陽の当たった世界へと、その存在場所を変える。四年半で、ちょうど反転するということだ。突然、反転するのだろうか。その転換点へと近づくにつれて、じょじょにじょじょに変化していくのか。詳細はわからない。

 3、5というのは、エンジンの出力のことだった。三年半の周期で、その最初の一年目は、助走期、二年目は飛躍期、そして三年目で最盛期をキープし、その後、勢いをなくしていく。四年目の、前半の半年で、崩れ去る。この半年は、転換期間と呼ばれ、次の世界が混在してくる。生活はひどく不安定なものになった。気力は激減し、大地は不安定にさらされる。終わりになってようやく終息する。この四つのサイクルは、もちろん、一番小さな単位として紹介したものであり、現代の人間が、一人、生きていくにあたって、一番わかりやすい形として示されているものであり、この四つの描く図形が、とりあえずの最小単位という姿で表現されている。世界や宇宙を考えるときには、当然、その相似形としての大きな年数が、無数に存在する。もちろん、最小単位はもっと小さい。現代の人間一人を考えたときの、最も目に映りやすい姿として、残されている。

 世界や宇宙を認識するための装置としての、一人の人間を考えたときに、このマヤ人からの贈りものは、最も輝きを増した。人間、一人一人が、意識を覚醒していく、その過程においての、通るべき時間のサイクル、ということがいえそうだ。その複合的なサイクルの中で、日々の出来事を正確に把握すること。配置し、再構成することが、まずは始まりだった。

 十年で更新されるカレンダーは、人間に当てはめると、ちょうど生まれてから十年周期ということになるので、これは十代二十代と数えてしまっても、問題がない場合もある。数字が一つ増えていくことで、人生のテーマが劇的に変わる。それまで開くことのなかった扉が開き、そして開いていたはずの扉が、音もなく締まる。しかし人間は、自由意志をもっているため、それに抵抗して、逆らうことはいくらでもできた。閉まってしまった扉を、閉まっていないと認識し続けることは、可能だった。だが、そこでは、すでにマヤのサイクルとのズレが生じてしまっている。テーマは十年ごとに更新されていくという、このサイクルは、おそらく、すべての生命体は栄枯盛衰のもとに生死を繰り返していくという、あの放物線とも関係があった。俗的に言えば、若いときには若いときにしかできないことがあり、歳をとったときには、そのときにふわさしい在り方、というものがある、という自然の摂理のことでもあった。

 文明でも、勃興期があり、興隆期があり、快進撃を続ける時期があり、最盛期を迎え、やがては衰退期へと入っていく。それはある種、放っておいても機会はやってきて、去っていくということだった。運命は、人間の始まりから終わりまですべて操っている。残りの三つのサイクルとは、少々異なるのだ。他の三つはとにかく繰り返す。何度も何度も繰り返していく。だが、その一つだけは、二度と繰り返さないのである。十年のサイクルによって、自らがどの期に入ったのかを知る。注意深く観察していれば、そこには名前をつけることも可能なはずだ。

 そして、四年に一度、DNAへの直接のアクセスが可能となる。


 人間ができるのは、「許す」ということだった。

 改変される機会は、外から忍び寄ってくる。人間の皮膚は破壊され、機会は侵入してくる。それが、「許す」ということだ。刺客を受け入れるということだった。もちろん、これも、自由意志が存在している我々人間のことだ。拒むことはできた。変わりたくはない、変わりたくはないと念仏のように繰り返している人たちは、その侵入を防ぐことができた。無意識にでも変わりたくはない。このままがいいと、思いこんでいる人には、四年に一度の改変は回避される。ただ、ここで回避された侵入者は、消えてなくなることはない。それは先送りにしてしまった病原菌として、今度は突然変異を起こし、次の四年のサイクルの物体と、くっついてしまうのだ。

 次の波に乗る機会を狙う。この辺りの化学変化については、また別の著書で詳しく論じてみたいので、ここでは軽く流すことにするが、その回避というのが、一体いつまで可能なのか。何度、可能なのか。生涯にわたって、避け続けることができるのか。それとも、二度目にはすでに通用しないのか。そのへんの個人差は、はっきりとしてはいない。

 とにかく、マヤ人は、その四年に一度の変化を確実に受け入れ、そして自らも、その作用に加担し、より大きな影響力を、自らの体に刻み込むということが、なによりも大事なことだと言っている。


「意外に、早く終わったわね」と長谷川セレーネは言った。

 本は第五章で終了していた。

「もっとなかったっけ?」

 図書館で立ち読みしていたときには、十章くらいまで、あるような気がしていた。

 とても一晩では読み終わらないのではないかと思ったくらいに、分厚い本であった。

「思っていた、半分の長さしかなかった」

「あっというまだった。私は、まだ、二章だけど。もう電車もないから、送っていくわ。家まで。行きましょう」

 Gは、あわただしく、長谷川の家を追い出された。

「続きがありそうだったけど・・・」

「また、別の本を探すしかなさそうね。中途半端な感じ?読み終わっての、感想よ」

「中途半端な感じはないな。それは、それで。でも、やっぱり、十章まではあったような気がする。それに、他の著書にも興味が湧いた」

「できる限り、私も探してみるわ。そしたら、あなたにも連絡する。しばらくは、私たちだけの秘密にしておきましょ。図書館には、貸し出しの記録が残らないようにしておいたから。私の手元にずっと置いておける。また読みたくなったら電話して。貸し出しは禁止だけど、私の部屋でなら、いくらでもどうぞ。他の著作も、頑張って探してみる」

 四年に一度、その扉は開くのだと、Gは心の中で呟く。


「ねえ、なんか、さっきから、同じ道を何度も通ってない?」

 長谷川セレーネは、ふとそんなことを言い始めた。

「いや、そんなことは、ないと思うけど」

 そう言われたことで、Gは注意深く街の様子を見はじめた。

 道は、自分の知ってる通りであって、変わった様子は少しもなかった。

「そう」と彼女は素っ気なく答えた。「そんな気がしたから」

 ぎこちない会話だった。すでに、沈黙が二人を包みこんでいた。

「あ、そうだ」彼女は突然思いついたように声を発した。

 その唐突さは、車の前に猫が出てきて、ブレーキを急に踏んだかのような瞬発性だった。

 Gは思った。よくよく聞いてれば、彼女の話し方はいつだってそうだった。突然、息を切らしたように始まったかと思えば、あっという間に途切れ、その場にいた人間を荒野に置き去りにしてしまう。それが何度も発作のように繰り返される。

「十年前の、ちょうど、今頃だったと思うんだけど。私、今と同じように、夜間に運転をしていた。そのときは一人で」

 Gは、長谷川セレーネの横顔を見た。そんなはずはなかった。

 十年前といえば、彼女はきっと十歳くらいじゃないか。運転など、してるはずもない。

「十年後の自分を、強く意識させられたの。十年後に置かれた状態っていうのは、十年前に何を考え、どんな行動をとっていたかの答えだってことに、そのとき運転してるときに、気づいた。それで、今思い出した。あのとき、何を考えて行動をしてきたのかが。だって、その結果が、こうしてあなたを乗せて車を走らせているって、ことだから。今のこの状態は、十年前の私の反映にすぎない。あなたよ。そこに、あなたがいる。十年前の私と、あなたって、どんな関係だったのかしら」

 彼女とは、ちょうど十個、歳が離れているのではないかとGは感じた。十年前か。確かに、十年前に、彼女と出会っていたとしても、こうやって二人で車に乗ってる状況は生まれてはいない。

「あれっ。ちょっと、待った!」

 Gは外の風景に異変を感じた。

「ここを通るの・・二回目だよ。確かさっき通ったばっかりだ。そんな、馬鹿な!。旋回してないよな?まっすぐ、行ってるだけだったよな。気のせいか。いや、でも、確かに通った」

 Gは、長谷川セレーネに言った。

「で、この道で、大丈夫なの?このまままっすぐ行って」

「しばらくは、この道なはずだ。交差点で左に曲がらなきゃいけないんだけど、その交差点が現れる前に・・・。二回、同じ道を通った・・・ような。君がさっき変なことを言うからだぞ・・・」

 Gは、少しうら寒くなった。霊園も近かった。

「迷っていないのなら、大丈夫。もう少ししたら、その交差点に出るわよ」

「だといいけどな」

 悪い予感は当たった。ずいぶんと走っても、交差点は現れなかった。

 代わりに、ガソリンスタンドとコンビニの組み合わせが再び登場する。

「昭和シェルとセブンイレブン。さっきとまったく同じだ。とまってる車も、ほら、あの赤いフォルクスワーゲン。な。これで、決定的だ。ぐるぐると同じ道を通り続けている。どこかで適当に曲がるんだ。どこでもいいから。交差点じゃなくていい。田圃道でもいいから。あ、そこ。そこで、いい。ちょっと細いけど。すぐに、別の大きな通りに出る。そこを、左折」

 長谷川セレーネは、急ブレーキを踏み、左へと小さく旋回した。苗の植え揃った田圃地帯が続いている。

「さっきは、どうして、あんな事を言った?同じ道を通ってるだなんて。まだあのときはそうじゃなかった。どうして、あんな事を?」

 長谷川セレーネは、運転に集中していた。

 道があまりに細かったのだ。

 少しでもどちらかにずれてしまえば、車輪が沼へとはまってしまいそうだ。

 そのことがわかり、Gはそれ以上追及するのをやめた。

 別の道は、いつまでたっても現れてこない。田圃はきれいに区画整理がなされていた。道はほぼずっとまっすぐだった。あまりにまっすぐ過ぎて、逆に気を抜いてしまう機会が満ち溢れている。

 Gは、仕方なく、黙って別のことを考えた。

 KNA王国の街の区画について、思いを巡らせた。

 当時は、どんな乗り物があったのか。人力車か馬車か。それとも案外、今よりも高度な乗り物があったのか。それとも、そんなものは一切なくて、人は常に徒歩だったのか。文明が滅びた瞬間の、その街の風景とは、一体どんな感じだったのか。どんな形状をしていたのか。複数の時間のサイクルに従った、建造物の配置や構造は、現代のスタジアムのように変わるのだという。

 もし、KNA王国が遺跡として発見されることがあったとしても、そのときのテクノロジーは、完全に凍結されてしまっているわけだから、おそらく、その最終形態が、文明のあったすべての期間にわたって、存在してきたとされてしまうであろう。勝手に決められてしまう。たまたま、その形が最後であっただけなのに。それに気づく者は誰もいない。

 いや、たまたまではないか・・・。最期、その形状で終わらせるために、その瞬間に合わせて、最初の形状を決め、絶えず、変形させ続けていたのだから。

 車体は、右へと旋回する。どうやら広めの通りに出たらしい。対向車の姿がある。ここはどこなのだと、Gに訊くことなく、彼女は淡々と車を走らせていた。

「侵入者に合わせて、街は、巧みに形状を組み替えているのよ」

 しばらくしてから、長谷川セレーネは、抑揚のない声を出していた。

「侵入者っていうのは、私たちのこと。違う。ここは違う。全然、違う。あなたも私も、入ったことのない領域よ。止まっては駄目。囚われてしまう。ガソリンは、あとどのくらいある?もう半分以下しかないじゃない。いいわ。ガス欠になったときはそのとき。さっきのスタンドで入れておくべきだった・・・。コンビニで何か食べ物を買っておくべきだった。夜が明けるまで走り続けないと。今夜は寝れない。ずっと話しかけていて。私を寝かせないで。完全に迷走してる。抜け出すには、光が必要だわ。太陽の光が必要よ。遠くがまるで、見えないんですもの。私たちの思考は終了してしまった。通用しない。次元が変わってしまったのよ。どうして?どうして今なの?私が想像していたよりも、ずいぶんと早い。早すぎる!前倒し?そうなの?いや、まさか。あのね。聞き流してくれて全然いいから。でも、しゃべらせて。じゃないと眠ってしまう。いいからしゃべらせて。反論はしないで。ただ聞き流して。走り続けていないと、駄目なんだから。私がね、そのLムワって人の著作を、探し始めるきっかけになった話よ。まさか、こんな時のためにあった知識だなんて、思いもよらなかった。

 十年前に出会ったの。この十年のあいだ、何度も運転中に似たような状態になった。

 そのとき、隣にいたのは誰。一人のときもあった。彼氏を乗せているときもあった。女の人が乗っていたときは、なかった。とにかく、まったくの暗闇の中、電灯もなく、人のいなくなった街の中を走っているようだった。道路に引かれたラインやガードレールが、突然光始めて。蛍光塗料を塗ったかのように。だんだんと、車体が地面から浮いているような感じがしてくる。音もなく、ものすごいスピードで、移動しているような気がしてくる。さあ、ここから、何かが始まる。いつもそう期待した。でも風景は残念ながら、元の街灯のある、光もしないラインやガードレールへと戻ってしまっていた。並走車が現れ、たくさんの歩行者の存在が見える。また戻ってしまっていた。四回あった。いつも同じ。その状態どまり・・・。その体験のあとで、私はひどく高熱にうなされてしまった。そして一晩じゅう、毛布に包まり、汗を出して、朝を迎えると、熱はすっかりと下がっていた。四回ともそうだった。その瞬間、今までと、まったく同じ次元の日常に、戻ったことを知った。

 何度かセラピストにも通った。もういいかげんにしてほしいと、私は訴えた。見えそうで見えない世界。見えないのなら、最初から、知らせてこなければいい。何も期待しない中で、私は私の人生を模索したい。違う世界を感じ、あと少しのところまで、何度もつれていかれる状態からは、いいかげんに抜け出てしまいたい!

 その世界を突き抜け、新しい自分を獲得したい!私はどのみち消したかった。くすぶり続ける世界を消したかった。十年前、私が思ったことは、こうして今日まで、心の中で生き続けることになってしまった。

 ちょうど、十年後の今日。見てちょうだい。あなたにも、見える?それとも私だけ?人はいない。街灯も消えた。さっきまで何度も見ていたセブンイレブン、昭和シェルも現れない。ついに同じ道を旋回し続けていることもなくなった。

 世界はまた少しだけ変化した。

 どんどんと近づいている。悪いわね。あなたを巻き込んでしまって。

 でも、それも、あらかじめ決まっていたこと。あなたも、その世界を、体験することになる。抜ければ、私たちは別々になる。今度は抜けられるかもしれない。ほんと。いつもと少しだけ雰囲気が違う。ここからなの。そう。どうして他の車が見えなくなったのか。どうして電灯が消えてしまったのか。どうして建物の姿が見えないのか。人がいないのか。車体は、宙を浮き始めている。KNAよ!

