第37話 恨みの刃

 『くそっ、まさか甲賀衆に邪魔されるとは––––』

 正就は甲賀の“含み針”により手勢のほぼ全滅を知ると、慌てて

その場を後にした。

 甲賀衆の使う“含み針”とは、猛毒の汁を細い針に塗りそれを細

い管を数本繋いだ小型の笙の様な形の武器で相手に飛ばす、彼等

独自の暗殺方である。

吹矢よりも細く小さな針は目に捉える事が難しく、回避が困難で

ある為忍びの間でも、密かに恐れられる戦法だった。

 

 正就が雨で泥濘む道を懸命に下っていると、目の前の幹に苦無

が突き刺さった。

 咄嗟に草むらに身を伏せた正就の頭上から、声が聞こえて来る。

「おい、仲間を見捨てて自分だけ逃げるとは、随分薄情だな」

 正就は腰の刀を抜いて、声のする頭上に自身の苦無を投じたが、

苦無は空を斬り木の枝に刺さる。

 瞬間背中に感じた殺気に反応して、身を翻した正就はそのまま

後ろに跳んだ。

 着地した正就の左肩の衣がはらりと切り裂かれた。

「ほう、よく躱したな。雑魚の忍びではなさそうだ」

 雨の中に暗緑色の忍び装束を纏う男が、二本の小刀を手に佇ん

でいた。

 対峙する正就は奥歯をギリッと噛み締めながら、何故隠形の術

で姿を眩ませていたのに、それが分かったのか訝しむ。

「いかに気配を消していても、足跡までは消せなかった様だな」

 そう言って男が自分の足元を楽しげにグリグリと踏み付ける。

「伊賀の忍び等には二十年来の恨みがあるのでな、生きては帰さ

ん!」

 稲光を受け、男の右目が赤く光る。

 正就は目の前の男の異様な殺気に、鳥肌が立った。



「これは、秀頼様からの書状にございます」

 茶屋の奥座敷で信繁は十六夜から上質な和紙に包まれた書状を

受けとった。

 中を改めると、流麗な文字で信繁を大阪城に家臣として迎え入

れたいという内容が、簡潔に書きしたためられていた。

『ようやくこの時が』

 信繁は書状をおし頂き、十六夜に言った。

「秀頼様の申し出有難く承りましたとお伝えください」

 十六夜の顔にも幾分安堵した様子が見え、更に彼女は言った。

「それでは、直ぐにも我等と大阪へ」

「いや、それは‥‥」

 信繁は逡巡する。今ここで信繁達が紀伊を出れば、ここまで護衛

を務めた藤次郎達に、信繁逃亡を見逃したとして何等かの咎が及ぶ

事になる。まして体調の優れないお春や、死んだお加代の供養の事

もある。

「せっかくのお申し出だが、我等は一旦九度山へ戻る」

「何故です?今ここを出なければ、また徳川から刺客が来るかもし

れませぬぞ」

 十六夜が信じれないとばかりに信繁に迫る。

「流石にいかに多くの忍び等を抱える伊賀でも、今度ばかりは直ぐ

に手勢を揃えるのは難しいであろう。それにこの書状によれば、家

康公は遅くとも年内に挙兵を考えていると見える。そうなれば私一

人に関わってもおれまい」

「なればこそ、直ぐに信繁様に御登城頂き、大阪の兵を纏めて頂き

たいのです」

 十六夜は幾分声を潜め信繁に進言する。

「ここは信繁様お一人だけでも我等と共に来て頂けませぬか?」

 信繁は目を閉じ、静かに目の前の十六夜に告げる。

「甘いと思われるだろうが、私はここにおる者誰一人欠く事なく

身の安全が整う迄、紀伊に留まりたい」

 信繁は再び目を開くと、意を込めた眼差しを十六夜に向けた。



『先ずは此奴を血祭りに上げ、梅乃の無念を晴らす』

 才蔵は二本の小刀を構え、目の前の伊賀の忍びを討ち取る為に

泥濘む地を蹴った。

 瞬時に相手の間合いに入り、左の刀を突き出す。

 相手の男がそれを躱し、自身の刀を下段から振り上げる。

 才蔵はそれを右の刀で受け、左の刀で相手の首を斬りつけよう

と上から振り下ろす。

 男が寸前の所でそれを避けて、後ろに飛び退く。


『危なかった。もう少しで首が跳ぶところだった‥‥‥』

 正就は冷や汗を掻く思いで、間合いを取りながら相手の二刀流

をいかに封じるか思案する。

 接近戦では二つ刀の相手の方が部がいい。

 何とかこちらの有利な間合いで、仕留められぬかと考えていた

正就は才蔵の暗緑色の衣が所々血で赤黒く染まっている事に気づく。

『奴め手負いではないか』

 正就はこの戦いが長引けば、自分の有利な展開に持ち込めると踏

んで、残忍な笑みを浮かべた。


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