第13話 帰途

『才蔵の奴、大丈夫だったかな‥‥』

 九度山を目指し山道を跳ぶ様に駆け抜けながら、佐助は後に

残してきた才蔵の身を案じた。

 それが杞憂だという事は、才蔵の忍びとしての力量を知っ

ている佐助には分かっているのだが、時折見せるあの男の投げ

やりな態度に、一抹の不安を感じていた。

 忍びの仕事は時に心を蝕む程の、過酷な経験を強いられる。

 中にはそれに耐え切れずに抜けぬけにんとなり、諸国を

彷徨う者や、酒や賭博に溺れる者、果ては自害する者もいる。

 厳しい戒律を課す忍びの集団は、仲間の裏切りを決して許さ

ない。

『才蔵が真田家を裏切るとは思わぬが‥‥』

 才蔵の母お紅は先代の昌幸お抱えの忍びだった。出雲の巫女

の血を引く彼女もまた様々な妖術にけた忍びで、昌幸は

お紅を寵愛していた。

 しかし、ニ十数年前の上田の合戦で、家康暗殺の命を受けた

お紅は、使命を果たせずに討ち死にした。

 

 あの戦の影で多くの忍び達は凌ぎを削り合い、多くの者達が

死んでいった。

 その中には佐助が姉のように慕っていた娘も居た。

『あの人の死が、信繁様と桐様の運命を変えてしまったのかも

しれない‥‥』


 佐助は九度山の麓にある村を訪れた。

 既に僧侶の出で立ちから薬売りの格好に身なりを替えて、佐

助は村の中でもとりわけ大きな農家に立ち寄った。


 家の前には稲穂がこうべを垂れ、間も無く収穫を待つばかり

の田んぼが広がり、その一画に瓜や茄子を実らせる畑がこしらえら

れていた。

 かすりの着物を着た女が、屈んで茄子を収穫しては竹籠に納め

ていた。

 姉さんかぶりの手拭いからほつれた髪が僅かにこぼれている。

 佐助は女の姿を見て、我知らず胸が熱くなった。

「桐様」

 女がその声に顔を上げ、僅かに目を見開く。

「佐助、戻って来たのですね」

 桐は佐助に頬笑み、労いの言葉をかけた。

「長い間のお役目大儀でしたね、暫くはこちらに居るのですか?」

「はい、これから冬に備えての支度もありますから、信繁様の屋敷

に男手が必要でしょう」

 桐は顔を僅かに曇らせて頷く。

「そうですね。父や昌幸様無き後、殆どの郎等達が池田様の命で

九度山から退去させられました。徳川家の嫌がらせもここまで来る

と、その執念に感心すらしてしまいます」

 気丈な桐らしい物言いだと、佐助は内心苦笑した。

「丁度良かった。今年は茄子の出来が良くて、沢山取れたから、

持っておゆきなさい」

 桐は籠に盛った茄子を佐助に差し出す。

 佐助は有難く頂戴すると、懐から懐紙に包んだ品物を取り出した。

「木曽で買い求めた物です。どうぞ使ってください」

 桐が包みを開くと、見事な細工の柘植の櫛が現れた。櫛には青桐

の葉の絵が彫られ、上質な漆が塗られていた。

「このような高価な物‥‥私よりもお春様に差し上げなさい」

 桐が困惑しながら、櫛を佐助に返そうとする。佐助は慌ててそれ

を制し、奥方様にはもっと良い物を用意してあると言った。

 「‥‥では、頂いておきます。ありがとう、佐助」

 桐は櫛を大事そうに懐にしまった。


「桐様、その‥‥‥屋敷の方へは––––」

 佐助が言わんとする先を制して桐が、静かに告げる。

「佐助、わたくしはもうこの村に嫁いだ身。今更侍女でも無いのに足繁く

信繁様の屋敷に出向くのは、好ましい事ではありますまい」

「ですが、あなたは本来ならお梅様の–––」

「佐助!」

 桐が強い口調で佐助を諫め、鋭い眼差しを向ける。

 佐助は目を伏せて小さく詫びる。

「申し訳ありません。出過ぎた事を‥‥‥」

 桐は表情を緩め、何かを言いかけたが、家の中から幼子の母を呼ぶ

声が聞こえて来た。

阿久理あぐりが昼寝から目を覚ました様じゃ、屋敷の皆によろしく伝え

ておくれ」

 桐は着物に着いた泥を払い、母屋へと入って行った。

 程なく家の中から、子供をあやす桐の声と無邪気に笑う女の子の、愛ら

しい声が聞こえてくる。

『あの様に情の深いお方が、何故もう一人の我が子を––––』

 佐助はやり切れない思いを胸に村を後にし、信繁の屋敷へと向かった。









 


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