第17話 いいえ喜愛哀楽です
突然だが、私は安昼が怒った姿を見たことがない。
あれだけ理不尽な言葉を浴びせている私が言うのもなんだが、安昼には喜哀楽しか有していないのではと思う程に彼は怒らないのだ。
「あ」
例えば、私がこうして皿を割ってしまったとしよう。
無論わざとではない、手に残っていた洗剤で滑ってしまい割れてしまったのである。家事をしているとよく起こる凡ミスとでもいうべきか。
ただこのお皿は私の所有物ではなく湯朝家のものだ。故にこれは謝罪と弁償だと思いながら片付けをしていると。
「ふゆううううううううううううううううううううううううううううううううううううう!!!!!!!!!!!!!! 大丈夫かああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!???????」
安昼がスライディングをしながらキッチンへ飛び込んでくる。
「下がってください、お皿を割ってしまったので」
「大丈夫か!? 怪我してないか!? マキロンか? マキロンだな!?」
「いえ、別に怪我はしてな――あっ」
正直陶器が割れた場所に足を踏み入れるなど危ないだけなので近づいて欲しくかったのだが、安昼はそんなのおかまいなしにぱっと私の手を取った。
「……! や、やっぱり怪我をしているじゃないか……」
「それはただの逆剥け」
「え、あ……す、すまん……」
「それより危険なので離れて下さい。――それと、お皿を割って申し訳ありません、同じものを買って弁償しますので」
「え? そんなのいいよ」
「いや、そういう訳には――」
「まあ俺が言うことじゃない気はするけど――それより
すると安昼は「あ、俺も掃除手伝うよ、掃除機持ってくるな」と言い、そこから楽しそうに片付けをしたのだった。
――とまあ、これはあくまで日常の些細な一コマを切り取っただけなのだが、こういう言動を打算なしでするのが安昼なのである。
はっきり言って、私はそれが不思議でならなかった――だがどうして彼はそうなのかと分かったことがあった。
それは、ある日安昼が数学の教師に怒られたことに起因する。
「貴様……どうしてもっと反論をしなかったのだ」
「んー……?」
私もあまり感情的になるタイプではないのだが、あの理不尽さはどうにも納得いかず、下校時についそれを口にしてしまっていた。
というのも、数学教師が提示した課題を、安昼はちゃんとやってきたのであるが、教師が出題箇所を間違えていたのである。
故に安昼は解答を求められた際それを指摘したのだが、この教師はそれを認めず、あろうことか安昼が悪いと説教したのだ。
「あんな輩、立場など関係なく叱咤すれば良かったのです。なのに一方的に怒られ、あまつさえ謝罪をするなど――」
「そりゃそうだけど、でもあの先生いつも最初に
「は? まあ、そうですが……」
確かにあの教師は私を好ましいと思っていないのか、解答を求める際、必ず最初に私を当てる傾向がある。
そして間違えれば軽く嘲笑う。まあ典型的なクソ教師と言うべきか。
「しかしそれとこれと何の関係が」
「あの先生さ、気に食わない奴とか、自信のない生徒を率先して当てるんだよ。だから俺はわざと自信のないフリを見せて最初に当てて貰ったんだ」
「ん……? どういう……意味ですか?」
「いや、これでもしいつも通り
「それは当然の話だと思いますが」
「だから何というか――それが俺で済むなら安いものかなって」
「はい……?」
私は、文字通り開いた口が塞がらなかった。
確かに数学教師が出題範囲を間違っているという噂は事前に流れてはいた。だがあの教師の性格上誰も言い出せない風潮があったのは事実。
つまり安昼はこうなることが分かって、自ら犠牲になったと……?
「何故そのような真似を――」
「うーん――
「だとしても貴様が怒らない理由にはならないでしょう」
「いやー……だって俺が怒る奴だと
まあそれ以前に怒るような勇気もないんだけどさ、と安昼は付け足すと恥ずかしそうに笑うのだった。
「…………」
……も、もしかしたらこの男は、とんでもなくアホなのでは……?
行動原理が全て私を中心にしか動いていない。しかもそれで怒りの感情を平然と捨てられるなど呆れて物も言えなくなる。
「だが――」
どんなに馬鹿げていても、こうまでされて心が動かない私ではない。
故に私はそれをどうにか言葉にしようと思ったが、顔が熱くなるのに気づいてそれを引っ込めてしまう。
ああ全く……どうして私はいつもこうなのか……。
「――……今日の夕食はカレーですよ」
「え、マジで? やったー!」
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