第27話 崩壊

由希雄への報告は短かった。

今度の週末に合流する、それまでに旅館でゆっくりしてろ、という返事が返って来た。今日は木曜日。時間がすぎるのを待って、言われた通りにゆっくりしていた。しかし親は違った。感じる。カルデラの天使を眺めながら、少しずつ由希雄から遠ざかっていく光景が頭の後ろで広がる。六時ぐらいだろうか。もうそろそろで夕食の時間となり、普通においしい刺身やらを食べたらスマホをいじる。温泉に入る。寝る。それらを繰り返す。

明日は由希雄のいない一日をまた過ごせる。親は邪魔の入らない一日を思う存分に楽しむだろう。そして由希雄がやっと来た時には心を揺さぶられた親を見て、目撃するのは自分の負けか、それとも有利な進展か。どっちみち俺には関係ない...今はゆっくりしているだけだ。

次の朝、俺が起きる前にも親はカルデラへと行った。

一人置いていかれたが、悲しいとか、寂しいという感情は大してなかった。もう少し落ち込んでもいいとは思っていたが、その能力さえも力尽きて喉のふもとまでずらりと滑り込んでいた。細い気力で頭へと昇ろうとしても、前にはなかった高い塀が道を阻む。

ベランダへと歩き、太陽を見つめた。

その時に子供の頃の思い出がぱっと蘇った。しょうもない、内容自体はどうでもいい記憶だった。しかし、そこにいる無邪気で楽しい笑顔をかざす俺は、もっと、とても大切なものを俺にくれた。一瞬だったとしても俺はたしかに感じ取ったんだ。久々に体を巡る懐かしい感情の小さなサンプルを味見し、出来る限りにその経験を意識に焼き付けた。

幸せを豊富に持ち運ぶ昔の煌めきに、死んだ俺の心は振り向いてくれるように必死だった。その幸せが欲しくてたまらない。部屋の隅に置いてあったインセンスを鼻へ運び、その一瞬の時にもあった刺激で自分を囲んだ。

長年引き離されたもう一人の自分に好かれたかった。その思いが、その思いだけが、楽園を探す頭の中を走り回った。


由希雄は返事通りに土曜日の午後に大島についた。来ることを知っていた親は落ち着いて、ありがたいことに行儀よくしていた。昨日までの溌剌とした動きも、カルデラまでの異常な遠足の事も、由希雄からは上手に隠した。都合がよくないのだろう。違いが曖昧な二つの主人の間に挟まれて、どちらの怒りも買わずに、どちらともに従順でいられるように演技を続けている。そんな親を見て俺は目を伏せた。

「さっそく行こうか」

親が先行で早歩きをしているが、俺は少し間を置いて後ろをつけた。あまり関わりたくない。満員電車の中で家族が恥ずかしい事をし、他人のふりをする時と似た感覚だった。指定駅で降りる時もなるべく離れながらも視野に入るようにする。関わりを消す事に夢中な俺の周りには、関わりを生まぬように必死な他人がうじゃうじゃと目先の目的地へ突っ走る。

また感じた。新鮮な昔の感覚が形を変えて俺を訪れてくれたんだ。

先走る由希雄の足と期待は後ろで歩く荷物を気にしてはいない。前で笑う崇拝者の事も都合の良い道具として手入れはしても、本当は気に掛けてはいない。このまま茂みに飛び込んで、三人とも遠い場所へ行くのを待ったらすきを見て逃げ出そうか?それとも今すぐ別れを告げ、無関心に歩き続ける背中に泥を投げつけたら来た道を戻るか?決めづらい、なにせどっちともかなりの名案だ。

悩んでいる間に時間切れとなった。カルデラのふもとまで重たい自分を運んだ俺を軽蔑し、優柔不断さと弱さを憎んだ。しかしその裏では、由希雄と同類の好奇心が期待の燃えさしを煽ぎ、それから昇る煙が誘惑的にくねる。煙霧で見失った自分が脳裏の微かな思い出と化し、代わりに贈り物が灰色に輝いた。