 車は宙を飛んで移動する。あの国では、それが日常の世界だった。その空間を操作することで、車体は目的地へと進んでいく。この窓ガラスに映る景色は、空間の次元へと、アクセスし、それを組み換えることで、車体を目的地と直接結んで、その最適な空間を構成し直している。そこは、車体を、空間の一部として取り込んだ世界であり、さらには、その空間を変化させていくことで、車体を前へ前へと進めている。

 このKNAにおける車というのは、燃料がまったくいらない。

 空間を有機体のように、すべての元素を一体化させることで、同化させることで、位置を変化させていく。位置が変われば時間も変わる。やっぱり目的地に着くまでには、時間というものがかかる」

 フロントガラスには、蛍光塗料の線が網目を描きだしていた。

 蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。最初は黄緑色をしていた。そのうち青色へと変化していく。橙色と青の比率は、同じくらいになった。再び、黄緑色へと変化している。網目の中を、車体は突き進んでいるかのようだった。網目は、常に立体的であり、三次元の動きを繰り返していたので、ずっと見ていると酔ってしまいそうになる。

「親戚の大きな屋敷で、その文献を見てね。初めて、Lムワっていう名前が、私に刻まみこまれたのよ。KNA王国で使われていた乗り物の話だった。絵本って表紙には書いてあったのに、拡げてみても、ちっとも、絵なんてありはしなかった。空白だらけのその本に、ときどき思いついたように、一文か二文、現れる。KNA王国だとか、いくつかの単語が放りこまれていた。GIAっていう乗り物が、空中でたくさん行き交っている様子が、文章で表現されていた。子供にとっては、とっても難解な文章でかかれていた。それがすべてのきっかけだった。始まりだった。私はその本を見てから、それまでの子供のときの記憶は、すべて吹き飛んでしまった。まったく思い出せなくなってしまった。今も、そう。十歳よりも前の記憶は、すべてが吹き飛んでしまっている」

 そのとき、Gは左の窓の先に、箱のような立方体が、サイコロのように浮いていることに気づいた。ふとそっちに目を移すと、それは家のようだった。だが家は完全に透けていた。家といっても、ただの箱型の部屋なのだが、それが浮遊し、ゆっくりと回転しているかのようだった。立方体の外枠のラインは、くっきりと浮き出ていた。紫の蛍光塗料が、ぬられているかのようだ。その透けた部屋の中では、裸の女性の姿があった。体だけが通常の色彩を帯びていた。二人の裸の女性が、向き合い抱き合い、キスをしていた。

 だが人間は二人だけではなかった。彼女たちの体の下には、男が仰向けになり、寝ていた。片側の女性の一人の、尻の下には、男の顔がぴったりとくっついていた。そして、もう一人の女性は、男の下半部分の上で、ずっと上下に動いていた。一瞬、ぱっと目を離した隙に、その枠が紫に光る中身の透明な立方体の部屋は、闇に消えていた。

 気づけば、車内の左側の窓の外にも、黄緑色の網目が、真っ黒な背景の中で張り巡らされていた。



 万理と井崎は、井崎が借りているホテルの最上階で待ち合わせをした。

 素早くエレベーターに乗り込み、万理は46階を押した。そして、井崎が先に入っているはずの部屋の前に立ち、二回ノックした。井崎は一人だった。

「他にも、誰かいるのかと、思っていました。引き抜きですか?」

「まあ、入って」

 井崎は、万理をソファーに座るように促した。井崎はその向かいのアンティーク調の椅子に座った。飲み物一つ、出てくる気配はなかった。

「どうして、私にちょっかいを?単刀直入におっしゃってください。まどろっこしいことが、嫌いなもので」

「君と契約がしたい」

「やっぱり」

 万理は髪をかきあげて、うんざりした顔で井崎を見た。

「ご存じでしょうけど、私は、今、失踪中でしてね。隠れてる身なんですよ。でも、だからといって事務所をやめる気はない。ちょっと思うところがあって、何とも、関わりを持とうとしてないんだけど、別に、事務所に対する不満だとか、仕事に対する文句だとか、そういったことではないんです。きっと、あなたは、反抗的な態度をとるわたしというものを、想像していたのでしょうけど。ここは、チャンスとばかりに思ったのでしょうけど」

 井崎は何の断りもなく煙草を吸い始めた。特に反応を示さないことから、万理はまた、自分で言葉を紡いでいかなければいけないことを悟った。

「それと、沙羅舞っていう、半端な女優だかタレントだか、よくわからない女がいるんだけど、彼女もどうやら、失踪中なのよね。でも勘違いしないください。私とはまったくの無関係ですから」

「言いたいことは、それだけか?」

 井崎は、身体をまったく微動だにさせずに、口元の方もほとんど、動かさなかった。

「ずいぶんとおかしな話だ。人としばらく、関わらないために、その、かくれんぼをしているのに、俺の誘いには、すぐに乗るんだからな。何をしに来たんだ?」

 そんなことを言われるとは、思っていなかった万理は面食らった。

「何をしにって。呼ばれたから来ただけでしょ。失礼な男。あなたが、何故、わたしを呼んだのか。話しはそれからでしょ。何の始まりもない中で、どうして私だけがべらべらと、しゃべってるのよ」

 井崎は床に吸殻を捨て、足で踏みつぶした。

「そう、いらいらしなさんな。私は聞き上手なのだよ。私の前に立つ女というのは、みんな、自ら、自分を開いていくのだよ。女というのはね、特に、自分自身を開きたい生き物なんだ。それを受け止めてくれる男を、常に探している。女の男に対する趣味っていうのは、千差万別だと君は思ってるんだろ?世間のほとんどはそう思っている。女によって好みの男は違う。そう思い込んでいる。刷り込まれているんだ。だから、自分を開くということを、本当に受け止めてくれる男、という視点では、まったく選んでいない。じゃあ、どんな基準で選んでいるのかといえば、それは無難っていうラインだよ。放っておくと女というのは、自分を守る傾向に走るものだ。そうなってくると、ますます無難、つまりは自分に相応するとか、もっと言うと、自分よりも下。低い男に焦点を当て始めるのだ。それでいて金のある男を望むんだからな。つまりは、経済的なランクが高めであって、なおかつ人間的には、無難。扱いやすいという男というのが、もっとも、モテる男ということになる。自分が開く。開いた自分を、見てもらう。見せたいと思う男、なんていう発想は、

これっぽっちもなくなってしまう。それから先、その女はひたすら閉じていくのみだ。そんな女と一緒にいる男は、もっと閉じていく。男というのは、本来、閉じるという傾向からは、まるでかけ離れた生き物なのにな。開きたいんだろ?万理。君は、本当は閉じたくないのだよ。だが君がいくらそう思っても、君をとりまく環境のすべてが、すべて閉じるという方向へと強いてくるのであれば、そのことにいち早く気づき、そして、逃げるということを、君は迷いもなくおこなう。感受性と行動力のある女性だ。君はさ、雲隠れしている理由を、本当はよくわかってないんじゃないのか?君自身も理解不能に陥っていて、それで、苛立っているんじゃないのか?さっき部屋に入るなり、君の神経は、ピリピリとしていたよ。だから、少ししゃべらせてあげたんだ。リラックスさせてあげたんだ。私の配慮に少しは気づいてくれよ」

「契約って、言ったわね」万理が井崎の話を遮った。

「言ったよ」

「その言葉は、好きじゃない」

「約束」

「そう。裏切ることが、許される関係がいい」

「なるほどね。確かにね」

「個人的な関係を結べってことなんでしょ?はやい話が。仕事にもつながってしまうのかもしれないけど、基本は、私と友達になりたいってことなんでしょ?」

「クククク。友達ねぇ。友達かぁ。いいよ。実に、いい。友達になろう。裏切ることが前提のね。クククク」

「その笑い方、なんとかならないの。それに、床に吸殻を捨てるの?あなたって人は。どういう神経してんのよ」

「意外に気にするんだねぇ。ということは、つまりは、僕と肉体関係を持つことになるかもしれないという前提が、今、発生したということだ」

 万理は、井崎という男の表情から、何かを読み取ろうとするかのように、じっと睨むように見ていた。

「ブラッドストーンのCМを見たよ。あれは、君が雲隠れする前に撮ったんだな」

「あの撮影が終わってから、逃げ出したのよ。映画の撮影も、途中で途切れた。ドラマも。関係ないわ。もう忘れたし。どんな役だったのかも忘れた。映画は公開されないだろうし、ドラマの方はどうするのだろう。もう第六話まで放送している。当然、打ち切りよね」

「二度と、復帰なんてできないぞ」

「どうかしらね」

「ふふ。喧嘩を売ってるんだな」

「もう使いたくないのなら、使わなければいいじゃない。勝手にしなさいよ。切りなさいよ。葬り去りなさいよ。そんなこと、できないくせに。また、のこのことやってきて、お願いしますって、出演のオファーをしにくるくせに」

「自惚れの強い女だよ、君は。困ったものだ。君はあれだな。裏切られたことが、ないんじゃないのか?捨てられたことがないんだよ。いつもその逆。捨てる方。裏切る方。喧嘩を売る方。挑発する方。もうそっちの側には、飽きたんじゃないのか?うんざりしたんだ。もうたくさんだって心底思ってる。裏切られたいんだな。捨てられたいんだな。いじめられたいんだ。傷つけられたいんだ。考えようによっちゃ、素直な女だ。正直な女だよ。自分に嘘をつかない人間というのを、私はね、もっとも高貴な人間だと思ってるんだ。君は素晴らしいよ。高貴だよ。まさに現代の貴族だ。君の足元には、ますます君にひれ伏す男女でいっぱいになる。実に逆説的だ。君が蹴り飛ばせば蹴り飛ばすほどに、君にすり寄って来る人間でいっぱいになるのだから。あれだね。死なんと戦えばに生き、生きんと戦えば、必ず死ぬ。誰だったかな。武将の言葉だよ。ブラッドストーンの撮影はどうだった?一度、それを聞いてみたかった。どうだったの?正直」

「シリーズものって聞いてたんだけど、二回目と一回目が、どう繋がっているのかがまるでわからなくて。ちょっとした驚きではあった。予定調和っていうのが大嫌いなの。だからドラマが一番嫌い。ストーリーっていうのも嫌い。流れにそっていくのが嫌い。その延長線上に行くのが嫌い。だいたいわかりきっているから。CFも、シリーズ化するっていう話を聞いたときに、がっかりした。またかって。また同じようなことを繰り返さないといけないかって。シリーズ化の話って、最初は全然なかったんだから。二度目の撮影も、だいぶ時間が経ってから話が来た。どうも最初からそのつもりはなかったみたい。それはよかった。シリーズ化があらかじめ決められた中での、その一話の作成、っていうのが、私、もう、ほんうとに嫌い。勘弁してくれって。それで逃げ出したとしても、誰にも理解はされない」

「私には、理解されると思ってるんだな」井崎は再び煙草を吸い始めた。「君は、今、自分を開いているんだ」

「どう思ってくれても、構わない」

 万理は、挑発するように強い口調で言った。

「まあ、いいさ」

「ほんとに、その二本目の撮影は、わけがわからなかった。だってね、私とちょっとだけ付き合ったことのある男が、撮影中に乗り込んできたのよ。本番中に。現場は大混乱。めちゃくちゃになった。でも、カメラはずっと回り続けていた。あの監督、頭がおかしいのね。ここぞとばかりに、撮影を冷静に続行していた。気づけば、そのときの映像をそのまま使ってるんだから。編集は細かくしたみたいだけど。素材としては、ばっちりと自分のものにしていた。変態よね。でも、よかった。仕事をしていて初めて感動した。こんなこと、誰にも話せないわよ。違う?感動した話として、雑誌のインタビューに、ネタとして使ってみるべきだった?誰の共感も得られないわよ。だいたい多くの人が共感するものに、私って、全然反応しないの。私が心から、イイって思うものを、ほんとにイイって思ってる人なんて、実際にいるのかしら。いるとしたら、どのくらい?何人?そうよ。何人ってレベルよ、きっと。数えられるんだから。ははっ。まったく存在してなかったりして・・。たまに考えるのよ。深刻に。共感しあえるということが、私の生きてるなかでは、体験としてあるのだろうかと。どう思う?」

「それを試しているんだな」

「えっ?」

「女優になったのも、そのためなんだろ?共感に対する挑戦状なんだろ?自分が感動すること、心を動かされたこと、苦悩していることを、画面にぶつけたいんだろ?見世物に、なりたいんだろ?そして、反応を欲している。ほら、共感できないでしょって、それを証明したいんだ。君はつくづく変わった人間だし、正直な人間だ。君ほど素直な女の子は、それほどは見当たらない」

「そんなふうに煽ててもだめね」万理は冷たく言った。「それはあなたの本心なのか、偽りなのか。私にはよくわからない。人間の心っていうものが、私には、よくわからないから。私にも喜怒哀楽はあるけど、どこか、別の次元に存在するみたい。この世界は、ほんっと違和感だらけ」

「なあ、思うんだけどさ、君はほんとうに、放送されたCFを見たの?乱入者がいたとか、そんなことを言ってたけど、私が見たものとは、ずいぶんと印象が違う。そうだ。今から見てみよう。ちょうどテレビもあるし。映像を持ってきてるんだ」

 そう言って、井崎はビデオデッキにDVDを差し込むと、万理の座った長いソファーのほうへと移動してきた。二人は並んで映像が始まるのを待った。

「どうだ?」

 二分足らずの映像は、あっというまに終わった。

 万理は言葉を失っていた。

「ほんとに?ほんとにこれなの?私が見せてもらった完成した映像とは、全然違う。何よ、これ。確かに出てたのは私ね。でも覚えがない。こんなシーンを撮った覚えがない。CG?そうよ。きっと、そう。誰が合成したのかわからないけど。あなた?あなた、映像作家だったの?確かに、実際に、テレビで流れた映像を、私は知らない。テレビを見ないの。持ってないんだから」

「このCFは、もう流れてないよ。ずいぶんと、大きな黒い鳥だな。君と思われる女性が、その鳥に激しく突き上げられている。完全に貫通してるもんな。こんなのものを、お茶の間は見せられたわけだ。食事中でなかったことを、祈るね。クククク。よく君も、出演をOKしたよな」

「近づきすぎよ」と万理は井崎を睨んだ。

「おっと、これはすまない」

「あなた、どういうつもりなの?これがほんとに放送されたのかは、今の時点ではわからない。あなたがそう言ってるだけで。これだって、あなたが仕込んできた偽の映像かもしれない。でも、確かに、私ではあった。もう一度、見せてくれない?」

