第22話 送り迎え

漠然とした衝動に任せて通る道は全部見覚えのあるものだった。意識する目的地などない。ただ何かに魅かれているのが解る。

ひどく疲れてしまい、柔らかいベッドの上に飛び込んで満たされるまで寝たい気持ちが強くなってきた。だんだん腹の底から湧き上がり、喉を通る頃には爪で首をかき、布団でもみ消した獣の唸り声のような音が口から漏れ出した。股間の辺りの筋肉が引き締まる。つばが泡となってぱちぱちと鳴り、脳が破綻していく。

膝についた。

「最上。何をしている」

顔を上げて声の主を探した。酸のように痛い涙と、閉まっては開かない瞼のせいで何も見えないものの、声で誰なのかが解り、衝動の道案内にも納得がいった。

「おお...もり...」

「そうだ、お前も見事に無様だな、中に入って少し休め、話したい事もある」


ベッドではなかったが、ソファーに座った瞬間に倒れこみ、足も上げずに深い眠りに入った。

大森はその姿の前で立ち、暗闇の中、最上がいると思う方をずっと見つめた。不思議だ。これほど真剣に見下ろしているのに、淳君を全く視野にいれていないのかもしれない。頭のかかっているひじかけか、その隣のコーヒーテーブルを見ているのかもしれない。目をつむってもいい、淳を想ってさえいれば脳は視線を気にしない。

よく寝てるなあ。

軽く笑った。喉を冷めた空気が通る感じがし、肺が綺麗になった気がした。このほこり濃い部屋にミントの香りを漂わせ、清浄しようと体が勝手な真似をしているようだ。

「お前も昔からほこりが嫌いだったな」

淳はその事を忘れているようで、息を躊躇いなく続けている。

「俺も嫌いだったよ」

大森はそのまま淳を持ち上げて、暗い部屋の中、器用に家具を避けて別の部屋へと運んだ。淳の入った事のない部屋。

そこには様々な医療機器が置いてあった。壁に並ぶ書籍に交じってフラスコとガラス瓶が液体や粉を勲章のように晒している。そして部屋の中心を飾っていたのが一つの古びた手術台だった。

まだ寝ている淳をそこに横たわらせ、メスと、一際目立ったフラスコを隣のテーブルへ移した。そのフラスコは初対面の人からにも特別に見えたが、本当に魅かれるのは内容を知った時にだった。それでも、どことなく勲章の重さと、その着こなし方が並みではなく、大森の扱い方も少し違ったのだろう。他の科学物質がどれほどもがいても、そのフラスコに向けられる敬意にはとうてい近づけない。自然の重宝、枝にこびりついた妙なキノコがガラスの壁を通してこっちを見ている。

メスが閃き、淳の首筋の皮を薄く切り取った。


起きると頭が痛む。すごく痛む。起きた事を後悔し始め、どうにかまた眠りにつける方法を考えようとしたが、それもなかなかうまくいかない。私は今どかだっけ?周りを見渡すと見覚えのある家具の配置と、その中の一つの椅子に地面を見つめる大森がいる。目を開けたまま眠ってしまったのかと思い、戸惑いながらも、そんなこともありえるのか、と自分に言い聞かせた。いつもと変わらないほこりの層を通してみる大森はなんだか干からびているようだった。空気中のほこりの下には乾いた砂漠。それに溶け込む大森はもう、生き甲斐を無くしている、そんな感じが伝わってきた。

「おお、淳、起きたか」

「ええ」

「お前、二日も寝ていたんだから少し不安定かもしれないけど、別に大丈夫だと思うさ」

「そうか、悪いな、手間をかけて」

「なんてことないさ」

ゆっくりと立ち上がってみる。足の感覚は多少切れにかけていたが、歩けない訳じゃない。急に膀胱が悲鳴を上げて、躓きながらも急いでトイレへと向かった。


淳が元気そうだ何よりだった。大森はやさしく笑い、安らかな風が吹くベランダへと出た。東京の街を心いっぱいに眼が吸収し、淳と初めて出会った頃を思い出す。考えてみればそれほど長い付き合いでもない事に気付き、他人には親子だと間違えられる関係まで辿り着けた事に感謝した。七年ちょいか。一生付き添っている気がするなあ。俺が産まれた時から弟としてそばにいる曖昧な思い出なんか存在するはずがないのに、なぜか脳の奥に現れていた。どうしてだろう。こんな思い出など前はなかったのに、副作用だろうか。


