第61話 兄と弟

 前田勢が真田丸に攻撃を仕掛けたという報は、直ぐ様徳川の陣営

にもたらされた。

「利常め先走りおったか‥‥‥」

 家康が苦い顔で呟く。

 大阪城を十万の大軍を持って包囲して二週間余り、後は南の城門の

一つを打ち破り数に任せて城内を制圧出来ればしめたものだったが、

それを阻む障害が南東に忽然と現れた真田の要塞だった。

「如何致しますか?直ぐに増援を––––」

 側に控える本多忠政が伺いを立てる。

「いや、各自そのままそれぞれの陣営の維持を厳命せよ。秀忠にも

その様に伝えよ」


 しかし前田勢の後方に二万の軍勢を抱える秀忠は、真田を攻める

好機と自軍を南に進めんとしていた。

「丁度良い、真田の小倅をここに呼べ」

 秀忠は上田から五千の軍勢を揃え秀忠の元に加わっている、信幸

の嫡男信政を呼びつけた。

「利常の軍勢を援護し砦を攻略せよ。其方らならば、叔父の信繁も

手心を加え砦に近づけるかも知れぬでの」

 これには信政は意を唱え、毅然と秀忠に申し述べた。

「叔父とは言え信繁は敵方として攻め込む我らに手心など加える筈

もございません。また我らも徳川家に仕える一家臣としてここに罷

りこしております。ご命令とあれば命を賭けて信繁の首を取って参

りましょう」

 父親譲りの切れ長の目をひたと秀忠に向けて、きっぱりと言い放

つその堂々たる様子に、側に控える本多忠政ら古参の家臣達も感心

して、まだ十九の年若い武将を見守った。

 秀忠は苦々しい思いを呑み込み、嫌味を加えてこう言った。

「それでは、その覚悟が本物かお手並み拝見としよう。仮病で上田

に引きこもっておる父親と違う所を見せて貰うぞ」

 これを聞いた信政は幾分顔を赤らめ怒りを秘めた眼差しを秀忠に

向け掛けたが、隣に控える年上の若い男が素早くそれを制して進言

する。

「信政様、急ぎ出陣の準備を致しましょう」

 その言葉に冷静さを取り戻した信政は、礼をすると秀忠の陣営を

後にした。


「信政様、秀忠様の挑発に乗ってはなりませんぞ。ここは堪えて––– 」

「‥‥その言葉使い、辞めて貰えぬか」

 陣営を後に馬に乗った信政がぼそりと、隣で馬を進める男に声を

掛ける。

「お気になさらず。ここでは彼方様が総大将ですから、主従のけじめ

はしっかりと皆に示しておきませんと」

「気にします!彼方の方が年上で私の兄上なのだから」

 信政の言葉にヘラリと笑う信吉は、信幸の側室お香との間に生まれ

た長男である。

 母親に似た垂れ目のおっとりとした風貌は、いささか武人としては

頼りなく見えるが、信吉は草の者達を束ねる頭目の補佐を務める程の

武道の達人であった。

 正妻の小松に男の子が生まれた時、信幸は既にお香が産んだ信吉の

処遇をどうするかを悩んでいた。

 実は信吉は信幸の子ではなく、昌幸がお清の侍女として仕えていた

時に昌幸が手を付けた事で出来た子供である。

 既に片手の数に収まらぬ程の側室を抱えていた昌幸は、お清の逆鱗

に触れる事を恐れ、息子の信幸にお香を押し付けた。

 この時信幸はまだ現服を済ませたばかりの十四歳、既に二十歳を迎

えるお香を側室に迎える事に難色を示していた母のお清だったが、子

が出来たとあっては仕方ないと渋々これを認め、お香は信幸の最初の

妻となった。

 控えめな性格のお香は、小松が正室として迎え入れられると自身は

上田から離れた別宅に我が子を連れて移り、無用な跡目争いの火種を

起こさぬ様ひっそりと暮らしていた。

 しかし、信吉が現服を迎えると家臣達から上田に戻してはどうかと

の声が強まり、信幸は我が子を草の者の頭目、出浦盛清に預けた。

 元々の素質と素直な性格が幸いしてか、信吉は盛清の元で忍びの術

を学び、メキメキと頭角を現す程の手練れとなった。

 一方で母親似の穏やかで謙虚な姿勢も仲間内に好まれ、数年後には

忍び働きの為に構成される十数名余りの組のかしらを務める程にな

った。

 信幸としては当時、いずれ自分の元に戻すつもりで一時盛清に預け

たのだが、思いの外草の者達との生活が性に合っていた信吉は、この

