第31話 黒い憎悪

『何故だ、何故父上は真田の小倅達に執着するのだ』

 秀忠は、親指の爪を噛みながら廊下をドタドタと踏みしめる。

 侍従達は関わり合うのを避ける様に、遠巻きにその様子を見守る。


「秀忠様」

 女の艶やかな呼び声にピタリと足を止め、秀忠が振り向く。

「阿茶殿か」

 秀忠が怒気を治め、年嵩の家康の側室の顔を見るなり、笑顔で側

に寄る。

 紺地に艶やかな牡丹の刺繍を施した打ち掛けを、幾分肩を出す様

に緩く着流す阿茶の方は、この時代の女性としては幾分大柄で、眉

も濃く、男勝りの顔立ちをしていた。

 決して美人とは言えない容姿だが、社交的で機知に富む彼女を家

康は気に入り、多くの側室の中でも最も長く側に置いて居る。

 若い頃は家康と共に戦場に赴いた事もある豪傑な一面もあり、晩

年の家康のまつりごとを補佐する迄に地位を得た程の女傑である。

 秀忠もこの阿茶の方には一目置いていて、幼き頃より姉の様に慕っ

ていた。

「また大御所様とやり合いましたか?」

 阿茶が楽しげに秀忠に顔を近づけて尋ねる。

 秀忠より幾分背丈のある阿茶が並ぶと、まるで母が子供に話し掛け

ている様にも見える。

 実際、秀忠は子供の様に頬を膨らませ、再び不機嫌な顔をして阿茶

に訴えた。

「父上は私の言葉など、まるで取り合ってくれぬのだ。阿茶殿、其方

からも進言してくれ!」

「まあまあ、ここでは混み入った話しもできませぬ。宜しければ、私

の部屋で–––––」

 阿茶は秀忠を宥めながら、自室に招いた。


 手入れの行き届いた中庭を臨む部屋で、阿茶が自ら茶を立てて秀忠

をもてなす。

 床の間には、山百合が生けられその花器もよく見れば、一流の職人

の手に寄る名品である事が窺える。

 華美では無いが、小物一つにも阿茶の目利きに寄る逸品が、部屋に

さりげなく置かれ、主人の並々ならぬ力量が知れた。

 秀忠も幼少より書や茶道を習い、それなりに工芸品の良し悪しの見

立ては出来るので、彼は部屋に入るなり感嘆の声を上げた。

「さすが阿茶殿、ご趣味の良い部屋ですな」

 阿茶の立てた茶を飲み、一息ついた秀忠は部屋の品々を眺めて褒める。

「秀忠様にお褒め頂き光栄です」

 阿茶の方は京から取り寄せた干菓子を漆の盆に載せ、秀忠に勧めな

がら、笑顔で礼を述べる。

 もうすぐ還暦を迎える筈の阿茶の方は、肌艶も良く白髪の少ない髪

も艶やかに整えている。香を焚き染めた衣を纏う彼女が動く度に、良

い香りが鼻を掠め、秀忠は熟女を前に何とも落ちつかない気持ちになる。


「大御所様が信繁殿に執着されるのには訳があるのです」

 ぽつりと阿茶が溢す。

 秀忠が干菓子を頬張りながら、先を促す。

「今から二十年程前、当時信繁殿は秀吉様の近習として、大阪城に詰

めておりました。そこで大御所様は信繁殿を見染めたのです」

 秀忠の口元から、菓子の欠けらがポロリと溢れる。

「見染めたとは‥‥‥つまり–––––」

 阿茶が意味深な目を秀忠に向けて、微笑む。

「武将が年若い小姓や近習を愛でるのは古来より良くある事、大御所

様とて見目麗しい若者を自分のものにしたいと望んでも、不思議では

ありますまい」

 もはや菓子の甘みが苦い物に感じられ秀忠は、その顔を歪めて阿茶

の話しに耳を傾ける。

 確かにいにしえの武将達は戦に女を伴ず、代わりに若い男子

を側に置き夜伽をさせる事もあったと、聞いた事がある。

 織田信長や上杉謙信なども側室の女達よりも側仕えの若い近習を

寵愛したという。

 自身は同性をとぎに望む趣味は無いが、他の武将の趣味に

意を唱える程潔癖な訳では無い。

 しかし、我が父がその様な嗜好を持ち、尚且つ自分が最も憎む男

に懸想していた事を知った時、激しい嫌悪感が湧き上がった。

 吐き気を堪えながら秀忠は、呻く様に言葉を紡ぎ出す。

「いかに望んだとしても、秀吉様の近習では父も手は出せまい」

「確かに、ですが一度だけ好機があったのです。関ヶ原の合戦の後

大御所様は昌幸殿は直ぐに打ち首にするつもりでしたが、信繁様は

自分に従うならば、助けようと信繁様に迫られました」

 阿茶が立ち上がり、小窓の障子を開けて外の風を室内に入れる。

「信繁は断ったのだな」

 爽やかな風に頬を撫でられながらも、秀忠の顔は怒りで赤黒く

染まっていく。

「人払いをしていたので、お二人がどの様なやり取りをしたかは

分かりませんが、部屋を出た大御所様は甚く御立腹され、直ぐに

昌幸殿共々の処刑を命じられた程でした」

 庭を眺めながら淡々と昔話しをしていた阿茶は、秀忠に向き直

ると声を潜めて進言した。

「大御所様にとって信繁殿は、正にです。お父上様の御為

ここは秀忠様が速やかに手を打つべきかと––––」


 数刻後、秀忠は並々ならぬ決意を胸に秘め、阿茶の部屋を出た。

 それを見送りながら、阿茶はゆったりと茶を飲む。

「阿茶様もお人が悪い」

 庭先から、男の声が聞こえる。

 驚く事なく、微笑みを浮かべ阿茶が茶器を置きながら、声に返す。

「此度の戦、失敗しくじる訳には行かぬでな。念には念を入れた迄」

「その為に秀忠様を顎で使うとは、家康様が知ったらさぞかし‥‥」

「大御所様ももう長くは無い、おそらく此度の戦が最後の花道。なれ

ばこそ、不安の種は早々に摘み取らねば」

 阿茶の目に強い光が宿る。その目を庭先の影の向け、彼女が命じた。

「正就、其方の願い通り無理を通して伊賀の頭領にしてやったのじゃ

しっかり秀忠様の露払いをせよ!」

 正就と呼ばれた忍び頭の影が、微かに揺らぎ音も無く消えた。

 



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