俺は執着しないと決めていた。今までそれを貫いてきたつもりでもいる。なのに最終的には由希雄と同じ所にたどり着いてしまった。

俺は執着などしていない。していない。していない。絶対に。

山道は涼しい森で始まったが、徐々に色黒い砂と土で風景が乗っ取っとられた。

入り口は小さな穴だった。火山口のふちにある暗くて狭い管が垂直に下へと進む。そのおぞましい招待状はそれを探している人しか見つける事が出来ず、相応しい人にだけ自らを晒す事を許す。ずっと待っていたんだ、この時を、由希雄によって掘り起こされるこの瞬間を。


由希雄の顔は驚きを隠せなかった。「そんなバカな」とはっきりと表情に出ている。穴を顔に覗かせ、微笑んでから目の前の男は泣いた。送られてくる寂然たるシグナルが感情を撫でて、温かい親の手のように安らぎが将来の保証をくれた。切実で素直な男の気持ちを受け入れ、支え、ずっと前から勝手に育っていた恰好の思考に抱き着いた。脳にはためく唇が囁く。ありがとう。よくやった。

おつかれさま...

その時点で終わるはずだった由希雄の使命がなぜか更新された。贈り物がすぐそこにある。なのに手では触れられない、腕にも飛び込んでこない。穴からぬるりと出てきそうな力強い指の間で潰される事もない。

馬鹿みたいな顔でぼんやりと立ち尽くす親の顔。まだ何かを待っている由希雄の顔。そのどちらにも理解の欠片も実在せず、過保護の赤ん坊となった三人は次の餌を運ぶ銀のさじがやってくるのを待っていた。由希雄はまだ信じている。自分の優位さと、贈り物がまだ自分を信頼していることを。

由希雄は決壊品だったんだ。俺にはそれがくっきりと見えた。

選別しきれない無数の選択肢が頭の中を泳ぎ回る。その場から離れる衝動をなぜか抑えている俺は、由希雄の始める展開が見たくてしょうがなく、逃げない自分のいこじなさにも呆れていた。嫌な予感がしていた気もする。

待っている内に男は愛されていない事に気が付いた。

ずっと恋をしていた相手に捨てられ、片思いさえも出来なくなった男の手は、静かに、あたりを刺激せぬようベルトの下から拳銃をそっと抜いた。

まず父が胸を撃ち抜かれ、母もすぐ後に頭脳を散らされた。かつては母さんだった死体の横で我に戻った父さんの目には尊敬など微塵もなかった。男はもちろんそれに気付いた。


自分の授かった執着には欠陥がある。それは我の過ちか、それとも足元で寝転がる二人の不整か。いずれにせよ、諦めてなどはいない。力づくで直してやる。相手が自分でも他人でも、もがくだけ無駄な戦いであれ、これは全て正しく私の所持品だ。必要であれば私しか選べない状況だけを神妙たる贈り物に押し付けてやる。弾丸を再び一人の崇拝者にぶち込んだら次はガキの方だ。


じたばたしながら考えずに近くの茂みに飛び込んだ。足がむやみに周りを蹴る。初めて発砲の音が脳に届き、急斜面を転がりながら腕を伸ばして姿勢を正そうとする。由希雄がふちに立っている所を一瞬見た。小さくそびえたつその姿に圧倒され、降って来る銃弾に気付かない。まだまだ転がる。頭を打ちすぎ、振り回され過ぎて、半規管もぐちゃぐちゃのジュースにされたら、長い間離れ離れになっていた感覚が戻って来た。安逸の感覚。痛みも怒りも全て消え去り、太陽に照らされるだけの存在となった。俺は、雲と木々のような、事もなげに生きて、我という意識が遠ざかる一方、世界がはっきりと見え、世界からも明確に認識される全体像の一部なんだ。今も、ずっと前からも。

久しぶりに良く眠れる気がした。

山に叩きつけられている事を理解している。しかしそれを確認する事が出来ない。目には統一された一つのイメージしか映らない。綺麗だ。色鮮やかな水彩画がイーゼルに腰を掛け、絵筆を握った俺の手を中心に回る。

迫り来る不動の森に気付かないまま、乱暴に深い巣の中で受け止められた俺はまだやんわりと浮かれていた。

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