第31話 歯は大切に
「おい、早く起きろ。今日は大事な歯医者に行く日だぞ」
「もうちょっと寝させてくれえ」
「いつまで寝てんだてめえ、遅起きは時間の無駄だと思え」
目覚める為に歯を磨きに行った。電動歯ブラシだ。ただ水で口を洗う日々からの電動歯ブラシは格別で、新しいゲームを買ってもらった子供みたいに毎日使う事を楽しみにするほどになっていた。小さな振動は親の優しいビンタを思い起こさせる。寝坊した時の目覚まし。そういえば頬が少し赤いな。手で触れるとピリピリと懐かしく痛む。最上の奴...プレゼントとしてもらった電動歯ブラシはまだ口の中で動いている。しかしどうしようもなく奮い立つ笑顔で磨きづらくなっていた。
その後は朝食。昨日と同じくバターの濃いトーストだ。また歯を磨く。
車は一体何年ぶりだろうか。最上の後をついていく廊下と階段、正面玄関、ホームレスの捨てた空き缶。その全ての先には真っ赤に染められた車体があった。朝陽が窓に映すド派手なオレンジをも蔑まなければ、それに屈したりもしない。入れ墨のようにクールと背負う。力強い姿勢にしなやかなくびれが纏わりつき、近づく最上がペンキの上で歪んだ。
俺のフェラーリだ。
「好きか?それなら良かった」
最上は変なところで目立つ事を気にしていたのか、あまり速度を出さずにエンジンを低回転で回していた。それでも隣で座っていると嬉しくて涙が出そうだった。全く充実していなかった惨めな人生が転機を迎えているようで、その変わり様を震える腕で抱きしめていた。ふかふかの抱き枕。燃える羽毛。まだまだ暖かい夏の日でしかない。
歯医者は小さな三階建てにあった。一階は俺達にとってはただの階段で、三階は立ち入り禁止の、それでもなぜか最上が入れるらしい倉庫になっていた。本拠地が二階。見た目から五十代だと思える丸眼鏡の男とアシスタント数人で成り立っているらしい。
「おお、最上か、少し早いけど今すぐいけるぜ」
「そうか、ありがとうな。だが相手は俺じゃなくてこいつだ」
「こいつか...」
前かがみになりながら俺を観察してくる。白い髭の透明感が近くでは無くなり、変装をしているかのように顔つきが変わった。
だが、それもまた一瞬の事。
「よし、俺も客が足りなくて暇してたとこなんだ。さっそくやるぞ」
久しぶりの歯医者が多少の曲者に運営されていながらも、昔の事を思い出せて嬉しかった。今ではこんなジジイに対しても懐かしく感じる何かがある。子供の頃の歯医者なんかにはいなかったがな。気まずい表情の下で笑顔が芽生えた。
治療椅子の上でくつろぐ。グローブをつけた手が鼻の下で何らかの操作をしているが、それを近くで観察したことがない事にふと気付いた。これほどにも近いのに。最上が角で雑誌のページをめくっては眺め、眺めてはめくった。立ったままだ。そこら辺の椅子でも取ればいいのに、アシスタント達ももっと気を配れないのか!
歯医者では、全てが待ち時間だ。
他人に実際の作業を任せながらそれの終わりを待つだけ。目を瞑ってもいい。真上の照明の白い光によってむき出しにされながら、昨晩のソファーの事を思い起こした。
カラン。
「よし、これで大体のクリーニングが終わった。普通ならこれで終わりなんだが、君ちょっと、奥歯が相当なくされようだったよ。最上が連れてきた理由がそれだな」
「そんなに悪いんですか?」
「今すぐにでも治療したほうがいい」
「今ですか?」
「お前、どうせ暇なんだろ?おい、最上、いいな?」
「好きにやれ」
「歯を抜く事になるが、相当痛いぞ。もちろん麻痺か、寝てもらうが、今はちょっと麻痺薬が切れているんだ。お前が選びな、寝るか、痛みに耐えるか」
「もちろん寝ますよ」
「はは、いい選択だ」
管の通ったマスクが口に当てられ、ガスが流れ込む。注意していなかったら一瞬で意識が飛ぶような柔い衝撃。それでも持つのはほんの一瞬。それ以降の未来が来た事も悟られやしない。
「...これでよか...おまえ...せきにんと...」
「...」
「もちろんだ」
さっきの照明がまだ点いている。ゆっくりと眼を開けたら一面白い空が広がっていたからわかった。開けるのが辛い。瞼に変な力がこもってしまった。
「おう、やっと起きたか」
話しかけたのは歯医者の方だ。最上は無言で腕を組みながら、前と同じ角で壁にもたれ掛かっている。まだそんな所にいるのか!?ずっと横たわってた俺に指摘する権限があるのか解らないが、さすがの最上でも脚は痛むだろ。
身体がだるい。腕も動かしづらいし、なにより頭が重い。せっかく深い眠りから目覚めたというのに、また目を閉じたい気分で起きてしまった。ちょっとした安楽の為に現実を捨ててしまいそうで背筋がぞっとする。
そういうもったいない事は好きじゃないんだ。
「奥歯は金だから、慣れるまで待てばいい。それに数時間は何も食べないほうがいいね。どうしても食べたいと思うのなら豆腐とか、柔らかいものにして、あと、えー、飲み物も全部大丈夫。コーラとかは普段から飲まないほうがいいけどね」
「ありがとうございました」
帰りの車でなんだか疲れてしまった。空気が透き通っていておいしい。充実した一日の終わりに感じる満足感がやっと眠気を払い落としてくれた。鏡で口の中を確認すると本当に奥歯がピカピカと光っている。歯の顕著な角を金は丸く抑えつけて、整った形が光の網の中で膨らんだ。
「気に入ったか」
「まあな」
最上が車線変更をした。
「それはよかった」
寄り道もなく最上のボロアパートへと向かった。家賃が無に近い部屋の前でフェラーリから降りる俺達の姿はさぞ奇怪だったろう。だが最上と絡んでいるホームレス達には普通の光景でしかない。動揺もせずに最上を迎え、無言で玄関のドアを開けてくれる。まるで執事だ。見張りのシフトが終わったのか、ドアを開けてくれたホームレスが中の一人に合図して、そのまま場所を交代してから自分の空き部屋へと消えた。
「こいつらはみんな暇なんだよ。だから俺なんかに構っていられんだ、嫌いじゃないけどな」
夜までにまだ時間があった。暗くなるまで俺も暇で、散歩に行こうと思ったら突然雨が降り出し、嫌でも昼寝をする事にした。しかし目がどうしても閉まらない。俺はいつからか、夜に期待を持つようになっていた。最上に泥のようにこびりついてからか?謎解きと答え合わせが、この宿では出来ると信じ込んでいるんだ。
夜にまた、吸う事が叶うのなら、昼の間ぐらいは現実を忘れてもいいはずだ。
なあ最上、そうだろ?
そしてとうとう、愛しの夜がやってきた。
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