第4話 戦いの序章
市街の通りを抜けてメルヴィナとアコレーデは目的の場所にたどり着く。
ヘルミーナの店、と看板にある。
学園のある貴族街と市民街を繋ぐ門からほど近い立地にその店はあった。
「コーデリア様、こちらですわ」
メルヴィナの先導で店に入ると甘い匂いがコーデリアを包み込んだ。
甘い、甘い、その香ばしい匂いに店内に目を向ける。
お菓子の店か……
上品な服装の婦人方が数名カウンターに並び、いくつかの席は埋まっている。
調度品はそれほど高級なものではないが庶民が入るには敷居の高い店のようだ。
顧客は主に富裕層なのだろう。
貴族が特に多い光都ならではの商いということだろうか。
文化水準は他国と比べて非常に高い。
あらゆるものが集まる光都メルヘビナは世界の中心にあった。
「あの席にしましょう。湖を一望できる一番の席なのですよ」
応対に出た店員がメルヴィナを見てお辞儀をしてから恭しく案内する。
窓を開け放ったバルコニーの席に誘われてコーデリアも席に座る。
「実はこの席は予約席なのです」
「誰かと約束を?」
「ええ、あなたと」
そんな覚えはない。
「冗談です」
「冗談……」
「今日のお勧めはシフォントルタです。わたくしが考えた新献立ですの」
「メルヴィナ様が考えられたのですか?」
「ええ、我が家に仕えていた料理人が引退して店を開くというので、わたくしが開店の出資資金を出したのです。お菓子作りはとても挑戦しがいのあるビジネスですの」
ビジネス……
コーデリアとそう歳が変わらない少女は貴族らしさとは違う方向を向いているようだ。
メニューカードに目を落とす。
デフォルメされた手書きのお菓子がメニューに並んで一目でわかるようになっている。
このようなものを見るのは初めてだ。
「この絵もメルヴィナ様が?」
「はい! こういうお店は都でもあまりありませんの。お菓子の素晴らしさをもっと広めたくて描きました。ご婦人方には好評ですのよ。ここを第一号店としてゆくゆくは国中にお店を広げていきたいのです」
野望を力説するメルヴィナにコーデリアの視線が注がれて、オホン、とメルヴィナが一間置いた。
「コーデリア様のお好きなお菓子は何ですの?」
さて困った。
コーデリアの記憶にある食べ物はあくまでも記憶でしかない。
味覚で思い起こせるような食べ物など存在しない。
「木苺のパイ……庭にあるイチゴをよく摘んでいました。乳母がそれをパイに」
それらしい記憶を掘り起こす。
コーデリアにとって思い入れがあるものなのかすらわからない。
「まあ、故郷の味というわけですわね。定番ですがアレンジを加えて……」
「ビジネスですか?」
新メニューに心飛ばすメルヴィナを引き戻す。
「ええ、わたくしが考えてヘルミーナが売るのです。ヘルミーナというのがわたくしのシェフですわ」
入るときヘルミーナの店と看板にあった。
その店主は……
「メルヴィナ様、良くいらっしゃいました」
店の奥から一人の婦人が出てきて二人の元に来て挨拶する。
まだ年若いように見える。
「こちらがヘルミーナですわ。わたくしの学友のコーデリア・ローラン様。フリジニアの御方です」
「それは遠いところからよく……メルヴィナ様、今日は何をお持ちしましょうか?」
「あなたの今日のお勧めをよろしくね」
「畏まりました。コーデリア様はいかがなさいますか?」
「同じもので……」
そして茶の種類を尋ねられ、メルヴィナと同じものを頼んだ。
メニューを見ても決められそうにない。
うむ、悪くない選択だ。
迷ったときは同じものにする……
「ふふ、いただきます」
「いただきます」
やってきたお菓子はふんわふわと見る者の目を楽しませる。
その甘い匂いにコーデリアは喉を鳴らした。
ナイフで一口切り分け頬張る。
口元に運んだフォークが硬直する。
「っ!?」
口の中でふわふわと舌にのせ甘く蕩けていく甘さに意識を奪われる。
何だこれは?
もう一口。
均等に切り分け口に運びふわふわの世界に飛ぶ。
「ふわわ……」
思わず一息、言葉を発して我に返る。
「く……」
バカな、たかが食べ物がこの私を攻略しようというのか?
あってはならないことだ。
「どうかなさいまして?」
不思議そうな顔をしたメルヴィナの問いに、コーデリアは言葉にならぬ感想をフルフルと頭を振って答える。
甘い……蕩けるように……この感覚はなんだ?
空に向かって昇天してしまってもよいほどに……甘い。
ああ、もう一口……
「はむ……あぁ」
吐息が漏れる。
恍惚と目の前のお菓子を味わいつくすことに心飛ばされるのだった。
「お気に召していただけたようですね」
メルヴィナがニッコリと微笑み返す。
あっという間に空になった皿と未練たらしい顔をしたコーデリアを見ておかしくなったのかメルヴィナがくすくす笑う。
そんなに妙な顔をしていたのだろうか?
コーデリアは鉄仮面を心にかぶる。
「あら、ヘルミーナが困っているみたい。少し様子を見てきてよろしいでしょうか?」
「かまいません」
少し冷めた茶の残りを見ながらコーデリアは答える。
頭の中は次にこの強敵と会ったときどう対処するかを考えている。
「ああ、それと、支払いはわたくしにお任せください。ごゆっくりなさっていってね」
メルヴィナが店の奥に行きヘルミーナと話し始める。
すぐに終わる話ではないだろうと判断し、肝心なことを聞きそびれたことに気が付く。
今日は出直すこととしよう。
そのとき、コーデリアはわずかな違和感を覚えて目を細めた。
この気配──
コーデリアは立ち上がると、窓の外、青い空を見上げた。
その暗く重い闇の波動には覚えがあった。
虚空に現れた漆黒の魔人が黒い波動を解き放ちながらまた転移する。
ベイオウルフかっ!