「何度でも、どうぞ。気のすむまで」

 井崎は、映像の再生を続けた。万理は、何度も何度も繰り返し見た。井崎も無言でそれに付き合った。

「この鳥は、巨大なカラスなのだろうか」

 井崎は途中で、万理に声をかけたが、彼女の耳にはまったく届いてなかった。彼女は右腕を直角に曲げ、それがいつのまにか井崎に対して、再び映像をくれという、無言の合図となっていた。万理は狂ったように映像を見て、その世界に没頭していて、横に井崎がいることも、ここがホテルの最上階の一室であることも、すっかりと忘れてしまっているようだった。

 そのあとで、ようやく万理はしゃべり始めた。

「知ってるわ」と彼女は言った。「知ってるかもしれない。この状況。撮影されていたことには気づかなかったけど。でも、確かに、私。ここに行ったことがある。よくは思い出せないけど。思い出そうとしてるけど・・・、記憶がうまく繋がらない。これを撮ったのは、あなたよね。編集したのもあなた。放映されたなんて、そんなのは嘘。これはあなたが個人で保管してる映像に違いない。こんなものが放送されるわけがない。私に見せるために取っておいた。そうでしょ?それとも、何。これから先、この映像を何かに使うの?私に何かを要求してくるの?どういうつもり?何を企んでいるの」

 井崎は煙草に火をつけ、ゆっくりと立ち上がり、ソファーから向かいの椅子へと移動した。どっかりと座り、またほとんど動かなくなった。井崎は再び口数が少なくなった。

 万理は、その沈黙に耐え切れず、自ら、その空白を埋めようと焦燥し始めた。

「私に、プレゼンしたのね。私の反応が見たくて。最低!ほれって見せて、あとは、君に任せるからねって」

「プレゼンじゃないよ。これは、君にあてたプレゼントだよ。手ぶらで会いには来れないだろ?持って帰れよ。君のものだよ」

「気持ち悪い」

 万理は軽蔑した目つきで、井崎を見下ろした。万理は勢いよく立っていた。

「ストーカー野郎!盗撮よ、こんなの。ほんっと最低」

「君は、また来るよ」

 井崎の動きは、ほとんど煙草を持った右手だけだった。胴体も、顔も、口元も、微動だにしなかった。

「開きたいんだよ、君も。例外じゃなく。女性はみな」

 万理は、ビデオデッキからDVDディスクを乱暴に取り出すと、それを持ってすぐに部屋を出ていった。



 黒い背景に網目のようにかかった黄緑色のラインは、ずっと消えなかった。その網目の中を車は突き進んでいった。ふと、左の窓ガラスに、今度は赤い色が見える。Gはその一瞬光った赤い色を逃さなかった。最初はほのかな煌めきだった。次第に、炎のように上へ上へと延び始めた。あっというまに炎上していた。「見て!火事だよ」

 Gは長谷川セレーネに言った。「燃えている。何だろう。網目が邪魔だな」

 そう言うと、網目は消えた。「消したわ。すぐに付けるから、早く見て」

 闇の中で炎上する一軒の家があった。

「火災だよ。どうする?」

「何も、できないわね」

 しかし、燃え広がるような、炎の出方ではなかった。

 その一軒の家を包み込むように、火は燃えていただけだった。

「ずいぶんと、でかい家だな。豪勢な家だ」

「もう、いいかしら?」

 燃え盛る家は、黄緑色の網目に、かき消された。

「悪いわね。すぐに、戻してしまって」

 車体はまた著しく上昇する段階へと突入していった。

 長谷川セレーネは、複雑な回路を持つ宇宙船を操縦する、パイロットのように見えた。

 本当は日産車ではなく、極秘に激しく改造をしまくった、未来の乗り物のようだった。

 車体は、最後の上昇とばかりに、先端を急激にあげ、さらに上にある空気の膜を突き破っていった。

 その瞬間が、Gにはわかった。ほんとに何かを潜り抜けたような体感があった。

 熱いのか、冷たいのか、よくわからない皮膚の感覚があった。痛いのか痛くないのか、瞬間的な刺激がある。それにつれて、視界が一瞬、真っ白く炸裂する。音のない爆発があったかのようだ。そこで、車体は上昇をやめ、平衡になり、エンジンも止まったかのように、それ以上は進むことをやめる。雲のように浮かんでいるようだった。わずかに風に流されているくらいの動きしかない。黄緑色の網目は消えている。長谷川セレーネが、操作によって消したからなのだろう。もう必要のない空間へと、飛び出たからなのか。Gは今まで知っている暗闇とは、まるで次元の違う黒い背景に包まれていた。

 前も後ろもなく、過去からも未来からも断絶されてしまった空の中で、浮いているみたいだった。

 運転席の様子もわからない。宇宙空間に、一人、飛び出してしまったかのようだった。

 Gは、声を出そうともしなかった。

 どれだけ時間が過ぎたのかわからなかった。

 前方に、色が復活し始める。紫色の輪郭が闇に浮かび始める。蛍光塗料の紫色をした先端にいくほど、細くなった、縦へと延びる建物だった。一瞬、Gは、サグラダファミリアの残像を思い起こしてしまった。黒いキャンバスに、紫色の蛍光ペンで絵を描いていくかのように、次第に大きく広がっていった。横に縦にと伸びていった。骨格は鋭く、がっしりとしていて、大胆にも繊細にも増殖していった。

 その状態が、どれほど続いたか。

 今度は、その輪郭の内側が、白く輝き始めた。

 その光に、Gは目を開けていることができなかった。両腕で視界を覆っていた。自分の体が、その光線で焼かれるような恐怖を感じた。熱を感じた。眼を開けると、そこにはダイヤモンドの塊とも思えるほどの巨大で透明に輝く、そして縦長で、山型のガラスのピラミッドが、現れていた。と思ったあと、すぐに、そのアウトラインは崩れ始める。そして、やはり、最初に見たサグラダファミリアのような輪郭へと削られていき、一つの城のような外観へと、変わっていった。その城は、島の中に建てられているようだった。

「さあ、行きましょう。準備は整ったみたい。十年のあいだ、この瞬間が来るのを待ち望んでいた」

 長谷川セレーネの姿も、はっきりと確認できた。

 Gはそのあまりに強烈な光の建物に、なかなか馴染めずにいた。

 頭の中では、さっきの紫色に燃えた骨格だけの建物を思い出そうとしていた。

 そのうちに、その前に見た、燃え盛る家屋と重なり合った。紫色の炎が、闇の中で燃える夜の絵へと変化していった。そのおかげで、Gは、目の前に輝いた圧倒的な光の景色と、なんとかバランスをとることができた。



 第六章は、KNA王国の滅亡後の世界だった。文明は壊滅状態になるが、それでも生き残ったマヤ人は小数ながらもいた。彼らは世界に散らばり、さまざまな民族の中に紛れ込んでいて、子孫を残していくことになる。初めは、マヤ人同士の子ではあった。だが次第に、他の民族の血が混じり合っていく。純粋にマヤ人という存在はいなくなり、やがては、マヤ人とは殆ど関係のないレベルにまで、血は薄まっていった。

 当の本人たちに、その自覚はまったくなかった。

 だがそんなマヤ人とは一線を画した数人のマヤ人たちもいた。

 彼らは他の民族の土地で生活をするようにはなったが、関わりをほとんどもとうとしなかった。極秘に科学研究所のようなものをつくり、そこで日夜研究に没頭し始めた。硬直された時間が支配する世界に、対抗するために、街を、集落を、建造物を時のサイクルにあわせて、変形していくような文明を作り上げたマヤ人だったが、その文明は没落し、今はその世界観だけが、マヤ人の中に取り残されていた。

 この数人のマヤ人が、その世界観を消去させてしまうことを頑なに拒み、何かの形で残して継承させたかったようだ。埋め込んで、保存するか。別の形で体現していれば、きっといつの日か、それに気づいた未来の人間が、それを技術として取り込んでくれるに違いないと考えた。そうすれば、マヤ人は、まったくいなくなった世界であっても、血は受け継がれていくようなものだった。純粋に、血統というよりは、ものの考え方そのものに、マヤ人のマヤ人たる証があると、彼らは考えた。世界観を共有しているのであるならば、それはマヤ人なのだと。

 数人のマヤ人は、化学に活路を見い出した。

 現在から将来に向けての文明のなかで、化学が絶対的な支配者になることは明白だった。マヤ人は、多民族の中からイケニエと称して、人体を持ってくることを厭わなかった。生きたまま連れてきて、人体実験に使うことを、ためらわなかった。そこで彼らは、マヤ人の世界観を、体の中に埋め込むための、実験を繰り返した。遺伝子の中に。あるいは、臓器そのものに。皮膚に情報を照射するということもやった。しかし、どれもうまくはいかなかった。血液を抜き、その血液の中に情報を、組み入れるということもやった。同時に、複合的な手法を試したりもした。だがどれも失敗に終わった。マヤ人たちは、ただ、殺人を犯しただけの結果しか得られなかった。この数人のマヤ人の中には女性もいたので、その女性に子供を産ませたりもした。しかし、得られた子供は十人にも満たず、すべては男であったために、血統はその次の代で、完全に途絶えてしまった。何人かは、化学の実験に携わることになったようだが、残りの子供たちは皆、研究所を出ていった。別の民族の中の女性と、一緒になっていった。最後に残ったマヤ人は、自らの皮膚で実験をするという狂気にまで、突っ走ってしまい、そして、息絶えてしまう。



 車は、城に向かって突き進んでいく。Gはいつのまにか道路のようなところを走っていた。

 対向車があった。車内はよく見えた。フロントシートに男女が並んでいた。

 えっ?井崎?運転席にいた男が井崎に見えた。オールバックにした髪。白いスーツ。煙草を吸っていた。横にいた女性は・・・常盤、常盤静香?はっきりとはわからない。

 そういう気がしただけだった。どうして、あの二人が?

 Gは、一気に、現実の世界へと引き戻された。井崎は見たこともない表情をしていた。

 あの無表情で冷徹な物腰からは、想像できないくらいの焦燥の色を、顔に浮かべていた。何度か、後ろを振り返っていた。

 何かから逃れるかのように。追っ手が誰かいるかのように。

「いまの、車・・・」

「退場していった人間ね。私たちとは、真逆ね」

 それ以上、長谷川セレーネは何も言わなかった。

 最後の審判、復活の兆し、焼かれる身体の紫炎。

 無数の、ブラッドストーンの残骸。

 神官との、同化。

 イニシエーションの儀。反転の夜。

「反転の夜」

 Gは、頭に浮かんだ最後の言葉を、口にする。



 Lムワ邸で火災が起こり、丸焦げの死体が発見される。

 おそらくは、この家の主人であるLムワの焼死体であるだろうという認識だったが、実はこれが変死体であり、解剖の結果、Lムワとは別の人間であることが判明した。

 死因は火災ではなかった。皮膚は紫色に変色した部分が多数あって、特に両足が指先に向かうほどに、ひどい斑点模様となっていた。直前まで液体につけられていたのだろうと、そんなふうに言う専門家もいた。また、直前にやって来た郵便局員によると、呼び鈴には誰も出なかったが、窓から見えた奥の部屋からは、紫色の炎が見えたという。焼死体であったのに、その紫の斑点模様のついた皮膚のあるあたりは、まったく焦げてはいなかった。

 同じ頃、科学者の爆死のニュースが入った。事件としては、ほぼ同時刻だった。

 《白と灰色の建物の爆砕》という言葉を、この男は頻繁に他言しており、自身のホームページにも、何度も書き綴っている。遺書こそなかったものの、遺書めいた文書は至るところに残っており、友人のほとんども、この男の考えに賛同するものがたくさんいたらしい。また男には、ガールフレンドがいて、その彼女は、現在も芸能界で活躍している女優のS・Мであるという。

「この記事。不気味じゃない?」

 万理は、シカンと食事をしていたときに、たまたま持っていた雑誌の記事の中で、これを見つける。

「君のよく知ってる友達の一人のようだな」

「間違いないわよ。もし本当なら」

「彼氏も当たってるし。俺らも会ったことがある。未来の科学者君に。まさか、こんな死に方をするとはな。活動家だったとは。科学で未来の人類に貢献したいっていうあれは、いったい、何だったのだろう。全然、近未来的じゃない。退廃の極みだ」

「舞に、連絡は?」

「とれていない」

「君と一緒だという、噂があるけど」

「まったくの、事実無根。関わりそのものがない」

「俺の他には、まだ、君の居場所を知ってる奴もいないんだろ?どうして、ボイコットをしまくった?」

「あのさ。あなたに訊きたいことがあって来たの。この前の、CFの話。私に見せた完成形は、嘘だったのね。放送された映像とは、ずいぶんと違っていた。どういうことなの。説明して」

「そのために来たの?復帰を報告しに来たとか、戻るのを、助けてくれとか。そういうんじゃないの?」

「ちゃんと答えるのよ」

 万理の口調は異様に穏やかだった。怒らないから言ってごらんなさいと、シカンは言われているようだった。

「運命の日だよ。太陽が終わる日」

「はいっ?」

「未来の科学者くんは、感づいていたのさ」

「また、そっちの話?」

「警告したんだよ。それに、あの男が死んだとは決まったわけじゃない。何か、仕掛けを打ったのかもしれないし。実体はまだわからない。デモンストレーションは、派手にやらないといけないから。特に、初めは。でも、これは、リハーサルにしか俺には見えない。こんなものじゃないはずだ。だから、死んではいないんじゃないのか。沙羅舞は知っていたのだろうか。彼女も加担しているのだろうか。今度の失踪と、何か関係があるのだろうか」

「あの子のことは、もう結構。私の質問に答えて」

「なんだっけ」シカンは恍けた。「前の、CFの話だったっけ?君に見せた通りに、ちゃんと放映はされましたよ。もうとっくに、終わってしまっているけど。あの乱入した男の映像と、君たちが撮りあいっこした、アップの映像を混ぜた作品。それを、僕はちゃんと作ったんだから」

 やはり、井崎が勝手に作った偽りの映像だったのかと、万理は思った。

「ここに、その映像があるの」

 万理は、シカンを強迫するように迫った。

「わかった。わかったよ。認めるよ。確かに、別の映像を使ったよ。だって、そうだろ。あんな混乱した中で撮影した、ばかばかしい混乱の場面の絵なんて、使えるわけないじゃないか。君のスケージュル的にも、後日にまた撮るような余裕はなかったし。あの場に関わった人間のスケージュルを、また一から組み直すこともできそうになかった。あのとき奇跡的に集まったんだ。あの日しかなかったんだ。それを台無しにしやがって。君の責任なんだぞ」

