第14話 パート スリー 最上

窓の隙間から朝の風が吹いてくる。上り始めた太陽の光線がゆったりと、光の速さを忘れたかのように差していた。ベッドの横に目覚まし時計は置いてあるが、朝に鳴る事はない。天井の点々を眺めながら、背中を下に、手は腹の上で組む。ゆっくりと深呼吸。息の音、心臓の音を聞きながら、何時間寝ても手に入らない脳の癒し、心の安らぎを、瞼を開きながら手に入れる。自分の意識を必要とする、我の存在を手放さないための儀式。考えている限り私は存在する。私は複製する事の出来ない、「今」からアイデンティティを導いている。

春木が窓の外から火柱を見る一ヵ月前、最上淳はベッドから下り、太陽の光を浴びた。

台所には誰もいなかった。妻は二階で三歳になる娘といるようだった。自分の娘。愛ちゃん。その名前を舌の上で転がすだけで笑顔がこぼれ、にこやかになる。愛ちゃん。最近頭の中で呟くのが多くなってきた気がする。なにせ、私は攻めて家の中ではにこやかでいないといけない。トースターにいれたパンに焼き色がつき、「できたよ」とチャイムがその後鳴った。トーストにはバターが最適。朝のコーヒーはもう何年も飲んでいない。

妻が荒れた髪を直さずに降りてきた。だが、その髪が一番似合っている。気楽で不安などない、楽しさで心を埋めようとさまよう人には気楽で緩い髪形が一番良い。

「パンを焼いといたよ」

二人だけで食べる時間は普段から少なかった。だから今日、愛ちゃんが産まれる前の頃みたいな今がとても懐かしく感じられる。それでもやっぱりそれは感じにすぎない。何をしても変わってしまうものはある。だから、今なあえて何も言わない事にしよう。

「明梨、明日土曜だから、二人だけでどっか行こうよ。久しぶりのデート。愛ちゃんは母さんの所に預けられるからさ」

「どこ?」

「さあ、まだ決めてない。好きな所。どこでも」

「わかった」

金曜日の仕事はいつも長い。朝早くから銀行に流れ込む客の行列を背にし、二階へと上がったら机で雑用を終わらせる。仕事へ大した愛着など始めたころから感じてはいなかった。今でもまさにそうだ。会議やら接待へとかけつくこいつらを見てみろ。仕事に没頭し、飲み込まれていくざまをずっとこの机から見てきた。私は違う。ここでの仕事は最低限の努力で終わらせ、注目を浴びずに首にもならず、出世もしない。そう、ここにいるのは社会的になじむためだけだ。そう。そう思った方が楽に過ごせる。

六時半を針が通り過ぎた。ゆっくりと立ち上がり、なるべく音をたてずに帰る支度をした。こっちに向けられる呆れた視線を気にせずに気付かないふりをする。悪かったな、明日は楽しみのデートなんだ。

ドアノブを握る時に後ろに振り向いて、大声で笑い、中指をたてながらダンスでその門を抜ける衝動にかられた。まったくこどもらしいな。いつかやらせてあげるから、今はいい子でいてくれ。

という日課になり始めた頭のやり取りをし、社会のドアを後ろに閉じた。


「ただいまー」

頼まれて買った刺身をテーブルに置き、てんぷらの匂いに迎えられながら無言な明梨の肩を撫でた。

「ありがとう。今日はてんぷらよ」

「ああ、明梨。どこに行きたいか決めたか?」

「...モールとかかな」

「そうか。楽しみだな」

落ち着いた空気が私たちを包んでくれる。穏やかで、しかも懐かしい思い出ではなく、今に実在する生々しく新しい雰囲気。

「愛ちゃんは?」

「二階で寝てる」

今夜も二人だけの食事となった。テレビがニュースを語りながら、優しい光をダイニングテーブルに反映させている。なぜかその光が部屋を暗く感じさせた。自分の光しかない、ランプなど消えてしまえ、と言うようにテレビはしゃべり続ける。

「...一か月前に起きた、拳銃に撃たれて死んだ川口良太、36歳、の事件がいまだに解決されてない事に、民衆から不安と、批判の声が上がっています...」

「夜に家を出るのはやめた方がよさそうだな。最近は物騒だよなー、気を付けろよ」

「淳も気をつけてね」

「...ああ」

てんぷらがおいしい。しかし、それ以外に表す言葉を見つける事が出来ない。こんなにもおいしいのに。

「どうして薬を取るのを辞めたの?」

「あんなのいらないって言ったじゃん」

「わかってる。わかってる、けど、それでも、とってくれないか?もう少しだけだからさ」

「もう少しって...」

「明梨、初めて逢った日から色々変わったのは解るけど、君に何か、悪い事は起きてほしくないんだ。愛ちゃんの為にもさあ、とってくれるか?」

箸で醤油の中に円を描く明梨はとても綺麗だった。この世に心配事がないような、全ての不安から切り離された渡り鳥が、大空を羽ばたく風景を現す顔だった。羽を広げ、台所のキャビネットにあったピルボトルを持ち上げた。その中の一粒を摘み、じっくりと眼に映らせた。

「これが、私を幸せにしてくれるっていうの」

「そうだ。だけど俺もついてるから」

私は手を伸ばし、ボトルを取り上げ、自分の指の間にも一粒握った。

「これで二日分だな」

お互いの瞳を見つめながら、慎重に、眠る美人を驚かさないようにと、手を口へと運んだ。

「ははっ、それ飲んでもいいの?」

明梨は笑っていた。

「いいさ」

なんだか私達二人だけにしか掴めない、特別な関係まで辿り着いた気がする。不思議だな。私まで笑い始めたよ。

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