第20話 急報
『今年の冬も何とか無事に越せそうだな‥‥‥』
領地の村々からの、作物の出来高を記した書状に目を通し、
信幸はゆっくりと、妻の入れた茶を啜った。
毎年の天候に左右される農作物の出来高は、領民達にとって
命綱となる。
乱世のこのご時世、天候よりも更に厄介なのは戦である。
幸いここ十年近く、近隣の小競り合いは多少あったが、大き
な戦は無く、上田の民は信幸が真田の当主となってからは安寧
の日々を送っていた。
信幸はほぼ毎日各村へ足を運び、領民の暮らし振りを見て周
り、些細な訴えにも耳を傾けて迅速に対応した。
主人が率先して働けば、家臣達も負けじと力を合わせて呼応
し、上田は他の領地よりも住み易いなどと、他領地の百姓達に
も噂される程の大きな集落へと発展していった。
『民無くしては、国は立ち行かん』
父昌幸の教えを幼い頃から叩き込まれた信幸は、父亡き後も
その教えを実践してきた。
だが、どんなに己の領地を守り育てても、それを一瞬で奪い
去るのが“ 戦”という怪物である。
目には見えないが、その足音を信幸はひしひしと感じとって
いた。
『来年の冬は果たしてこの様な穏やかな日々を迎えられるであ
ろうか ––––––– 』
信幸がそう憂いていると、障子の向こうから家人の者が声を
掛ける。
「お館様、夜分に失礼します。只今三河よりご使者の方が御目
通りを願い参上しております」
『はて、三河から‥‥‥』
この様な夜分に何の報せか ––––– と訝る信幸の前に陣取った
小松が不機嫌そうに家人に返す。
「この様な夜更けに先触れも無く無礼な使者ではないか。何用か?」
家人が恐縮して、声を潜めて答える。
「それが、仔細はお館様に直接お伝えしたいと頑なに申して居りま
して」
これは只事では無いと感じた信幸は、さっと立ち上がると家人
に「直ぐに会おう」と返事して、居間を出た。
小松も当然の如くその後に付き従う。
客人用の居間に通されていた使者の男は、思っていたよりも若い
男だった。
馬を飛ばして来たのか、髪もほつれ顔には土垢がこびり付いてい
た。
「して、儂に直に伝えたい報せとは何かな?」
上座に座り、前置きの挨拶も省いて信幸は率直に尋ねた。
平伏していた若い使者は、チラリと信幸の隣に控える小松を見ると
再び頭を下げて願い出る。
「恐れながら‥‥お人払いをお願い申し上げます」
これを聞いた小松は眉を吊り上げ、怒りを滲ませながら使者に告げ
る。
「この部屋に人払いをする者は居らぬ。無礼であろう」
今にも使者に斬りかかりそうな殺気を込めて使者を睨む小松に、信
幸は静かに声を掛ける。
「小松、下がっていなさい」
意を唱えようと信幸に向き直った小松だが、夫のいつに無く厳しい
目の光を見て、素直に従い部屋を辞した。
「これで良いかな」
ここまでの短いやり取りで、この若い男が只の使者では無い事を、
信幸は肌で感じた。
本気では無いにしてもあの小松の威圧をまるで意に介さず、端然と
座すこの者が、かなりの手練れと見た信幸は、後ろに立て掛けである
愛刀の位置を意識の端で捉えた。
「失礼ながら、お側に寄っても構いませぬか?」
男が平伏の姿勢を崩さずに問う。
「構わぬ、近う」信幸が頷く。
使者は音を立てずに、滑る様な隙のない動作で信幸の側に片膝を付
くと、声を潜めて名乗った。
「私は服部半蔵正成の次男正重と申します」
その名を聞き、信幸はハッと目を見開く。
服部半蔵––––忍びの世界において、この名を知らぬ者は皆無な程そ
の存在は畏怖を持って語り継がれる伊賀の忍びの頭領である。
その祖は安土桃山時代より続く伊賀国一帯を縄張りとした忍びの
名家百地家の流れを組む忍び正種が、足利家から松平家へと仕えた
時から、【服部】の姓を賜った事に始まる。
正種は新たに服部半蔵と名乗り、以後その名を跡継ぎの
没した。
二代目半蔵こと正成は家康に仕え、伊賀の忍びを強力な戦闘部隊と
するべく、厳しい身分制と戒律で一族を養成した。
その甲斐あってか、家康の参戦する戦では、諜報、暗殺など影の暗
躍で功績を挙げた半蔵は、数年前から跡目を嫡男の正就に譲り、何故
かその後の消息は不明とされていた。
『まさか、服部家の子息が直々に此処まで来るとは––––––』
信幸は事はかなりひっ迫した内容かと、腹を括り正重の言葉に耳を
傾ける。
「今、
その家康様からの勅命で急ぎここにまかり越しました。」
そう前置きしてから正重は、信幸の目をしっかりと見つめて言った。
「昨日、兄の服部正就より伊賀の里へ密命が下りました。選ばれた者は
およそ二十名、目的地は––––九度山です」
信幸は予想以上の報せに言葉を失った。
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