「それで、何故、この映像なのよ。これは、何なのよ。こんなのを撮られた覚えはないわ」

「知らないよ。そんなことを言われても。ただ、僕の元に送られてきた。これを使ってくれって。いや、もういい!もう、嘘は、やめよう。結局、ばれる。初めから、全部、本当のことを言う。ある男と僕は知り合いでね、その男が助けてくれたのさ。この映像を使ってみたらいいって。どうせ、今度のCF契約は、短い期間だろうから。そもそも、スポンサーだって、乗り気ではなかったのだからって。単なる繋ぎ。誰も注目はしない。注目されずに、過ぎ去ってしまうのを待とうって。これを使ってくれって」

「それで、あっさりと、乗ったわけね」

「君は、確かに出演していたし。どこで撮った映像なのかは、わからなかったけれど。まだ世には出ていないようだった。デビュー前なのかなとも思ったけど、ずいぶんと大人っぽく見えたから、最近のものだろうって。僕はね、その男に何の映像なのかは訊かなかった。以前にも、そしてこれからも世に出る予定はないのですかと率直に訊いた。著作権のことでゴタゴタに巻き込まれたくはなかったから。そういえば、君の事務所に、新人の女の子が入ってたよ。なんていったかな」

 シカンは携帯電話をいじり始めた。

「おっ、これこれ。長谷川セレーネ」

 シカンは、写メールを万理に見せた。

「君は、もう、お払い箱なんだな。ははは。ものすごい美人だよな。モデルとして活動していくらしい」

「気にくわない顔」

「そう言うと思った。対抗心、剥き出しだな」

「おもしろがってるのね」

「君の所の事務所がね」

「こんなことで、戻ってくると思ってるのね。くだらない」

「戻らないよな」

「戻るわよ」

 万理は写メールを消去した。

「上等じゃないの。長谷川セレーネ。彼女、まちがいなく、売れるわ。いいのを見つけたわね。上等よ」

「ほお。君が相手を認めるとはね。驚きだな。沙羅舞のときとは、大違いだ」

「あの子は、この世界には向いてない」

「ばっさりと切り捨てるんだな。じゃあ、このまま消えて正解なんだな。君はどうするの?」

「だから、戻るって」

「CFの話は、どうなったの」

「こっちのセリフよ。でも、もういいや」

「ははは」

「なんか、もういいや、ほんっとに。吹っ飛んだわ。なんだか、吹っ切れた。戻るわよ、戻る。戻ればいいんでしょ。もう一度、よろしくお願いしますって、深々と頭を下げて。謝罪でも何でもする。そうか。この子と、私は、同じ事務所なのか。なんだか、燃えてきた」

 万理は当初の目的をまったく果たすことなく、別の想いがふつふつと込み上げてきたことに気分をよくして、さっさと店を出ていってしまった。



 万理が事務所に入ると、社長はすぐに快く出迎えた。何の叱責もなく、万理はごく普通に部屋の中へと入った。深々と頭を下げようと思っていったが、その社長の姿を見て、万理はやめた。

「映画は、飛んだ」

 社長の第一声だった。「ドラマはまだ間に合う。代役を立てたらしいが、今なら余裕で取り戻せる。それと、CFの件。ブラッドストーンに、ロゴとして鳥が刻み込まれているんだけど、どうもCFでは、その鳥とぶつかり合った君の印象のほうが、かなり強くなってしまって。その実物の石でさ、鳥の下に刻み込まれた女性が、どうも匿名性を帯びなくなってしまって、君そのものに見えてしまうらしいんだよ。だからブラッドストーンの方から苦情がきて。そんなことを言われてもなあ、あの映像でオーケーしたんだから、今更何を言ってるのって感じだったけど、とにかく向こうの希望で、CFはもう流れないことになった」

「ドラマは、嫌ですね」と万理は言った。

「代役に任せちゃってください。出ませんから」

「そうか」社長はあっさりと受け入れた。「では、復帰作は、映画で頼むよ」

「内容は?」

「まだ、決まってないらしい」

「現代劇は嫌。恋愛ドラマも青春ドラマも、サスペンスも、嫌。エンターテイメントと呼ばれる作品は、すべてが駄目。かといって、時代劇とかも、駄目。歴史ものも駄目。出られるものなんて、まるで残らないでしょ」

 万理は、社長に喧嘩を売るかのように、自らの仕事の枠を極端に閉ざしていった。

「本心よ」

「なあ、万理。一つ提案があるんだけど。その、話の内容というか、どんな世界ならいいのか。万理自身が決めてくれないだろうか。万理が案を出してほしいんだ。万理がある程度、全体像を提示してほしいんだ。一度だけ、チャンスをやる。好きなようにやったらいい。ただし、それでコケたら、もう後はない。口は完全に閉ざし、来る仕事をすべて受けとめるか。それとも、潔くこの業界を去るか。どっちかにしてくれ。もう僕は君に振り回されたくはない。ここで決着をつけたい。当たっても僕は何も言うことはない。万理には新しい世界が開ける。あとは、僕なんて、利用価値のない老いぼれとして、捨ててしまっていいし、所属だけしていて、都合よく事務所を使ってくれてもいい。どっちにしても、ここで、君という存在に対しての決着をつけたい。君も、それを望んでるはずだ」


 万理の意識は、すでにエジプトのほうへと飛んでいた。私は二人の王と付き合う女だった。その時、国内にいたユダヤの民衆のほとんどは、奴隷としてエジプト人に使われていた。だがエジプト人の王は、そんな奴隷制度には、内心ずっと反対だった。しかし公にはそんな発言が許されるはずもない。生まれたときから、王はその社会システムの上で、ずっと生きていたのだ。王を引き継ぐ順番も、正確に決められていて、彼は三十二歳のときに、その役割が回ってくる。王の心の葛藤は、次第に大きくなっていった。

 夜寝ているときに、うなされるだけではすまなくなった。王妃、と呼ばれる女性の存在は、いなかった。王は、結婚には断固反対を唱えていて、いまだに、家臣が結婚するよう、説得を試みている状態だった。王が、何故、婚姻のことだけは自分の意見を貫いたのか。私にはわかっている。私とすでに婚姻を結んでいたからだ。

 ユダヤ人と、ユダヤの民衆は、エジプトで政変を起こして、国をまるごと乗っ取ってしまおうと画策していた。エジプト人の官僚機構にも、すでに入り込んでいた。はやくも寝返り始めていたエジプト人もいた。政変が起こったとき、奴隷の側になることを避けるために、官僚たちは、特に神官たちは、ユダヤ人との関係を良好に保つ必要があった。すでに見えないところでは、ユダヤの王が確立されていて、その配下の人材も堅固に揃ってしまっていた。そのユダヤ側の王の妻として、私は存在していた。そして現在のエジプトの王の、愛人としても存在していた。夫はもちろん知っていた。夫はこのことを政治的な策略だと思っている。そもそも、そのつもりで、私を王へと近づけたのだ。

 万理は思ったことをすぐに口に出していた。

「ちょっと、待って。おーい。レコーダーだ。レコーダーを持ってきて。今、いったところは僕が記憶しているから。書き写すから。あとはレコーダーだよ。はやく!」

 その先の話を、万理は引き出してこようとする。

 なぜ、よりによって、二人の王と、深く関係をもつ女になってしまったのだろう。

 たまたまにしては、出来過ぎた話だった。まあ、勝手に作ってしまえばいいのだけど。私らしく。奔放に。あとのことは知らなかった。二人の王の本心を知っていたのかと言われれば、私は現在の王の心の叫びの方しか、知らなかった。王はそのことを寝る前によく話してくれた。誰にも話したことがないと、念を押された。君の口の堅さを信じる、とまで言われた。確かに私は口が堅かった。夫にも誰にも、言ってなかった。

 夫からは常に訊かれた。「あのエジプト王は、一体、何を考えてるんだろな?俺たちの計画はまったくバレてないんだろうな?能無しだな。あいつも今の状態がずっと続くものだと、信じきっている。能天気なやつだ。俺たち、ユダヤ人なんて、家畜だと思ってるんだ。そうだろ?まあ、君は、いざ転覆のときになったら、王を避難という名目で、こっちに引き渡してくれればいい。それまでは、愛人関係を続けてくれ。それにしても、君のことが、よっぽど気にいってるんだろうな。君が結婚しているから、王は、独身でいるんだろう?ユダヤの民は一度結婚したら、婚姻は二度と解消することができない。それに、王にしてみても、ユダヤの君との交際を、公に認めることができない」

 夫との、肉体関係を持つことは、すでになくなっていた。私自身、ずっと拒んでいたし、夫も、私をただの政治的な策略の駒だと、無意識に思ってしまっていた。だから、夫と会うときは必ず、エジプトの王の話ばかりであった。そのエジプトの王とは、会うたびに体を合わせ、朝まで一緒に眠っていた。

 王はいつもうわごとで、ユダヤの民衆に対する謝罪を口にしていた。申し訳ないと。解放できなくて、申し訳ないと。

 私と婚約を発表したいとも言った。公にしたいと。でも、彼女はすでに人の妻であって、自分と結婚をすることはできなかった。すでに夫婦関係はなくなっているようだが、自分はユダヤの法を尊重したいのだと。

 では、彼女との関係を公にすることは・・・?もっとできない。エジプト国民が納得するわけがない。自分は民衆に抹殺されることになる。すべての官僚は民衆側へとつく。自分は処刑される。処刑されるために、わざわざ、公表するのだろうか。馬鹿馬鹿しい。そうなってしまえば、彼女と結ばれるどころか、この肉体が消滅してしまう。二人で体を合わせることさえ、できなくなってしまう。

 このままの状態を、ずっと続けていくのが最善なのだろうか。

 だが、いつかは、終わりがくる。どんな形で?自分が死ぬまで、この状態は、続くのだろうか。ユダヤの民衆への、申し訳ないという気持ちを、抱えながら。彼女との結婚は叶わず、エジプトの民衆に対しては、ユダヤの女と付き合うという、あるまじき行為を繰り返している。三重の背信行為を犯している。すべての葛藤を解決するには、一体どうしたらいいのか。一気に、解消することはできるのだろうか。それとも、一つずつ?一つずつだとしたら、いったい何から手をつければいいのだ?女と別れる。エジプト国民に、ユダヤの民の解放を義務づける。ユダヤの民衆を、エジプトの外へと連れ出す。そんなことは、現実には不可能だ。なら、女とは、このまま付き合い続ける。

 ユダヤの民衆は、そのまま奴隷として、利用し続ける。

 エジプト国民に対しては、独身の王という見せかけをずっと続けていく。

 結局、葛藤は、時間と共に蓄積されていくだけだ。

 王は私に相談をしてきた。

「私に言われましても・・」

「わかってるんだが」

「どうして、私に、話を?私さえいなければ、問題は、何も起こらなかったのに」

「それは、違う。もともと、ユダヤ人の解放という想いはあったんだ。始まりはそこだ。しかし、私は、エジプトの王だ」

「でも、だからこそ、私というユダヤの女を選んだんでしょ?わたしがエジプト人だったら、こういうことになっていたのかしら?」

 王は考え込んだ。

「確かに。いや、でも、君には魅かれたはずだ。いずれにしても。エジプト人で、夫もいたら、当然私の権限で離婚させ、私と一緒にさせたことだろう。君は、王妃だ。私は独身者ではなくなる。そんな君と二人で、ユダヤの解放のために活動を始めていたかもしれない」

「私が反対しても?」

「反対するのか?」

「例えばよ」

「説得するよ」

「また、別の問題が起こるわ。私はエジプトの王妃なのよ。エジプトの民衆の気持ちを、逆なですることはできない。私が組み込まれているシステムを、根底から崩すような行動や言動に、私が出ると思う?あなたを逆に説得するわ。下手をすれば、私たちは共々、殺されてしまうんだから。絶対に私はあなたの考えには、賛成しない」

「そうか。婚姻を結べても、それじゃあ、心はガタガタだ。夫婦生活もなくなってしまう」

 二人は沈黙した。

 結局、今のままから、事態は動かないということだった。

 動くのはやはりユダヤ側からだった。

 国家の転覆を図るというその行動から、事態は突然と変化を告げるのだろう。

 私はユダヤの夫側だった。そして、エジプト人は皆殺しになり、排除を余儀なくされる。王は断頭台へ。私は王を愛していた。夫と共に、ユダヤの側についていることはできない。私は王を守る側へと走るのだろうか。王と共に死を受け入れるのだろうか。いや、そんな易々と、エジプト側が敗走するなんて・・・、なぜ私はそう考えたのだろう。闘いは泥沼化する。私はエジプト側につき、王と共に戦う。そして、勝利を収めるということだって、ありえるはずだ。ユダヤの民衆を壊滅状態にする。奴隷はなくなり、今までの国家の状態とは、大きく変わってしまうが、私はエジプト側に立って、戦ったということが評価され、エジプトの民衆にも熱く歓迎される。私は正式に王との結婚が許され、王妃となる。ユダヤの暗い影を背負いながら。罪深い王妃として、裏切りの王妃として・・、エジプトの新しい顔へと伸し上がる。エジプトに勝ち目はあるのか。

 しかし、王にその気はなかった。王はどうするのだろう。ユダヤ側が反乱を起こしたとき、一体、どのような行動に出るのだろう。そのことを訊いてみた。

 王は、驚愕の反応を示した。

「闘う意思が、彼らにはあるのか?そんな、ばかな」

「もしもよ。も、し、も。彼らがエジプトの国家を相手に、闘いを挑んできたとしたら、あなたはどうするのって、そういう仮定の話。あなたも、ユダヤの側に立つのかしらって」

 私は、皮肉を込めて言った。

「どうして、僕が、ユダヤの側に」

「あなたは、ユダヤの民を解放したいんでしょ?」

「武器を手に向かってくるのであれば、話は変わる」

 やはり、王には、ユダヤの反逆という構想は、まるで持ち合わせてなかった。

 もし彼らが立ち上がるのなら、王は彼らと闘う。彼らを消滅させるために奔走する。それまでの、ユダヤの民の解放という考えは、そこで一気に、吹き飛んでしまう。それはあくまで、彼らが虐げられた人間だからという、その一点で、王は心を痛めていたのだから。その彼らに反逆するという意思があると知った瞬間、王の世界観は、一変する。

