第21話 愛
右足も窓の外へと出した。この程度のスタントは私になら簡単にできる。それは知っていた。後ろで蒸気が暴れ始め、消防車もやっと取り消し作業に入った事を知らせた。とうとう時間切れか。終わりになると寂しい想いがしてならない。時間の余裕、それは甘くて誘導的だが、あり過ぎると酔いつぶれて太ってしまうのが残念だ。私も時間があれば、ずっとここを動けないままでいたのか?
「愛...」
飛ぶ寸前、背中を押す爆風が熱と共に肌を焦がした。どうなったのかが解らなかった。蒸気と炎が体の周りで散っている向こうに地面のどす黒い顔が見え、宙で回転しながら必死で愛の腕を握っていた。木の枝が視野にすら入っていない。見えるのは吹き飛ばされた壁の穴と、その後ろで消された火が再び燃え上がる光景だった。
ボンベがもう一つあったのか?
違う。私のせいだ。
あの階段には銃の他にも色んなものが入っていた。昔集めていたポケモンカードから、覚醒剤までが袋に積められて入れてあった。そしてその奥で眠っていたのが、密に存在を隠して、記憶の中からも抜けだした小型爆弾が一つ。
消防士が叫んでいるのは解るが、それが聞こえない。愛ちゃんも叫んでいる。無言なのは私だけ。周りの音ではない音が頭の中をよぎっては友達を呼び、公園での鬼ごっこが遊園地の大波乱へと膨らんだ。愛ちゃんをよろしく、その一言が様々な形で駆け回っていた。
明梨、どういう意味で呟いたんだ?
愛ちゃんを守って欲しいと、育てて、楽しい生活が送れるようにと、願ったように私には聞こえた。
娘の命を頼むと言っていた。
それとも愛ちゃんが愛しくて殺せなかったのか?どうでもよすぎて、適当に私に差し出したのか?その任務を私に預けたのか?楽園で娘とも逢えるように。
だめだ、愛!走馬灯を見ちゃだめだ!
「俺は遊び道具なんかじゃねえー!」
怒りを込めて叫びながら、背中がコンクリート塀に投げつけられ、腹筋を引き千切るストレッチと背筋への打撲が声を奪った。塀は瞬時に崩れ、世界一固い布団のように私を捕まえている。身体が酷くへし折られていても、足の激痛を感じる事に感謝した。痛い。ものすごく痛い。だがその痛みは私だけの物ではない。愛ちゃんも、今握っているこの小さな手を通して痛みを伝えている。コンクリートの破片が雨として縮小した私の心に降り注ぎ、地面から跳ね返ると真ん中にいる私を挟む。
手が緩んでしまった。地面に落ちて息をつかもうとすると筋肉が縮み、魚のように口を開けて身もだえた。だけど大丈夫。愛ちゃんがいるから。もうすぐこれも終わるから。
「あい...」
腕の先には愛の手があった。温かい。そしてその向こうでは、コンクリート塀の残党が宇宙からの流星群のように降り注いだ。冷たく、血をまき散らす。崩れた塀が愛を潰していく。手を通して痛みはもう伝わってこない。
私には雨、愛には流れ星。
いくらなんでも対応が違い過ぎるだろ。
ゆっくりと立ち上がり、上を見上げた。息が戻って来た訳じゃない、ただ、それがどうでもよくなっただけだ。愛ちゃんの手、手だけを、まだ握っている。血の垂れる音が微かに耳に届き、微量に溜まった後、愛の元へ帰ろうと道に刻まれていた筋を不器用に通った。死んだなら、生命力を引き寄せればいい。愛はまだ生きたいのだ。再生したいのだ。しかし手は握られたまま、私の元にある。再生したくても、私のわがままがそうさせてやらない。
なぜか、愛へ向かう流れがとても醜く見えた。身動き一つない手も一瞬、強い力で引かれたと思ったら、自分の指がピクリと痙攣しただけだった。手だけではなく、私までも吸い込みたいと愛は、逢いたいと願ったのか、喰いたいと呪ったのか。
しかし、やはり君を再生する事は出来ない。明梨と一緒に、私に潰される事のない楽園で生きるんだ。俺はこっちに残るよ。ここが地獄だったとして、楽園がどれほど君の笑顔に照らされて、眩くて、君への執着で脳が狂っても、私に走馬灯を見る権利はもうどこにもないんだ。醜い不死身になるしかないんだ。
「あい、あかり、さようなら」
二度と逢わないよう、祈っていてくれ。
空からの牡丹雪が肩にゆっくりと舞い降りた。一気に寒気がし、時間をかけて降る雪を感じ取ったのか、心臓の脈数がそのテンポに合わせようと下がった。空いた手の平を空に向けて、その雪をつかんだ。温かい暖房の前が取られ、外へ追い出された日もこんな雪が落ちてくるのを見ていた。見ていて、今も見ているけど、今日は少し違う。
灰だった。銀を黒く染めそこなったような色の。
家から飛び散る灰が煙の雲が運び、周辺に雪を真似て降っている。私は炎に背を向け、歩き去った。俺は楽園へ行った。私はこれから地獄へも行く。
愛の手を撫でて、その小さな拳の中に灰を閉じ込めた。
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