第16話 大森
ばねの軋むソファーに腰を下ろし、差し出されたワインに手を伸ばした。ほこりが空気にしがみつく部屋で、なるべく深い息を吸わないようにしていた。煙草を辞めて数年になるが、ここにいると肺に閉じ込められた微生物になってしまった気がする。前に来た時もマスクを持ってくればよかったと襟を立ててたな。今度のTシャツに襟などついていない。困ったな。
「最上、来てくれてありがとう」
六十代ぐらいの男が、ドアとソファーに挟まれて立っていた。実は高いスーツを、だらしなく着て、住み着いた部屋に溶け込むように動いた。
「ああ、久しぶりだな、大森」
「久しぶりって事はないさ、前に会った時からたいして何もやってないし、何も変わってない。昨日会ってても、三年前に会ってても同じさ」
「そうか、なら会いたいっていうなら何かが変わったってことか。私に何をしてほしい」
「いや、まだ何も頼まない。今はただの状況観察だ」
「ならその状況っていうのは?」
「はやまるな最上、焦ってはないさ。明梨はどうしてる。愛ちゃんもどうだ、もう三歳か?」
「明梨は、元気にしてる。愛ちゃんもすくすく育ってるよ」
「ならいいんだ。今度、合わせてくれよ。お前の子供の写真も見せてくれないんだから、気になってしまうじゃないか」
「悪いな。だけど、前にも話した通り、断るよ」
「寂しいな。わかったよ。俺もお前ならそうする。普通だ」
「お前こそ最近はどうだ。引退したのか?」
「まだ働いてるよ」
「そう」
会話がやっとの事で途切れた。窓の外でひらめく何かに視線を奪われ、大森はほこりの多層の中でぼやけていった。ぼやけているのに、何千万もの粒子が光を捉え、輝いていた。海に沈んでいく感覚が急に五感をなまらせ、やさしく鼓膜に波打つ静寂に身を委ねて、肩の力を抜いた。なぜ大森がこの部屋を気にいるのかをついに理解した気がする。なんだか長い間ずっと我慢していたような、久しぶりに効果のある深呼吸を数回した。
「最上。話は実はあるんだ」
大森が依然としてゆっくり話している。
「ブルーバードってしってるか?」
「鳥がどうした」
「鳥じゃない。バンドだ」
「聞いたことないな」
「俺は聴いたことある。なんか変なんだよ、最上。心が震えてしかたがないんだ」
「怖いのか?」
「多少は怯えてる。だけど、まあ気にすんな。俺が神経質なだけかもしれない」
大森の口から気泡が抜けて天井へ上るのが見えた。話している事がよく聞こえない。ソファーに置いてあった本を持ち上げてみる。渦をかきながら重く抵抗し、宙に線を、飛行機雲のように残していた。古い本だった。落とす。今度は素早く加速していった。
「うつなんだ」
「誰が」
「明梨が」
大森はたいして驚かなかった。ずっと知っていた事を、息子がやっと素直に告白してくれた時の表情をしていた。
「まあ、あの娘は前からするどかったからな」
「私が悪いのか?」
「そうとは限らない。いつからなんだ」
「二、三年前ぐらいだ」
「愛ちゃんが産まれるころか。それで、お前はそれをどうするんだ」
「わからない」
「だよな。最上。よく聞け。もの事を変えられるお前だからこそ、こうやって変わって欲しくないものまで変わってしまうんだ。仕方がない事さ。俺だってそういう経験なんていくらだってある。今のお前に出来る事は、そばにいてあげる事なんじゃないか?」
「本当か?俺を見てよくなるなんて、私にはそうは思えない」
「ならまいったな」
「まいっちゃった」
足つぼが強く押されたように痛くて、涙が霞んできた。だがそれはアルコールの涙だった。苦しさだけを顔に押し付けて、すぐにどこかへと消えてしまう。二度と逢うことなく、復讐の余地も与えてくれずに逃げる、身勝手で臆病な涙だった。私は手を差し出し、立ち上がった。
「大森、またな」
「次も俺の方から連絡するよ。その時も必ず来てくれ。わかったな」
「もちろん」
ドアを抜けて、涼しい風の吹き始めた外に帰った。
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