第32話 頭の中の手紙

葉巻を口に、ソファーに寝転がったらまたまたランプが顔を照らせるように配置された。最近はやけに顔面照明が多い。だけどそれは別に気にしてなんかいない。導いてくれるのならば...


雪が降っている。冷たいと思えば、次に吹く風が生暖かくて、道路に到着する雪が一瞬にして消えていく。濡れた歩道を歩く人たちが水たまりを避けたり、気にせず避けなかったりしていた。

丁度十字路の角に俺はいた。車のタイヤが水を飛ばす音と、それが二度雨として歩行者に降り注ぐ音、文句の声が、全部俺の前で発生している。そして一人、女子高生が俺の下をくぐって頭と腕の雪を払いだ。

「いらっしゃいませー」

今日も元気にやっている。女子高生はいつものようにアクエリアスと鯛焼きを買って出ていく。

「—とうございました」

ここからはよく見えないが、アクエリアスと鯛焼きだという事は何気なく当たり前の事だ。学校帰りの寄り道だという事も解る。常識なんだ。疑う事もなければ長く考える事もない。

今日もいつものように無感情。灰色の風景を眺めるだけの毎日では魂をそそるのに物足りない。それでも満足。安定しているんだ、何もかもが。変わらない毎日がもたらす幸せは期限のない命にしか正しく感謝されない。今の俺はまさに無限だ。

ここで得るものはない。

しかしそんな事実も頭をよぎる事はなかった。冷たい日が続いても不満でも寒くもないし、客が中へ入るのを見るのが好きだった。俺はОだが、Lのそばに巣を作っていた鳥がいる。その鳥を見るのも好きだ。雛が可愛く親鳥の持ってくる餌を欲しがる姿には、なんだか親しい思い出の要素が詰まっていた。鳴き声は俺を呼ぶ声。

「こっちへおいでー、こっちへおいでー」

行きたくてもそっちへ行く事は出来ないから、こっちで見守るだけで我慢しているんだ。親がいるだろ、それだけで十分じゃないか。いつか俺も動けるようになったら近くで君たちを見てみたいよ。


季節が変わる。冬が春になり、冷たい風が吹かなくなったら道に並ぶ木々にも蕾が大きく膨らんだ。落ち着きの香りが温かい風に乗って生命を呼び起こす。暗い冬が過ぎるのを待っていた芽達が次々と歌唱に加わり、開かれた身体より飛び舞うものが風に拾われていく。

ほのかに香る命は穏便で撫でやか。腕を開く者の腕には無邪気に飛び込み、抱きしめられたら一生の思い出となる。透き通った輝かしさが実体化したらみんなの女神。流れる血が違っていても、みんな同じ生みの親。

雛達がまだ餌を欲しがっている。冬とそれだけは変わらない要素。毎日同じ動作を繰り返しながら満たされない腹の給養を哀願する。働く事を辞めない親鳥が餌をかき集めては巣へと持ち帰り、可愛い我が子の言いなりになって命を与え続けている。

いつもの女子高生が下で枝を見上げながら歩いてきた。

「いらっしゃいませー」

今日もアクエリアスと鯛焼きを買っていき、コンビニを出たらいつものように真っすぐに歩き去った。俺もいつものようにその姿を眼が届く範囲まで追った。中には他に何があるんだろう。もしかしてアクエリアスと鯛焼きだけではないよな?他の客の買い物などを気にした事がないから解らない。

あの子はここから何処へ行くんだろう。


季節が変わる。短い春が長い夏に切り替わり、だだっ広い空に太陽が君臨した。眩しい熱愛の手が天から差し伸ばされて、直接見られることなく俺達を育てていく。親鳥よりもまたさらに高い所にいる存在。光が地上の全てから反射したら、常夏の美しさを記憶に焼き付けながら、紛らわしい華やかさがみんなの影を隠す。

今日も雛鳥は元気に飢えて、空に向けた口を動かしている。

「まだこっちにこないのー、ねえ、まだこっちにこないのー」

膝を抱いている俺にとって移動は困難、まして立ち上がる事も許されない。少し離れているが、見守る事で自分の気を引いてんだよ。

今日も女子高生が中へ入る。

「いらっしゃいませー」

欲しいものが手に入ったらすぐに出口、いや、入り口?からその姿を現す。季節が変わっても道は変わらない。昨日とは同じ道で、明日になっても同じである保証がある道。それを歩くみんなは女子高生などを気に掛けてはいない。同じ仲間だからだ。しかし俺は観察するだけの、観察しか出来ない、相手にされない仲間外れ。なんでかな。ずっとここにいるからかな?


