第19話 暴露
風が最上の足元に落ちていた葉っぱを持ち上げ、雑に渦の中で回し散らした。だいぶ時間も過ぎてしまったな。愛ちゃんはどうしてるだろうか。今ごろは夕食も済まして、ダイニングテーブルで塗り絵とかをしているんだろう。結局また愛ちゃんの所へ辿り着いてしまう自分になぜか感心している。これだけこの人の話を聞いて、最初に考える事は家ではしゃいでる三歳児かよ。私も良いのか悪いのか。
「まま?」
「愛、どうしたの。」
「何してるの?」
「ままはね、探し物をしてるのよ。」
「階段に?」
明梨は黙って家の階段を見つめた。眼には疲れきった孤独な不安と、その不安からの解放への期待が映っていた。世間では「死んだ眼」などと言われたかもしれないが、それは生きようと必死な眼だった。ただ今は疲れているだけ。疲れているだけなんだ。
探し始めてからもう何年も経ってしまったが、家の隅々のほこりを払っていく内に階段をいつも通り越していた。まさかここに何かが潜んでいるとは思いもしなかったもの。優先順位で言えば最下位だったかもしれない。常に後に押し続けてきたけど、今日でそれも終わってしまい、これ以上探す所も無くなってしまう。そのはっきりとした事実が、落下直前のジェットコースターのように心臓をふわふわとさせた。
最初の階段の縁を掴み、上へ引っ張った。
「それで、君はどうなんだ。どうしてトンネルを通ったんだ」
「妻が鬱なんだよ」
「それは大変だなあ」
「いや、お前の方がすごいだろう」
「そんなことないですけど、まあ、俺なんかあれからも色々ありましたよ。一晩じゃ話せないくらいに。悔やんでる事だってある。たくさんの人を不幸にしてしまった。だけど最後には、自分を一番幸せにしようとしてたのかもしれない」
「誰だってそうさ」
「...そうでしょうか」
「だけどまだ聞いてないぞ。どうしてトンネルを通るのか。不幸にしてしまった人の事を想ってるのか?」
「ははっ、違います。なくしたんですよ、大切なものを。信濃は死んだ。実乃梨は消えた。ただたんに悲しいだけなんです」
ポケットから黒いグローブを取り出し、静かに手を滑り込ませた。
「鬱って風邪のようにうつるもんなんですかね。どうなんですか?妻の鬱を自分に感じますか?」
「お前ももう感染してるさ。そういうもんなんだよ」
耳栓を指で軽くつまむ。柔らかくて、人の指を耳に挿している感触がした。
「俺なんかとっくの昔に感染しています」
「それが怖くないのか?」
「もっと怖いものなんていくらでもあります。俺は信濃の所へ帰るんです、だから大丈夫なんですよ」
「実乃梨を置いていく事になるかもしれないのに?」
「...俺と実乃梨はいつも、信濃に呼び出される時に、どっちの方が早く着くか競い合ってたんです。これも同じですよ。もしかしたらもう、彼女は信濃と一緒に、「あいつ遅いなあ、何をしているんだあ?」と俺を笑っているかもしれない」
「それで今まで生きてきたのか」
「だって...実乃梨が好きなんだ!実在した俺の過去の証なんだ!だけど、彼女はもう消えた。消えてしまったんだ」
「ごめん。悪かったな」
「なあに、謝る事なんてありませんよ」
「悪い」
銃を、開いたジャケットの前身頃を通して撃った。レザーの穴を通して噴き逃れきれなかった熱い風は私を風船にしたてた。黒く無様な風船。しかし全ては一瞬。今度はパンクしたタイヤになった。誰からも逃げられない、どこへと転ぶ事も出来ない、家へ帰る事のない捨てゴミ。誰かの温もりのこもった手によってしか進めず、繕われない。しかしそんな人などもういないのだ。
薬莢は体に当たって、股間の辺りに転がった。隣のブランコで揺れる脳を貫いた弾丸は後ろの茂みに赤い点々を落としていた。ぽたぽた、ぽたぽたと。頭は首から転がり落ちそうで、最後の最後で激しく首に釣られた。手はまだブランコの鎖を握っている。リクライニングチェアーにもたれかかっているように数十秒、快感な体制が保たれた。しかし指が緩み、皮膚が滑り、指紋を塗りつけて背中が地面を打った。手の裏もそれに続く小太鼓として土を叩く。ド派手は舞台に地味な観客が一人。
最上はブランコを揺らさずに立った。薬莢を丁度数秒前に左手のあった所から茂みに飛ばした。宙で回転しながら光を捉えて輝く。片方は銃の撃針による小さな凹みがあった。もう片方は弾丸を包む穴があり、その先端が細くなっていた。朧気に光るエフ・ケイの英文字が銃に刻んである。その銃を力の抜いた腕でブランコの鎖に少し引きずってから、下で眠る手に銃把を軽く握らせた。その際、ハンマーを土に押し付けてから数センチ上げてからまた落とした。これはあくまでもそっと置かれたのではないのだからな。
全て、何もかもが静かだ。物音の一つたりともない。鳥も逃げ、発砲音の唸る雷も遠い街並みに吸収されていた。葉っぱが揺らめき、眼の前で地に降り立った。
それを合図として足を持ち上げ、冷たい風の通るトンネルに震える自分を捧げた。
最初の階段も、その次の次の階段も、縁を掴んでも宝箱のように開くことはなかった。明梨の痙攣する指にもう訴えかけられる希望はなかった。家の全てを洗いざらい探したのに。何年もかけて一生懸命だったのに!今までの不安は自分の勝手な思い込みに過ぎなかったのか?だけど正直その方であって欲しかったんだ。どの道完全な幸福は手に入らない。
「...」
ちょっと待って。階段をこれで地道に操作したつもりか?指を再び縁に当ててはその下にある階段の縦板に手の平を押し当てる。横にずらそうとしたり、緩い部分を探したりする。何でもいい、何でもいいから何かをくれ!
上から四番目の階段が答えてくれた。右へと押すと微妙に軋む。プレッシャーを与え続けてると、汗が噴き出して手が滑りだした。それでも十分だった。板が後ろのばねによって押し出され、階段の下まで慌ただしい音をたてて落ちた。穴に再び目を向ける。躊躇いも無く、易々とそうする自分の事がますます理解できなくなった。これを見つけるのが怖くなかったのか?しかしもう遅い。眼球に黒く映るのは、多数の弾倉と自動拳銃が二つ、そして弾のこもった箱が数個。すんなり受け入れてしまった。
私にだって思い出や記憶もある。できれば全てを忘れて、自暴に自分を放り込みたい過去なんか人一倍にある。生きているだけで辛い今なんかより、全部を忘れる方がマシだ。全部を消したい。甘い過去の後に起きた全てを。
死ぬときは走馬灯を見るらしいよね?生きる意味を探すために必死で脳が頭部の引き出しを一斉に開けて、そこからこぼれ出る誘惑を命綱にしたいのだ。忘れた事をも忘れている淳との記憶も味わえる。死ぬことでしか行けない命の楽園に私は行く。行きたいのだ。
拳銃を一つ手に取り、ダイニングテーブルまで運んだ。
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