第20話 楽園
家までの帰路をたどるのに、普段以上に時間がかかってしまった理由はなんだったのだろう。さっき人を撃ったからか?その罪悪感が足首に紐を巻いて、ブランコが揺れる度に引っ張ってくるからなかなか進まない。それと同時に明梨の放つ磁場が心を押し返してくる。なんだこのもやもやとした心労は?これまでに犯してきた罪の罰だったりして...いや、そんなはずは無いのに。俺のやってきた事は罪のはずじゃないんだ。
入り口の前ではとどまらずに、勢いに任せて玄関に這い上がった。
「ただいま」
明梨の返事も、愛ちゃんの声もしなかった。下駄箱にのしかかった重い不安が物体化し、それが邪魔で、手に取ってある靴をなかなか置く事が出来ない。だけどそれで突っ立っている自分が正当なのか、ただの言い逃れだったのかは決められなかった。
どっちにしろ、私は暇でもないんだ。
真正面にある階段にできていた小さなくぼみを見落とし、その横を通る廊下に入った。音をなるべくたてずに、水中を進むかのようにゆっくりと歩いた。
左にある開けっ放しの引き戸を通して明梨が見えた。
「あら、淳。おかえり」
丁寧で声に揺さぶりの欠片もない、楽しいなにかを期待しているけど、どことなく冷めた口調で明梨は喋ってくる。その時、テーブルに置いてある拳銃を初めて気づいた。
「座りなよ」
向かいの椅子を引いた。数秒でもいい、過去に憧れ、過去に戻りたい自分がその椅子を引いた。同時に今の時間をかみしめ、その瞬間を生きながら、まだ大丈夫、と言い聞かせている自分がその椅子を引いた。だけどそれには賞味期限があるから。だからみんな氷になった過去に魅かれてしまうんだ。
賞味期限が切れた。
淳、言わなきゃいけない事があるの、だけど、君だったそうじゃない?なぜだかはもう忘れてしまった。いつからか、疑うようになっていた。
「淳、聞いて」
きっかけは一体なんだったのだろう。淳はおそらく自分へと繋がる証拠などを残していなかったし、私の方から探っていたわけでもなかった。それでも、小さく、個々では気づけないくらいの些細な行動や仕草を年々見ていく内に、脳の無意識に蓄積し、それが次第に意識へと行き渡った。隠す事の出来ない、それから隠れる事も出来ない、どうしようもない人生の変わりようが精神にとげとげの蔓を巻き付けてきたのだ。
別に変化を悪く思っているわけじゃない。しかし劇的過ぎると、ずっと培ってきた自分が喰われている気がしてならない。懐かしく穏やかな過去からも、集中したい今からだって視線を奪ってしまう。カリスマのように。抱いている、自分の知らない淳のイメージが注目の的として舞台に立っている。そして私は観客。この皮肉でとてつもなく恐ろしいものから眼を離せない。瞬きも出来ない。自分の人生の主人公が自分で無くなっていく感じがした。それが酷く恥ずかしかった。
「相当の数の弾があったわね」
淳はなにも答えてはくれなかった。涙腺が少し緩くなったのか、眼には水たまりみたいな海が広がっていた。銃はテーブルに置かれたまま、熱くなる淳とは真逆に、触ると低温やけどでもしてしまうんじゃないかと凍り付いていた。まるで私みたい。今のこの空間には正反対になっている淳と私がいる。そしてその中間にあたるのが、この銃だ。
「あ、愛ちゃん、愛ちゃんは何処だ?」
そうだった、愛ちゃんもいたんだっけ。椅子の背を床に落とし、淳は二階へと走りながら、愛ちゃん、愛ちゃん、とほざいていた。
冷めた銃を中間に選んだ私に対し、淳は生身の少女を中間にしようとした。どいつもこいつも、自分の特する方だけを選んで...
