第29話 ホーム

裏道をいくつか通り、ちらちら光るネオンサインにありがたく暗い道を照らされながら水たまりを避けた。腕を握られて、盲目の俺を案内する最上からは逃げられない。屋台から転がりだす酔っ払いが泥水の上ではしゃぐ。二時間前までは綺麗に整えられていたスーツも今では汚い雑巾となり、中で生きている男達も同じく他人のこぼし汁を吸い取る深いしわしわの線を顔に刻んでいた。そんな無様な姿が道を塞いでいた。そんな見苦しい光景にさすがの最上でも足を止めざる負えなかった。そんな可哀そうな奴の投げた泥でシャツが汚された。

腕を引っ張られて先を急いだ。最上の言うベッドとシャワーのある家は、住人すらいるのか不明瞭の二階建てのアパートだった。ホームレスが何人か空き部屋に住み着いているようで、すぐに実の家ではなかった事が解った。都合の良い倉庫っていうか、趣味を嗜む為のガレージの感じがした。

二階へと上がる時に、歯が三つぐらいしかないおじさんが笑顔で最上に挨拶をした。

恐れていたほど部屋はボロボロではなかった。掃除はされていて、壁とは全く合わない高そうなソファーが真ん中に置いてある。黒い革張りだ。

「吸うか?」

最上が隅の頑丈な机の棚からの煙草を差し出した。

「いただきます」

静かな、微かな雑音もない空間で指先を火傷するまで二人で吸った。目も合わせずに沈黙の中で立ち尽くす俺達は、愛らしく揺れる煙の裸のヒップに誘惑されていく。窓から光が差し込んでいる。散る光線は、鋭いものと霞んだものに分かれた。

「もっとあるぞ、好きなだけ吸え」

箱からもう二本取り出して、同時にジッポーで点火した。


シャワーはたしかにあって、隣の個室にはベッドも本当にあった。だがシャワーから出て真っ先に向かったのは革張りのソファーだった。その堂々とくつろいでいる姿に一回惹かれてしまったら、肌に皮革が一層移るまで撫で止む事は出来ない。実際そうだった。俺は永遠に近い時間をそのソファーの上で過ごした。煙のたなびいた、なかなか消えない路地が俺の真上で収束し、最上が見守る中、巻きたばこに好きなだけ吸いついた。

「お前、かなりいくなあ、セブンスターが好きなのか?」

「セブンかこれ?いや、そうでもないんだ、たばこは何でもいい」

「なら...」

最上は机へと歩き、左下の深い棚からガラス瓶を取り出した。

「大麻は吸った事あるか?他にもいろいろあるぞ、だがそれは後の楽しみだ」

「ないが、頼むからくれ」

「ははは、躊躇なく言ったな」

マリファナを巻く最上の手慣れた姿から、いつかの由希雄の自尊心を感じ取った。世界を手の平の上で泳がせているような、自分の心の優しさのおかげで世界はまだ存在していると言いたいような...

煙草が巻き終わった。

口に銜え、匂いとほのかに広がる味を鑑賞した。火を点けたら肺を満タンにし、ゆっくりと噴き出す。瞼を閉じる。繰り返す。

ソファーの横から頭がつき出るように寝転がり、支えを失った頭部は引力のおもうがままに、だらしなく落ちた。指の間を煙がつたう、脳には血流が運ばれていく。

いきなり神経が鳴った。

身体の隅々までに行き渡る、もっとも脳に君臨する自分に近い存在が、全て、一斉に皮膚の外へと飛び出そうとした。何回もなんかいも刺激が俺を揺らす。初めての感覚。

なんだか久しぶりにいい感じだ、俺は。

あの頃の優しい俺もこんな感じだった気がする。

その夜、ソファーの上でハイのまま、頭を逆さにしながら寝てしまった。だが朝起きると柔らかいベッドの中だった。この毛布を与えてくれた神々と、ソファーをベッドに変えた魔法使いにことごとく感謝をした。

最上にも一つ例を言っとくか。


ほんのりと漂うトーストの風味が部屋の隅々までに行き渡り、バターを塗り過ぎた最上が小指を立てて珈琲を啜った。俺の前に置かれたパンは数秒もすれば跡形もなく消えた。

「速朝で悪いんだが、いくつかお前に聞きたい事がある」

「なんでも聞け...このパンうまいな」

「ははは、それは良かった」

最上が煙草に火を点けた。

「まず、これが一番大事だからな、てめえ最後に歯磨いたのはいつなんだ?」

「え、いやあ...」

「汚いんだよ、お前、明日歯医者に予約入れたから無理やりでも連れてくからな」

「どうも、歯を磨く事も出来ない時期があったもんで」

「まあ、いいよ」

煙を吹く。

「お前、由希雄に色々やられて、自分のしたい事解ってんのか?」

「いや、全く」

「だけどすべきことは解ってんだろ」

「由希雄の事となると、どうでもいいっていうか、だけどそれと同時に、気になり過ぎてほっとけないんですよ。大事過ぎるんですよ」

「だから、こんな膠着状態にしてんのか」

「耐久戦ですよ」

「馬鹿かお前!それで由美に勝てる訳ないだろ!由美に存在すら知られずにお前は消えていくんだ。由希雄の完全勝利となるぞ」

「そんな事解ってますよ!俺だって戦うきっかけをずっと待っていたんだ。だから超絶怪しいてめえにもついてきたんだろうが!餓死しないように道を歩いてる時に、心臓発作でも起こらないかなって、いつも願ってたんだよ!」

「なら今がチャンスじゃないか」

「何の」

「しなければならない事を、したいと思うようになる事さ。それが由希雄に勝つのに必然だ」

「なら、具体的に俺は、何をすればいいんだ?」

「はあ?俺が知るか?そのためのお前だろうが」

「そしてそのための君か?」

「そうだ」

「俺は、やっと親の敵を討てるのか?」

「もちろん、それも込みだ」

「だったら、もう一度言うよ。俺を助けてくれないか?」

「当たり前だ」

最上が笑った。

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