第21話 砲術

 障子の隙間から漏れる秋風が、客間に置かれた灯し油の炎を揺

らす。

 使者の若い男–––– 服部正重を前に信幸は、黙したまま今し方聞

いた言葉を頭ので反芻はんすうする。

「‥‥‥それを正就殿に命じたのは、秀忠様か」

 信幸が静かに問う。

 正重が眉を僅かに顰めて頷く。

 信幸は無意識に膝頭をきつく握り締める。

『そこまで我らが憎いか、秀忠!』

 下膨れの秀忠の顔を思い浮かべ、信幸はここ暫く感じなかった

激しい怒りが腹の底から込み上げた。

 

 正重はいつの間にか元の位置に戻り、平伏しながらこう言った。

「家康様は直ぐに秀忠様を呼びつけ、これを撤回させようとした

のですが、時既に遅く––––––」


『つまり、この件はあくまで家康のせいではないと、もし信繁達

が伊賀者達に襲われ命を落としても、自分の関与ではない事を報

せに来たという訳か‥‥‥』

 家康の老獪な意図を知り、逆に頭が冷えた信幸は正重に向き直

り、平静を装いながら謝辞を述べた。

「遠路遥々、ご苦労であった。家康様にも礼を申し上げてくれ」

 泰然とした信幸の様子に、正重は少し意外な表情を見せて聞き

返した。

「手勢について仔細をお聞きにならないのですか?」

「聞いたところで、こちらには手立てが無い」

 正重が一瞬苦い表情を見せる。その年相応の顔を見て信幸は、

ふと思い浮かんだ懸念を言葉にした。

「いかに家康様の命と言え、一族の者が密命を他家に伝えて差し

障りはないのか?」

 正重が幾分表情を緩めて答える。

「私の出自は伊賀の服部家ですが、今の私は家康様の馬廻りを務

める只の近習です。ですから、この私に直接命を下せるのは、家

康様とのみです」

 その言葉に思い当たる事が浮かんだ信幸は成る程と頷き、伊賀

の忍び集団も一枚岩ではない事を察した。



 正重がそのまま三河に戻る事を告げ、部屋を出るのを見届けた

信幸は直ぐに立ち上がると、障子を強く開け放った。

 庭に控えている筈の“草の者”に声をかけようとして、渡り廊下

の向こうから小松がこちらに来る姿を見て思い止まる。

 小松は信幸の前に来ると膝を突き、不安を滲ませた顔で見上げ

「何か、良くない報せですか?」と問いかけた。

 信幸は小松の前に膝をついて、その目を見つめながら、務めて

穏やかに言った。

「上田の事ではない。案ずるな」

しかしそれだけでは納得しないであろうこの妻に何処まで話すべ

きか––––– と思いながら、信幸は言葉を重ねた。

「秀忠様の命で九度山に刺客が放たれたらしい」

 小松の顔が強張る。

「何故、今になって‥‥‥九度山には信繁様ご家族と年寄りの側

仕えしか居りませぬのに」

 小松が信繁の妻子を案じ着物の合わせを握り締める。

「仔細はわからぬが、こちらも手をこまねいて見ているつもりは

ない」

 信幸は力強く断言する。

 その武人らしい顔に見惚れる小松に、信幸は再度案ずるなと言

い含めて下がらせた。

 

「新左」信幸が低い声で庭先に声を掛ける。

 程なく、暗緑色の装束に身を包んだ小柄な男が音も無く姿を現

し、信幸の前に片膝を付いて控える。

「聞いての通りだ」

 一連の会話を何処かで聞いていたであろう、主人の護衛を兼ね

信幸の側に常時張り付いている忍びの一人に手短に指示を出す。

「急ぎ、大阪に向け合図を放て!」

承知仕しょうちつかまつりました」

 新左と呼ばれた真田の忍びは、再び音も無く闇の中にきえる。

 

『間に合えば良いが‥‥‥』

 信幸は祈る様に月の無い夜空を仰ぎ見た。



 その晩、上田の山頂に赤いほむらが立ち上り、砲術の音が九つ轟い

た。その後次々と遠くの山々で同じ事が繰り返される。


 麓の住民達は、雷でも来たか––––と寝床で此れを聞きながら、誰

も訝しむ事なく朝を迎えた。







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