 やはり、王は闘うのだと私は思った。戦争はさけられない。そのとき私は、どんな行動をとるのだろう。傍観は許されなかった。どちらかの側に立たざるをえなくなる。

 どちらかを裏切らなくてはならなかった。

「最後、どんな態度で、運命に臨むのか」万理は言った。

「今、そのシーンを、しゃべってしまうわけにはいかない。ここから先を知るために、撮影が必要なの。そのシチュエーションに、みんなが入っていかないと。そこで真実は、はっきりとした姿を現してくる。あらかじめ、結末が決まった舞台を演じることなんてできない。もちろん、一つの結末は、私の中で今蘇ってきている。でも、これを、この場で、確定させたくはない。わからないのよ。どっちに転ぶかなんて。本当のところは。あるいは別の状況が発生する可能性だってある。その時になってみないと、誰にもわからない。葛藤を突き詰めるために、作品をつくるという行為は、存在するの。わかる?」

「驚きだな」事務所の社長は、レコーダーでの録音を止める。「見たことがないね。こんな万理は」

「あなたたちがいままで、私を狭いスケールの中に閉じ込めていただけでしょ」

 万理は、あきれかえった表情を、過剰に作って言った。最後に笑みがこぼれた。

「わかった。あとは、私たちの仕事だな」

「ええ。すべて任せるわ」

「細かい状況設定を、君以外の誰かが、作ってしまっても、構わないんだね」

「ええ。そう」

「わりと、素直なんだな」

「大本が、肝心だから。それにしか、興味がないから」

「わかった」

「本質だけが、私の興味のあるところだから」

 社長は頷いた。

「実は、わたしって、かなりの根っからの人間なのよ。知らなかったでしょ?けっこう筋にはうるさいのよ。もし、筋のところで議論にならないのだとしたら、私は無言で逃げ出すか、投げ出していなくなってしまう。全然、悪びれはしない。そんな最低な人間よ。そういえば社長。長谷川セレーネは?」

 万理は、きょろきょろと、周囲を見回した。

「今日は、どこにいるの?てっきり連れてくると思ってた」

「ちょっとした、行方不明なんだよ」と社長は苦笑いをした。

「どうして、こう、ウチのタレントは、・・」

「傑作ね」

「明日の夜には、戻ってくるらしい」

「どこに行ったのよ」

「行き先は、教えてくれなかったけど、期間だけは、伝言されたから。まあ、君よりは、マシだな」

「でしょうね」

「昨日の夜、飲み会で、みんなで盛り上がったあとに、彼女、ウチの事務所の車を、運転して消えてしまった」

「車も盗まれたんだ」万理は笑い転げた。

「踏んだり蹴ったりさ。しかし、翌日には、こうして君のほうが帰ってくるんだから、わからんものさ。いいのやら悪いのやら、プラスマイナスゼロだ」

「ずいぶんと、律儀な逃亡ね」

「何か、用事があったんじゃないのかな。事情があったんだよ。急にこの業界に入ってきたんだ。きっと、処理しておかなければならない過去でもあって、今、それをきれいに清算しているんだろう。そう思うね。だから、決してマイナスじゃない。我々は黙って見守って、それで綺麗になった彼女を、無条件で受け入れたらいいんじゃないのか」

「どこから見つけてきたの?彼女」

「田崎だよ。ほら、あいつ、女子大生が好きじゃん。年がら年中、スカウトと称して、大学に出入りしてるくらいに。それで、見つけたらしいんだ。前々から、ずっと目をつけていたらしくて。なかなか近づけなかったらしい。田崎にしては珍しいよな。妙に慎重になっていたってことだ。軽々しく接触するべきではないと思ったんだろう」

「あの子、当たるわよ」

「あ、そう、思う?」

「確実にね」

「万理は、ほとんど的中させるからな。女優をやめても、事務所の人間になれるよ。いい人材ばかりが揃うね。大物ばかりの事務所になる」

「やめて」

「いや、ほんとに」

「見抜く力だけあったって、何の役にも立たない」

「それって、貴重なんだぜ」

「車ごと、明日戻ってくるの?」

「そうらしい」

「それじゃあ、いずれ、会いたくなくても会うわね」

「当分はモデル一本でやっていこうと思ってるんだ」

「・・どうぞ、お好きなように」

「そう言うなよ」

「あなたたちの仕事でしょ。とにかく、当たるわ」

「心強いよ」

「ただ、そんなに、長くはないかもね」

 万理の意味深な言葉に社長は戸惑った。何かを考えたようだったが、どのくらいだ?といった野暮な質問を返しはしなかった。



 映画は半年後に公開された。

 反乱は、ユダヤ人の奴隷が、主人のエジプト人を忙殺するという、ショッキングな出来事から始まった。同時に、何十件という事件が起こった。神官が暮らす宮殿に、ユダヤ人は集団で攻めていった。その事実は、エジプト王にすぐに伝わった。そのとき、万理は彼とベッドの中にいた。ユダヤ人の奴隷を解放するという当初の王の考えが、吹き飛んだ瞬間を、万理は目の当りにする。

 彼は、ユダヤ人と闘う意思を明確にした。外国が攻めてきたときのために準備していた軍隊や兵器を、すべて、ユダヤ人に向けて使用することを決意する。「君の夫も殺されることになる」と王は言った。万理はすでに、このエジプトの王との愛を、全うする決心をしていた。エジプト側につくことに、強烈な葛藤を覚えたものの、もう後戻りはできなかった。このまま王のもとを離れる気もなかった。夫に対する愛情もとっくになくなっていた。だが家族は別だった。私の親族はすべて、ユダヤの人間だった。その彼らも皆殺しになってしまう。王に言った。家族だけは助けてほしいと。避難させてほしいと。王は快く受け入れた。これで障害は何もなくなった。そう思った。しかし、ユダヤの血は、今現存する家族だけのものではなかった。何世代もの繋がりのある、身体意識でもあった。親兄弟だけではなく、やはり民族としての繋がりが、この血にはあった。たとえ、万理が王の側につかなくとも、結果は同じだというふうに思うことで、慰めを得ようとした。結局、ユダヤの民は、ここで一度壊滅しなければならない運命なのだ。反乱を起こし、そして、多くの血が流れ、多くの死者を出す。だがこれがきっかけとなって、わずかなユダヤの民は、エジプトの民の支配を逃れて脱出する。新しい歴史はそこから始まる。それはもう決まっていることなのだ。私が、どうするべきものではないのだ。このまま奴隷としての運命が永遠に続いていくわけではないのだ。起こるべくして起こる謀反なのだ。私は、そんな民族のこととは関係のない、一人の男性との愛に、自分の決意をささげるのだ。それでいいのだ。それが、この人生なのだ。王についていく。王を守っていく。それでいいのだ。

 戦闘は激化していった。市街戦は、激しさを増していった。しかし内戦であったために、核や生物兵器を用いることができない。領土を奪う闘いでもなかったために、とにかく、ユダヤの人間を直接殺すということに、焦点が当てられていった。一方的な戦いになると思っていた私は、ユダヤの民が、意外にも多くのエジプトの神官を抱き込んでいたことに、驚いた。この戦いがどっちに転ぶのか。まったくもって、確信がもてなくなった。

 宮殿の門が、決壊したことを知る。ユダヤの民がなだれ込んでくる。戦闘はもうすぐそこにまで迫ってきていた。

 王の居場所はすでにわかっている。夫は私の昨夜の行動を追っているのだ。私が辿りついたその先には王がいる。私は夫に、王の情報を流しているようなものだった。そもそも夫は、私をスパイだと考えている。だが私はそんなことよりも、ただ王と愛を交わしたかった。それだけだった。民族の闘争などには関わりあいたくもなかった。王も同じ気持ちだったと思う。ユダヤの奴隷を解放したいというのは、それはつまり、民族による統治や差別、戦闘などからはもう逃れたい。そんなものはなくしてしまいたいと、望んだからだろう。そのときだった。私の体は、突然、思いもよらぬ行動をとった。

「王!逃げてください。私を置いて、逃げてください。はやく!私、やっぱり、あなたとは一緒になれない。私の祖先を裏切ることはできない。私の仲間たちを裏切ることはできない。エジプトの王と一緒になることはできない。ごめんなさい。あなたを売る。あなたを売るわ。あなたをユダヤの民へと引き渡す。わたしはずっとそう思っていた。ごめんなさい。今、目が醒めた。私はずっと、あなたを嵌めようとしていた。今、このときを、心の底から待っていたのよ!あなたの居場所をユダヤの民に知らせ、そしてあなたを追い詰める役目を果たした。もう、この部屋が堕ちるのも、時間の問題。あなたは殺される。あなたは生きたまま、引きずりだされ、公の場での処刑・・・。やだっ。そんなのはやだっ!はやく逃げて!ここは、私に任せて。ほら、その暖炉の裏から、地下へと続く階段が、通っているでしょ。私は行かない。私はここで、ユダヤが攻めてくるのを見届けるから。あなたが完全に脱出できるまで、ここに、いるから。私のことは忘れて。また会えるわ。だから今は逃げて。ユダヤが、エジプトを乗っ取ることに成功する。あなたは、どの道生きていくことができない。だから、外に。外に出ていって!別の土地で、生き延びて!私もあとから行くから。さあ、今は逃げて。来た。来たわよ。ユダヤの民よ。そして寝返った神官たちよ。でもその神官たちも、ただ利用されてるだけ。もう殺される。完全にエジプト人は、全員、殺されてしまう。あっというまだった。信じられない」

 王は、暖炉の裏の非常階段から、地下へと一人逃げて行った。

 その数分後、王の部屋に、ユダヤの民が辿りつく。

「動くな!王はどこだ。引き渡せ。君は?君は、エジプト人じゃないようだな」

「王の愛人よ。夫は、ユダヤの民」

「聞いてるよ。君はスパイだ。王はどこだ?」

 私は、彼らに近づいていった。

「ここにはいない。夜、いなくなってしまったの。おそらく、もう一つの宮殿の方よ。何度か同じことがあった」

「わかった。あれだな。あの建物」

 窓から見えた茶色い建物を、男は指差した。

「そうか。警戒心の強い王め。くそっ。けれども、逃れられるとは思うな。行け。あっちだ。あ、あなたは、御無事で?」

「ええ」

「あれっ。それは、何ですか?」

 男は、暖炉の当たりを指差す。

「ズレてません?その暖炉。動くんですか。おかしいな」

 男が近づいていこうとしたので、私は反射的に体を移動させた。

「ちょっと、どいてください。何か変ですよ」

 その男以外の、ユダヤの民は、すでに部屋からいなくなっていた。

 その男だけが、執拗に部屋を嗅ぎまわっていた。

「まだ、この部屋にいるんじゃないのか。おい!」

 男は、廊下の方に向かって大声を張り上げた。

「おい!戻ってこい。まだいるぞ。まだ、ここにいる。騙された。きさま、この女。お前、やっぱり本当の愛人なんじゃないのか。我々を裏切った!まさかとは思うが。もし、この部屋にいたら、貴様も断頭台だぞ!引きずりだすぞ。この裏切者!」

「ちょ、ちょっと、待って、やめて。やめてよ!」

 私は、それ以上、男の暖炉に近づけさせることを止めた。

 体を張って、それ以上の侵入を食い止めた。

「どけっ!このやろう」

「いたっ、いたい。あっ」

 私の両腕は、剣で切り付けられていた。血がものすごい勢いで出ていた。

「くそっ」

 男は怒号を放ち、むやみに剣を振り回した。私の脛のあたりに当たった。血が噴き出た。

「いたいっ」

 男は、私を壁に打ち付け、暖炉へと突進していった。

 はやく逃げてと、私は心の中で叫んでいた。あと、ちょっとだから。もうあと、ほんのわずかだから・・・。王は脱出できる。何とか、あと少しの時間を・・・。

 私は痛みに耐え、男に向かって、体当たりを繰り返していた。



 劇場では、本編が始まる前の、数々の映画の宣伝に混じりあい、ブラッドストーンの販売の開始を宣言する映像が流されていた。

 万理は、街の広場に集まった群衆の中を、中央の断頭台に向かって歩いていた。

 護衛の人間は、誰もついてなかった。

 万理は、エジプトの王を逃がした罪に問われていた。エジプトの民衆はすべて抹殺された。ユダヤの民に協力したはずのエジプト人の神官たちも、すべて殺された。だが、ユダヤの民の犠牲者も相当数であった。ユダヤの王となるはずだった、万理の夫も、銃撃戦で倒れた。

 エジプト側の誰かが、こうして処刑されるというデモンストレーションによって、前国家のすべては、清算され、新しい国の開始が宣言される。エジプトの王が、当然、その役割を担うはずだった。万理は身代わりだった。どうして直前で、あんな行動に出てしまったのか。自分でもわからなかった。どうしてあの通路から二人で逃げようとしなかったのか。確率的には、二人とも、逃げおおせることができたかもしれない。しかし私は、あの時、間に合わないと思ったのだ。それならと、王を一人で行かせた。ユダヤに対する気持ちもあった。最後に、私は、ユダヤの血を裏切ることができなかったのだ。どういう形であれ、ここに留まるべきだと思った。処刑されたって構わなかった。ここで命が潰えても仕方がないと思った。ユダヤの民に命を奪われるのなら、それは、ある意味、本望でさえあった。

 しかし、怒号の嵐の中での、最期であった。

 エジプトの王とは、長年にわたっての男女関係を持ち続け、そして、政変が起こったときには、王を逃がしまでした。ただそれだけを、執拗に責め立てられた。

 王のことを愛していたのは事実だったが、それでも、ユダヤを裏切るつもりはなかった。あの人たちは、何も知らないの。私のことは、何も知らないのよ。私の想いも、考えも、何故逃げなかったのかも・・・何も知らないの。

 こんなにも多くの群衆に囲まれながらも、万理の心は孤独だった。

 誰ともわかりあえないこの気持ちを抱えながら、死を迎えなければならなかった。

 けれども、彼らを憎む気持ちはなかった。彼らにどう思われようとも、私は愛する王を守った。そして自分は、ユダヤの血を裏切ることをしなかった。その事実がすべてだった。群衆にいい顔をするために、よく思われるために、評価されるために、理解されるために、共感されるために、とった行動ではなかった。彼らは何も知らなかった。万理はこれから起こることをすべて許した。私が死ぬことで、ユダヤは奴隷から真に解放されるのだ。歴史は前へと進んでいく。それでいいのだ。