愛ちゃんはベッドに寝ていた。ブランケットは足の方ではだらしなくひねられていたが、首あたりでは丁寧に、四角をなぞって掛けられていた。これだけを見たらごく普通の一夜にも感じられた。なんて平和そうに眠るんだろう。俺もそうやって眠られたら、どれほど心がやすらぐ事だろうか。
指先で頬っぺたに軽く触れた。夢の交じり合いによってできた粉でも吸い出そうとしている、いや、その粉をほうきで掃き、残ったほこりを舌で舐め上げようとしているほうが合っているのかもしれない。子供の残した残余に、私は土下座をしていた。蚊同然だった。
蚊が人間を持ち運べるわけないじゃないか。どれほど愛していても、足が短すぎてちゃんと抱きしめられない。親としての囁きも、耳元の前では雑音に聞こえてしまい、大きな手によって打ち払われる。対等ではなくなってしまったのだ。巻き込みたくても、抱きかかえて下へ連れていきたくても、その力が自分になくてほっとした。ほっとしたなら、やるべきことは明確なはずだ。
指をそっと肌から離し、涙をこらえた。
淳が二階へと行き、一人になった私は安静に包まれていた。空気を走り回る波動は淳の腕を強く握り、一緒に去っていき、私からも生きる音を奪っている気がした。部屋が真空になり、息する理由も消え、心臓の鳴る感覚も耳に届かなくなっていく。ふと手を胸に当てる。乱暴に立ち上がり、音をたてる心配もしなかった。たてても、この耳にはもう察知する事が出来ない。
キッチンを抜けて、向かいの部屋に複数置いといた灯油入りのタンクを持ち上げた。流し口を開けて、その部屋からキッチン、廊下へと注ぎ始めた。床、ソファー、障子、テーブル。それが空になったら、もう一つを取りに行く。腕を振り、色を無くしたこのキャンバスに鮮やかなペンキを流し込む。木と布には吸収され、タイルには飛沫を上げてはね散った。灯油の川に私は飛び込み、水流に運ばれ、操られ、身に染みた自由に腕の手先までを絡めた。今回は心臓がバクバク鳴るのを感じる。身も心も、外部と内臓も、この流れに晒されては、もっといい場所で合流するのだ。
一瞬通じ合えたと思えて、本当は、自分の非力さと向き合わされた俺は、愛ちゃんの顔を見つめながらゆっくりと、バックで部屋を出た。中は暗く、涙で霞んだ眼もどうせ大した役には立たなかっただろう。ドアをそっと閉めた時、これでもうやってしまった、と思った。下へ行くのが怖い。手が震えだし、息が曇るのを見た気がした。動けない。未来に進めなく、迫ってきている寒気が足を凍らせた。今がとても愛しい!度肝を抜いた少年みたいに、父さんの腕をなかなか離せないでいる。未来がそこにあるのに、自分の未来なのに、それから目を伏せている。
だけど私は大人だ。逃げるほど無責任ではないと思いたいし、なにより解っているのだ。逃げると罰が当たると。予期せぬ結果と腐った運命に死ぬまで玩ばされ、ずっと後悔しながら生きていく。そしていつかは、今の、この瞬間が戻りたい過去になってしまうのだ。それだけは何よりも嫌だ。俺は自殺する自信がない。利己的で、わがまますぎて、自分が頂点だと信じ切っている、だから今から、この階段を下って、明梨に殺されるのだ。殺されたい。通り越されたい...
