第30話 老将の憂鬱

「やはり、五万石では足りなかったかのぅ」

 白髪頭をきっちりとまげに結い上げた老人が、読んでいた書状

をポイッと手元に捨て去ると、薬研で乾燥した草をゴリゴリとす

り潰す。

「その様な事はありません。本来ならば打ち首となる筈の三成側

の逆臣、自由の身になれるだけでも、破格の待遇でございましょ

う。それを、家康様の温情を無下にするとは–––––」

 側に控える本多忠政が、苦々しく言葉を濁す。

「まあ、なびかぬものはしょうがない。別の手を考えるとしょう」

 そこへ遠くから荒々しい足音が響いて来る。

「父上!」

 家康の息子秀忠が、息を切らし部屋に駆け込んで来た。

 薬研を動かしながら、家康が僅かに眉をしかめチラリと秀忠を

見る。

「騒がしいぞ、秀忠。薬草の粉が吹き飛ぶではないか」

 秀忠は父の言葉を無視して、ドカリと家康の前に小太りの体軀

を揺らして座り込む。その目は怒りで赤く充血していた。

「信繁に、五万石、をやると‥‥伺いました。真ですか?」

 息が整わぬ内に無理に喋ったので、切れ切れの言葉はしゃがれ声

で聞き取り辛い。

 見苦しい程取り乱す息子を冷めた目で見遣り、家康は事もなげに

答えた。

「やると言ったのではなくこちらに従うならば、五万石で召抱える

と提案したのじゃ。断ってきたがの」

「召抱えるなぞ正気の沙汰ではない!あの親子が上田の合戦でこの

私を愚弄する卑怯な戦法を用いた事をお忘れですか?」

「戦に卑怯もへったくれもない、私情で事を決めれば正しき道を見

失う。いい加減、過去の失態から頭を切り替えよ!」

 秀忠が悔しげに顔を顰め、そのまま立ち上がると挨拶もせずに出

行った。

 その後ろ姿を見ながら家康は、まだまだ自分が死ぬ訳にはいかな

いと薬作りに精を出した。

 忠政が痛ましげに家康を見ると、打ち捨てられた書状を片付け、

静かに部屋を辞す。


『何故、昌幸にはあの様な優れた息子が二人も居て、自分には居ら

ぬのか‥‥‥』

 家康はつくづく親子の縁の薄い己の運命を呪った。

 思えば、幼き頃から今川、織田と転々と人質生活の日々を過ごし

父や母の温もりを知らずに育った。

 そんな彼に取って我が子は、有力な味方を手にする為の質であり

生き金に等しい交渉の為の駒であった。

 だから家康は多くの子供を作り、有力な武家との縁組みに娘を嫁

がせ、息子達も迷う事事無く養子や人質に差し出した。

 

 だが正妻との間に生まれた長男信康を失った事を機に、家康は

自分の後を継ぐべき嫡男を急ぎ作らねばと考える。

 当時は織田家に供述の意を示す事が、生き延びる最善の手と考え

ていた家康は、それに異を唱える息子の信康と対立を深めていた。

 やがて、信康が信長暗殺を企てているとの噂が信長の耳に入り、

激怒した信長に、信康を殺せとの命が下った。

 噂を否定し何度も恩赦を願い出たが、結局信長の意向に逆らえず

家康は信康を切腹させた。

 

 その後生まれた秀忠を、家康は嫡男として他の兄弟とは別格に扱

い大切に育てた。生まれた時から跡継ぎとしての教育を施し、いず

れ自身が天下を治めた後は、秀忠に全権を委ねるつもりでいた。

 しかし、その教育方法は結果として裏目に出る。

 幼い頃から自分は特別だと教えられ、挫折を知らずに育った彼は、

自意識が高く我の強い男に成長した。


 そんな秀忠が人生で初めての大きな挫折を味わったのが、十二年

前の上田の合戦だった。

 石田三成との最終決戦となる関ヶ原の戦に臨むべく家康は主力の

軍勢を率いて東海道より西を目指した。

 用心深い家康は秀忠に3万以上の大軍を与え、東山道、後の中山

道をから美濃を目指す指示を与えた。

 東海道は大きな河川が多く、天候により進軍が滞る事を考え、確

実な山越えの別働隊を進ませる事で、万全を期した筈の家康だった

が、誤算だったのがその先に待ち構えていた真田昌幸親子だった。

 昌幸には、先の上田での合戦で昌幸に大敗した苦い経験があり、

同じ鉄を踏まぬ様敢えてこちらに引き入れた信幸を、家康は秀忠の

軍勢に加えた。

 昌幸の軍略を知り尽くしている息子の信幸ならば、有効な対抗策

を持って昌幸の動きを牽制出来ると見越しての布陣だったが、秀忠

は何故か当初から信幸を毛嫌いしていた。


 秀忠は敢えて信幸を先陣に配し、真田親子の全面対決を促した。

 あからさまな信幸への対応に眉を顰める家臣も居たが、信幸は

自ら弟の信繁が守る砥石城を落とし面目を保つ。

 ここで砥石城に軍勢の一部を残し、昌幸の軍を牽制しながら直

に本隊を美濃に向わせるべきだったのだが、秀忠は欲を出し上田

城の攻略を命じた。

 結果秀忠の軍勢は昌幸の奸計にはまり、多くの死傷者を出して

大敗した。


 当初与えた三万の軍勢の半数以上を失い、関ヶ原の決戦に遅参

した秀忠は、家康の逆鱗を買い勝利に沸く他の武将達の輪に加わ

る事も出来ずに、暫く謹慎させられた。

 この時秀忠は父家康に自分は信幸、信繁兄弟に嵌められたと弁

明した。

 あくまで非は自分に無く、信幸は真田軍に勝利をもたらす為、

徳川に従う振りをしているとまで言い募り、これを聞いた義父の

本多忠勝が、見かねて信幸を弁護した。


 当の信幸は意に介さない様子で、自身の弁明は一切しなかった

が、昌幸と信繁の助命については、一命を掛けて家康に嘆願した。

 信幸は上下白一色のかみしもで参上し、もし嘆願が聞き入れられ

なければ、切腹する覚悟で家康に迫った。

 この時付き添った忠勝は、信幸のあっぱれな覚悟に涙し、

(この老いぼれに免じ、どうかお聞き届け下さい)と家康の足元に

すがって請い願った。

 長年の重臣にそこまで言われれば、家康も受け入れざるを得な

く不承不承九度山への追放で手を打った。


 あの時、家康は昌幸を羨ましく思った。

 果たして、自分があの時負けて死罪となったとしたら、同じ様

に一命を投げ打ち助命をしてくれる子供達がいただろうか–––––

 家康は真田親子の絆の深さを知り、自分は多くの子供に恵まれ

ながらも一人として心を通わせる者が居ないことに愕然とした。

『儂は何処かで間違えたのか–––––』

 薬研を動かしながら、家康は己の野望を完遂させるべく、一人

思案に暮れた。


 


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