第32話 急転

 文月に入っても長雨が降り続く頃、昭光が幸長の訃報を伝える

為、信繁の元を急ぎ訪れた。

「何と、幸長殿が‥‥‥」

 信繁も突然の幸長の死に呆然とし、返す言葉を失う。

 一月程前に城で会った時、確かに顔色が優れない様子ではあっ

たが、明日をも知れぬ程の病に瀕している様には見えなかった。

「今後の事ですが‥‥」

 昭光が信繁達の処遇について言いにくそうにしていると、物々

しい大勢の足音が廊下を踏み鳴らし、こちらへとやって来る。

 何事かと昭光が腰を浮かして部屋を出ようした時、勢いよく

障子が開き、数名の武装した侍達がズカズカと部屋に押し入る。

「これはどう言う事か!誰の許しを得てこの様な暴挙を」

 昭光が険しい顔で、侍達を睨み付ける。

 侍達を束ねるおさらしき男が進み出て、無情に告げる。

「新たな藩主、長晟様の命で罪人真田信繁とその妻子、郎等は

速やかに九度山へ再度移送せよとの事。逆らう場合は力づくで

従わせよとのお達しである」

 昭光が真っ青になって抗弁する。

「馬鹿な、先の御当主の葬儀も済んでおらぬのに、そのご意向

を無視した命令、承服致しかねます!」

 男は侮蔑を込めた眼を昭光に向けて、決定的な一言を伝える。

「これは、徳川家より数日前に紀伊当主に下された厳命である。

従わねば、紀伊家も謀反ありと見做されますぞ」

「まさか、徳川家が‥‥‥」

 昭光が信じられない様子で、ガクリと膝を突く。

 信繁が昭光の肩を掴み、その顔に向かって一つ頷くと謝辞を

述べた。

「昭光殿、今迄世話になった。これよりは私達の事はお構い無

く、御身の事を考えてくだされ」


 雨の中、信繁達は殆どの荷物も持つ事も許されず、屋敷から

追い立てられる様に、九度山へと送られた。

 縄で縛られる事こそ無かったが、武装した紀伊の藩士達に囲

まれ町中を引き立てられる光景に、屋敷で世話をしていた家人

達や町で顔見知りになった露店の者達は、涙を浮かべて見送った。

 子供達は不安な顔で皆俯きがちに雨に打たれ歩いていたが、

お梅は毅然と顔を上げ、見送る町の人々に目を合わせ、見知っ

た者には会釈をした。

「大八、菖蒲、ご覧なさい、あそこに以前飴を買ったお店の人

が見送っていますよ。お礼に手を振ってあげなさい」

 お梅が幼い二人の手を取りながら、励ます様に言う。

 二人が健気に手を振るのを見ると、堪らず店の夫婦か嗚咽を

漏らす。つられて他の者達も「可哀想に」と涙混じりの嘆く声

があちこちから、響いて来た。

 それを耳にした藩士達が気まずそうに首をめぐらし、

「見世物では無い!散れ!」と邪険に見送る町の人々を追い払った。

「大人しく歩いて頂けませんか」

藩士達のおさが子供達に睨みを効かす。

 その目を見返しお梅が毅然と長に言う。

「突然の事で、私達はお世話になった方々にご挨拶も出来ません

でした。せめて手を振る位は見逃していただけませんか?」

 お梅の女子とは思えぬしっかりとした物言いに、長は幾分気圧

され、その後は何も言わず憮然と前を向いて一行を先導した。


 紀伊の城下から九度山迄、大人の足で丸一日は掛かる行程を雨で

しかも泥濘ぬかるむ山道を、幼い子供を連れて歩くのは至難の道のりである。

 途中信繁が菖蒲を、佐助が大八を背負って山道を行く。

 半年前、馬で九度山から紀伊を目指した時は天候にも恵まれ、迎

えの藩士達も信繁達を丁重に案内してくれたので、皆道すがらのど

かな景色を楽しみながら街道を歩いた。

 今回は川が雨で増水しているので、平坦な街道では無く険しい山

道を通り九度山へ向かっている。

「この様な雨の中、我らに付き合い泥に塗れなければならぬとは、

お主らもとんだ災難じゃな」