そう考えたら足が自然と動き出した。
うつむいたまま淳は私の前まで足を引きずって来た。鼻水が長く伸び、切れると床にぽたぽたと落ちていく。涙も頬っぺたを伝って顎の一点に集中してから、鼻水の一歩後ろで落ちる。やっぱり、今の淳に塗りつぶせるのはこの程度しかない。とてつもなく広くて、端が何処なのかを想像するだけで絶望が湧き上がるこのキャンバスには、小さくて、塗り覆われる運命に震えているブサイクな点々模様ができた。私が解放した白く泡立つ急流も見えていない。
それでも、ありがとう。
その涙を拭わないでありがとう。昔のようにかっこよくはない事を解って、醜い顔を直そうとしないでくれてありがとう。こんな私で、そんなあなただけど、最後まで色を加えようとして、ありがとう。
「淳」
銃を持ち上げた。
「淳、こっちを見て」
銃口の奥深くまで覗けるように目の間を狙った。それに眼球が引き込まれるように目は開き、荒い息がしゃっくりをし始めた。
「淳、今度は私を見て」
あれ、どうして私まで息が乱れてきているの?涙が途絶えなくなった。まるで鏡に映る自分に銃を向けているみたいになっちゃった。だけどそれよりも辛い。淳の痛む顔を見つめるのが辛い。
「一瞬だけど、楽園に連れて行ってあげるね」
引き金を引いた。カチッ。撃鉄が金属を打った音がしたが、弾丸は噴き出なかった。
顔をしかめた淳はまだ生きている事に納得できていないようで、恐る恐る目を開けた。
「何をそんなに驚いてるの?!」
笑いが噴き出した。たまらなかった。高校生みたいに泣く淳を殺せる訳ないじゃない。好きなんだもん。もう少しでそんな君をもっと抱いているから。
「どうだった?見えた?」
感情の海で溺れているように淳は息を求め、苦しそうに心臓を抑えた。膝が崩れ、床に倒れこみ、指は胸を引き裂く勢いでシャツをくしゃくしゃにしてた。
「見えた。見えたよ!俺、見えたよ、明梨」
「じゃあ、先越されちゃったな。そこで私を待っていてね、私も楽園についたら、淳がそこにいる事確かめるからね!だからもう少しだけ、私を待っててね」
今度は銃のスライドを最後まで引き、弾がこまれるのを確認した。
「もうちょっとだけだから、待って、待ってて、私、淳がもういるなら安心して行けるよ。楽園まで行って、淳がいなかったらどうしよう、ってずっと考えてたから...」
「明梨...」
「そう考えてたけど、もう大丈夫だね!」
百八十度回転し、淳を後ろにして、居間に置いといたガスボンベに狙いを定めた。
「また逢ったら色んな事しようよ。また、昔みたいに」
壁に囲まれた空間の中、銃声は全てを貫く鋭利さで轟いた。喉も切れ、耳も切れ、脚も腕も内蔵も骨も全部切れた。俺の重心は揺らぎ、落下しようとした。感覚が途切れているのに、なぜか視力だけが付き添ってくれて、以前以上に鋭い映像を脳に送っている。何もかもが、はっきりと見える。引き千切れたボンベから爆発する火柱も、繊細に飛んでいく鉄の破片が眩い光を捉えるのも、こっちに走って来る爆風が空中で球体を描くのが見えた。その後は床が炎上し、ソファーも一気に燃え上がり、炎の壁も爆風を追って迫って来ている。火で遊んだら火傷するのも当然だ。そう、こうなる予想が出来なかった俺がバカだったんだ。
完全にバランスを無くす一歩手前で、俺は明梨の横顔をちらりと見てしまった。その時、頭は真っ白になり、視力も完全に途絶えた。だけど一つ、身に染みて理解した。解ったんだ。
これは全て明梨の望んでいた事なんだ。人間として、欲望を満たすための最終手段で、限られた時間の中、永遠と小さく燃え尽きるだけの記憶になるのが怖くて、身を捨ててでも自分の魂を解放したかったのだ。もっと良い所で、はしゃいで、泣いて、散歩をして、些細な事で怒って、おもうようにいかない時は悔しがって、生きて、生きて、生きて、そして死にたかったんだ。たったの五分か十分ちょいでも、太陽のような輝かしい存在になりたかったんだ。
俺に明梨を救う事は出来ない。俺に明梨を止める事は出来ない。
なぜだろう、ちょっとほっとした。無理な難題に立ち上がらなくてもいいから、明梨がそれを求めていないから、明梨がやっと幸せになったから。
明梨がこっちに振り向いてくれた。
「淳、愛ちゃんをよろしくね」
歪んでいながらも、俺は少し微笑んだ。
