午後2時、入り口すぐの席で
神崎あきら
第1話 指定席
毎日の営業回りで、唯一の楽しみと言えば休憩時に入る喫茶店だった。コンビニ弁当なら半額程度で済むが、営業車の中や公園のベンチで食べる弁当ほど哀愁漂うものはない。
学習教材の販売をする小さな商社に就職して5年、上野直樹は入社時からずっと同じエリアを担当しており、エリア内のめぼしい飲食店は一通り制覇済だった。そんな中で、ここ最近ずっと同じ店に通っている。
商店街のアーケード出口にある小さな喫茶店。薄暗い店内は昭和のまま時間が止まっている。洋風アンティークのテーブルに椅子、仄かに店内を照らす無数のランプスタンド、マスターがこだわりでティーカップが壁一面にディスプレイしてあり、シックな店内に彩りを添えている。80年代の懐かしいポップスが流れる店内はモーニング、ランチとディナーの時間を外して喫煙も許されていた。
直樹はまわりの同年代がどんどん禁煙する中、どうしてもタバコとジッポーを手放すことができなかった。電子タバコにしたら、なんて営業所の事務のおばちゃんに言われるのだが、草の焼ける匂いや自分にとって癒やしのあるあの煙は電子タバコでは味わえないものだった。
ランチの時間をずらして店に入る。この時間になるとお客はまばらで、愛煙家がコーヒーを楽しむ時間になっていた。直樹は店内を見渡せる2人がけの席に座る。ここが定位置になっていた。二時までがランチタイムだったが、毎日通ううちに二時を過ぎて来店する直樹のためにマスターは特別にランチを提供してくれた。その方が店側も手間が省けるということもあるだろうが、そうした気遣いが心地よかった。
店の入り口すぐ脇の席にいつも座っている女性がいた。白いブラウスに肩にかかる長い髪、清楚な印象があった。背筋をまっすぐに伸ばして紅茶を飲みながら文庫本を読んでいた。その席はデッドスペースに小さな机をレイアウトしてあり、入り口脇ということもあって他の客が座っているのをほとんど見たことはなかった。この店は半分以上が常連で持っているような店だったが、彼女もその一人らしい。
だいたい午後2時すぎ、気がついたら毎日彼女はいた。直樹が出て行く3時すぎにはいなくなっている。いつも同じ席で本を読む、彼女の日課なのだろうか。大学生くらいの年頃だ。派手ではないが、整った顔立ちは美人といっていいだろう。直樹はいつしか彼女から目が離せなくなっていった。
彼女の気を引いてみたいと考えた直樹はいつもより早く店に入って、彼女の指定席に座ってみようと思った。先客がいれば彼女は他の席に座るだろう、いつも人の居ない席に自分がいることにどんな反応を示すのか、ちょっとしたいたずら心もあった。
二時がきた。食後のコーヒーを飲みながら新刊の雑誌に没頭していた直樹ははたと腕時計を見た。2時15分。いつもなら彼女がここに座っている時間だ。店内を見渡せば、奥の席に白いブラウスの女性がいた。あんなところに、と思いきや女性はスーツの上着を羽織り、タブレットをカバンにしまって上司らしき男と店を出て行った。あの彼女ではない。
もしかして、いつもの席が埋まっていたのに気がついて店に入らず出ていったのか?悪いことをしたかもしれない、直樹は自分の子供っぽい考えを反省した。トイレを借りて、午後の営業回りをしないと。気分を切り替えて立ち上がった。
トイレを済ませて共用の手洗い場で手を洗っていたとき、背後に気配を感じた。鏡ごしに見ると、あの白いブラウスの女性が立っていた。店内のダウンライトのせいか、影を落とした顔色に直樹は一瞬鳥肌が立った。手を拭きながら彼女と向き合う。やっぱり美人だ、しかしまるで生気がなかった。
関わってはいけない気がして、横をすり抜けようとしたら彼女はその場を動かない。
「あ、ちょっと・・・」
すみません避けてください、そう言おうと思ったが声が出なかった。全身が緊張して動かない。額から一気に油汗が流れるのが分かった。
「あの席で、人を待っているんです」
小さな声で彼女がしゃべった。責めるような調子ではなかったが、喫茶店の席なんて自由席だ。それをたまたま他人が座ったからと言って文句を言われる筋合いはない。金縛りに遭いながらも腹が立った直樹は言い返した。
「で、でも席なんか自由じゃないですか。人を待ってるなら別の入り口近くの席でもいいでしょ」