 広場の中央まで来ていた。

 だが、断頭台は用意されてなかった。

 代わりに鉄の棒が一本あり、縄が用意されていた。群衆をかきわけ、四人の男たちが現れる。万理を鉄の柱へと括り付ける。火が放たれる。万理の足はすでに燃えていた。

「やめて」

 万理の声は、群衆の怒号に掻き消された。

「やめて」

 全身にすでに火はまわっていた。業火に包まれていた。

「思い知るがいい。民族を弄んだ、この売女め!」

「お前の罪は、こんなことでは許されない!清められない!」

 助けは、どこからもやってこなかった。万理は王のことを思った。彼が最後の最後で、群衆を掻き分けて柱へと走ってきて、縄をほどき、放水し、この場から連れ去る様子を思い描いていた。万理を抱えもった王は、絶えず万理に話かけ続ける。

 もうすぐだから、もうすぐだからと。必ず助かるからと励まし続けている。

 万理は何度も頷いていた。皮膚だって、ちゃんと回復する。移植に関する、高い医療技術があるんだと、彼は言い続けている。

 群衆の怒号は、やがて歓喜へと変わった。

 すでに、広場の中央で丸焦げになった万理に、注意を払う者は、誰もいなくなる。

 群衆は近くの人間と抱き合い、涙を流し、そして真に解放が成就したことを確認し合った。ついに、自分たちの時代が来たのだと言わんばかりに。肩を組み、右に左に笑顔で全身を揺らせていた。


 広告の映像にはブラッドストーンだけが映っていた。ちょうど、人間の拳くらいの大きさの黒い石であった。大量に採掘されたことにより、世界中での販売が可能になったのだという。そんな文言が並んでいた。重さは十キロ前後あった。本当に真っ黒であり、模様は少しも入っていない。この黒い石は天体のサイクルによって突然紫色に変わるのだという。一瞬で鮮やかな紫色へと変わる。それも、採掘された石のすべてが同じ時間に。

 今回、一斉に販売されることになったブラッドストーンが採掘された場所、それは同じ地帯であった。そこは何千年も前には、文明の集落であったのだという。都市文明のちょうど中央に位置していて、その黒い塊は、文明が終わってしまったときに火で焼かれた石が、長い年月を経て、漆黒の色へと、深く変わっていったものであった。

 本編の映画の前に差し込まれた宣伝には、そういった事実が組み込まれていた。
































   第1部 第4遍 アメジストフライヤ





















 その夜、月は出てなかった。今は新月なのか満月なのか。月の満ち欠けは不明だった。黒い雲に覆われ、雨が大量に地上に降り注いでいた。ここはエアポート。電燈の灯っていない一つの機体が滑走路を疾走し、そして飛び立っていく。周りの情景よりも機体の方がさらに黒濃かった。輪郭がはっきりと見えた。展望台にはその黒い羽と胴体が飛び立っていく様子を眺める、一人の男がいる。


 翌日、雨はすっかりと上がった。エアポートは快晴だった。次々と航空機が離発着している。

 ディバックが到着ロビーに姿を現す。歩きながらすぐに電話をかけ始める。

「おお。俺だよ。あの男とは連絡とれた?・・なに、いない?いなくなった?確かに、昨日の夕方までは、いました?どういうことなんだよ。夜になってから外出したのか?そうか。そのまま戻ってこなかったんだな。わかったよ。最初から、とんだ躓きだ」



 部屋を引き払い、旅行に出たGは一週間後、飛行機で帰ってきて、空港の近くのホテルにチェックインした。いきなりホテルの従業員から、伝言を預かっているとGは告げられる。

 Gは言われた番号に、フロントで電話をかけた。

「どなたですか」

 Gは繋がった回線に向かって声を出した。しばしの沈黙のあとに、Gは井崎さんですかと口走った。「また、あなたですか」

「井崎?そういった名前ではありませんが。どうも、入れ違いだったようだ。一週間、こっちは待ってたんだ。しかし、まあ、戻ってきてくれてよかった。一週間のロスは何ともないから。仕事の依頼です、Gさん」

 Gは黙っていた。

「あなたに殺到してる仕事の依頼。あなたは一つも返事をしていない。そうですよね。何故ですか?はやく応えてあげないと駄目でしょう。反応が悪いのは一体どうしてなんでしょう」

 Gは答えなかった。

「我々が手伝ってあげてもかまわないんですよ」

 声から悪意は感じられなかった。それが逆にGには心地悪かった。

「今、チェックインされましたね。使いの者を送りましょう。部屋で待機してください。お疲れのところを申し訳ありませんが」

 四人の男が部屋へとやってくる。Gは車に乗せられ、人の気配のほとんど感じられない広い道路が続く場所と連れていかれる。海の近くのようだ。港があるのだろう。倉庫がたくさん並んでいた。空港からはそれほど離れていない。白い高層ビルが灯台のように聳え立っている。そこだけが異様に目立っている。車が近づくと白い壁に大きな穴が開く。すっと車は吸い込まれるように入っていく。壁が一瞬溶解して、液体のようになって空洞が広がったようにGには感じられた。そんなドアを、Gは、今まで一度も見たことがなかった。Gはちょうど車体の中心に置かれていた。四人の男が囲むように座っている。微動だにしない男たちだった。背筋はまっすぐに伸びている。頭は一方向へと固定されている。何かに操られているような機会的な動きだ。ほんの少しだけ異臭を放っていた。それがGには嫌な予感を走らせた。


 МQSは、紫色の照明が照らされた実験室で、巨大な水槽に沈められた人体を眺めながら、来客たちを待っていた。照明が赤くなり、三回点滅した。МQSが白い壁に手をかける。

 すると壁は固体から液体に、一瞬変化したように溶け出した。穴が現れ、五人の男が立っている。真ん中の男を置き去りにし、四人は去っていく。

 МQSとGは二人きりになる。

「もう一人、来ます」

 МQSは感情の抜き取られた人工的な声を出した。

「少々、お待ちを」

 壁は元の固体へと戻る。

 Gは紫色の照明で満たされた気味の悪い部屋に、呆然と立ち続ける。

 赤い点滅が始まった。二人目の来客が到着した。Gはまだ井崎だと思っていた。

 だが目の前に現れた男は、彼とは違う人間だった。ごつごつとした凹凸のある皮膚の中に、眼光の鋭い瞳があった。あの四人の男よりも、遥かに強烈な臭いがした。今にも鱗が現れ、尻尾が生えてきそうな、爬虫類のような印象がGを圧倒する。

「君が、Gくんか。ようこそ。我が帝国へ。ここは、帝国の地下にある化学実験室だ。そこの彼は科学者だ。今は何て言ったかな」

「МQSです」

「そうだった。前には、もちろん、人間の名を持っていた。人間は卒業したんだよ。しかし、いつでも、人間には戻れる。それに、風貌は、今だに人間そのものだ。私とは違う。私は少し気を緩めてしまえば、人の姿を保ってはいられない。困ったものだな。いろいろと苦労が絶えないよ。おお、そうだった。ずいぶんと、君は困惑した顔をしてる」

 Gは地面に埋め込まれた巨大な水槽を見下ろしていた。ちょうど足の下にあった。透明な床の下には、人間と思われる肉体が棺桶の中で静止しているかのごとく、横たわっていた。

「ファラオなき時代だ、Gくん。この地上では。わかる?ファラオというのは本来、神を体現するものなのだよ、Gくん。もちろん、この何千年というあいだの、堕落し続けた時代のことではないよ。偽りのファラオ、偽りの国家、ファラオはどんどんと、偽善者へと姿を変え、小さな人間へと縮んでいった。そして、ファラオはいなくなった。「ファラオなき時代」へと突入していった。その下に眠る男。誰だかわかるかい?Gくん。この男はファラオなのだよ。実に、不思議なことに。説明してあげよう。この男の最初の出生は、あの大国のエジプトなのだ。この男は実に馬鹿な人間でね。民衆のあいだにあった亀裂、つまりは異なる派閥、当時においては民族ということだが、その対立をうまく利用することを怠った、実に頭の悪い人間だったのだよ。争いを利益に変える仕組みの創造を、この男はまったくしなかった。できる立場にいたにもかかわらず。ファラオの堕落が続くこの世界では、さまざまな民衆蜂起が起こり、いつの日か、民主主義なるものまで出現する。これは我々にとっては最大のチャンスだった。自由という名のもとに、我々が影の王となる、最初で最後の絶好の機会だった。そして、その一度の機会を、我々はものにした。眼に見えるものから、見えないものまで、我々は人々を支配しコントロールする仕組みを生み出した。王や貴族の資産は、すべて没収し、自由を得たと思い込んだ人間の群れを、我々は巧みに操作して、利益を上げる実験も、次々と成功させていった。だがね、我々は空しくなっていったのだよ。何かが足りない。決定的な何かが欠けている。最初はそれほど気にはならなかった。だが、この何百年、そう、我々はもう、発狂寸前なのだよ、Gくん。なんという悲劇か。わかるか?美のない世界が、どれほど空しいものか。我々は美を生み出すことができない。いいか?社会システムを作ることはできる。そのシステムの中においては、経済活動から富を得ることはできる。大衆を操作することなんか、本当に容易い。だがね、Gくん。私が美だと、さっきから叫んでいるもの。これは一体何なのかね。実は私にもよくわからんのだよ。このよくわからないものを、美と呼んでいるだけなのだよ。鬱屈した心が一瞬でも浄化して、この空に向かって、天に向って、突き抜ける広がり。その感覚が私にはまったくないのだよ。この、ないという状態から、私は何とか抜け出したい。よくよく考えると、我々は、この世の人間から奪ったり、断絶させたりすることで得る、富にしか、焦点を当ててなかった。彼ら人間に、何を与えていたのか。檻に監禁した中での限定的な自由、感覚。つまりは、細かく切り刻んで与えたわずかな喜び。子供騙しだ。だが、我々だって、精神的なことで言えば、まったくの同じなのだよ。物理的に得ているものには、ずいぶんと差があるだけで。結局のところ、突き抜けた喜びだったり、その喜びのための代償。ある種の苦しみなのかもしれない。そんなものとは無関係なのだよ。おそらく、その辺に、美というものはあるんじゃないのかな。どうなのかな、Gくん。私は、君に質問してるんだ。答えてほしい」

 Gは、ずっと、地面下の水槽の中の人間を見ていた。

「ファラオなき時代だ。どうも、私はファラオというものと、美というものとを、同義で使っているらしいな。偽りのファラオさえいなくなってしまった、この世界。過去に存在した堕落したファラオであったとしても、その美的感覚までは、まだ失っていなかったのかもしれない」

「富の最高権力者。富がもっとも、集まってくるその場所こそが、ファラオと呼ばれる場所なのでしょうね」

 Gは正面にいる男を見ることなく言った。

「ああ、そうだ。そのとおりだ。我々は、ずっと、そう思ってきた」

「なら、誰が、ファラオなのか。どこが、ファラオの場所なのかは、わかってるでしょう」

「君は、私の話を、まるで聞いてなかったのか?」

「美のことは、よくわかりませんね」

「美というものは、生み出すものなのだ」

「わかってるじゃないですか」

「我々では、生み出せないと、言ってるんだ」

「僕だって、同じですよ」

「一体、誰なら、可能なんだ?えっ?答えてみるんだ!我々の経済システム、政治システムにおいては、美というものを生みだすことなんてまるでできない。ガラクタさ。使い捨てさ。それでも、だいぶん向上はしたさ。みてみろ。大量生産、薄利多売の時代は、とっくに通過した。品質の高くないもの。これでは、今の時代において、まったく売れない。使い勝手のいいもの。便利なもの。生活に密着したもの。性能の高いもの。大衆はこぞって、それらを買い求めるだろう。提供するほうの、技術力、アイデア、すべてが劇的に向上している。まだまだ伸びていく。なあ、Gくん。それで、その先に、美は出現するのだろうか。私にはどうもそのようには思えない。あらかじめ決まってる枠の中で、そう檻の中で、その制限された中で、もがいているようにしか、私には見えない。どんどんと、洗練はしていくことだろう。洗練が洗練を呼んでいくことだろう。だが、そうなっていけばいくほどに、私の心はどんどんと鬱屈していく。荒んでいく。閉じていく。止めてくれと思う。だが、止まるはずもない。美は、出現しない。どんどんと削り取られていく」

 男の悪臭は強烈になっていた。

「ファラオなき時代は、悲劇だ」

 その言葉に、Gは、水槽の中を凝視しながら頷いた。

「私はね、そんな行き止まりのない世界に、絶望した。心底、憎み、壊したくなった。だが、それは、我々の破滅をも意味する。自ら死ぬことと同じだから。美が出現しないのならば、科学に頼るしかない。その科学に、私は投資することにしたのだよ。システムを作り始めたのが、我々なら、それを終わらせるのも我々だろう。まだ、一線を超える勇気を私は持ち合わせてはいない。しかし、準備をしていて、悪いことは何もないだろ。準備が万全でないと、いざ、全身で思ったときに動きが取れなくなる。そうだろ?凍り付いてしまう。小さな想いに気づき、といっても、まあ今ではまったく小さくはないのだがね。ククク。その準備をこつこつと重ねていくことで、このファラオなき絶望感を、いくぶん誤魔化すことはできる」

「命を縮めることですよ」

 Gは初めて男を正面から見て言った。

「何か、言ったか?」

「一線を超えるためには、命を縮めなくては駄目だと言ったんです。自らね。そうしないと実現はしない。実現するための唯一の方法。それは命を縮めることです。嘘じゃない。自らが存在する物理的な時間を、圧縮することが、前提条件です」

「何を言ってる?」

「何って美の話でしょ?美と時間との関係は、あまりに繊細ですからね。当然、時間というのは物理的なものですから。我々にとっては。この肉体に宿っているわけだから。時間を極限まで圧縮することで、美を自分のものにして、現実化するのだから、当然、命を削る以外にない。命を削って生み出すことが美でしょうからね。ということは、命にしか、美というものは宿らない。死んでるものには、美という概念さえない。もし、美がわからない人間がいたとしたら、その人間は、死んでるってことですよ。例えば、ほら、そこの人とか」

 GはМQSを指差した。

「そこの科学者は、いったい、何の研究をしてるんですかね?さっき、何か言いかけました。科学者を囲い込んだとか、何だとか」

「そうだったかな。まあ、そういう一面もある。我々のつくったシステムをね、すべて破壊するための物質を準備しておく。そういった一面だ。だが、それよりも、我々が日々を生き延びるためには、血の創造が何よりも大事なことだ。我々は、少し血が足りないんだ。血をものすごく、消費してしまう。大量にね。だから人工的に補給する必要がある。うちの科学者は、見習い期間の最後に、自らの肉体を爆破させるということを課題としている。そうすることによって、真の仲間となることができる。肉体を切り離すことに成功し、より感情に左右されることのない、冷徹な決断を、次々と下していくことができるようになる。自爆テロという形をとることで、我々のメッセージを地上で発現することにもなる」