まま草の者として真田家に仕えたいと父に願い出た。

 既に仲間内の娘と契りを交わし、子供が腹に居ると聞いては無下に

反対出来ず、信幸は息子を妻子のいない盛清の養子に出す事にした。

 家臣の中にはこれに反対する者もいたが、信幸は草の者を束ねる頭

目は真田家とは一線を引いた血筋でなければ、互いに禍根を残すとの

考えから信吉に真田の姓を捨てさせたのである。

 しかし信吉本人にはその事に全く拘りが無いとは言え、元服までは

世継ぎの候補として、公然とその存在が真田家中に知れ渡っていたの

で、正室の嫡男信政としては複雑な思いを抱かざるを得ない。

 涼しい顔で隣を行く信吉の顔を見ながら、信政は心の中で溜息をこ

ぼした。

『何故、父上はこの兄を自分達に付けたのか』

 父信幸の名代として今回の五千の軍勢を任された時は、喜び勇んだ

が、その補佐として信吉が現れた時にはその高揚感も消え失せていた。

 確かに自分と弟の信重は今回の戦が初陣となるので、補佐役は必要

だろう、しかしよりにもよって腹ちがいの兄を据えるとはどういう事

なのか、父の気持ちが分かりかねる信政だった。


「此度の出陣、ギリギリまで出発を遅らせましょう」

 先程の言葉と真逆の事を信吉は事もな気に言う。

「馬鹿な事を、そんな事をすれば秀忠様に有らぬ疑いを抱かせます」

「どうせ従った所で、秀忠様の真田嫌いが収まる筈もございません」

 にべも無くきっぱりと言う信吉を、以外そうに見つめる信政はこの

温和そうに見える腹ちがいの兄が、見た目通りの人物ではないと感じ

始めていた。

「此度の戦で信政様、信重様が必ず果たさねばならぬ使命が何か、お

分かりですか?」

「それは無論この戦で我ら真田家が徳川家への忠誠を示す為、一つで

も多くの敵方の首を取り、手柄を挙げ––––」

「全然違います」

 にっこりと笑顔で信吉が否定する。

「では、何だと言うのです」

 信吉はひたと信政の目を見つめ、真剣な顔でゆっくりと告げる。

「生きて再び上田に帰還する事です」

 信政がすかさず異を唱える。

「命を惜しんでは戦など出来ません!母にも命を惜しまず徳川家の為

この戦で獅子奮迅の働きをせよと、私も信孝も言われてきたのです」

 信吉は穏やかに微笑むと信政に語り掛ける。

「お母君、小松のお方様は立派なお方です。なれど自分の腹を痛めて

産んだ我が子の死を望む様な母親はこの世に居らぬと私は思っており

ます。お方様も本心では信政様信孝様の無事のご帰還を願っておりま

しょう」

 神妙な顔でその言葉を噛み締める信政に、信吉は力強く言葉を掛け

る。

「その為に私がここに遣わされたのです。必ず信政様と信孝様をお守

り致します」

「あ、兄上を遣わしたのは父上ですよね。だとすれば、父上は–––– 」

殿もお二人のご帰還を願っております」

 既に出浦の姓を名乗る信吉は家臣のケジメとしてか、信幸を父とは

呼ばずにいる。

 無用な家督争いを防ぐ為に、父がこの才ある兄を出浦家に養子に出

した事を知った信政は、信吉に対し何処か後ろめたい気持ちを抱えて

いた。しかし今信吉の言葉を聞いた時、その丁寧な言葉の中に自分と

弟の身を案じる優しさを感じ取っていた。

「兄上は、その、私達を‥‥疎ましく思っておられぬのですか?」

 ハハハと信吉が快活に笑う。

「私としては何かと面倒な次期当主の座を、早々に信政様にお任せ出

来て良かったと思っております。堅苦しい真田本家の暮らしより草の

者達との暮らしの方が面白く、やり甲斐を感じております」

 それにと信吉は幾分照れた様に付け加える。

「私の妻はくノ一ですが、間も無く二人目が産まれる予定です」

「そ、それはめでたい事で‥‥では兄上こそ必ず生きて上田に帰還せ

ばなりませんぞ」

 信政は語気を強めて兄を諭す。

「無論そのつもりです。共に上田に帰還したら是非我が子達に会いに

来て下さい」

 戦の最中だというのに、ほのぼのとした兄弟の情を通わせ合った二

人は、馬を駆って自軍の陣営へと戻った。




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