 しんがりを務め、杖代わりに太めの木の枝を突きながら、仁左衛

門が周りの侍達に声を掛ける。

 編み笠を被る彼らは皆一様に押し黙り、黙々と山道を歩く。

「愛想の無い奴らじゃ」

 首を振りながら歩く仁左衛門の前を歩いているお加代とお美代が、

直ぐ前を歩いていたお春の方の異変に気付く。

「お春様!」

 お加代がうずくまるお春に駆け寄り、その肩を支える。

 後ろの様子に気付いたお梅が、信繁達を呼び止め、一行は道の途

中で足を止めた。

「かなり熱がある様です。このままこの雨の中を歩くのは無理かと」

 お美代が信繁にお春の様子を伝える。


 一行は峠を越えるのを断念し、一旦引き返して麓の茶屋に身を

寄せていた。

 お春は奥の座敷に急ごしらえで設えた寝床に伏し、お加代の看病

を受けていた。

 お梅も枕元に座り、心配そうに母の顔を見つめる。

 熱に浮かされた顔をお梅に向け、お春がお梅に面目無い様子で微笑む。

「直に熱も下がるから、心配するで無い。お梅は大八と菖蒲を見て

おくれ」

 お梅はお春の手を取り、首を振る。

「大八と菖蒲は大助とお美代が見ております。私は母上のお側に––––」

 お春が僅かに目を見開き、嬉しそうに笑みを漏らす。

「まさか、お梅に看病して貰う日が来るとは‥‥やはり娘とは良い

ものですね」

 お春がお加代に目を向け、同意を求める。

 お加代も微笑ましげに二人を見つめ、二度頷く。

「本当に、お梅様も最近はすっかり息女らしくなられて、誠によう

ございました」

 お加代はそのまま、お梅にお春の看病を任せ、お美代と共に、茶

屋の主人の好意で給仕場を借りて皆の食事の支度を始めた。


 雨は幾分弱まったが、未だシトシトと降り続いている。

 紀伊の藩士達は、行程の遅れに苛立ちを滲ませ入り口の土間に陣

取っていた。

「宮坂殿、これでは今日の内に九度山へ向かえぬぞ、如何する?」

 藩士の一人が、この隊を纏める宮坂藤次郎に尋ねる。

「病人がおるのだ、仕方あるまい。今日はここで休むしかない」

 憮然と返す藤次郎に、皆諦めた様に寛ぎ出す。


 そこへ、お加代とお美代が汁を入れた腕を盆に載せて、藤次郎達

の元にやって来た。

「有り合わせで拵えた物ですが、どうぞお召し上がりください」

 腕の一つを藤次郎に差し出すお加代に、戸惑い気味に尋ねる。

「我らまで頂いて宜しいのですかな?」

 お加代が僅かに微笑み頷く。

「信繁様が、先に紀伊の方々へと」

 藤次郎達は恐縮しながらも、汁椀を受け取り各々箸を付ける。

 山菜を煮込んだ素朴な汁は、冷え切った身体に染み渡る様な温も

りを与え、藩士達の顔に満ち足りた笑顔が溢れた。


「ほ、元気んなものじゃ」

 お加代から汁椀を受け取り、仁左衛門が土間の方を見てニヤリと

しながら呟く。

「腹が減っていては、誰しも機嫌が悪くなる」

 信繁が、大助と共に汁を啜りながらほのぼのと言う。


 佐助は念のため、茶屋の周りを一通り見廻ってから中に入ろうと

したが、真田の忍びの一人慎之介が林の向こうから合図を送って来

たのに気付き、林の中に入る。

「伊賀の手勢が農夫に化けてこちらに向かっている」

 佐助の顔に緊張が走る。

「人数は?」

「三十は居る。奴等二手に分かれてこちらを取り囲もうとしておる

様だ。片方の群れを才蔵達が潰しに行っておるが、何分数に不利な

状況だ。出来れば直ぐにでもここを動いた方がいい」

「今は無理だ。お春様が熱を出して寝込んでおる。それにこの雨で

は––––」

 佐助は降り続く雨空を見上げ、意を決する。

「迎え撃つしか無い」

 遠くで稲光が瞬き、遅れて雷鳴が聞こえて来た。




 

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