 そう言い終えた男の臭気は、劇的に軽減していた。

「それで、この死体は、何なんですか?」

 Gは気になり続けている水槽に話題を移す。

「ファラオだと言ってるだろ?」

「どういう意味なんですか?」

「文字通りのファラオだよ、Gくん!ファラオなき時代にふさわしい、ファラオの遺骸さ。彼を生き返らせることができれば、地上には、再びファラオの国が勃興する。これは、たとえ話でも何でもなく、現実の話だ」

「そんな話は、訊いていない」

「大国の文明期における、ファラオだと言っただろう。政変が起きたときに、彼は国から逃げたのだ。そして地の果てで、まあ、自然は豊かな場所だったようだが、そこで小国を築いた。再び王へと君臨した。大企業の、雇われの社長から、脱会し、起業し、中小企業の社長にでもなったと言うべきか。その小国も、いずれは、大国の侵略にあって消滅する。彼が前にいた国ではない。また別の大国だ。

 しかしね、その小国で、彼は実におかしなことをしていたんだ。時間を操作するといったことを、頻繁にしていた。もちろん噂だがね。時代を超えて、人間を交換していたというのだ。別の時間、時代にね。今という時を繋いで、交流を図っていたということだ。

 その後、男は、国という概念からは、もっとも外れた生活を送るようになる。

 宗教に目覚めたんだ。信仰だよ、Gくん。国家とはまるで無関係な、一人の人間と神との関係を模索し始めたんだ。彼は教会のオルガニストだった。小さな小さな田舎の村でね。彼がオルガニストに就任したときから、人口はどんどんと減っていき、彼が年老いた頃には住人はすでに誰もいなかった。彼は、一人死んでいった。また、こんなこともあった。非常に現代に近い場所に存在していたこともある。彼は音楽活動に勤しんでいた。人間が極端に少ない田舎において一人で演奏するということは、もううんざりしたようだ。仲間もいた。ロックのような曲調だったが、その内面は、神との交信だったのだ。あまりに短い活動期間で、最後はメンバーの一人を殺めてしまうという愚行まで演じた。彼は殺人を犯したんだ。そして私が知るもう一つの姿。それは大都市で、奇妙な建物を立てようとしたことだ。結局、崩壊してしまったその建物は、彼の空間認識の集大成だったのかもしれない。さっきも言っただろ?異なる時代、次元の間で交流をすることを厭わなかったファラオの話。きっとあれの流れなのだろう。異なる時間、異なる次元を、今、この瞬間に共存させるために、三次元で表現したかった。そういうことなのだろう」

「全然、俺には理解ができない。しかし、最後の瓦解の話・・・そうか。F。ファラオか。ファラオのFか。こいつなのか。こいつが建築家のFという男なのか。俺はずっと探していた」

「そうだろう。Gという名前なのだからな、君は。Fの次の、G。君が引き継いだんだ。だが、力のほうは、全く受け継ぐことができなかった。Gくん。建築の依頼は、殺到してるのにね。それに、応える能力が君にはないんじゃないのかね。ジレンマだ。やきもきしている。しかし、やきもきというのは、それほど悪いことじゃない。君の、その、短い時間でしか発動しない思考の中では、憤りと焦りしか生まないだろうが、この何度も生まれ変わっていく魂の世界においては、実に大切な時間だ。鬱屈が放出させずに体の内側にたまっていく。エネルギーじゃないか、Gくん。エネルギーというのは生命力のことだよ。わかるだろ?エネルギーは諸刃だ。当然だ。それは、自らの身体を焼ききってしまう爆弾にもなりえる。しかるべきタイミングで、放出しなければならない。方向性だ」

 男の声に熱がこもってきた。

「それが最も大事なことだ。信仰だよ、Gくん。方向性とは、信仰のことなのだよ。発生し、行き場のないそのエネルギーを、全身全霊でぶつける対象を見つけること。それこそが、信仰だ。我々が化学に陶酔しているのは、そのエネルギーを生み出したいからだ。我々と君。同等のエネルギーの量だ。だからこうして、お互いの姿を確認できて、話もしている。そういうものだ。おい、МQS。お前の今までのことを、Gくんに話してみたらどうだ?」

 男は急に、МQSと呼ばれた科学者に、話を振った。

「お前は、このGくんとは違って、もう哺乳類としての機能は衰えているんだぞ」

「名前を訊いてなかった」とGは男に言った。

「私か?私はディバックだ。覚えておいてくれ」

「ディバック・・・」

「いいでしょうか」

 МQSは、話を始めるタイミングをずっと伺っていた。

「おっしゃる通り、私は人間であることをやめました。じょじょにではありますが、爬虫類への変換が、加速しております。このとおり」

 Gは、この紫色の光に満たされた実験室と呼ばれる部屋の中には、自分しか生きている人間はいないのではないかと思い、背筋が冷たくなった。目の前にいるのは、二体の爬虫類かもしれないのだ。そして、この床に埋め込まれた水槽の中の死体も、すでに人間ではなくて、人間に姿を似せているだけの、何か別の生物なのではないか。

 МQSは、ずっと機械的な抑揚のない言葉を放出していたようだが、Gには遥か遠くから聞こえてくるように思えた。現実味が、少しも感じられなかった。

 МQSは常に、ファラオの趨勢と、行動を共にしていたのだという。


 ファラオが音楽活動を始めることを予期したМQRは、彼がライブを行う場所を予め察知し、その地下に出口のない研究所を設立した。そこで遺伝子操作の追及をした。あらゆる人間をサンプルとして集め、より優良なDNAを創作するために、いろいろな組み合わせを実践した。電気的に極端なもの同士を、さらに助長させるというような環境を整え、ぶつけ合わせることで、圧倒的なエネルギーを発生させることに成功した。劣等な遺伝子同士がぶつかりあい、予想外のパワーを発揮することもあったが、それもそのあと意図的に組み合わせても、思い通りの結果は全然得ることができなかった。やはり、性質の偏った遺伝子同士をとりだし、さらにその中にある歪んだ場所を採取し、別の性質の偏った部分とをぶつけあわせることが、強力なパワーの発生には不可欠なことだった。

 だが、パワーは発生するものの、当初のビジョンであった、自ら強力なエネルギーを発生させる人間の創作には失敗した。

 遺伝子操作を施した人間を作ることには失敗したのだ。あくまで、実験室内における、人工的な装置のもとで生み出されるエネルギーの域を、越えることはなかった。そのエネルギーを実用化させるのは可能だった。だが、МQSは実用化だとか商品化だとか、そんなものにはまったく興味を示さなかった。もしこのエネルギーの創生をシステム化して、全人間のために与えたとしても、それは単に、人間が日々の生活において使用できる、人工的なエネルギーの総量、それを飛躍的に増やすだけのことであって、やたらと乱用し、無駄に消費すること以外には、考えられなかった。精神文化を高めていくことには、少しも貢献しないと判断した。

 そんなことよりも、人間は自ら、エネルギーを生み出し、そして他の全人間に対して、放出するべきなのだった。自然のエネルギーとも直に交わりあい、お互いに循環させていかなければならないのだ。人間と人間同士の激しいエネルギーの交流があることが、大前提だった。そのためには、人間一人の中に宿る潜在的に存在する力を、侮ってはいけなかった。

 だが、МQRは思った。

 今この時点では、何もしない自然なままであっては、エネルギーの扉は開くことはなかった。人間全体の意識には、何らかのブロックがかけられていた。封印されてしまっていた。

 МQSは、そのブロックを解く鍵を、何としても見つけ出したかった。

 そんな中、ファラオは別の人間を殺してしまう。

 自分の研究が、何らかの作用を間接的に齎してしまったのだろうか。МQSはひどく落ち込んだ。たかだか、地底に作った閉ざされた部屋での、出来事だったのだ。まさか、地上にまで、そんな形で影響力を持つとは夢にも思わなかった。

 МQRは研究をすべて放棄し、自分が追及している課題が、ひどく間違ったものであることを自覚する。МQRは大学へと戻った。

 編入試験をあっさりとパスし、大学院に籍を置いた。そして、同じ大学の女の子とも付き合い始め、あまり深く考えることなく、自然の流れにまかせて、社会の一員になればいいと漠然と考えていた。舞という女だった。しばらくすると、彼女は大学生でありながら、同時に芸能界でも働いている女性であることを知った。МQRと舞は、ごく一般的なキャンパスライフを送った。それはそれでよかった。だが肝心の研究のほうは、そう単純にはいかなかった。自分が化学という分野で何を最終的に目指していくのか。そのことに頭が行けば行くほど、人間の遺伝子というものに焦点が絞られていった。人間が存在すること。そして、遺伝子との関係性。過去があり、大過去があり、今があり、未来がある。未来をつくる、未来を創造する。それは、現在を分析し、ときには壊し、ばらばらになった断片を、再び繋ぎ合わせる。再構成する。そんな作業だ。新しい現実を獲得するために。遺伝子を解読し、壊し、ばらばらにし、再び繋ぎ合わせる。新しい現実のためだった。

 呪文のように繰り返されるその言葉に、МQRは再び実験室での研究を始め、今度こそは、実際に人間で試してみる必然性があると、強く思った。その対象として、МQRは舞を最初の人間として選んだ。互いが心を開きあっているのだ。これほど警戒心のない人間関係など、他に存在はしない。今あるものをすべて使うべきだと、МQRは迷わずそう思った。それでも失敗し、舞を発狂させてしまうことには、ひどく恐れた。失敗はもう許されはしない。舞の遺伝子を取り出し、別の人間から取り出した人間の遺伝子の一部と掛け合わせ、そして、それを再び体の中へと注入する。細胞に突然変異を期待する。

 経過は、第三者として客観的に観察する。非人道的な話だった。

 だが、МQRの心は、一度本気で試してみることなしには、この自分の生を終わらせることはできないとまで思った。もうそれほど、時間は残されてはいない。

 前回、ファラオを意識して行ったときの実験は、まだ本気になれてなかった。できたらいいなの、中途半端な願望だった。だから、混乱をもたらせてしまった。チャンスはあと一度きりだった。舞だ。舞のことは愛していた。だからこそ、絶対に失敗は許されなかった。舞が狂ってしまっていいのか。準備を徹底的にする必要があった。そして、舞に対する愛を、最高レベルにまで上げていくような、二人の交際にしていかなければならなかった。すべては、この実験を成功させるためだった。舞に起こる細胞の突然変異によって、彼女は今まで封印していた能力を、完全に開ききることができる。とにかく、それにさえ失敗しなければ、あとは舞の問題だった。こういっては無責任かもしれないが、舞の中に何が眠っているのかはわからない。解放してしまわないほうが、本人にとっては平穏で幸せな生が送れる可能性もあった。余計な世話を、自分はしようとしている。だがその解放したあとの責任は、残念ながら自分には持つことができない。注意するべきことは、中途半端な想い入れで遺伝子を解放する前に、とん挫してしまうこと。混乱をもたらす状況を作ってしまうこと。それだけは、何としても避けたかった。それさえクリアできれば、道はおのずと開けてくる。

「しかし、舞は、何かに勘づいた」

 ここで、МQRの声は、急に人間味を帯びた。

 声に温かみと力強さが、加わっていた。

「舞は俺を連れ去った。俺を縄で縛りつけ、車のトランクに押し込んだ。車はものすごいスピードで疾走していった。どこに連れていかれ、何をされるのか、想像もつかなかった。おろされた場所は、この世とは少し違った、そう、人のいなくなった街だった。異様な紫の空気が流れていた。俺にはそう見えた。非常に薄かったが、紫の煙が全体を包みこんでいるように見えた。建物は残っていた。しかし、材質は見たことがなかった。透けているようなそんな素材だった。高層ビルばかりが、立ち並んでいた。だが地面がひどかった。舗装はされてなくて、土がむき出しになっていたり、瓦礫だったのかな。砕かれた石が、転がっていたり。足場は相当に悪かった。車で進むことができなかった」

 舞は、何も話かけてはこなかった。

 俺をトランクから出すと、そのまますたすたと、歩いていってしまった。

 俺もついていった。ちょうど夜で、空は真っ暗だったんだが、建物はみな光を放っていた。ずっと異臭はしていたな。何かを焼いたような臭いだった。そのとき、紫の気体の正体がわかった。地面のいたるところに落ちていた石の一部から、放射されていた。ある意味、放射能だったんだな。舞は、その石を拾い集めていた。トングのようなものでつかみ、もっていたビニール袋の中にいれていった。俺にも、トングと袋が渡された。俺も同じように石を拾い集めていった。俺はあれを思い出した。アメジスト。紫水晶。だけどあれともいくぶん違っていた。あきらかに紫の光が放射されている。むしろ、石のほうは紫じゃなかった。色素を失った、たとえは悪いけれど、ダニみたいな。なんて言ったらいいのかわからないけど。とにかく、物質的な感じがまったくしなかった。俺は夢中で拾い集めた。何の意味があるのかわからなかったけれど、とにかく、舞の望むことがしたかった。彼女に危害を加えようとした、その罪滅ぼしのつもりで。こうして、俺は、実際の人間での実験に、またもや失敗した。まだ、時期が尚早だったのかもしれないと、判断した。

 しかし、心の奥底では、まったくあきらめてなどいなかった。心は折れてなかった。

 その人のいなくなった街に、どれだけ滞在したのかはわからない。とにかく袋が満杯になったら、トラックへと運び、次の袋につめこむ。それを延々と繰り返した。舞はトラックの運転席に座り、俺は助手席に座った。彼女はずっと無言だった。俺は少し疑ったね。ほんとに舞なのかなって。舞の風貌はしていたが、実際は違う人間じゃないかってね。

 舞という人間など、もともと存在していたのだろうか。それとも、舞に何かが入り込んで、別の人格に、一時的に支配されているんじゃないか。でも俺は、素直に舞の行動には従った。

 ところがだ。その帰宅の最中に、俺はいきなりトラックから突き落とされた。

 急ブレーキがかかった。そして、急ハンドルを舞は切った。タイミングよく、ドアが開き、俺は振り落とされてしまった。舞はそのままトラックを加速させていった。俺は、道路に放りなげられたままに放置された。