横に淳が現れ、そのさらに奥で輝く太陽の光線を浴び、俺の前に影を伸ばした。

「これからどうするつもりだ?」

「...さあ、仕事に戻る以外に私に出来る事が思いつかない」

「まあ、それでもいいんじゃね?」

淳が気力を無くした目で地面を見つめる。やはり仕事というのは命を削る道具にすぎないと実感しているようだ。

「お前、貯金だいぶあるだろ。今すぐ仕事しなくてもいいってことさ。その代わりに、世界を好きな形に揉み変えていかないと腐っちまうぞ、お前も、その銃も」

ズボンに挟んである金属を指さした。

「ならばお前のもってる力、この与えられたチャンスをぞんぶんに使いきれ。世界を自分の財布の為に捨てるような政治家を撃て、くそ野郎もみんな撃ってしまえ。大して脅威じゃなくても、地球が平らだと信じるバカとか、むかつく奴全員撃ってしまえ。自分がくそ野郎になり始めた時の為の、自分を撃ってくれるような奴も探せばいい」

「そんな人なんているのかも不確かなのに?」

「俺も昔そう思ってたさ、お前に逢うまでは」

一位はいずれか二位に越される。そういうものなんだ。この仕組みを回避するすべはないし、細胞が衰えて死ぬように権力者も定期的に取り換えなくてはならない。全ては健康な世界の為。

「...」

なんだ。どうしてこんな気持ちが湧いてくるんだ?頂点にずっと勤まりたい気持ちでもあるけど、そのそばに押しつぶされたいと願う自分がいる。にやけてしまうような感情の絡まりだ。二位は何処だ?早く逢ってみたいよ。逢ってみて、そのまま自己紹介を飛ばして能力比べである密室に二人で飛び込みたいよ。王座を取られては奪い返す生活が僕らを待っている。


「大森、お前、自分の事を何位だと思ってるか、って聞かれたら何を言ってるか解るか?」

小僧が何を言いやがる。

「てめえが産まれる前から解ってるさ」

影を消すくらいの笑顔がぱっと輝いて、淳の無邪気な顔が一皮脱いだように新鮮に開花した。

「そう、そうか、そうだよな」

軽く頷いている。

「そして、淳、悪いけど、これからが本題だ。ちょっと話しにくいんだけど、あいにくもう時間があまりないから話す、話さないといけない訳で、それでもお前には結構良い話でもある」


大森が滑らかな音質を無くした、ぎくしゃくした口調で言う。妙に冷静さが遠ざかっているのが聞き取れて、そのゆっくりとした進み具合に安心を探そうとする一方、止まる気配のない威圧への恐怖の方が強かった。すごいな。大森の感情が全て伝わってくる。

「前に言ってたブルーバードってバンドなんだけど、あれ以来検索とかしてまたのか?」

「いや、してない。それがどうしたっていうんだ」

大森が笑う。

「お前を超えるような一位だって事さ」

一瞬戸惑ってしまい、口も開けずに大森と眼を合わせるぐらいしか出来なかった。しかし、大森はこっちを見てはくれず、悲し気に都会を見渡している。

「どういう事だ?一位って」

「俺は悪運が強いだけなのかもしれないな...けど、解るんだよ、この一ヵ月間ぐらい何かが変だと。頭が腐っているような、脳がんかなとは思って病院にも行ったけど、違かった」

「まだ解らないよ、つまり本当は何だったんだ?」

「...わからない」


大森の発言に諦めの音が満ちていた。自分の穴という穴を埋めているこのブルーバードという粘液が息を苦しくしている。そう、それでも快感なんだ。大森の心に出来ている穴は埋められ、自分ではない誰かに支えられている。誰かの記憶が杖となって意識を何処かへ導いている。それに寄り掛かるだけの自分は抵抗すら出来ない。抵抗のての字さえ頭をよぎらない。

だから完全に占領される前に、自らの足で天への階段を昇るのだ。


「何日か前に全国ツアーを終わらせたんだ。その後の握手会で一人のファンが殴り殺される事件があって、俺なり興味をもってしまったんだ。それが間違いだったよ。彼女は怖い。証言によると殺された奴は彼女に告白したそうだ、そんで他のファンに殺される」

「殺したのがこの彼女じゃなかったのか?」

「違う。お前にも解るだろ、恋とか。でも、解らないか。恋よりも深い恋をみんなはしてるんだよ、彼女に。俺もなりかけている。ないはずの記憶があるんだ。彼女との。見覚えのない男もいる。最近、それがとてつもなく愛しい。執着とかっていうやつさ」

執着か。執着...

