第36話 無情の雨

『恐ろしい男だ』

 雨の中、少し離れた木の影から信繁達と自身の手の者等の戦いを

伺いながら、服部正就は戦慄した。

 さすがに今度は確実に仕留めなければと、前回の九度山の襲撃と

は人数も揃え手勢の腕も格段に優れた者達を送り、自分もそれを見

届ける為こうして三河から遥々やって来た。

 今回の襲撃に当たり、信繁を保護する幸長を廃し秀忠の意向を聞

入れ易い弟の長晟を後釜に据える為に、数ヶ月前より紀伊の城で仕

える下働きの中に伊賀の忍びを潜り込ませ、幸長暗殺の機会を狙っ

ていた。

 折しも幸長は昨年末より体調が悪く、床に伏す事が多かったので

毒を盛って病の為に死んだ様に見せかけるには好都合だった。

 ようやく信繁達を紀伊の城下より追い出し、ここ迄おびき出した

が、ただ一つの誤算がこの長雨だった。

 これほどの大雨で無ければ、正就は種子島伝来の鉄砲を用いて

信繁を狙撃する事も考えていたが、火縄を用いる鉄砲は雨の中では

火薬も湿り、発砲する事が難しい。

 正就は鉄砲を諦め、数に物言わせての殺戮を持って信繁と妻子諸

共抹殺する事を決めた。無論護衛に当たる紀伊の藩士達も道連れに

するつもりで、三十名以上の手勢を少しづつ紀伊に送り込んでいた。

 万が一にも徳川の息がかかった伊賀の仕業と分からぬ様に、一人

残らず始末する為の万全を配した襲撃が、思いもよらぬ反撃により

苦戦している。


 信繁の凄まじい剣撃もさることながら、意外なのは実践の経験も

乏しい紀伊の若侍達が、善戦している事だった。

 熟練の忍び達の敵にもなるまいとたかを括っていた彼等は、入り

口を半円形に固め、仲間の一人に斬り込む者があれば、隣の者がす

かさず援護して、中々囲いを突破出来ない。

 苦無などの飛び道具を使おうとするが、信繁や他の忍び達がその

前に斬り込んで来て、中々思う様な攻撃が出来ず、伊賀の忍び達に

も焦りが見え始めた。

『もう一派は何をしているのだ』

 正就は奥歯を噛み締め、別働隊の到着を今か今かと苛立ちながら

合戦の行方を見守った。


 茶屋の奥では、三名の襲撃者を相手に仁左衛門が決死の攻防を繰

り広げていた。

 仁左衛門は致命傷こそ与えていないが、絶妙な間合いの取り方で

相手の攻撃を牽制し、伊賀の忍び達を翻弄していた。

「この、老いぼれが!」

 痺れを切らした忍び二人が同時に斬りかかり、仁左衛門は身を屈

め二人から繰り出される刃をかい潜り、一人の腹を目掛け刀を横に

薙いだ。腹を斬られた男はそのまま倒れたが、もう一人は踵を返し

三人目の攻撃を受ける、仁左衛門の背中に斬りかかる。

「お前様!」

 お加代が仁左衛門の背中を庇って、その前に身を晒す。

「母上ー」お美代が悲鳴を上げる。

 仁左衛門を狙った刃はお加代の左胸を切り裂き、そこから鮮血が

ほとばしった。


 お美代の悲鳴を聞き、奥の異変を知ったお梅と佐助はすぐさま梁

から降りて、奥座敷に走った。

 二人の目に飛び込んだのは、床に倒れるお加代とそれを庇う様に

忍び二人の攻撃を受ける仁左衛門だった。

 佐助は苦戦を投じ片方の男の動きを封じると、腰の短刀を抜いて

仁左衛門に刀を振り下ろそうとしていた男の背中を斬り付けた。

 仁左衛門が更に留めの突きを男の腹に刺し男が倒れる。

 もう一人の忍びが形勢不利と見て、戸口へ逃げようと走る。

 その太腿に竹串の矢が刺さり、男が転倒する。

 佐助が転倒した男の背中に短刀を突き立てる。

 辺りには濃密な血の臭いが漂い、凄惨なその光景になす術も無く

立ち尽くすお梅。

 だが、仁左衛門の側で血を流して倒れるお加代と、それにすがって

泣き叫ぶお美代を見て、お梅は激しい怒りの炎が己の内に湧き上が

るのを感じた。

 お梅は弓矢を放り出し、戸口に向かって走り出した。

「お梅様!」

 ただならぬお梅の様子に気付き、佐助がその後を追いかける。


 降り荒ぶ雨の中、藩士達が襲撃者達と死闘を繰り広げている。

 皆血塗れで己の刀を振るい、懸命に敵を退けようと奮戦している。

 藩士達のその向こうに、信繁が数名の男達と切り結ぶ姿が垣間

見えた。

「‥‥‥めて、もう、辞めて‥‥」

 お梅は戦いに身を投じる男達に向かい、祈る様に呟く。

「お梅様、危のうございます。中にお入り下さい」

 佐助がお梅の肩を掴み、奥へ避難させようとする。

 お梅はそれを振り払い、雨に打たれながら大声で叫ぶ。

「もう辞めてー、この様な意味の無い殺し合いを辞めよー」

 娘の声に一瞬、男達の動きが止まる。

「お梅」

 信繁が戸口に立ち尽くす娘の姿を見て驚き、思わず攻撃の手を

止める。その隙を突き対峙していた男が斬り付けようと刀を振り

上げる。とその動きがピタリと静止する。

「ぐっ‥‥」

 男が首元を抑えて倒れる。それを機に次々と襲撃者達が苦しみ

出し、皆地面に倒れて泥に塗れながら悶絶していた。

「どういう事じゃ‥‥‥」

 信繁達が呆気に取られ立ち尽くしいると、別働隊の真田の忍び

達が現れ、信繁と慎之介達の元に駆けつける。

「信繁様、ご無事でしたか」

「これは、お前達の仕業か?」

 信繁が辺りで苦しむ襲撃者達を見渡し問いかける。

 よく見れば、彼等の体には細い針が刺さっていた。

「いえ、実は–––––」

 一人が言い淀んでいると、木立から音も無く黒い忍び装束の者

達が現れ、泥に塗れ虫の息の男達に短刀で留めを刺して行く。

 その中の一人が信繁の前に膝を突き、顔を覆う黒い頭巾を取り

去った。

「其方は‥‥」

 信繁が幾分驚きを滲ませ、目の前の人物を見る。

 頭巾を取り去った後に現れた美しい女の顔に、慎之介達も毒気

を抜かれた様に暫し見惚れる。

「私は甲賀衆の十六夜いざよいと申します。我が主人豊臣秀頼様の

命で、真田信繁様をお迎えに参りました」

「何と、秀頼様が––––」

 信繁の顔に光明がさす。


 突然の戦の終焉に、紀伊の藩士達はその場に立ち尽くし、中に

はその場にへたり込む者もいた。

「お梅様の祈りが通じましたな」

 佐助がお梅の肩をそっと支えて呟く。

 しかし、お加代を失ったお梅の心は、降り止まぬ雨の如く悲し

みに濡れていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る