「それで、この研究所に来るまでの、過程は?」

 Gは、結末を急いだ。

「舞とはそれっきりだ。彼女の芸能活動を追っても、大学に問い合わせても、彼女の足取りは、全く掴めなくなっていた」

「君は、どこに落とされたんだ?」

「国道の脇の、田んぼ」

「それからの経緯を、話せ。早く」

「その経緯は、私が話そう」

 ディバックという男が、口を開いた。

 Gはこの男が横にいたことを、まったく忘れてしまっていた。匂いはずっと消えていたのだ。だが、男が口を開いた瞬間、刺激臭は再び、空間を支配する。

「哺乳類としての機能をよこせと要求された」と、МQRは言った。

「そうだ。我々の仲間にならないかと提案した。まさに、我々の仲間になるには、最適の男の一人だった。我々は、勢力を拡大しているところだった。君にも提案している。君を歓迎しているんだ、Gくん。君にも、我々と似たような要素がある。そう。爬虫類の血が流れている。誤魔化しても、無駄だ。非情で、無慈悲で、破壊的で、破滅的。美を生み出すことのできない、そのことへのコンプレックス。建築の仕事のオファーに応えることのできない、つまりは、能力のない君・・・。なら、創造なき破壊を実践する以外に、道はないじゃないか。ええっ?そうだろっ?G。このМQS。彼も悟ったのだ。新しく生み出せないのなら、すべてを破壊するしかないと。まずは手始めに、自分の肉体を破壊した。燃やし尽くした。死体となって、別の人間に発見された。だがこうして肉体以外の部分は残る。次なる仲間を集める活動に専念する」

「破壊願望があるのは、あんただけだ」

 Gはディバックを指差す。

「МQS。この、男の心の中には、まだ、願望が消えていないはずだ」

 Gは言った。「新しい組み合わせの遺伝子を持った人間を、この肉体を伴った実世界に、生み出したい。そうだろ?」

「ううっ」МQRはうめき声をあげ、そして、頭を抱えてうずくまる。

「お前は、間違った行動をしたんだ。こんな人間ではない男に、自らの肉体を売ってしまったんだ!だが、魂までは売り渡さなかったようだな。君は苦しんでいる。それがとてもよくわかる」

 そう言ったGは、ディバックに襲いかかった。異様な臭気に向かって。

 何度も何度もこぶしを突き上げ、殴りつけた。ぶよぶよの液体を殴っているみたいに、手ごたえがなかった。臭気はさらに激しさを増し、ディバックの笑い声が、かすかに聞こえてきた。Gはずっと、憎しみを込めて殴り続けていた。ディバックの姿はなかった。МQSの姿もなくなっている。また会おうと、ディバックのくぐもった声が、消えかかった臭気と共に、Gを取り囲んでいた。

 地面に埋め込まれた水槽の中の男を、Gは見下ろした。

「あんたが、Fなのか?」

 反応は、どこからも返ってこなかった。

 だが、Gには、この水槽の中の男が、自分の中の失われたままになっている能力と、このときダブって見えた。



 舞が、VAの社長に直接電話をかけてきたのは、唐突なことだった。

 VAは、女優、雲中万理も所属する芸能事務所であった。人気モデルの、長谷川セレーネの所属も決定し、にわかに活気が出始めていた。

「沙羅舞と、申します。ご存じないでしょうけど」

「知ってるさ。万理と共演しただろう?よく覚えているよ。《調音》の所属タレントだろ?どうしたんだ、急に」

「《調音》はやめようと思ってます。はい。それで、ご相談が」

「言ってみろ」

「そちらに、移りたいんです」

「理由は?」

「女優をやめたいんです」

「おいおい、どういうことだよ」

「音楽がやりたいんです」

「歌か?」

「違います。演奏です。ピアノの演奏。むしろ音楽家です。曲をたくさん作りたい」

「わからんな。うちに所属してる、音楽家なんて、誰もいないぞ。歌手だっていないんだ。見当違いだ」

「そういう部門がないことは、よく知っています。私だけでいいんです。音楽家としての私を、タレントとして置いてくれませんか?」

「《調音》にいるのでは、都合が悪いのか?」

「新しく出直したいんです。沙羅舞という名前は気にいってるので、そのまま残します。しかし、活動内容はがらりと変えたい。別の人間として再スタートがきりたい。それに、音楽のことを今の事務所の人に言っても、きっと今更、私の芸能活動の路線を変える気はないだろうし。それに、あなたの事務所。この芸能界ではかなり中心的な役割を、これから果たしていくような気がするから」

「ずいぶんと、高く買ってるんだな。あらたに、音楽部門を作ってほしいわけではないんだな。君だけの採用でいいんだな」

「はい」

「お安い御用だよ」

「ありがとうございます」

「もう、《調音》は、やめたのか?」

「これからです」

「穏便にな」

「どうせ、私のことはもう気にかけていません。穏便に済ませたいのは、むしろ、向こうのほうです。でも、試験もなしに、私を受け入れて大丈夫なんですか?」

「たいして期待などしてないからな」

「そうですよね」

「音楽はもちろん聞く。いつでも持ってきてくれ。肝心なことは、それだけだ」

「ありがとうございます」

「あ、それと、万理のことだけど」

「はい、なんでしょう」

「万理と同じ事務所になるわけだけど」

「それが、何か」

「意味があるのか?」

「特にはありません。きっと、ほとんどお会いすることもないと思います。接点がまったくなくなると思います。違う事務所にいた、今までのほうが、きっとタレントとして、同じ仕事をする機会があったでしょうけど。これからは、方向性が、まるで異なります」

「そうか。もう他に訊くことは、何もないよ。でも、どうして急に、音楽なんて?今までどんなことをしてたんだ?簡単な略歴を聞かせてほしいところだけど、まさか、何の訓練もしてないわけではあるまい。ずっと密かに素養を積んできたのだろう。何も言うな。音を聞けば、すべてはわかる。余計な情報は何もいらない」

「こう言っては、最初から、あなたを幻滅させるようですけど、別に小さいときから、音楽を習っていたわけでもないし、特別な練習を重ねてきたわけでもありません。特に好きだったわけでもないし、独学で身につけたわけでもない。そもそも、一か月前の段階では、音楽を聴くことさえほとんどなかったくらいですから。がっかりしたでしょ」

「さっきも言ったはずだ。僕は音楽家だという人間の言葉は、まったく信用しないことにしている。余計な情報にすぎない。音楽家は、音にすべてが宿る。それだけだ」

 こうして舞は、万理や長谷川セレーネの所属する芸能事務所に、籍を置くことになる。



 舞は指定された場所へと楽譜を直接持っていった。ビルの地下にある音楽スタジオだった。地下へと続く階段の前には、一人の男が立っていた。

 舞が事情を話すと、男は舞を尾行するように、一緒に階段を降りてくる。

 階段が終わる場所には扉があった。そこにも、眼光の鋭い男が一人いた。二人の男は見つめ合った。それから頷き合った。男は扉を開ける。

 舞の後から二人の男がついてくる。スタジオと呼ばれる空間は、紫色の照明が広がっていた。

 舞は、その光を全身で浴びながら進んでいった。体の中の細胞を、洗浄しているかのようだった。皮膚に突き刺さり、そのまま身体の内部で拡がっていく様子が感じられる。長い廊下の先には、またもや、人間の形をした影が現れる。何か声を出しているようだ。

「僕をファラオにしてくれないだろうか」

 またもや男だった。

 しかし、さっきまでの二人とは、雰囲気がまるで異なっていた。

 舞は後ろを振り返る。

 一瞬、巨大な二匹の蛇が、お互い絡まりながら、こっちの様子を伺っている姿に見えた。

 だがそれも勘違いだった。二人の男が立っていた。

 目の前の男は跪き、床にむかって呼びかけいた。

「俺をファラオにしてくれないだろうか」

 絞り出すようなうめき声が、地下に響き渡る。

 舞は来てはいけない場所に、的外れなタイミングで来てしまったことを後悔した。

 しかし、引き下がることはできなかった。後ろには二人の男が控え、前は行き止まりだった。

 よく見ると、男が跪いていたその床には、透明のガラスが張られていた。

 覗き込むように見ると、そこにも男が一人横たわっていた。水の中に。

 目の前の男は、この水槽の中の男に向かって、声を絞りだしていたのだ。

「俺では、駄目だろうか。俺では・・・。何とか答えてほしい。おい。F。起きるんだよ!お前のせいで、ビルは瓦解してしまったんだ。その影響で、お前がつくったビルではない、他の建物までもが、一部崩壊してしまったんだ!空間がひどく混乱してしまったことで、おそらく、時間の流れも乱れてしまった。全部、お前が、あのビルを建てたことが原因なんだよ!建てようと心に決めたことが原因なんだ。そしてお前は、その不始末を、世界にまき散らした。しかし、お前は眠ったまま。あの男たちに捕らえられたんだろう。あいつらだよ。あの、爬虫類と、人間の中間のような奴らだ。あいつらが、お前を、仮死状態にしているんだろう。どういう目的があるんだ?どの道、お前を、利用しようとしているんだ。おい、何とか、答えたらどうだ。お前にだって、自分の考えくらいは、あったんだろ?あいつらと共鳴したのか?違うだろ。お前に、破壊願望はなかったんだろ?ビルが瓦解してしまった、その事実、その波動が、きっとこいつらの嗅覚に反応を起こさせたんだ。そうなんだろ?お前という人間を、同類だと判断した。お前の肉体を、こいつらは、好き勝手にいじるぞ。君の意識を奪っているんだ、その最中に・・。目を覚ませ。覚ますんだよ!俺に力を与えてくれ。お前の力が必要だ。お前は、俺の一部だ。一部だったんだ!遥か昔に。ずっと離れ離れだった。君に意識があったときには、逆に、俺には意識がなかったはずだ。俺らは、同じ一つの人間なのだから。そのことに気づかなかった俺たちは、そのどちらかが、眠らされたままになる。俺が先に気がついた!お前も気づけ。気づくんだ!そして、俺を、ファラオにするんだ!」

 Gは背後に人の気配を感じた。

 振り向くと、そこには女性がいた。

「誰だ!常盤静香か?いや、違うな」

 舞は、この気の触れた男の呼びかけには応じなかった。

「ずっと、見てたのか?なんてことだ!」

「ごめんなさい。覗き見するつもりはなかったの。ある人に、ここに来てくれって、言われて。音楽スタジオだと思い込んでいた。ごめんなさい。間違えたみたい。ここは?」

「何をしに来たんだ?」

 Gは、女を睨んだ。

「楽譜を、見せにきたの」

「誰に?」

「誰って、そんなのは知らない。音楽関係のエンジニアか誰か。とにかく行けばわかるからって」

「俺じゃないのか?」

「えっ?」

「それは、俺なんじゃないのか?」

「あなたなわけ、ないでしょう。この、気違い!誰なのよ!その床の下の、死体は・・・」

「死体?死んでるって、誰が決めた?」

「しゃべりかけたって、生き返らないわよ」

「さっき、楽譜って、言わなかったか?音楽やってるのか?」

「悪いかしら」

「曲も、つくるのか?」

「どういう意味?」

「歌うだけじゃなくて」

「歌わない」

「歌手じゃないのか」

「今は、曲をつくるだけ。それも、一週間前から。突然に」

「気がふれているのは、そっちの方なんじゃないのか。まあいいよ。わかったよ。音楽家なんだな」

「誰なの?」

 舞は水槽のことがずっと気になり続けた。

「この水槽の中の男か?そう、まさに、俺の知らない男さ。これまで、何をやっていた男で、どんな男だったのか。まるでわからない。だが、これは、まぎれもなく俺だ。俺自身。そう感じたんだから、合ってるとか間違ってるとか、そんなことは言うんじゃないぞ」

 舞は状況がまったく掴めなかった。

「自分の気持ちを、正直に声に出してみた。すると、だんだんと腹が立ってきた。悠然と寝ているんだからな、こいつは!くそっ!」

「逆のパターンがあったんじゃない?あなたが水槽の中で、この人があなたに向かって、叫んでいたってことも。そういえばまだ、名前も訊いてなかった。聞かせてちょうだい」

 名前を聞くと、舞は帰っていった。舞のいなくなった空間で、怒りが最高潮に達したGは、拳でガラスの水槽を殴りつけた。Fの顔を殴りつけるように、何度も何度も叩いた。だが、水槽はびくともしなかった。

 Gはこの湧いてきた圧倒的な憤りが、あらゆるものを破壊することのできる、エネルギーを宿していることを知る。あの二人の男たちも簡単に殺せる。この研究所も粉々にすることができる。唯一、この水槽だけを、破壊することができない。

 Gは、自分のことを馬鹿にしてきた大勢の人間たちのことを思い出した。あいつらに復讐してやる。Gは心に決めていた。絶対に認めさせてやる。考えを完全に覆してやる。Gが水槽を叩けば叩くほど、Gの肉体の中心から生み出される怒りが、形となって・・。

 本当のところ、Gは何に対して、怒りをみなぎらせているのかがわからなかった。わからなかったからこそ、益々、憤っていった。しかし、その怒りの対象の一つは、間違いなく自分を馬鹿にしてきた人間に対してであった。それは実在した人間から、直接、非難の言葉を浴びせてきた人間から、潜在的に無言の圧力をかけてくる人間。あるいは、それのすべては、自分自身に対してであった。

 Gは、今まで自分に欠けていた何かに、気づいた。

 この圧倒的な憤りは、自分が自分に向けて放っているものに、他ならなかったのだ。

 俺は自分のことを馬鹿にしていたのだ。貶めていたのは、この自分に他ならなかった。舞と話したことで一気に蘇ってきていた。噴出してきていた。Gは舞に感謝していた。

 しかし、その感謝が、また、新たな憤りを生み出すことになっていた。怒りの連鎖は、Gを包み込み、そして無数のブロックを、Gの背後に積み上げていった。

 気味の悪い二人の男たちの存在は、極端に薄まっていった。Gの意識からは、すっと消えてなくなった。研究所も消えた。ここはすでに、研究所なんかではなかった。俺のものになっていた。ある意味、俺のものになったのだ。俺が生んだ怒りのブロックの貯蔵庫になったのだ。Fは眠ったままだった。半端ではない厚みのある水槽もまた、そのままだった。

 ここはブロックを貯蔵しておくための、ただの倉庫なのだ。必要なときに、ここから運び出すだけだ。井崎に連絡がしたかった。ついに、俺は足りなかった最後の一つのピースを、見つけだしたのだと。あるエネルギーの貯蔵庫にに行き当たったのだ。もう迷うことはなかった。これであなたの望むものはすべてに用意できたのだと、そう言いたかった。






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ネオマヤン1 時勢の消滅編 @jealoussica16

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