第28話 天使の舞

夜の星空が満遍なく広がっていた。しわの伸ばされた、しみ一つない地球にしがみつく宇宙の肌は透き通っていて、触れるくらいに近かった。何も考えない時間が何分か何時間か続く。ようやく自分の置かれていた状況を理解し始めた時には痛みも微かに戻っており、空も、空から降って来るものもはるか遠い存在へと復帰していた。

どうにか起き上がろうと上半身をねじらせ、地面を腕で押そうとしたが、身体が言う事を聞かなかった。代わりに唸り、軋み、崩れ落ち、支えようとしている重みの悲鳴が上がる一方で、肝心の胴体が奈落の底へと加速した。

親の事を考えると、昔の良い思い出しか浮かび上がらない。

懐かしい温もりと繊細な触れ合いがオカルト染みた毎日を嘲りもせずに無視した。まるでそこにはもういないように過ぎ通り、遠く後ろで二位の座まで落ちた由希雄の支配下は、存在したことを疑うくらいにどうでもいい曖昧な記憶となっていた。

しかし、実世界ではまだ由希雄はたしかにうろついている。殺気立ってさまよっている。幽霊のように。

痛みは感じた。それでも気にせずに上半身を上げて、次に足に立った。説明しにくい気持ちが心臓と喉の中で胎芽として成長していた。蹴るたびにざわめきでいっぱいになり、究極的な運命の予告がぱっと光る。体内で育つ未来を導く卵の条件に了承する。もう少しで孵る。仕方がないだろう、目の前で親が冷酷に殺されたら選べる道は限られてくる。贈り物の言う通りにする方が楽なんだ。考えながら考えず、選びながら選ばず、楽園へと出航した大船の上で好きなように踊りまくり、生きるんだ。

感情的にはもう弱まっていた。情意が指示権を持ち、行動の命令を下すのではなく、情意の思い出が俺を動かしていた。その頃の癖が今でも残っているんだ。昔の自分の意志を信頼し、それを頼りに今の俺の思考がとんだ思いこみをする。ずっと親を愛してきたから今でも愛する。たとえその気持ちが実際の所消えていても。

由希雄は嫌い。嫌いな時期があったから。大島も嫌い。憎く思った記憶があるから。俺の人生を歩まなくて済んだ妬ましい奴らを嫌う俺も嫌いだ。


だけどこの車は好きだ。また黒いハンドルを優しく撫でる。あの人と逢った日の事を、笑みを浮かべながら思い出す。


ネットカフェから放り出されて、ボロボロの服を引っ張るようにして身にもっと絡めようとしたが、穴が細くなったり、開いたり、肌を全て同時に隠せるはずのない布に無駄な想いを寄せていた。夜の空から雨が降っている。星は見えない。空っぽの財布を左手に、右手は後ろの壁を探し、見つけたらゆっくりと体重をかけてずるりと地面に座った。

ネットカフェの向かいにあるビジネスホテルの一つの部屋の電気が消えた。十階あたりか。その下の階をゆっくりと頭を下げながら目でたどった。九、八、七、六。顎はまだまだ地面に近づく。五、四、三、二。一で誰かが入り口から出てきた。きちんとした服装が革靴の上で揺れる。雨が道路を叩く音を通して足音が放つ威厳のある佇まいが目に届いた。数秒経ってから無音だったことに気付く。自信あふれる肩が揺さぶりながら、俺へと一直線を辿って歩いてきた男はボストンバッグを背中に、両手をポケットに、俺の顔を見てくれていた。久しぶりに注目されて嬉しかった。隠れる為に影でずっと密に生きていたのだが、誰かに探し出されて胸が高鳴った。たとえその人が由希雄の惑わされた部下だとしても。

この男はそのようには見えなかった。

全てに置いて優位に立つ素振りを見せてなお、裏で軽率に昇り続ける。掴むロープに汗が染み込んでいる。足の下でぎょろりと開いた谷底の笑い声に振り向かず、ずっと背中で受け止めている。由美という強暴な危機の上でぶら下がりながらも、手を緩めた事のない、落ちるのではなく自分を追いつけさせるこの男の勇敢さを俺はまだ知らない。

憂鬱な俺の前で憂鬱に立つ姿がじっと動かない。目を合わせようと顔を上げたが、暗い顔のどこが目なのかが解らなくてまた頭を下げた。

「飯田くん、初めまして」

返事をしようと口を開けて喉に力を込めたが、空気が空っぽにカッと一回鳴っただけで、これといった理解可能な言葉は出てこなかった。

「まあ、知らない人に話しかけられても返事するなと親に習ってるもんなあ、はは、別にいいんだけどさあ」

普通に笑っている男の歯は眩しかった。

「ちょっと君と話したい事があるんだよ、飯田、だけどこんな薄暗い裏道で話すのも嫌だろ。俺の所へ来い。シャワーもベッドもある。いつまで由希雄から逃げるつもりだ?もう十八年経ってるだろ...」

十八年。そうか、もうそれくらいするのか。

「親の敵を討ちたいだろ。俺にその手伝いをさせてくれ、今すぐ土下座して俺に頼め、助けてくれと、それくらい出来ないと由美に勝てねえぞ」

「助けてください」

「そうだ、それでいいんだ」

「おねがいします」

「解った。これからは俺に執着すればいい、飯田、俺が全てを正しくさせてあげる」

由希雄の事は忘れない。忘れられない。しかしそれを隠すように俺はこの男に没頭した。

「よろしくな、俺は、最上だ」

最上は俺の偶像となった。

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