「名前は何なんだ!?」

「意地悪だなあ。囁くのが怖いほどさ」

「何なんだ」

ブランコが視線の前でキーコキーコと錆びついた鎖を揺らしている。カメラレンズを通して見るかのように、振り子の重りとなった男が光のフレアによって多少揉み消されている。

「信濃—」

信濃。

「—由美だ」

「—由希雄」

思わず呟いてしまった。

大森が驚いた顔をこっちに向けている。

「いやいや、驚いたな、いつその名前を聞いた?」

「昨日、公園で」

「なら、これ以上俺の説明はいらないな」

由希雄。そいつは一体何者なんだ?由美の父か?今大森を喰らっているものを受け継いだなら、私を追い詰めるような力を持っているのか?あのオカルトはまだ生きている。信濃がある冬の日に、可哀そうな青年に話した伝説が本当ならば、私を紙きれのように振り回せる一位崩れの宇宙人が日本に何かを残している。背後に必ず潜んでいるのが闘牛の角だ。見えないから、頭の上か下か、どこにあるのかが解らない。

不思議な期待が心臓を貫いた。

「まだ聞いてないぞ、大森、自分を何位だと思っている」

「もちろん一位だったさ」

「だった?」

「今はもう深い谷のどん底だよ」


それはほとんど本当だった。今の俺は落下の真っ最中。見えもしない奥底は暗い霧で覆われていて、どんなに落ちてもその風景は変わらない。

「大森」

淳は手を差し伸べている。握手をしたいようだ。こっちからも力強く手を差し出し、握力の全てを握りだして淳の手を潰そうとした。仕方がなかった。涙を隠そうと、俺は必死に震えるのを抑えている。そんな俺を見ても、淳はやわらげに笑ってくれる。

「けがも手当てしてくれたんだな、ありがとう」

手を首筋に当てている。でも言える訳がない、それがけがなんかじゃないって。墜落している俺に一位の誇りが残っているなら、最後の務めは何も言わない事だ。

「ああ、負けんなよ」

俺も自分の首筋に手を当てる。そこにある跡は生々しく自分の非力さを思い出のように閉じ込めていた。触るたびに思い出す。由美を想う思いでの中に交じった、由希雄の記憶。


俺の運が良かったのか、由希雄の間違いだったのか、俺に見た事の無いラボの記憶がふと気づいたらあった。いつからそこにあったのかはわからない。それでも、瞼の裏で再生するのは、由希雄の手と、由希雄の考えた手順に沿って動く研究だった。青いゴム手袋が持つのは奇妙なキノコから振り出した粒子。映像が飛ぶ。キノコが増えていた。でかい倉庫の中にぎっしりとつまっている。映像がまた飛ぶ。今度は山の風景だ。由希雄は歓声を浴びるかのように手を上げていて、視線の先で手の平にのっている倉庫のドアからは大量の粒子が噴き出ている。天高く、空を曇らす。

キノコは複雑な通路のネットワークを使い、他の植物とも連携して、栄養と情報を互いに送っている。由希雄はこれを一つ、いや、何倍にも上回った。ニューロンを真似た粒子が記憶の引き金を抱えて人々に降りかかったら、熱力学的に好ましい姿勢を取る。そして、そのどうしようもなく素晴らしい思い出が脳内で開花する。王座に一人の少女が座った。

それを元に俺は研究を複製しようとした。しかし、曖昧な結果しか出せなかった。これがもう限界。出来たのは単純に由美の記憶への疑いを強めるものだけで、それも首筋から、まともな形になっているものを入れないといけない。俺には効果がなかった。どうしても疑いを疑ってしまう。そうなったら、もう由美の占領を止める事は不可能。

時々思う、俺は一体何をしているんだ?自分の意志で動いている気はもうほとんどない。もしかしたらラボの記憶は間違いではなく、仕組まれたものだとしたら、俺はその思うつぼのように動いているのではないか。自分のした事を悔い、由希雄は由美を止める為のさくとして俺を使っているのではないか。ひたすら毎日、自分に問いている。

それがもううんざりなんだ。

それでも淳にはこれを言う事が出来ない。自分の実際の過去に影響されても、赤の他人に縛られている毎日なんて過ごして欲しくない。俺の分まで長生きさせたいんだ。

「淳。いってこい。負けんな。負けんなよ、絶対に」

涙をこぼし、震えを止めなかった。

「—絶対に、頭取になれ」

「わかってる」

腕を伸ばし、淳の方から抱きしめてきた。

「ありがとな」

俺は声が出せず、頷くだけだった。

「俺はもう行くよ」

淳が久しぶりに自分の事を「俺」と呼び、少し嬉しくなった。懐かしい。昔の淳が蘇っているようで、俺の方も若返った気がした。それでいい、淳。昔のお前を思い出せ、明梨も、愛も、大切な宝として記憶にし、心の深いところにしまっておくのではなく、身体中を巡らせるんだ。由美に負けない、最強の盾となってくれる。

「ああ、行け。行ってしまえ。俺もこれから花畑にでも散歩に行くから」

淳は軽く頷き、その場を離れようとした。しかし、何歩か進んだら止まり、戻ってきたらまた手を差し出した。俺はその手を取る。互いを見つめ合っていると、手が潰されていくのを感じる。だけどそれは気にしない。俺も一生懸命力を込めているから。

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