第23話 子供

夜の銀行は虚しく、明かりが半分ほど消されている中、暗いのか暗くないのかが決められない程度の光が俺を囲む。もう数日も座っていない椅子に座り、興味もない書類を机の上にばらまいた。まだ辞表も提出していないが、どうせ首だ。警察からも身を隠しているから幹部に俺がここにいる事を知られては困る。今は社会人としての最後の一日が終わるのを待っていたいだけだ。この仕事などに愛着を感じた事はない。それでも今、捨てるはめになったらなかなか気安く捨てられない。これまで費やしてきた年月が記憶だけとして残る。その記憶で満足か?

まだ数人残っている真面目な奴のタイプする音が林の雑音を思い浮かばせる。葉っぱが擦る音や、虫の生きる音。決して耳に障るものではない。そんな背景の前で俺は人生のくれた椅子に座っていた。大したものでもなく、黒い布が同じく黒いプラスチックの上で俺を支えている。キャスターが付いているとはいえ、置かれた位置からは数メートル動くのが限界。腕を伸ばしたら触れそうな王座があるのに、こんな椅子にも俺はうっとりしていた。

ずっとここで働くと思っていた。これから数十年、引退するまで同僚と同じ道を歩み、長い一日の後は居酒屋へ行ったり、会議でギリギリ通るような企画を発表したり、表向き何処にでもいるサラリーマンとして生きていくと...

だからまだ時間があると思っていた。少しは価値のある思い出を作る余裕があるから、今は何もしなくていいと。その結果、今持っている自分における会社のポートフォリオは酷く薄く、似たような写真しか入っていない。それに少し色を加える為にここに座りに来た。だけどその代わりに、前から頭の中で芽生えていたが、はっきりと特定できなかった事に気付かされた。

ここにそもそも俺の求めている色はない。

どれほど探そうとしても白黒写真しか手に入らないこの空間で俺は一体何を成し遂げてきたんだ?これまでに地味な記憶しかなかったのは、地味な記憶しか作る事が出来なかったから。そうなら、もうここにいる必要はない。

それでもなかなか立ち上がれなかった。静かなオフィスは頭の栓を抜き、寝る時に味わう安楽を空っぽになった頭に注ぎ込んでいく。たまにはこういう解放もいい。

最後の残業達はため息をつきながら帰る支度を始め、こっちには目もくれずに出ていった。恐らく俺の急な休みが迷惑をかけたんだな。まあ、そりゃそうなるさ。

一人になったら、何かを待っていたけど来なかった時の期待外れを感じた。今更だけど、心臓を捻じ曲げるような寂しさが襲い掛かってきた。この数日色々あり過ぎて、段ボールの捨て犬になった俺は誰かに構って欲しくて、可愛がってもらいたくて、一人で叫んだ。壁に殴りまわされる俺の声は、通り過ぎる俺に助けを求めている気がした。この部屋全体が泣いている。全てがめそめそしていて、子供っぽくってしょうがなかった。いつからか癖へと変わっていた衝動にまた駆られる。天井を見上げて立ち上がり、腕を空へと伸ばして腰を軽く振った。頭の中のビートに乗って踊る。肩を上げては下げる動作を始め、それに引かれて頭も縦に揺れる。スピン、スピン、ジャンプ。気付いたら数メートル離れたガラス窓と顔を合わせている。バカバカしい。それでも止められない。窓に映る自分と音楽を共有したら、そいつに誘導されて、互いが互いを真似する安心が盛り上げてきた。彼が大胆になればなるほど、俺もどんどん派手になっていく。紙をまき散らしてその中を駆け抜ける俺は、恥も知らなければ、悔いも知らない。とてつもなく鋭い絶頂の上に立っているのではない、俺こそがその鋭い針先だ。身体をくねらせながら痛みを少しずつ絞り出す。光の届かないここだから完全に乾くのは難しいけど、俺を熱くさせ過ぎない為の痛みならそれでもいい。

点灯を消して、ドアを通る前に中指を思いっきり上げて最後の挨拶をした。観客にサービスするアイドルのようにしばらく暗闇に俺を眺めさせてやった。ドアが閉まる。カチッと、その音は急に抜いたイヤフォンジャックのものだった。だけど音楽は止まらない。むしろ固定スピーカーに切り替わり、世界に振動が行き渡る。階段ではハンドレールに乗って滑り下り、廊下でも踊りは絶えない。当惑の表情を浮かべている管理人と会い、視線を合わせたら気まずさに耐えられなかったようで返してくれなかった。それでも俺は止まらない。ロビーを通ってメインドアまでシャッフルする。大きな扉が外の世界への入り口となり、その前まで来たら腕が上がったまま足が止まった。音楽も止まっている。代わりに俺の荒い息がオフテンポの雑音を耳に送っている。手もゆっくりと肩まで下がったら、力が全て抜いて無気力に落ちた。満たされた。心のグラスになみなみとつがされた水がぶれない。

未だに恥ずかしいとは思っていない。将来酒を飲みながら笑い飛ばすかもしれないけど、今はそんな時間ではない。頭が空っぽに、いや、余計なものが除外されているだけだ。

重い扉を開けて、行く先も知らずに街灯の光しかない外へと旅立った。

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