愛ちゃんをよろしくね、その一言が頭を巡りながら俺は床に叩きつけられた。数分前の冷酷な家が一変し、五感も戻っていた。煙が黒く舞い上がって炎と踊っている中、狂ったクラブの出口を探す酔っ払いのように俺はばたばたした。家具にぶつかりながら二階を目指す。今はそれだけが、愛ちゃんが、俺の動力となっている。火の手は信じられないくらいに至る所に広がっていた。体重をかけたら崩れそうな階段を考えもせずに這い登り、上まで着いたのに、愛ちゃんがすぐそこにいるのに、足が止まった。振り向くと、上から四番目の階段が私の手を懇願してきている。
クソっ。
自分の安さに呆れながらも、階段を下りた。目的の前にある木の板に蹴りをいれてから、乱暴に取り外し作業を始めた。息を深く吸っても、酸素の少なさがだんだん明らかになっていき、周りで散っている火花が蚊の群れごとく視野を盗もうとしている。板がやっと外れ、下まで投げた。転倒しながら階段に凹みをいれ、いつかの明梨に私の背中は見えたはずだ。急いで残った一つの拳銃を取り、予備の弾倉も左手に握れるだけ取った。
ポケットに詰めながら愛ちゃんの眠る部屋へ走り出したら、横に怯えている鳴き声が聞こえた。小さくすくんでいる愛ちゃんがそこにいる。蒸発している涙の跡が、また新しい涙の通る道になり、下から伸びる炎の光を赤く捕まえた。まるで照れているような顔色だ。
「行こう、愛」
手を握り、階段を大きな舌で舐めている火を背に愛ちゃんの部屋へ向かった。
「愛、ここへ来い」
開いた窓から体の左半分が壁の外を出るように座った。腕には愛ちゃんを抱えている。目をつむれば、家の燃える音が星空の下の焚火に聞こえた。今なら丁度熱風もいい感じに通り過ぎていて、家を、この快楽を離れたくなくなった。そう、ずっとこのままでいたい。ブランコに座る男の事を想った。そいつはブランコや滑り台に座って、人生が黒い木炭に支えられているのに、いつ燃え始めて崩れてもおかしくないのに、そこで脳に安らぎを与えていたんだ。火が迫って来ている。時間がもうあとわずかなのに、なかなか逃げる決意が出来ない。いや、だからこそ逃げられないんだ。少ないからこそ最後までかみしめてやりたい。
二階からの落下は結構きついなあ。近くの木の枝を捕まえるしかないようだ。
信じられないくらいの安楽が、さっきまでのカオスのお詫びをしに、波のように押し寄せてくる。愛ちゃんまで眠りに落ちそうだ。涙も止まっている。すごく温かい。真冬の夜、光の消えている部屋で一人、暖炉の光だけを浴びる自分を思い出す。大好きなセーターを着て、その上にまた毛布を被る。熱を全部閉じ込めてやりたい。寒い部屋へと足の指を少し出してみる。温度差に震えて、腹で眠る蝶が羽ばたいた。笑う。足を毛布の中へと戻してやった。温かい自分の魂へと近づけてやった。
何日か前に、ネットで人が雄牛に振り回される動画を見た。あれほど容易く投げられ、コンビニ帰りのポリ袋のように道端に捨てられる。自分が宿す事を想像すらできない力に圧倒され、魅了され、ある夜に腹を訪れた懐かしい騒がしさをまた感じた。俺なんかより全然強い奴がいる。私が暴走しても、止めてくれる。他の誰かに完全性を押し付ける事で、初めて自分の欠点を愛せる。不完全だからこそ生きている気がして、神様は白紙のように子供に塗りつぶされる。俺は子供の方になりたかったんだよ。上から見守られているから心配や責任、余計な真実にさえも、潰されずに済むんだ。
何かを尊敬するのはいい気分だ。敬意を払う、毎日拝む、命を授ける神が欲しかった。教会から帰るおばさん達が私と同じ道を歩くのを何百回も見た、そして、その横を通り過ぎる度に妙な不満が湧き上がった。おばさん達が幸せと呼ぶ無関心さに嫉妬した。大声で話しながらまき散らす笑顔にはあと少しで手が届きそうな輝きがあり、私はそれに手を差し伸べる。だけどバカなみんなの曖昧な神は嫌だ。もっと実績のある偶像が欲しい。全力でぶつかりに行ったら、容赦なく地球へと叩き戻してくれ。
愛ちゃん、一位は辛いよ。だから、私が拝めるような存在よ、どこかにいてくれ。
誰かを尊敬するのはこんなにもいい気分なんだな。
「愛、いいか、あの木までジャンプするから、目をつむって、離さないで」
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