第29話 癇癪(1)
翌朝、目を覚ましたアガーテと共にブラッドはヴァンたちと合流する手段を話し合っていた。
河の流れは早く、落ちたら再び同じ場所には戻れない。
崖を昇るにしても高さ五十フィッツある断崖絶壁の壁を二人で昇ることになる。
ブラッドなら可能だが、アガーテには不可能なことだった。
だが、ヴァンたちと合流するには崖を昇る以外の方法はなかった。
ブラッドは一つの提案をした。
「アガーテ、俺の背中にしがみ付いておけ」
ブラッドはぶっきらぼうにアガーテに提案した。
つまりアガーテをおんぶした状態で一人断崖絶壁の壁を昇り切ろうとブラッドは考えた。
アガーテは最初、「そんな行為は無理だよ!」と反対していた。
だが、他の手段がない以上、ブラッドの案に乗るしかなかった。
アガーテは頬を朱色に染めながら両拳を強く握り、ブラッドの背中を見つめていた。
意を決したアガーテはブラッドの背中に「エイッ!」としがみ付くと、顔を真っ赤して話した。
「僕、重荷になってないよね?」
「体重か? 運動していないから少し重いぞ? タオ老師はすげぇ軽いからあのクソジジイは別格なのかもな」
ブラッドがあっけらかんと話したのでアガーテは「重いって言うな!」とブラッドの頭を何度も叩いた。
だが、非力なアガーテに叩かれて痛がるほどブラッドは弱くない。逆に「頭皮のマッサージになるぜ」くらいの気持ちでアガーテの非難を軽く受けていた。
ブラッドが自身のタイミングで断崖絶壁の壁を昇り始めた。
一人背負っているにも関わらず、ブラッドは爬虫類が昇る勢いでスイスイと壁を踏破していく。
その速度に背中にしがみ付いているアガーテが驚愕した。
「何、この速度! 人間とは思えない!」とブラッドの規格外の身体能力に唖然とした。
何年にもわたり、タオ老師と殺し合いを行った結果が些細なところで姿を見せる。
その異常さは最早、人間と呼べる域を脱していた。
だが、スイスイと断崖絶壁の壁を昇るブラッドに問題が起きた。
『お兄ちゃん――、こっちだよ』、『ブラッド、こっちに来なさい』、『ブラッド――』
精霊の悪戯がブラッドを待ち構えていた。
精霊はこのアルデバラン大陸に存在する生命の源「プラーナ」の本流から生まれ出た子供だ。つまり、人間の生命と元を辿れば同じ存在が自由に動いていると言えた。それは人間の概念でいうと「お化け」、「物の怪」であったり「魔物」でもあった。
アルデバラン大陸のプラーナが生み出した精霊は同じプラーナを持つ者を惑わせ、プラーナを断つことを喜びとしていた。また、プラーナから記憶を読みとる力があり、その者が一番好む記憶で誘惑し事故死させるのが常とう手段だった。
ブラッドは心が痛くて仕方がなかった。
愛しい家族が自分を呼んでいる。
だが、その言葉を信じたら死が待っている。
こんなに悲しい話しはない。
必死に崖を昇りながら耳から聞こえる愛しい者たちの声を無視することがどれほどブラッドの心を痛める行為か精霊は解っていながら誘っていた。
ブラッドは唇から鮮血が流れるまで強く噛むと怒鳴った。
「黙ってろ! それ以上、俺の記憶を穢すならこの渓谷に住む全てを破壊してやるからな!」
急に怒鳴ったブラッドを見てアガーテが驚いて声をかけた。
「何があったの? 一体、何が起きているんだ?」
「……、何でもねぇよ」
「なんでもあるよ! 僕はブラッドに頼る! だから、ブラッドも僕を頼って良いんだよ!」
ブラッドはアガーテの言葉を聞いてぶっきらぼうにお礼を返すと、スイスイとまた岩壁を昇り始めた。
ブラッドが断崖絶壁の壁を昇り始めて五分が経過した。
ほとんどの難所を突破したブラッドはあと、二フィッツを残すのみとなっていた。
背中にしがみ付いていたアガーテが歓喜に満ちた声をあげた。
「ブラッド、あと少しだ! もう、昇り切ったみたいなもんだ!」
だが、ブラッドは最後の最後で堪忍袋の緒が切れた。
精霊たちが終始、ブラッドに対して記憶を読みとり、大切な家族の声で死に誘おうとする声に対して怒気を吐いた。
「クソ精霊ども! 俺の大切な想いを穢しやがって! そんなに霧散したいなら相応に暴れさせてもらうぞ!」
ブラッドは断崖絶壁の壁を昇り切るとアガーテを振り落として右手親指を噛み切った。そのまま左腕の紋様に血を擦りつけて上級血液魔法を発動させた。
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