季節が変わる。夏が魅力的な秋になる。気温は最適、風は濃やか。葉っぱは繊細な緋色のドレスとして木々に身に着けられたら、道路は豪華なウェリング会場。ここでは誰もが歓迎される。フラワーガールとして脳天気な花嫁たちを喜ばせれば、大切な衣装をもばら撒いてみんなと分かち合う。なんとも言えない軽々とした餞別。俺の所にも届く。風に乗ってきた別れの挨拶がこれほど綺麗なものだと、一々別れを楽しみにしてしまうじゃないか。

雛の口がまだ開いている。飢えた親鳥が巣のそばでふらつきながら歩道の誰かと目を合わせている。いつもの女子高生だ。

「いらっしゃいませー」

開いたドアの向こうから声がするが、対象の女性には無視されている。ただ真剣に親鳥と心を通じ合わせている凛々しい姿に気を取られ、ドアも開いたままガン見していた。俺もそうだ。そうでないのはせいぜい無関心に欲を剥き出しにしている雛達だけ。そして、愛しのクソガキの前で親鳥は巣から落っこちた。死を目前にして見た光景はさぞ悲しかっただろう。その中で一つ悔いを和らげるものがいたとしたら、たぶんあいつだけだ。

死んだ後でも大した騒ぎを起こさなかった。集中したら地面を打つ音が聞こえたかもしれない。

雛が動かなくなって、雛が一斉に暴れ出した。

とんでもない騒音を発しながら小さな羽をバタバタと動かす。唯一の支えを無くして他にする事も一緒に無くなったんだ。

「あんた、何してんのよ!そこから動きなさいよ!」

いきなり相手にされた。ずっと一方的に見つめてきた女子高生に怒鳴られ、初めて脚の疲れを感じた。窮屈さに気付いた。解ったんだ、永遠の俺を支えるはずの単調さが、数秒にして消えてしまった事を。

少しずつ、不器用でも、じりじりと立ち上がった。

雛達はもう互いを耐えきれず、次々と死んだ親を目掛けて飛んだ。飛べるはずのない、発育不全の体で。兄達、姉達に続いて混乱の自殺を図る子鳥が百羽、二百羽と小さな巣から溢れ出す。

ゆっくりと巣に近づいているが、もう誘いの声はない。遥か遠い何処かを目指して飛んだのが、コンビニの入り口にしか辿り着けなかった可哀相な死骸の山。女子高生もまだ動かず立っている。人だかりがその周りに出来ていくが、その誰も俺や雛達を見ていなかった。興味があるのは中心にいる女子高生だけ。しかし彼女は俺を見つめている。それで十分だ。

「可哀相に、助けないと」

彼女はそう囁く。その間に俺もやっとLに辿り着いた。一羽しか残っていない雛は案外冷静にも見えた。羽毛の下で微動だにしない筋肉にはなんらかの理解があったのだろうか、それとも小さな体には重すぎる荷によって縛られていたのか。

どっちにしろ、一人生き残ってしまった。

よく見るとお腹が膨らんでいる気がして、顔を近づけた。やっぱり何か違う。

産卵の痛みを表情に出していないが、その想いの全てが伝わってきた。真っ白に輝く卵を一つ産むのに、自分の有りったけの命を費やしている。栄養も己の体から絞り出し、枯れていく自分と入れ替わるようにして卵は誕生した。ほとんど大きさの変わらない、もっと可能性を秘めている赤ん坊。その雛は死んだ。残るは楕円形の真珠のみ。

雛とは違って、卵に対してどう思えばいいのかが解らなかった。雛の最後の想いを乗せた儚く素晴らしいものでもありながら、危険な心理も嗅ぎ取った。産みの親の希望に応える為ならば、どんな犠牲をもいとわない。

それは空っぽの卵。

相応しい中身を求めている。

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