「打ち合わせもなく勝手な行動か……」
闇の尖兵ベイオウルフ。
アコレーデとは気が合う仲間ではなかったが、共に同じ目的を持つ者である。
しかし、単独行動とは正気なのか?
光都に単身乗り込んで事を起こすつもりなのか?
わからないが、あれでは腑抜けた光の使徒でも気が付いてしまうだろう。
その前に問いただす。
コーデリアは魔本に触れた。
それは主の意思に応じて手の中に現れていた。
思考は瞬時にベイオウルフの後を追う選択を取っていた。
バルコニーの少女は転移し、三角屋根の向こう、ひずみが起きた空間を追った。
紫炎がコーデリアを包んで黒髪から銀髪へと変える。
変身のスイッチが切り替わると同時にコーデリアからアコレーデの好戦的な人格が浮上する。
アコレーデの戦うための人格が浮上し高揚感が身を包む。
黒いマントを翻すと炎が舞い虚空を跳んだ。
魔本が生み出した転移空間は”閉じられた空間”だ。
何者にも邪魔されずに移動することができる。
「どこへ行くつもりだ? ベイオウルフ?」
◆
その同時刻──下町を歩くのは赤毛の少年ヨーン・ノルデンフェルトだ。
ヨーンの足取りは軽く石畳の小石を蹴飛ばす。
小腹が空いたので露店で子どもたちに人気の菓子を買う。
「待ってました、これだよなぁ」
粉をこねて焼いただけの簡単な菓子だが下町では定番である。
ヨーンはお焼きにかぶりついて歩き出す。
兵士たちが詰める門に用事があるのだ。
「ん?」
ふと何かの気配を感じてヨーンは空を見上げる。
気のせいかと歩き出すがまた空を通り過ぎた何かがあった。
「あん? 鳥かー?」
最後の一口を頬張り、空の向こうの気配を追って屋台の連なる市場を走り出す。
ピリピリと首の後ろがむず痒い。
何かあるとき決まってこうなる。
子どもの頃から厄介ごとの兆しのようなものが訪れる。
それ以上に気になると確かめずにいられない性分である。
「せいっと!」
近道といえばこれ。
身体能力を駆使して建物の屋根の上へ駆けあがった。
強く吹いた風に赤い髪が乱れてむず痒い鼻の下をこする。
「あれだ」
空に現れた黒い渦に向かって走り出す。
他の誰もその存在に気が付いていないのか、眼下に見る人の動きはいつも通りだ。
◆
「感じるぞ……神を名乗る忌まわしき愚か者どもよ。絶望を知り、破滅を以っておのれの罪を知るが良い」
漆黒の金属鎧のベイオウルフが禍々しい怨念をまき散らしながら神都を見下ろす。
「む?」
そのとき、転移の気配を嗅ぎ取ってベイオウルフは何もない空間を睨んだ。
「ベイオウルフ」
現れたのは漆黒の衣装をまとった銀のアコレーデだ。
「そこで見ておれっ! 我の邪魔をするな」
「ベイオウルフ──何をしている? 何故勝手に動く?」
「我は貴様を認めたわけではない。未熟ものが邪魔をするな」
その強い口調にアコレーデは言いかけた言葉を止めてベイオウルフを見返す。
その瞳には何の感情も映さない。
この男、あまりにも協調性がない。
パートナーには向かない。なぜ、こんな男と……
ベイオウルフの目には敵意があった。
アコレーデは殺気を感じ取って強く唇を噛む。
生まれたての小娘が──と、その目が語っている。
侮られているが争うのは不毛なことと判断し視線をそらす。
「好きにしなさい」
腕を組みアコレーデは眼下を見下ろす。
重要なのは使命を果たすことだ。
任務は陽動だ。
敵の目をこちらに向かせ、本来の目的を果たすことだ。
ベイオウルフの手並みを見るのもいい。
アコレーデはまだ生まれて間がなく経験が浅い。
癪に障るが闇の尖兵としての経験があるベイオウルフから見て盗むことにした。
「来たれ闇の息吹! 人の心に絶望をもたらし、世界を闇に染め上げよ!」
ベイオウルフの身から噴き出した瘴気がその頭上に集まり渦巻となって球状になる。
「時が制止した世界で暗黒に沈めっ!」
圧縮された黒い渦をベイオウルフが握り潰した。
すると闇が溢れ出す。
一瞬で世界は闇と同化していく。
世界が絶望に染まる──
心地よい闇と絶望をもたらすエナジーの波動が二人を包み込んだ。
アコレーデは不快感を忘れて突如、上空に現れた紫の月を見上げた。
"次元反転の法"によりこの都は魔界そのものと化したのだ。
だがそれはほんのわずかな時間。
作戦のために与えられたのはほんのわずかな猶予のみ。
「世界を絶望の闇へと染め上げろ」
月の魔性の光に照らし出され酔ったようにアコレーデは呟く。
続いてベイオウルフが腕を掲げた。
その手にあるのは黒いくさびだ。
この策のために魔王より与えられた魔法具である。
その禍々しい妖気を放つくさびをベイオウルフが大地に向かって放つ。
ベイオウルフが都の門外に向けて放ったくさびが着弾すると大地のエネルギーを吸って巨大化していく。
大地に蓄えられたエネルギーを吸い出したくさびの前にベイオウルフが立つ。
嗚呼、時が来た──
アコレーデが月を見上げながら恍惚に身を委ねる。
銀色の髪が月の光を受けて光り輝くのだった。
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