サルが木から落ちる

ピーター・モリソン

 サルが木から落ちる

 庭先で、何かが落ちる音がした。

 どこか湿った、比較的大きな音だった。

 庭は鬱蒼とした林に繋がっている。気になって外に出てみると、幹の根元に何かが倒れているのがわかった。

 サルのようだった。

 好奇心に駆られ、ゆっくりと近づいていく。死んでいるのかと一瞬思ったが、どうも気を失っているようだ。

 足を滑らせたのか、病気なのか、いろいろ想像を巡らせていると、雨が降り始めた。山間の天気は気まぐれだ。大粒の雨がサルの毛に落ち、雨音が辺りを包み込んでいく。

 躊躇うよりも先に、ぐったりとなったサルを抱きかかえていた。

 激しくなる雨足の中を走り、家へ連れて帰った。

 とりあえず、三人がけのソファに寝かしてやる。サルの身体は大きくもなく、小さくもなかった。灰色の毛並みに覆われ、瞳を閉じている。どこか疲れ切った様子がうかがわれた。

 しばらくそのまま見守っていたが、目覚める気配がないので、仕事机に向かった。職業柄、たくさんの写真を撮るので、その整理を始めた。

 残す写真、捨てる写真を選り分けていたが、サルのことが気になって、はかどることはなかった。

 眼鏡を外し、眼を擦る。

 考えもなく連れてきてしまったが、どうしたものか。目覚めたら、サルはびっくりするだろうか。こんな見知らぬ場所に連れ込まれて。……突然、暴れ出したらどうする。あれこれ考えていると、少し心配になってきた。

 心のざわつきが伝わったのか、不意にサルが身を起こした。

 サルは取り乱すことなく、辺りを見回し、こちらの視線を絡め取った。

「ここはあなたの家ですか?」

 サルはそう尋ねてきた。

 サルがしゃべる? 呆気に取られた。聞き間違えとも思えない。何かのトリックなのか、そもそも目の前のものは、本当にサルなのか。

「しゃべれるのか?」

 何とか聞き返す。

「ずっと人に興味があったので、いつの間にか、しゃべれるように」

 少し高く掠れた声だ。物言いは流暢だった。

「人に興味が?」

「そうです。木々の間から、ずっと見ていました。人の営みを……。そのうちに言葉がわかるようになりました」

 サルはどこか悲しげに告白した。サルが言葉を獲得することで、どんな悲しみが生まれるのかわからなかったが、沈鬱な表情に心が乱された。

「木から落ちたのか?」

「はい、考え事をしていたのです」

 人の子のように、サルはソファに浅く腰掛けた。

「考え事?」

「最近あれこれとよく考えます。それでよく木から落ちるのです」

「悩みでも、あるのか?」

「サルはほとんど悩みません。目先のことしか。だけど、ぼくは過去や未来のことで悩むのです」

「過去や未来」

「後悔と不安。それらが頭の中で満たされると、ぼくはおかしくなって、木から落ちるのです」

「人の言葉を覚えたせい?」

「そうだと思います」

 サルはそこまで言うと、急に黙りこんだ。自らの考えに囚われているようだった。

 何とかしてやりたいと同情心を募らせるが、サルの悩みを聞いてやったこともないし、もちろん解決策を提示したこともない。

「何か食べた方がいい」

 こういうときは気分転換すべきだ。テニスプレイヤーも、セットブレークときにはリラックスするために食べ物を口にする。

 キッチンへ行き、パイナップルの缶詰を開けた。サルが食べそうなものは、それしかなかった。皿に均等に取り分け、果汁を注ぐ。待っていたサルの前に置き、フォークを手渡した。

「食べていいのですか?」

「どうぞ、口に合うかどうか、わからないが」

 こちらの食べる様子を眺めてから、サルはローテーブルに身を寄せてきた。パイナップルをフォークで刺し、口に運んだ。見様見真似だろうが、フォークのつかい方も様になっていた。途中から、皿の上でカットする食べ方を身につけた。

 感心するしかなかった。

「缶詰には妙な甘さがあるから、口に合わないか?」

「いいえ。美味しいです」

「そうか、ならよかった」

「あなたは思慮深い人ですか?」

 サルはフォークの手を止めて、こっちらをじっと見た。

「人並みだと思う」

 それがサルの望む答えではないだろうが、いい答えが出てこなかった。

「ここで暮らしているのですか?」

「仕事のときだけだが、ここにいる方が多い」

「ぼくもここで暮らせたらなと、そんなことを考えました」

 サルはパイナップルをたいらげた。

「いろんなことをもっと知りたい気持ちはあります。だけど、これ以上知ってしまうと、ぼくはサルでなくなってしまう気がします。……見かけはサル、心は人のよう。それはそれで苦しいだろうと」

 フォークを皿に添えるように静かに置く。

「ここで暮らすのは楽しそうですが、そうすることが、生まれ持ったぼくの幸せには繋がっていかないだろうと。……なんだかそれが、よくわかりました」

「がっかりしたのか? 人に」

「いいえ、そうじゃありません。……整理がついた、そんな感じです。話せてよかったです」

 その言葉に、押し黙り、頷くしかなかった。

「もう帰ります。親切にしてもらって、ありがとうございました」

 サルは立ち上がり、頭を下げた。

 すると、すっと何かが抜け落ちたように四つ脚に戻り、表情を消した。

「話したくなったら、ここにくればいい」

 その言葉はもうサルには届かないようだった。

 するすると戸口の隙間から外に出ると、サルはぎこちなく木に飛び移り、林の奥へ呆気なく消えた。

 玄関先に立ち、サルが消えた辺りをずっと眺めた。雨音が耳の奥に染み込むくらい、ずっと……。


 以来、そのサルの姿を見ることはなかった。

 季節が巡ってもなかった。

 ときどき一人物思いにふけるとき、じっと耳を澄ませている自分に気づくことがある。

 きっと、もう一度聞いてみたいのだろう。

 あの湿った、そして物悲しい。

 サルが木から落ちる音を。


 〈了〉

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