直樹の言葉に黒い瞳を潤ませて女は去って行った。しまった、そんなつもりでは。彼女のことが気になってちょっと意地悪してみようと思っただけなのに、何でこんなことに。体が動くようになり、彼女の姿を追った。すでに店内には彼女の姿はなかった。
それから、直樹はその喫茶店には行きづらくなってしまい、コンビニ弁当を公園のベンチで食べてみたり、チェーン店の牛丼屋で手早く昼を済ませるようになっていた。あの店のランチ、うまかったなあ。食後につくコーヒーも香り高くて良かったし。直樹は公園で缶コーヒーを煽りながらひとりごちた。
ちょっと、行ってみようか。コーヒーだけでも飲み直したい。彼女に謝りたいという気持ちもあった。直樹は店へ向かった。
商店街のアーケードをつなぐ横断歩道を渡る。店はすぐそこだった。横断歩道から3メートルほどの場所に花を供える老人男性の姿があり、ふと気になって立ち止まった。そういえば、ここにいつもささやかな花束が供えてある。この近くで交通事故でもあったのだろう。
老人は手を合わせて深くおじぎをしたあと、その場を去って行った。よほど大切な人を亡くしたのだろう、直樹はその老人の小さな背中を見送った。
喫茶店に入ると3時を回っていた。
「久しぶりだね」
マスターが声をかけてくれた。しばらく来てくれないから他の馴染みを見つけてもううちに来ないかと思ったよ、なんて肩をバシバシ叩かれた。
「あ、いやちょっとあって」
思わせぶりな返事をしてしまった。マスターはそれに興味を惹かれたらしく、注文を取りながらつっこんできた。
「なに、エリアが変わったとか?」
「い、いやちょっと気まずくて」
直樹はそう言って入り口のそばの席に視線を向けた。マスターは表情を変えたのが分かった。
「君、見えるの」
「え、見えるとは」
「あの席のお客が見えたんだろ?」
直樹はマスターの顔を見上げた。マスターは無言でそのまま厨房に戻っていったので、直樹は立ち上がって追いかけた。
「ちょ、ねえマスター、どういうこと?」
カウンター越しに身を乗り出して直樹が尋ねる。マスターは直樹の注文したコーヒーを淹れる準備をしながら話し出す。
「白い服の女性だろ?」
「そうだよ、毎日2時から3時くらいまでいつもあの席にいて」
「彼女、死んでるんだよ」
直樹は体中から力が抜け、カウンターにへばりつくようにしてなんとか体制を保った。救いを求めるようにマスターの顔を見つめている。
「やめてよ・・・」
「ほんとだって」
「ま、大丈夫だって何もしないらしいから。俺には見えないんだよね」
「そうなの・・・」
直樹はカウンターの椅子に座り直してマスターから話を聞いた。親父から聞いた話なんだよとマスターは始めた。初老のマスターの親の代からの店だった。当時からこの店はよく学生たちの待ち合わせの場所に使われていたそうだ。その中に彼女はいた。同じ大学の学生の彼氏とよく待ち合わせをしており、入り口脇の席が定位置だったようだ。彼女は2時頃には店にいて、彼氏の方がいつも遅れてきた。
ある日、3時を過ぎて彼女が出て行った。彼氏に待ちぼうけを食わされたらしい。少しして、外がざわつき始めた。店の近くで交通事故があったらしく、サイレンの音が鳴り響いた。
慌てた様子で店に彼が入ってきて、いつもの席に彼女がいないこと確認して、また飛び出していった。それきり、その学生カップルは店に来なくなったそうだ。
「それからいつの間にかその席に彼女だけが来るようになったんだって」
直樹は入り口脇の席をチラりと見た。彼氏をずっと待っていたのか、そう思うと席を取ってしまった自分が恥ずかしくなった。彼女のさみしさを思うと、不思議と恐怖は無かった。
「あの席ね、狭いし、なんとなく誰も座らないから撤去しようと思ったこともあったけどね、親父の話を思い出すとそれもできなくてさ。」
「そうだったのか・・・ねえ、マスター、それいつ頃の話なの?」
「親父がいくつの頃だったかな、親父が店を継いだ頃だったから50年以上前かなあ」
「50年・・・か」
直樹はステンドグラスごしの西日の当たり始めたその席を見つめながらコーヒーを飲み干した。
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